7.メリー・クリスマスは事件の後で 後編④


「……一体、なんなの?」


 アンジェは不服そうな声で溢した。

 後方で謎の聖人せいじんが一瞬手を伸ばしたと思ったら、窓の外が真っ白に染まって、それ以上外の様子を伺うことができなくなった。何事かと目を凝らすと、白い物の正体はどうやら雪のようだった。今日は快晴、冷えはするが雪になるような兆候はなく、突然視界を覆ったそれに戸惑うばかりだ。

 それに、先程屋根に衝撃があったと思ったら、馬車の速度が著しく落ちたのが気にかかる。外を見ようと思っても真っ白で見えず、扉はどうしてだか動かない。窓を開けようとしても、やはりこちらも動かなかった。

 それでドゥランが、御者ぎょしゃ台を覗く小窓に近付こうとしたその時。その御者台の方向から、凄まじい衝撃が響いた。その衝撃でアンジェもドゥランもバランスを崩した。座っていたアンジェはともかく、ドゥランなど顔から座席に叩きつけられていた。

 なにかがとてつもない勢いでぶつかってきたような音。馬車の車体は軋み、ミシミシと鳴った。

 ドゥランは鼻を押さえて身を起こす。アンジェはそれには構わず、盗品を詰め込んだ袋を確かめた。しっかり閉じていなかったから、指輪とブローチが零れ落ちていた。慌ててそれを袋に投げ入れていると、おかしな音を耳が拾った。


 ——ミシッ。ミシミシミシ。


「な、なに?」

「わ、わからん」


 答えを求めていなかったアンジェの呟きに、ドゥランが返す。異常事態の連続に神経が擦り減っている二人には、それがどこで鳴っているのかすら分からなかった。下からではないことだけは確かだったので、車内のあちこちに視線を向ける。


 ——めりめりめり。ベキッ。


 音が、大きくなる。それでようやく音の出所は車体の前方、御者台の方向からだとわかった。二人は息をするのも忘れて、その方向を見る。


 ばきん!


 そしてついに、硬い壁面に異常が現れた。堅牢なはずのそこに、歪みが生じた。一点ががれ、——いや、かれている。外側から。


「は!?」


 なにが起きているのか、ドゥランにはもうまったく分からなかった。それで変化を注視するしかなく、ただそれを見守っていた。

 壁面の木材の繋ぎ目に穴が空いた。そうして、そこから、何かが差し込まれている。

 一つ、二つ、いや、四つ。それが何なのかわかった頃には、もう遅かった。

 指だ。手袋をはめた指先が、堅牢な外装をいで差し込まれている。ぎちり、革の手袋が音を立てて、現れた指が八本になった時、ドゥランとアンジェはそれを見た。

 ばきん、と大きく音を立てて割き開かれた。厚さ三センチの板がである。しかもこの馬車、北の方の密度の高い木材を使用した特に頑丈なものだった。断じて人の腕で割れるものではない。


「いやあぁぁぁぁ!!」


 アンジェの叫び声が、めりめりという更に壁を壊す音に掻き消される。ドゥランはそれを息を止めて見ているしかなかった。現実味が無かった。開けにくいお菓子のパッケージを割くようにして、馬車が開かれていくなんて。自分の目が信じられなかった。

 裂け目から現れたのは、赤いローブだった。馬車を追っていた聖人で間違いがない。だが、その頭髪はどうだろう。暗がりでは分からなかったが、馬車のランタンで照らされたそれはどうしてだか、薄い色に見える。

 やがて聖人はゆっくり顔を上げると車内を眺めだした。ドゥランと、それからアンジェを認め、目を細めている。

 そうしてその段になって、ドゥランは気が付いた。聖人の顔に見覚えがあったのだ。こんなに美しい男がそういるはずもなく、それ程の男を見間違うはずもない。

 アンジェも気が付いたようだった。息を呑んでそのまま静止している。


「ヴァーミリオン公……!」


 ドゥランのその声に、その聖人——アルベルトはこちらを見た。


「お前達がリリアンを盗んだのか」


 ひゅっ、とドゥランの喉が鳴った。低く突き刺さるような声色に息が止まったのだ。ただ、言っていることの意味は全くわからない。答えようが無くて、いや、そもそも声も出せなくて硬直している。アルベルトから強い殺意のような威圧感が押し寄せてきて、うまく呼吸ができなかった。

 なんの返答も無い事に、アルベルトは苛立った。状況から見て間違いなくこいつらがリリアン(のティアラ)の誘拐犯である。それを認めないなどとこの後に及んで愚かなこと。まあ、こいつらに認めさせるよりも、まずリリアン(のティアラ)の無事を確認する方が先決だろう。アルベルトはちらりと車内を確認した時に見付けた大きな袋を手に取った。女がその袋を取り返そうとする素振りを見せたので軽く風を起こして後ろに下がらせてやった。丁度後ろが扉だったこともあり、加減が上手くいかず、女は扉ごと外に吹き飛んだが、気にせず袋を漁る。

 袋の中には、宝飾品がどっさりと詰め込まれていた。価値の高い物が乱暴に詰められていたけれど、アルベルトはそれには構わなかった。ただ一点、革張りのケースがあったので、それだけを取り出す。

 紺色のそれには小さな金具があった。金で出来ていることをアルベルトは知っている。そっとそれを外し、蓋を開けると、そこには確かに、リリアン(のティアラ)が居た。


「ああ、リリアン……!」


 それを確認したアルベルトはリリアン(のティアラ)を掻き抱いて安堵の声を洩らした。その表情から険が取れ、口元は緩やかに上がる。

 それはまるで、恵まれない子供達に微笑みかける聖人のようであった。ランタンの微かな光がアルベルトを照らす。

 ドゥランはその光景に目を見張った。かつてどこかの美術館で見た、絵画が脳裏に浮かんだのだ。

 それは大きなものではなかった。両手を広げたくらいの横長の絵で、題材は「聖人の来訪」。教会にやってきた聖人が、集まった孤児達に贈り物を渡しているシーンを描いたものだ。芸術に興味のないドゥランの記憶に残っているのは、その絵画の光の表現が印象的だったからである。

 こういう絵の場合、背景を暗くして、目立たせたい聖人にスポットライトを当てるように明るく描くものである。けれどもその絵は、聖人よりも子供達がより明るく描かれていた。聖人は控え目に、でも背景に埋もれることのないよう、絶妙な色使いで表現されている。それが信仰心の無いドゥランにも、どうしてか神々しく見えたのだ。聖人というのは神の使いであるから、普通は神の代理としてメインになるはずだ。しかし、清貧であることが聖人として選ばれる絶対の条件であり、慈悲の心を持つとされる聖人が主役となることを望んでいるかと言われると、否という考えが大半を占める。故に控え目に描かれたその絵画は、まさに聖人の本質を描いていることになる。

 その聖人の横顔と、目の前のアルベルトの横顔が重なった。造形は目の前の男の方が遥かに良いが、光の加減のせいなのかなんなのか、あの絵画と同じく神聖なものが感じられたのだ。瞬きすら忘れて、ドゥランはその光景に魅入っていた。

 ドゥランの予想は合っていたのだ。見事なサファイアのティアラは、やはりヴァーミリオン公が求めたもの。そのティアラを掲げる彼の姿は、まさしく聖人のようだった。

 それを遮ったのは、その彼であった。緩やかに腕の中のティアラをそっとケースに収めると、ふうと小さく息を吐いた。ドゥランはただそれを眺めていただけなのだが、ヴァーミリオン公と目が合った瞬間に、ぶわりと冷や汗が全身から溢れ出た。


「命は要らんよな?」


 穏やかな表情とは裏腹に、低く低く響くアルベルトの声は、明確な殺意をもって降り注いだ。

 ドゥランは、見えない圧力で押し潰される錯覚を覚える。呼吸ができない。首筋の辺りが冷えて、そこから身体の温度が抜けていくようだ。

 それで理解した。ああ、やはりこの男は只者ではなかったのだ。そして同時に、サファイアのティアラの本当の価値を知った。この男が掻き抱くのだ、輝いて見えて当然だ。ドゥランが知る限り、ヴァーミリオン公はこの世のどんな物より美しい。その美しい男が求めてやまないものが、美しくないはずがない。

 はくはくと必死に口を動かすが、僅かばかりの空気しか入って来なくて苦しい。言葉を発するなんてもっての外だ。涙が浮かぶが、それを拭う事もできない。恐ろしくて恐ろしくて、首を左右に振るしか、ドゥランにはできなかった。

 アルベルトはそんな愚か者をめいっぱい睨み付ける。


(小物と思って放置した私が馬鹿だった。こうなる可能性は充分にあったはずなのに! どうしてもっと早く始末しておかなかった。始末しておけば、リリアンがこんな目に遭うことはなかったんだ!)


 悔やんでも悔やみ切れない。最も愚かなのはアルベルト自身に違いない。


(……いや)


 アルベルトはぐっと唇を噛み締める。


(愚かだったのは認めよう。だが、そもそもこいつらが居なければ良かったんだ。こいつらが居なければ、リリアンが危ない目に遭うことはなかった……)


 そう、そもそも、こんな奴らが国内に入らなければ良かったのだ。だったらアルベルトがやることはひとつだけ。この不届者の完全排除である。

 リリアン(のティアラ)の無事を確認したことで維持に留まっていた魔力をぐんと集中させて、一気に高める。その事で車内の威圧感も強まった。目の前のコソ泥が苦しそうにしているが知ったことではない。が、狭いところだと十全に痛めつける、もとい成敗できない。


「ぐゲぇっ!」


 なのでさっきの女同様、馬車の外に吹き飛ばしてやった。ばきんどこんどかんと扉にぶつかって地面に落ちていった。外れた扉が砕け散る。

 最早箱の状態になってしまった馬車から、アルベルトも降りた。足元で扉の残骸がぐしゃりと音を立てた。だがその音は地面に転がっているドゥランには届かない。痛みと衝撃で、意識が飛びかけていた。

 その時にはすでに、馬車の周りで起きていた吹雪は止んでいた。行動の阻害をする必要がなくなったから、ティアラを確認した時に止めたのだ。今は馬車の周りの魔力は結界として機能している。こいつらが万が一どこかへ逃げては困るから、それはそれは強固な結界にした。ここだけ十センチ程雪が積もっているのはそのせいだ。結界の内部にだけ魔力を充満させていたから、周囲にはなんの影響もない。

 積もった雪の中、蠢くものが二つある。吹き飛ばされたアンジェとドゥランだ。左右に大きく離れる形で、それぞれがようやくといった風に身を起こした。

 ドゥランはあちこちの痛みを堪えて咳き込む。何かに吹き飛ばされた、それが魔法によるものだろうと理解したのは、相手が「ヴァーミリオン公」であったからだ。事前に集めた資料には、彼が高名な魔法使いだということが書かれていた。だがそれが分かったからといって、なにができるでもなかった。ドゥランは魔導士を相手にするということがどういうことなのか、分かっていなかったのだ。

 ようやく息ができるようになった時、ぎゅっぎゅっと雪を踏み締める音がドゥランの耳に入った。視界にブーツの先が見えて、その先を追うように見上げる。赤いローブを纏う彼は、さっきまでと違って満面の笑顔だ。宝石店で見た姿からは考えられない。ただ、笑顔なのに、相変わらず殺気を感じる。

 その顔は美しかった。美しいそれはドゥランが最も望むものであるはずなのに、どうしてだか、ただただ恐ろしかった。

 ごくりとドゥランは息を呑んだ。


「ああ良かった、間に合った!」


 そこへ突然、誰かの声が響いた。ドゥランは危機的状況の中、光明が見えた心地がした。さっと声のした方に視線を向ける。

 そこにいたのは馬に乗った騎士の集団だった。もちろん味方ではない。おそらくドゥランを捕らえに来たのだ。

 けれどもドゥランにはそれが救いに見えた。目の前の男の殺意が凄まじ過ぎて、とにかくそこから逃げ出したかった。騎士に拘束されるのは願ったり叶ったりだ。思わず腰が浮くほどには、そちらへ駆け出したくなっていた。


「叔父上、そこまでだ! こいつらには聞きたい事が山ほどある、トドメを刺すのはやめてくれ!」


 騎士の集団の先頭にいる男が叫ぶ。聞こえたのはなんとも不穏なものであった。さらりと言われているが、やはりこれは止めを刺そうとしている場面のようだ。ドゥランはひくりと頬を引き攣らせる。


「何を言っている? こいつらを殺さない理由が無いんだが」


 あまりにも不可解、というように、アルベルトが首を傾げた。


「こいつらはリリアンティアラを連れ去ったんだぞ。生かしておけるか。お前は引っ込んでいろマクスウェル」


 集団の先頭にいたマクスウェルは、アルベルトのその言葉に眉を寄せる。


「は? 宝石が盗まれたって聞いたんだけど……」


 それに反応したのは、マクスウェルに付いてきたレイナードだった。馬から降りて結界を見上げていた彼は、父アルベルトの言葉に不快を露わにして顔を顰める。


「父上、それはどういう事です」


 アルベルトは息子へ視線を移して告げた。


「こいつらは、リリアンティアラに手を出したんだ」

「それは殺すべきですね」


 瞬間、ドゥランに向けられる殺意は二つになった。ひい、と再び喉を引き攣らせるドゥランはもう、泡を吹いて倒れそうだった。むしろ倒れたかったがそれもできない。気を失ったが最後、もう目を覚ます事がないかもしれないから。

 そんな盗人には気付くことなく、マクスウェルは慌てて馬から降りると従兄弟に駆け寄った。


「ちょ、ちょちょ、待てぃ! どうしてそうなる!?」


 アルベルトとレイナードの視線を遮るように間に立つマクスウェルは、レイナードの両肩に手を伸ばして押し留めるようにする。でないと結界の中に入っていって、父親と一緒になって犯人を始末しかねないからだ。

 レイナードは極めて静かに言った。


「リリアンに手を出しただけで万死に値する。当然だろう」

「どの辺が!?」


 マクスウェルは唸った。リリアン教のリリアン狂どもめ、と心の中で呻き声を上げる。ぎゅうっと顔のパーツが中央に集まるぐらい顔を顰めて、ぐぬぬと唸った。

 いやもう、これは止められない。ヴァーミリオン家の連中が、例えどんな些細な物であっても、リリアンの物に手を出されたら止まるはずがなかったのだ。宝飾品を盗まれたということが、どうしてリリアンが連れ去られたことになるのかは分からなかったが、この憤激度合いからして止めるのは無理だろう。頼みのレイナードもこの様子では、盗人をミンチにしかねない。

 後はもう、どれだけ被害を抑えることができるか、それだけだった。


「いや、そうだな、リリアンに手を出したらそうなるよな、うん」

「だからそう言っている」


 不機嫌極まりないレイナードに、必死に押し留めるマクスウェル。そのやり取りの行方なんてどうでもいいアルベルトはそれを視界から外すと、改めて不届者に向き直った。


「あ、ア……」


 喉を引き攣らせて後退るドゥランに、アルベルトはにっこり笑んで言い切った。


「歯を食いしばっておくといいぞ」


 はへ、と気の抜けた声を上げたドゥランを、アルベルトは全力で蹴った。それはもう、全力で。

 ドゥランの体はボールのように飛んでいった。どごんと大きな音を立てて見えない何かにぶつかっていなければ、間違いなくその向こうの建物に突き刺さっていただろう。衝撃で、地面の雪がぶわっと舞い上がった。極限まで高められた魔力のせいで、吹雪はパウダースノーになっていたのだ。軽くて細かいそれは、蹴りと共に放たれた魔力と衝撃の余波とで、結界の中に充満する。巻き上げられた雪は街灯の光できらきらと煌めいていた。

 それだけを見れば幻想的であろう。けれども蹴り飛ばされたドゥランは、倒れたままピクリとも動かなかった。

 外からそれを眺めることになったレイナードは率直な感想を溢した。


「スノードームみたいだな」

「ああ、ここからだと月に雪がかかって綺麗に見えるな。叔父上の赤いローブもいい、雪で更に映える。まさしく降神日こうしんびという今夜に相応しい景色だな……って言ってる場合か!」


 マクスウェルは叫んだ。やりやがった、と絶望的な気分になる。


「レイ、叔父上を止めろ!」

「なんで」

「なんでじゃない!!」


 このままでは犯人達が殺されてしまうと、そう訴えた。万が一本当に死んでしまったら、罪を問うことが出来なくなる。それどころか、元々他国で指名手配になっている連中である。他国での犯行の追求が出来ないとなると、色々とややこしい。


「いいのかレイ、もしもあいつらが殺されたりしたら、俺達の仕事がまた増えるんだぞ! 家に帰れなくなってもいいのか!?」


 レイナードがびたりと動きを止めた。


「それは……駄目だ」


 好感触だ、マクスウェルはうんうん頷いて畳み掛ける。


「そうだよな、駄目だよな! リリアンに会えなくなるもんな! そうなったら困るだろ。叔父上を止めてくれ!」

「でも、あいつらはリリアンに手を出したんだ。生かしておけない」

「うーん、そうだな、でも今始末しなくてもいいと思うぞ! ほら、色々取り調べが終わってからでいいんじゃないか!?」


 必死になって訴え掛けるマクスウェルだったが、レイナードは眉間に皺を寄せて、ドームの中とマクスウェルとを見比べるばかり。明らかに加勢したがっている。内側からは出られないが、外からは干渉できる結界のようだ。

 やめてくれ、という叫び声が響く中、それを掻き消す別の声が上がった。


「ドゥラン!」


 それに視線を向けると、ドームの内側、倒れ込んだ男に向かって、女が駆け寄っているのが見えた。女は真っ青な顔で、髪を乱している。

 男の元までやってくると膝をついた。その肩に手を起き、男が何の反応も示さないことに顔を歪めた。


「も、もうやめて」


 か細く震えた声はその女、アンジェのもの。その場に満ちている殺意の中で、辛うじて紡ぐことができた一言に、アンジェの瞳から涙が零れ落ちた。普段、ターゲットとした男達を落とす為に嘘泣きを十八番にしているアンジェだが、これは本心から零したものだった。

 周囲を取り囲んでいた騎士の中には、愛した男が殺されそうになっている事に涙したのだと、そう見た者もいることだろう。


(怖い! 殺される!)


 でもアンジェは、ただ死の恐怖を目の当たりにしたために、涙が溢れただけであった。


(なんなのよぉこの男! 綺麗な顔してるけど、これが人間のやる事なの!?)


 かたかたと歯が鳴って、指先も震えが止まらない。呼吸も浅くしかできないから苦しかった。捻り出した一言で考え直して貰えないか期待していたが、目の前の男の雰囲気が和らぐ気配はなかった。表情こそ微笑みを湛えているものの全身から溢れ出る殺気は一向に変わらない。吹雪は止んでいだが、その殺気のせいで冷えて堪らなかった。

 その男が、アンジェに向かって歩いて来た。アンジェは息を呑んで、それでも勇気を振り絞って叫んだ。


「お、女を殴るの」


 紳士はそんなことしないだろう、という意味を込めての発言だったが、どうしてだか男は晴れやかな笑顔に表情を変えた。

 意味が分からず、アンジェはぽかんとそれを眺めた。その笑顔は美しかった。弱者に微笑む聖人がそこにいる。だと言うのに背筋を凍らせる程の殺気を放っているのは、紛れもなくその聖人なのだ。相反する感情を剥き出しにした男は、その美しい形の唇を開いて、アンジェに告げる。


「私は男女平等を信条にしているのでね。当然殴る」


 そうしてアルベルトは右手を挙げ、ぎゅっと握り締めた。そこに魔力を集中させる。見せつけるように掲げたのは当然見せしめである。こやつを痛めつけてやらなければいけないと、アルベルトはそう思っているから、効果的な手段を取っているのだ。

 魔力というのは、本来は目に見えないし、魔力を持っていない人には感じ取ることもできない。ただ、強い魔力は揺らぎを生む。凝縮された魔力は陽炎のように目に映る。今まさにアルベルトの右手には陽炎が纏わりついていた。純粋な高濃度の魔力は、それだけで生命を脅かすものなのだ。人は、己が太刀打ちできないものに対して恐れを覚える。

 アンジェは喉を引き攣らせる。あれは、あの右手は、己を死に至らしめる為のものであると、そう感じた。それが、自分を狙い定めている。


「嘘」


 呟いたアンジェの左頬を、アルベルトの右手が貫いた。あっ、という声はレイナードとマクスウェルのもの、騎士達からもどよめきが上がる。女の体は、やはり吹っ飛んで、すぐ後ろの結界にぶつかった。鈍い音が辺りに響く。魔力の波に吸い寄せられた雪は、女と一緒になって結界の壁にぶつかって、反対側にまで舞っていった。

 雪がちらちらと散っている中、女はやはり身動きひとつしなかった。しん、と静寂が落ちる。

 マクスウェルは、がっくりと膝をついた。

 レイナードは、自分も混ざりたかったのにとむくれた。

 レイナードの後ろに控えていたベンジャミンは、目元に手を当て天を仰いだ。

 アルベルトは右手を振り抜いた姿勢から戻る。その顔から笑顔は抜け落ち、殺気も消えているが、それでも視線は地面に転がった賊に向けられている。

 アルベルトは首を捻った。殺すつもりで蹴って、殴り飛ばしてやったというのに、こやつらは息があるではないか。どうしてだか無意識で手心を加えてしまったようだ。それがどうにも信じられない。あんなにもしつこいくらい魔力を練ったというのに、これはどうしたことか。

 ともあれ、ならばやる事と言えば一つだ。アルベルトは改めて拳を握り直した。


「まずいですね」


 ベンジャミンは、それを察知して即座に呟いた。目の前のマクスウェルとレイナードがベンジャミンに向く。


「何がだ?」

「幸いにも、まだ彼らには息があるようです」


 レイナードの問いにベンジャミンが答えた。聡い彼らは、それで気が付いたようだ。


「まさか……息の根を止めようと?」

「そのようです」


 それはまずい。マクスウェルは三度叫ぶ。膝をついて項垂れている場合ではない。


「それは駄目だ! 誰か止めろ!!」


 でないとただでさえ面倒な事後処理が更にとんでもない事になる。このままでは新年を執務室で迎える事になってしまうと、マクスウェルは嘆いた。


「やむを得ませんな」


 ベンジャミンとてそのような事態は避けたいところである。事情はどうあれ公衆の面前での処刑はやめて欲しい。処刑理由の後付けなど、公爵家の権力があればなんとかなるだろうが、諸々の処理が大変なのだ。アルベルト本人も動きはするだろうが、部下も含め総動員となるだろう。彼らにも家族があることであるし、労力は最小限に留めたい。新年くらいはゆっくり過ごしたいではないか。


「アルベルト様!」


 ベンジャミンの呼びかけに、一応アルベルトは反応をした。握り締めた拳を上げようとした姿勢で耳を傾けている。更にすうっと息を吸って声を張り上げるベンジャミンは、号令を出す将軍のようであった。


「リリアン様が屋敷でお待ちです! 一緒にケーキを食べませんか、と!」


 途端、アルベルトがこちらを向いた。首がすごい勢いで回って、マクスウェルが「うわっ」と声を上げていた。首がもげそうな勢いだったのでその気持ちは分かる。


「なぜそれを早く言わない!」


 くわっと目を剥くアルベルトは「こうしては居られん」と呟いて、こちらへ向かって走ってきた。結界にアルベルトの体が触れた瞬間、ぱきんと音を立てて結界が解かれる。結界内に積もった雪がひんやりとした空気と一緒に、同時に周囲に広がった。足元に広がるそれは、街灯とランタンの灯りで白く輝いていたが、それを観賞する余裕のある者はいなかった。

 この隙に盗賊を確保するよう指示を出すマクスウェルは真剣だった。いつアルベルトの気が変わって、再び制裁を加えるか分からないからだ。

 ただ、それはもう杞憂だった。アルベルトはもうすっかり盗賊から興味を無くしていたのだ。何しろリリアンが待っているというのだ、だったら優先されるのはそちらの方である。ベンジャミンの元まで来ると、「さっさと帰るぞ」と捲し立てた。ベンジャミンはひっそりと額に浮いていた汗を拭って、ほっと息をつく。


「馬車を呼びます」

「そんなもん要らん。馬があるだろう、それに乗った方が早い」


 言いながら、手近な馬の手綱を握ったアルベルトは、騎士が困惑するのにも構わずに鞍に上がった。アルベルトの脳裏には、ケーキを前にお茶の準備をして父を待つリリアンの姿がはっきりと浮かんでいるのだ。そんなリリアンをこれ以上待たせてはいけないと、アルベルトはベンジャミンを急かした。ベンジャミンは仕方がないとばかりに騎士に会釈をすると、自分もまた乗ってきた馬に上がり、その後を追う。

 そうして馬を駆り去って行くアルベルト達を、マクスウェルは疲れ果てた顔で見送っていた。幸い『インビジブル』の三人は意識を取り戻したらしく、自分の足で立ち上がることができたようだ。ただいずれも苦しそうな顔をしているので、どこかしら骨が折れたりしているのだろう。さっきの蹴りと拳で歩けているのは幸運としか言いようがない。

 後ろ手に縛られた三人が、それぞれ二人の騎士に挟まれて引き立てられている。先頭の男がリーダー格なのだそうだが、青い顔をしながらもマクスウェルを睨みつける胆力はなかなかのものだ。それだけ根性があるのなら、真っ当な仕事に就いて働けばいいものを。そうすれば少なくとも、こんな目には遭わずに済んだに違いない。

 マクスウェルはリーダー格の男ににじり寄って、その肩をぎりぎりと握り締めてやった。


「メリー・クリスマス」

「……は?」

「まったく、とんでもない事をしでかしてくれたものだ」


 自然、マクスウェルの声には恨みが籠る。ただでさえ忙しい時期にこれだけの事件を起こしてくれたのだから、当然であった。ましてや触れてはならないものに触れて、国で一番厄介な存在を引っ張りだしたのである。マクスウェルも一発くらい殴ってやりたい気持ちが無いわけでもないが、やったところで意味がないし、きっちり処罰を与える事の方が仕返しになるだろう。


「この後よぉーく話を聞いてやるからな。さっさと済ませたいから、城に帰ったらすぐに聞いてやる。朝までかかっても大丈夫だ、きっちりみっちり付き合ってやるとも。それが貴様らへのプレゼントだ。有り難く頂戴するんだな」


 その言葉に盗賊達は更に顔色を悪くしたが、マクスウェルは無視した。当然手当はさせるが、実際朝まで帰れないだろうと踏んでいたので、あえて伝えなかったのだ。彼なりの意趣返しである。


「さあ行こうか。牢は冷えるが毛布くらいは入れてやるぞ。安心しろ」

「何が安心なものか」


 リーダー格の男が反論してきた。おや、とマクスウェルは眉を上げる。何もおかしなことは言っていない、トゥイリアースの王都は雪になることは稀なので、毛布一つでも凌ぐことができる。先日雪がちらついたのは滅多にないことである。そもそも余罪のある盗賊を寒さなんかで死なせるわけにいかないので、対策はするつもりであった。

 だが、男はがたがたと震えて、マクスウェルに訴えかけた。


「いつまたヴァーミリオン公が我々を殺しに来るか、わかったものじゃないだろう! 安心できるか!」

「ああ、それか」


 確かに。マクスウェルはそう思った。

 もしかしたら、リリアンとケーキを食べ終えたら、こやつらの元へ蜻蛉返りして制裁を加えるかもしれない。だけどそれは御法度だ、なんならさっき蹴ったり殴ったりしていたのも問題である。でも、マクスウェルには確信があった。アルベルトはきっともう、屋敷から出て来ないだろう。


「大丈夫だと思うぞ」

「なぜ」

「それを教えてやる義理は無いな」


 納得がいかない、そんな表情をする男を、マクスウェルは思いっきり見下すように笑ってやった。それで余計に男は顔を歪めたが、安心させてやるのは癪だった。無視してそのまま、捕縛している騎士に指示を出す。


「連れて行け」

「はっ」


 腕を引っ張って盗賊を連行する騎士に、痛いだのなんだのと文句を言う連中の強かなこと。これは聴取にも手こずりそうだと、マクスウェルはため息を吐いた。

 ただ、アルベルトが連中の元に現れることはもう無いだろう。リリアンがそれを止めるだろうし、そもそもリリアンを前にしたアルベルトが連中のことを思い出すとは思えない。後から横槍を入れてくる可能性も無いだろう。すでに国に捕えられている状態であれば、しかも宝石がヴァーミリオンの屋敷にあるのなら、連中がそれに手を出すことは難しい。そうなればもう、アルベルトにとって『インビジブル』は意識に上げる必要の無い相手である。リリアンが関わらなければ、アルベルトは脳みその容量を割いたりしないのだ。


「よし。俺達も行くぞ、レイ」


 城に戻って、『インビジブル』の犯行の調書を作る手筈を整えなくてはならない。それに連中はそもそも他国で指名手配になっている。そちらへの対応も必要だろう。まだまだマクスウェルの仕事は終わりそうにないから、レイナードにも付き合って貰うつもりであった。だが、振り返った先、いるはずの従兄弟はどうしてだか姿が見えない。訝しんでいると、はっと気が付いた。


「あいつ、帰りやがったな!」


 執事が「リリアンが待っている」と言っていた。それを聞いたレイナードが、大人しく城に戻るわけなかったのだ。

 ただ、真面目な男なので、まだ仕事中だというのにそれを放棄して屋敷にケーキを食べに戻ったという、その事は異常に思えてならない。

 呆然とするマクスウェルの元に、部下の一人が駆け寄ってきた。


「殿下、レイナード様よりご伝言が」

「何? どんな内容だ」


 部下は、眉間に皺を寄せて、分かりやすく困惑していた。


「はっ。『休憩したら、すぐ戻る』……との事です」


 マクスウェルはなんとも呆れて、いっそ無表情になる。


「……そうか。わかった。」


 部下を労い、持ち場に戻らせると、ため息が溢れるのを止められなかった。


「仕事中の休憩に、妹とお茶をしに家に戻る奴、居る?」


 残念ながら居た。それも、自身の従兄弟で補佐官である。

 マクスウェルは再度長い息を吐くと、よろよろと馬を引いて歩き出した。

 夜は長い。むしろまだ、これからである。それを思うと、ため息の止まらないマクスウェルであった。



◆◆◆



「リリアン! ただいま!」


 アルベルトが屋敷に戻った頃には、リリアンは居間で待機していた。この時間に居間にいるのは珍しい。普段なら部屋に戻っているはずだ。アルベルトはそれを、自身とケーキを食べるためと解釈したが、実際にはベンジャミンからの連絡を待っていたのだ。ベンジャミンだけでなくアルベルトとレイナードが帰って来たことに、少なからずリリアンは驚いていたようだった。ただ察しの良い彼女のこと、すぐに事態が収束したのだと理解したようだ。にっこり微笑んで家族を迎えていた。完璧な対応である。アルベルトは上機嫌に駆け寄るし、レイナードも雰囲気を和らげていた。

 さすがはリリアンだと、ベンジャミンはほっと息をつく。


「お帰りなさい、お父様、お兄様。ベンジャミンもご苦労でしたね」


 その上労って下さるのだから、まったくもってできたお嬢様である。アルベルトがローブを脱いでいる間に、ベンジャミンはさっと事情を説明する。


「申し訳ありません、リリアン様。アルベルト様を落ち着かせるのに、リリアン様のお名前を出しました」


 リリアンは、そうなの、と小首を傾げた。


「具体的には?」

「ケーキをご一緒に、と」

「わかったわ」


 頷いたリリアンは、こちらを伺っていたアルベルトを呼び寄せ、テーブルについた。丁度準備させていたお茶が運ばれて、手ずからリリアンがそれを注いだので、アルベルトはご機嫌だ。きっともう、頭からはすっかり盗賊のことは抜けている事だろう。ベンジャミンはようやく心から安堵した。


「急にごめんなさい、お父様」

「リリアンからの招待だ。断る理由がない」

「お兄様も、お仕事中だったのではないの?」

「どうとでもなるから。僕の分のケーキはあるかい?」

「もちろんよ!」


 リリアンはぱっと微笑むと、控えていたルルからナイフを受け取った。

 皿の上に乗せられたのは色良く焼かれたパウンドケーキ。それを、程良い厚さにカットしていく。


「孤児院にお菓子を持って行ったでしょう? そのついでに作ったものなの。形は悪いけれど、美味しいと思うわ」

「……ひょっとしてこれは、リリアンが?」

「ええ。と言っても、わたくしは大したことしていないのだけれど」


 アルベルトは感激した。まさかまさかの、リリアンお手製のケーキである。手元に配られると即座に口にした。

 ドライフルーツと胡桃が練り込まれたパウンドケーキは、みっちりとしているのに口当たりは軽い。紅茶とも良く合うそれを、一口ずつ大事に口に運んだ。

 お菓子作りは前からやっているのは知っていたが、ケーキを作れるようになっているとは知らなかった。思わぬリリアンの成長を目の当たりにして涙が溢れそうになる。ティアラを盗まれるという失態を犯したのに、こんなご褒美があっていいのかと、感動で指先が震えた。

 涙目になってケーキを食べるアルベルトは、それがどんな風にリリアンの目に映るのか考えつかなかった。どんどん不安そうな表情になるリリアンに気付きもしない。


「あの、お父様」

「うん? 何だい?」


 にこにこと、顔を上げたアルベルトは、そこでようやくリリアンの表情を見た。眉を下げ、しょんぼりとする姿だ。


「美味しくなかったかしら……?」


 ひゅっ、と息を呑んだのは誰だったか。もしかしたら全員かも知れない。室内の空気が一斉に凍りつく。


「リリー、そんなことはない。とっても美味しい」


 レイナードは即座にフォローに入る。自分は表情には出ないタチだ、リリアンもそれを知っている。だからこそ、アルベルトの反応だけを見てそう感じたのかも知れない。でもリリアンは、兄のほんの少しだけ上がった口角をきちんと把握していた。兄の口には合ったのだろう、そう考えていたのだが、父はそうではなさそうだった。

 では、兄の反応は気を遣ったものなのではないか?

 そう思ったらしっくり来たのだと、リリアンはぽつぽつと教えてくれた。


(父上の馬鹿……)

(アルベルト様、なんという失態を……!)


 レイナードとベンジャミンは冷たい目でアルベルトを見た。他のメイド達も、じとっと細い目で主人を見やる。

 アルベルトは、さあっと血の気が引くのを感じていた。


「違う違う違うそんな事はない! とても良くできている、美味しいに決まっているだろう!」

「でも、なんだかお辛そう……」

「違うんだリリアン、これはそういうのじゃなくて! いつの間にかこんなことが出来るようになっていたなんてって、そう思ったら感動してしまって……! 信じてくれ!」

「本当に?」


 本当だとも、と必死に紡ぐアルベルトに、でも、と肩を落とすリリアン。このままでは不味いと、レイナードはベンジャミンに視線を送る。

 ベンジャミンも同じ事を考えていたようだ。目が合うとこくりと頷き、さっと小箱をアルベルトに差し出した。


「アルベルト様、こちらを。先程届きました」


 その小箱はさっき取り戻してきたティアラのものとは違って、ベルベットで滑らかな手触りだ。アルベルトは慌ててそれを受け取る。

 見覚えのないそれに、リリアンはぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。


「そ、そうだリリアン、これを。明日の晩餐会で着けるといい」

「これは……?」

「リリアンの為に新しく作らせたんだ」


 さっと開いたそこには、ゴールデンパールを繋ぎ合わせた髪飾りが収められていた。

 まあ、とリリアンは声を上げる。驚きの表情で髪飾りとアルベルトとを見比べている。と同時に困惑しているようだ。


「あの、ティアラを準備していませんでした?」


 アルベルトはその指摘にふいっと視線を逸らす。


「それはそれ、これはこれだ」


 その言葉に、リリアンは色々察した。きっと気が変わったとかそういう理由でこれを作ったのだろう。ティアラは多分、無駄になっていないと思うから、それは心配していない。ふう、と息をついて、髪飾りを手に取った。

 しっとりと輝く金は、金属とは違って暖かな色をしている。頭頂部からサイドに垂れ下がって覆うよう編まれている先、耳の辺りに大きな雫型のものが付けられていた。雫はかなり大きなものだ。これ程の真珠、一体いくらの価値があるのか検討がつかない。

 よく見ると、頭部の真珠は、場所によってサイズが微妙に変わっている。存在感を特に主張したい正面には大粒のものを。そこから少しずつ小さくしていって、サイド部分は金のチェーン、そこに小ぶりなダイアモンドをアクセントとして要所要所に散りばめてある。そのお陰で全体に動きが出ており、更に真珠だけでは不足する光の輝きを補っていた。

 繊細なそれを、リリアンの白魚のような指に纏わせるだけでもう、芸術作品が出来上がる。ほう、と感嘆したのはルルとシルヴィアだ。ベンジャミンもふむと頷くくらいには素晴らしい光景であった。レイナードは、リリアンの姿に目を細めている。


「気に入ったかい?」

「ええ。とても素敵ね……真珠でこんな風に作られた髪飾りは見た事がないわ」


 アルベルトは満足した。自身がデザインしたものを喜んでくれたのだ、こんなに嬉しいことがあるだろうか!

 きらきらと輝くリリアンの瞳が、髪飾りを見ている。朗らかな笑顔はアルベルトにとって、何よりも宝物だ。それを拝む事ができて良かったと、うんうん頷く。


「でも、やっぱりケーキは……」


 リリアンはちらりと皿に乗ったパウンドケーキの残りを見た。

 誤魔化せて、もとい誤解を解けていなかったらしい。ひくりとアルベルトの頬が引き攣る。


「いや、リリアン、本当に美味しいよ。嘘じゃないんだ、信じてくれ」


 慌てふためくアルベルトだったが、フォローする者はいなかった。

 ふるふるとリリアンの肩が揺れる。漏れ聞こえるのは、すすり泣く声ではなくて、くすくすという笑い声だった。それでアルベルトは、リリアンが怒っても泣いてもいないことを悟った。

 リリアンは顔を上げる。その表情は柔らかい。意地悪をしたものだから、ちょっとだけ肩を竦めた。


「ええ、信じるわ。疑ったりしてごめんなさい」

「リリアン……!」


 はあ、とアルベルトは息を吐いた。未だ笑い声を漏らすリリアンは楽しげだ。それでようやく、ルルやシルヴィア達からも緊張が消える。レイナードとベンジャミンも、やれやれと視線を合わせた。


「だっていきなり涙目になるんですもの。スパイスを入れ過ぎたのかと思ってしまって」

「そ、それは悪かった。本当に美味しいから、つい……」

「いいの。わたくしも意地悪だったわ」


 言ってリリアンは、それにしてもと手元に視線を落とす。サファイアのティアラはもちろん素晴らしかったけれど、このゴールデンパールの髪飾りも負けていない。一体どれだけ散財するのだと呆れなくもないが、綺麗な宝飾品を見るのはやはり楽しい。父が、自分の為に準備をしてくれたという事も、リリアンには嬉しかった。だからお礼は、これを受け取って目一杯着飾って、アルベルトの目を楽しませることであろう。リリアンはそう思って、髪飾りを箱に戻した。


「お父様、ありがとうございます。明日はこれを身に付けることにしますね」

「ああ。ぜひそうしてくれ」


 頷くアルベルトに、リリアンは微笑み返す。それでいっそう嬉しげになる父の顔は見慣れたものだ。リリアンはお茶を淹れ直して、アルベルトに差し出した。レイナードはすっかりケーキを平らげていて、今は興味深そうに髪飾りを眺めている。ちょっと眉間に皺が寄っているのは、やっぱり高価だからだろうか。


「そうだわ」


 リリアンは、はたと気付いて声を上げた。それに釣られるようにしてアルベルトとレイナードが視線を向ける。


「どうした、リリー」

「忙しくて、すっかり忘れていたのに気が付いたの」


 その言葉にぴんと来なかったアルベルトとレイナードが首を傾げる。その角度と向きがそっくり同じだったので、リリアンは思わず笑ってしまった。

 リリアンは、とびっきりの笑顔で言った。


「お父様、お兄様。メリー・クリスマス!」


 そのあまりの輝きに、アルベルトとレイナードは硬直する。眩しい、眩しすぎる。清らかなリリアンの笑顔はこの世のありとあらゆるものを浄化すると、二人は本気で思っていた。

 なんとかレイナードは意識を戻し、リリアンに微笑み返した。


「メリー・クリスマス、リリー」


 満足そうに頷くリリアン。そのままの流れで返さないと、さっきの二の舞になると踏んだレイナードは、肘でつんつんと父の腕を突いた。びくりとその腕が震えた。危ないところだった、という呟きがレイナードの耳に入る。きっと精神世界にトリップしていたに違いない。確かに危ないところだった。

 アルベルトは「んんっ!」と咳払いをして、きりっと表情を引き締め、リリアンへ向く。余談だけれどその姿は実に美しいものであった。整った顔立ちで、口元は緩やかに持ち上がり、ふんわりと笑む姿は、それを見慣れた使用人でも思わず見惚れてしまう。ルルは、「はわー」と小さく溢して、呆けてしまった。シルヴィアがそれを突くけれど、そのシルヴィアもどことなく頬が赤い。

 そうして完璧な顔で、愛しい娘の名を呼ぶのだった。


「ああ、リリアン、メリー・クリスマス。今日は楽しかったかい?」

「ええ、とっても!」


 リリアンの弾む声に、全員が目を細めた。

 ヴァーミリオン家に、これでようやく平穏が訪れた。一連の問題は解決となる。ただ一点を除いて、だが。

 使用人から耳打ちされたベンジャミンは、そっとレイナードに寄る。


「レイナード様、城から遣いが来ています。マクスウェル様がお呼びだとか」

「……今行く」


 レイナードは一応、仕事中なのだ。休憩という事で大目に見てもらっているものの、用が済んだら戻って来いと言われるのは当然だった。

 『インビジブル』の様子を見た限りでは、なかなかに癖のある連中のようだから、この後の調査も一筋縄ではいかないだろう。それを思うと頭が痛い。が、リリアンお手製のケーキを食べ、至高の笑顔を拝んだことであるし、気合を入れるしかないとレイナードは切り替えた。

 視線を戻すと、アルベルトはまだ大事そうにちみちみとケーキを食べている。リリアンの方は、レイナードを伺うようにしてこちらを見ていた。カップに残ったお茶を煽って、レイナードは席を立つ。


「僕はまだ仕事があるから、城へ戻ります」


 それにそうか、と返すアルベルトはこちらを見もしない。まあ、大した返事は期待していなかったのでどうでもいい。労うようにこちらを向いてくれているリリアンの顔が見れさえすればいいのだ。

 だからレイナードは、気遣うリリアンに対してのみ言葉を発する。


「戻るのは多分朝になると思う。ありがとうリリー、丁度いい休憩になった」

「それなら良かったです。お兄様、お気を付けて行ってらっしゃいませ」

「うん、行ってくる」


 外套を着込んで、さっと部屋を出てた。そこで城からやってきた部下から、現状の様子を聞く。


「取り調べはこれからです」

「そうか」


 手当てを受けた『インビジブル』の三人は、痛いだの怖かっただの殺されるだのと喧しいそうだ。それは事件を起こした張本人なので、自業自得である。甘んじて受けて欲しい。

 レイナードもマクスウェルも、そしてアルベルトも思いもよらなかった。この一連の騒ぎが、後の大事件に繋がることを。



 夜は更けていく。新年までを祝う、その始まりのこの日、賑やかなパーティーを終えた子供達は窓の外を眺める。晴れていても曇っていても、雨でも雪でも、神は間違いなく空の上から一年中、子供達を見ているのだという。どうやってかはわからないが、それを聖人に耳打ちするのだそうだ。だから降神日のこの夜、その空に向かって祈りを捧げる。

 リリアンも、そっと窓から空を見上げた。今日は快晴ではっきりと星が見える。少し欠けた月が、その真ん中に浮かんでいた。

 そっと手を組み、リリアンは呟いた。


「今日という日を迎えられたことに感謝を。〝いい子にしていたでしょう、神様?〟」


 月明かりが、空を見上げるリリアンを照らす。すうっと伸びた影が床に落ちて——ああ、それのなんと神々しいことか! 窓辺で月光を受ける女神がそこに居るのだ。淡い月光が陰影を映し出し、微笑むリリアンの姿はいつも以上に清廉で美しい。その姿に誰しもが息を呑んで見惚れてしまう。

 アルベルトは呆けて、からんとフォークを皿に落とした。


(我が家に……女神がいる……)


 神というのは下界に関与しないから、地上に居るとすればそれは天使だけだ。愛らしいリリアンはだから天使なのだと思っていたが、目の前のリリアンからはそれだけでは済まされない、触れ難い神々しさがあった。

 アルベルトは思わずリリアンの足元に駆け寄った。そして、そこに跪く。リリアンは驚いて首を傾げていた。


「お父様、どうかしたの?」

「いや、リリアンが……あまりにも綺麗だったから」

「まあ」


 ふふ、と笑うリリアンは、いつもの天使の顔をしていた。


「変なお父様」

「でも本当に綺麗だったんだ。まるで女神だったよ」

「嫌だわ。わたくしが女神様なわけないでしょう」

「そのくらい美しいということさ」

「言い過ぎではない?」


 それに対してアルベルトが否定して、更にそれをリリアンが否定する。延々と続けるその様は、まさに仲の良い父と子の姿であった。しかも揃って美しいものだから眼福である。いつまでも眺めていられる。微笑みながら続ける親子を、ヴァーミリオン家の人々はずっと見ていた。ここに王太子マクスウェルが居れば、きっとこう言っていただろう。

 ——よく飽きないな、と。



--------------------------------

次回は5/17(水)更新予定です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る