5.お父様はお母様!?①

 リリアンの朝は令嬢にしては早い。今日も空が白んだ頃、誰に起こされるでもなく目覚めた。ふわあ、と欠伸をして目を擦る。リリアンの部屋は暖房が効いているので冬の朝でも寒くない。寝巻きのまま窓辺に寄ってカーテンの端を捲ると、眩しさに瞬きをした。


「いいお天気ね」


 今日は外出の予定があったので晴れた方がありがたい。少し気分が上向いたところで、ドアを控えめにノックされた。


「お嬢様。お目覚めですか?」

「ええ、起きているわ。おはよう、シルヴィア」

「おはようございます」


 シルヴィアは部屋に入るとカーテンを開けて回る。その間にリリアンは部屋に備え付けの洗面台で顔を洗った。この洗面台は特別製のもので、いつでも温かいお湯が出せる。娘の為にと父アルベルトが特別に作ったものだ。使ってみるとかなり便利なので、屋敷にいくつか同じものを作ったのだが。その利便性が王の耳に入り王城にも取り入れられた。その結果国内に広く流通することになった。だけどリリアンが使っているものはアルベルトが自ら調整に調整を重ねているので、汎用品と比べ物にならないほど高性能である。その恩恵には気が付かず、リリアンはハンドルを回す。蛇口から出てくるのはいつだって気持ちがいい温度のお湯だ。指先でそれを確かめて、リリアンは手のひらにお湯を満たす。顔にぱしゃりと当てるとじんわりと熱が広がった。

 いつからか、リリアンは簡単な身支度は自分でやるようになった。放っておくと侍女やメイドが寄ってたかってみんながやりたがって、いつまでも終わらないのだ。それで自分で済ませてしまうといいと学んだ。コルセットが必要なドレスを着る時は化粧が必要な時は彼女らの手を借りるが、そうでない部屋着の場合は一人で済ませる。でもそうすると、世話係が寂しそうな顔をするから、最後の仕上げは頼むようにしている。今日も髪を梳かすのはシルヴィアに任せて、それまでは一人でやるつもりだ。


「本日はどちらをお召しになりますか?」

「うーん、そうね」


 シルヴィアが差し出したのは水色のシンプルなドレスと、クリーム色のふんわりしたドレス。最近リリアンが気に入っているものだ。この日は外出の予定があるとは言え何時間も後のことなので、まずいつも通りの普段着に着替える。


「今日はお庭に出るから、水色の方にしようかしら」

「かしこまりました」

「お城へ行く時のドレスは、シルヴィアに任せるわね」

「はい。準備をしておきます」

「お願いね」


 手早く身支度を整えるリリアンに、シルヴィアは頬を緩ませる。本当は普段からもっと着飾って欲しいのだが、この通り主人は簡素に済ませようとする。それがちょっぴり残念だった。なぜならリリアンは飾れば飾るだけ輝く。似合うものばかり揃えられているとは言え、どんなドレスだって華麗に着こなしてみせるのだ。シンプルなものはリリアンの美しさを引き立てるだけだし、豪奢なものはそれを自らの一部としてしまうから、どれを選べばいいのか迷ってしまう。最後の決め手となるのはリリアンの好みだけだ。宝飾品も、国宝級の宝石を連ねたティアラだって、リリアンの添え物にしかならない。宝石の輝きよりもリリアンの髪と瞳の輝きの方が勝ってしまう。それでより一層、輝きの素晴らしいものを揃えねばならなかった。

 そんな主人を飾るのが楽しくないわけがない。だからシルヴィアは、今日はいつも以上にうきうきしていた。


(最近のお好みは淡い色のようだわ。だとすると、この間仕上がった紫のものがいいかしら。ピンクのものもお嬢様好みだと思うけれど、あちらは少しボリュームがありすぎるかしらね)


 水色のドレスを着終わったリリアンが鏡台の前に座る。シルヴィアはその美しい銀の髪にブラシを通して、丁寧に梳かしていった。


(お嬢様に一度確認して頂きましょう。……はあ、それにしても、本当に……本当に美しい髪だわ。こんなものがこの世に存在するのね。もしかしたら絹よりも手触りがいいんじゃないかしら。こんなに艶めいていて……ああ、なんて手入れのしがいがあるの! 磨けば磨くだけ輝くだなんて、さすがは私達のお嬢様だわ!)


 通すブラシはまったく引っかからずにするりと流れてしまう。もはや梳かす意味がわからないくらいだ。それなのに滑らかで柔らかい。いったいどういうことなのかと侍女仲間と話したことがあるが、「リリアン様は天使だから……」という言葉に一同納得してしまい、それ以上会話にならなかった。この世のものとは思えない美しさを持つリリアン。天使でなければ女神である。シルヴィアはそう思っている。


「シルヴィア、ありがとう。もういいわ。庭に出るから着いて来て頂戴」

「はい。かしこまりました」


 使っていたブラシから軽く埃を払うと引き出しにしまう。


(はあ。なんて素晴らしいの……)


 柔らかい表情のリリアンに、シルヴィアは顔が緩みっぱなしだった。この天使であり女神である主人に最も近い場所で仕えることができる。それは、最も近い場所でリリアンを観測できるということである。


(今日も私のお嬢様は最高だわ)


 動きやすいよう設計されたリリアンのふわふわの上着を手に、シルヴィアは今日も、リリアンに仕えることができる幸運に神に感謝するのだった。


 シルヴィアに渡された上着を羽織り、庭に出ると、リリアンはとある一画へ向かう。その場所はリリアンの好みの花ばかりを植えた花壇で、春から秋までの長い期間、様々な花が咲く。それが嬉しくて、リリアンは季節ごと入れ替える草花の世話を手伝わせて貰っている。今は冬なので、花はほとんどない。でも来年の春になると芽を出す球根をいくつか植えたし、まだ花をつけているものもある。白くて小さくて、丸っこい花がたくさんついている。

 庭を管理するのは本来は庭師だ。専門的なことは彼らに任せ、リリアンは花柄摘みや植え替え、たまに水遣りをする。たまにしかやらないのは、季節ごとに必要な水の量が決まっているからだ。その辺りの判断はよくわからないから、庭に出ては今日はどうするのかと、リリアンは庭師に訊ねていた。夏はたくさん水が必要だから出番があるが、寒くなってくるとその頻度は落ちる。でも秋のあと、冬に入ると途端に雨が少なくなる。雪が降ると水遣りどころではなくなるから、それまでに一度くらいはお世話をしたい。それで天気のいい日には庭に出るのが日課になっていた。

 リリアンは庭の小道を進む。と、樹木のそばに動く影があった。


「カクタス。今日はどうかしら」


 目的の庭師は、大きな麻袋を引き摺っていた。落葉樹の落ち葉を集めていたらしい。リリアンの声に顔を上げると、頭を下げた。


「リリアン様。おはようございます」


 それに、リリアンもおはよう、と返した。


「ここのところずっと雨が降っていないわ。ね、今日はどう?」


 カクタスという庭師はその言葉に、うーん、と考える素振りを見せる。


「そうですねえ。冬の間はどうしても水が要らなくなりますから。寒いから蒸発もしないので」

「そうなの……?」


 しゅんとするリリアンに、カクタスは笑ってみせた。


「ま、一度くらいならやっても大丈夫でしょう。ここの花壇ならいいですよ」

「本当!? ありがとう!」


 ぱっと表情を輝かせると、リリアンはくるりと花壇を見渡す。

 花壇は、それなりの広さがある。煉瓦で区切られた範囲内、それがすべてリリアンのためのスペースではあるが、草花だけでなくバラといった樹木も植えられているから当然だ。

 それがどの程度の広さかというと、ちょっと裕福な商人の家が、庭ごとすっぽり収まるくらい。これが「さすがヴァーミリオン公爵家」と言われる所以である。

 リリアンは区画内の煉瓦の小道を進む。その背後にはシルヴィアが付き従う。いつものことなので歩みは淀みない。区画のだいたい真ん中辺りで、リリアンは足を止めた。しゃがんで、ちょっと土を触る。白っぽくなった土は乾燥して固まっている。

 それを確認して、リリアンは立ち上がると、両手を胸の前で合わせた。そして以前、カクタスに言われたことを思い出す。ここの植物は水分が多すぎるのを嫌うそうで、水のやり過ぎは禁物なのだそうだ。全体がしっとり適度に湿るくらいに。びちょびちょはだめ。それを考慮して、リリアンは魔力を操る。

 魔法は魔力を動力に、術式を組む事で発動する。魔法を使うのに必要な魔力を持っているのは、この国では王族とそれに血を連ねる者だけ。歴史の中で王家の者が方々に嫁いだり婿に行ったりしているので、貴族の中でも魔力を保有している者もいるが、魔法を使うことができる者は限られている。本人の適性と素質が大きく影響するだけでなく、技術と知識が必要になるためだ。

 この国の歴史の中でもずば抜けて能力が高いのがアルベルトだ。とは言えアルベルトが規格外なだけで、その子であるレイナードとリリアンは、通常より少しちからがある、そのくらいのものだった。それでも二人が使える魔法は他の者より多い。扱える術式の数が多いからだ。

 自然界に起こる現象を人が起こすのには、膨大な熱量が必要になる。その熱量がすなわち魔力であり、現象を再現するのが術式。術式を組むことができなければ魔力があっても現象は起きず、術式が正しくても満足な魔力が無ければ、これもまた現象を起こすことはできない。更に言えば扱える魔力には適性がある。あるひとつの属性に適性があるのが普通で、適性が無い属性のものは基本的に扱えない。複数の属性に適性があるのは非常に稀な事で、この国を興したという人物は、どういうわけか確認されている全ての属性が扱えたと言われている。

 それに術式と言っても組み方は様々だ。魔法を扱える者が少ないが為に、研究も十分ではない。だからこそアルベルトはそれを纏めることで歴代最高の魔導士と言われることになったのだが、彼と彼の子供達は、術式の組み方が独特だった。……というか、感性的だった。


(お父様は、お庭に水を撒くのに雨を降らせるようにしていたわ。量はちょっぴりでいいから小雨くらいで……こんな感じかしら?)


 リリアンは練り上げた魔力を解放する。リリアンを中心に、ふわりと登る魔力は弾けると、水滴となって落ちた。狙い通りの小雨を降らせることに成功したリリアンは満足そうに頷く。

 通常なら、これを実行するのに魔力を練りつつ計算が必要になる。その計算の結果が術式で、なにをどのように、どんな状態にするのかなどを表すのだ。術式を表すのが魔法陣であり呪文である。そこに魔力を注ぎ込むと発動する、それが魔法。

 一般的に、魔法の使用には魔法陣を使う。魔法陣を組むには専門の知識と技術が必要になる。けれど正確に覚え、描くことができれば、あとは魔力を適切に流せば発動するので、普通はこれを使う。

 他の手段では呪文詠唱がある。古語を用いており、独特の旋律に言葉を乗せ魔力を込めて唱えると、魔法陣の代わりとして成り立つ。古くはこちらが主流だったそうで、魔法陣にはこの呪文が組み込まれていることが多い。

 いずれにせよ、習得するのに膨大な時間と知識が必要になる。魔法陣を描き上げて発動するにもそれなりに時間がかかる上、同時に魔力を適切に練り上げなければならない。だから国内できちんと魔法を使える者は少ない。

 だがこの通り、リリアンもレイナードもアルベルトも、それらを一切遵守せず正確に魔法を扱うことができる。現にリリアンは呪文なんてひとつも知らないし、魔法陣は見たことがない。それでも、リリアンは自分が思った通りの事象を魔法で起こすことができた。

 なぜかと言われても、リリアンもどうしてかわからないから説明のしようがない。

 ただなんとなく、「こうすればいいのかな?」と思うとその通りになるので、間違っていないんだな、と分かるだけだ。リリアンの魔法のほとんどは、父アルベルトが使っているところを見て、その真似をしているものだから、もしかしたらそれが関係しているかもしれない。

 とは言え、「なんとなく」「こんな感じで」「このくらいかな?」で魔法を使うのだから、この親子は異常としか言いようがない。けれど、魔法を使えるのは王族を中心としたごく一部の人間だけなので、この異常性に気付いている者は今ここには居ない。

 ともあれ、思い通りの小雨を降らせ花壇に無事水遣りをすることができたリリアンは、その光景を見守っていた。雨粒代わりの水滴が、陽射しできらきらしているのが楽しい。


「あっ、シルヴィア、見て! 虹!」


 その水滴がスクリーンになって、小さな虹が出ているのに気付いた。リリアンは頭上に出たそれにはしゃぐ。


「きれいねえ」

「ええ、本当に」


 シルヴィアが見ているのは虹ではなくリリアンだったが、本当に綺麗だったのでそのように同意した。そのはるか後方、建物の影では様子を盗み見していたアルベルトが、虹の下のリリアンの姿にあまりの神々しさに息を詰まらせ涙していたのだが、二人はそれには気が付かなかった。



 花壇への水遣りを終え屋敷に戻るリリアンは、次の日課を終わらせる為玄関に回った。階段下の一枚の絵の前で足を止め、お辞儀をする。


「お母様、おはようございます」


 リリアンの視線の先には、肖像画が一枚。描かれているのは淡い金髪の女性。名はソフィア・ヴァーミリオン、リリアンの母だ。彼女はリリアンを産んですぐに亡くなった。

 亡くなるまでずっとリリアンと一緒に居たらしいが、生まれて間もない頃の記憶なんてあるはずがない。だからリリアンには母親の記憶なんてなかった。でも侍女やメイドを始め使用人達が変わるがわる相手をしてくれた覚えがあるし、なんと言っても父と兄が、いつも居てくれた。だからリリアンは寂しい思いをした事なんてない。

 それでも女親、というのがいないのでは不便だろうと、ソフィアと交流のあった王妃シエラがリリアンのことを気にかけてくれた。伯母と姪という関係以上に世話をしてくれた。その頃からリリアン第一だったアルベルトも一緒に、王城に行ったり来たりの毎日だった。

 優しい父と兄、それに伯父と伯母、従兄弟達も居た。おかげでリリアンはまっすぐ育った。リリアンは、そんな家族が大好きだった。

 だから毎日母に挨拶を欠かさない。自分は幸せなのだと、それを伝えている。


「今日はシエラ様のところに、お勉強に行く日です。わたくし、頑張りますね」


 リリアンはにっこり微笑むと、王妃も絶賛のカーテシーを母親の肖像画に披露した。一切のブレもない美しい姿は、もうこれ以上磨く余地がない。それでも精進を怠らないリリアンは、だから王妃のお気に入りだった。「あの父親でどうしてここまで素晴らしく育つのかしら……はっ、わたくしの教育のおかげね?」とは王妃の言葉だ。

 すっと姿勢を戻すリリアンは、もう立派なレディだ。


「ふっ……ひぐ……リリアン、大きくなって……!」


 後を追うように柱の影でそれを見ていたアルベルトは咽び泣いていた。

 それに気付いたシルヴィアだったが、見なかったことにしてリリアンを促す。


「お嬢様、そろそろ朝食の準備ができた頃かと」

「そうね。行きましょう」


 そうして、そのまま居間へ向かった。

 しばらく鼻を啜っていたアルベルトは、執事ベンジャミンの差し出したハンカチで顔を拭いリリアンの後を追う。ドアの前まで来る頃にはすっかり涙は引っ込んでおり、何食わぬ顔で子供達の前に出る。ちょっと目元と鼻が赤くなっているが、いつものことだ。誰もそれについては何も言わず、朝の挨拶を交わすと、朝食が始まった。

 いつも通りの何の変哲もない、ヴァーミリオン家の朝である。

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