第6話 コーヒーと、キャラメルシフォンケーキ

「今日から配属されました、綿貫です! よろしくお願いします」


 皆の前で元気に礼をする青年に歓迎の拍手を送りながら、ああ、ゴールデンレトリバーだなと、梨花は思った。


 背が高くて、茶色がかった髪はふわふわとカールして、柔らかそうだ。


 肌も白いし、瞳の虹彩の色も薄い。


 何よりにこにこと人懐っこそうな表情が、レトリバーを想起させた。


「新卒の研修をかねたローテーションで、今月はうちの課だ。嘉洋、頼むな」


「はい」


 ずっとうちの課にいるわけではない。よって、仕事の手順まで覚える必要はない。

 ただし、仕事内容の要点はつかんでいってほしい。

 彼がどの部署で働くにしても、他部署の仕事内容を理解しているかしていないかの差は大きい。お互いに。

 そういうことだ。

 課長の意を汲んで、梨花は頷いた。


 綿貫の前に歩を進め、右手を出す。


「嘉洋です。よろしくね。実務を通して仕事の流れを見ていってらうから、しばらくは私の仕事に一緒についてください」


「よろしくお願いします」


 綿貫はそう言って、大きな手で梨花の手を握り返した。

 尻尾があれば、ぶんぶんと振っていそうな笑顔だった。




「じゃあさっそく────」


 綿貫と一緒に、本日のスケジュールを確認しようとしたところで、背後から声をかけられた。


「あ、り……かようさん」


 振り向くと、梶田がいた。

 不意打ちの出現に心拍があがるけれど、それを誰にも悟られたくなくて、平静を装う。

 ここはにこりと笑って、会社用の挨拶だ。


「おはようございます」


「おはよう。お取り込み中のところ、ごめんね。ちょっと、嘉洋さんをお借りしても良いかな?」


 後半は、綿貫への声かけだった。


「どうぞどうぞ、メールチェックでもしてますので」


「ごめんね、綿貫くん。ちょっと待ってて」


 梨花は席をたち、梶田について通路に移動した。


「この間の企画書のデータなんだけど────」


「あ、はい」


「深くまとまってて、よかったよ。ついでに付けてくれた参考データも役立った。クライアントにも好評だったよ」


「よかったです。それで────」


 じっと、梶田の顔を見た。何かいつもと違う感じがするのは、気のせいだろうか。


「うん?」


「何か、別にお話があったのかなって」


「あ〜、うん。それね。うん」


「?」


 歯切れの悪い梶田に、首を傾げる。


「コーヒー」


 と、梶田はぽそりと言った。


「コーヒー。入れましょうか?」


 飲みたいのだろうか。


「や、じゃなくて、コーヒーの美味しいお店見つけたから、今度の週末行きませんか。ほら、モーニング部の活動として」


「モーニング部ですね。了解です」


 くすくすと梨花は笑った。部員は今のところふたりだけだ。


 しかし、本当にそれだけだったのだろうか。

 さっきの梶田の表情は、もっと何か言いたそうに見えたのだけれど。


(困ったような、相談があるような、そんな雰囲気を感じたけど……本人が切り出さないのに根掘り葉掘り聞くのも無粋よね)


「あ、そうだ、今日はお弁当いらなかったですよね?」


「うん、取引先との会食だから────」


 そう、残念そうに笑ってくれることを、嬉しく思う。

 梨花は手を振って、仕事に戻ることを示した。


「じゃあ、また明日」


「うん、ありがとう」


 去り際の梶田の顔に、やはりいつもと違う色を感じて、梨花はもう一度、心の中で首を傾げた。


 ……………………

 ………………

 …………



「いまの……営業部の梶田さんですよね」


 席に戻ると、綿貫がそう聞いてきた。


「そうね」


 さすが梶田、顔と名前が売れている。


「いつまでも支社にいるのが不思議な成績だって、本社で噂を聞きました」


「……そう」


 そうなのだ。


 トップクラスの成績を上げる人材は、本社に所属するのが一般的というのがこの会社の社風である。

 たとえ本人の要望があったとしても、いつまでも支社に居続けられるわけではない。それが会社組織というものだ。

 いつか、本社に戻ってしまうのだろうなと、そんな気は梨花もしていた。


 綿貫が、すっと梨花に顔を近づけた。

 小さな声で、内緒話のように言う。


「嘉洋さんと、梶田さんは、お付き合いされているんですか?」


「まさか! めっっそうもない! ありえないです!」


 若者のオブラートにつつまない無遠慮な問いかけを、梨花は慌てて否定した。大きな声になりそうなところを、ぐっとこらえて。


 小声とはいえ、誰が聞いているかもしれないのに、やめてほしい。


「そうですか? お似合いだと思ったんですけど」


「違うから……」


 私が、勝手に意識しているだけで。

 そんな事、いえないけれど。


「さ、仕事しましょ!」


「なんかすみません、変なこと聞いて。あ、そうだ、梨花さん。俺このへんのお店知りたいんで、よかったらランチご一緒してくださいよ」


「いいですよー。まずはこれ、やりましょうね」


 軽く返事して、今日使う資料を綿貫の前にどさっと置いた。


 とにかくこの話題を終わらせよう。

 ランチは、穴場の店に行こう。

 会社の人と、会わなそうな。


 まぁ、でも今日は、お弁当もない事だし。

 もともと、外に出て食べるつもりだったのだ。


 梶田とお弁当を食べはじめてから、ひとりの日はお弁当を作らなくなった。


 ひとりで食べるお弁当は、何だか味気なく思えてしまうから。


(……あれ? 私、綿貫くんに下の名前教えたっけ……?)


 さっき、さりげなく、下の名前で呼ばれたような。気のせい、だろうか。


 企画部の文書は他部署もよく目にするから、どこかで梨花の名前を見たのかもしれない。


 嘉洋という姓は、珍しいし。


(まぁ、いいか)


 穴場だけれど美味しいランチを提供してくれるお気に入りのお店を頭の片隅に思い浮かべながらも、梨花の意識は仕事に没頭していった。



          ◇



 いつも、あまりひと気のない通りなのだ。


 大通りから離れており、立地的に集客力が乏しいのだろう。

 シャッターの降りた店も多くあり、さびれた印象が拭えない。


 そんな通りからさらに細く薄暗い路地を入ったところに、その店はある。


 年季の入った木造の建物は、店舗らしくない作りで、一見、ただの民家に見える。


 中の見えないすりガラスの引き戸の横には、ブーっと鳴るタイプの懐かしい呼び鈴がついていた。

 もとは白かったであろうプラスチックのボタンは、使い込まれた年月のぶん黄ばんでいて、マジックで使用禁止と書かれたテープが上から貼られていた。


 かろうじて軒下にかかっているのれんが、店舗である事を主張する唯一のアイテムである。


 藍染めののれんには、「一」の一文字が白抜きで。


 当然のように軒先にメニューなど掲示しておらず、一見の客には入りづらいことこの上ない。


 しかし長年この地で営業を続けているということは、固定客がそこそこついているのだろう。


 梨花だって、そのうちの一人であるのだし。




「へー! ほんと、隠れ家みたいですね」


 きょろきょろと店内を見回して、綿貫が言う。


 店に近づくごとに不安そうな表情を濃くしていた彼だが、店内の客の入りをみて、少し安心したようだ。


 平日のランチタイム。表に並ぶ客こそいないものの、いくつか並んだ4人がけのテーブルはほぼ満席。


 梨花は席についた人々をさりげなく見回し、ちらりとその顔ぶれを見るけれど、見覚えのある人間はいなさそうだ。


 そういえば、知り合いを連れてきたのは初めてだった。


「隠れ家っぽくて、良い感じでしょ? ここ、なんでも美味しいですよ────」


 定食の種類も豊富だし、夜用の支度があれば、昼でも単品も注文できるのだ。


 壁には所狭しと、料理名の書かれた木札がかかっていた。


 メニューブックには載っていないのに、木札には名前のあるメニューなんかもあるので、見落とせない。


 カキフライも美味しそうだし、回鍋肉も気になるな。


 しかし今日の梨花はもう、何を頼むか決めていた。


 会社を出る前から、決まっていたので。


 綿貫のほうに、メニューを渡した。


 ……。


 優柔不断、だろうか。


 綿貫は考え込んだまま、黙ってしまった。


 しばらくメニュー表のあちこちに目線を迷わせたあと、決めきれずという顔で梨花を見た。


「特におすすめってありますか?」


「おすすめはねぇ、アジフライ定食かな」


 肉厚のアジフライ。

 

 梨花のイチオシは醤油だけれど、お好みでソースでいただくのも良いし、お野菜たっぷりの自家製タルタルも、また美味しいのだ。


 揚げたてをサクっとかじる幸せは、ぜひ味わってほしい。


「じゃ、それにしようかな────。もう決まってます?」


「私もアジフライ定食。それとねぇ……」



          ◇



「お待たせしました」


「ありがとうございます」


「おー、うまそう!」


 やってきた定食に、綿貫が子供のように顔を綻ばせた。


 揚げたてのアジフライのお供には、こんもりと盛られた千切りキャベツとレモン。


 お味噌汁の具はわかめとお揚げ。


 まわりをかためる小鉢には自家製のタルタルソースと、お新香。そして割り干し大根。


 そして────。


「俺、深川飯って初めてです」


 ふたりとも、ごはんは白米ではなく深川飯に変更していた。

 ごはんの種類を選べるのも、このお店の良いところだ。


 ぷりっとしたあさりが、米の間からのぞいている。

 他の具はにんじん、油揚げ、細めのささがきごぼう。

 ふわりと香る生姜が、また食欲をそそるのだ。


「美味しいですよー。ここのは炊き込みごはんタイプだけど、他のお店だと汁気のあるタイプもあるみたい。本場で食べたことはないんですけどね。一度食べてみたいですよね」


 何気なく言った一言を、綿貫が拾う。


「行きましょうよ、今度!」


「え」


 しまった。

 そんなつもりではなかったので、驚きがそのまま口から漏れてしまった。

 こういうところが梨花の、なんというかポンコツなところであると自覚している。


 案の定、綿貫は「あっ」とした顔をして、付け足した。


「会社の人も、誘って」


 なんだか気を使わせて申し訳ないなと思いながら、梨花は頷く。


「そうですね、また今度」


 悪気はない。


 悪気はないのだけれど、昔から円滑なコミュニケーションが得意ではない。


 こんな時、沙月や梶田だったら、相手に嫌な思いをさせずに盛り上げられるのだろうな、と申し訳なく思う。


「えー、その感じ、実現しないやつじゃないですかー」


 綿貫は綿貫で正直者である。


 でもその反応は場を和ませるという意味ではアリなのかもしれない。

 本人のキャラにもよるけど。

 梨花には使えない技である。


「まぁ、仕事帰りにって距離ではないですけどー」


 おどけたように言う綿貫のおかげで、その場が気まずくならずに済んだ。

 

「さっ、食べましょ食べましょ」


 と、梨花は割り箸をとった。

 脳内でのひとり反省会は後にしよう。

 せっかくのアジフライが、冷めてしまってはいけない。


「あ、梨花さん、どうぞ」


 綿貫が、テーブルの端にあった醤油差しを梨花によこした。


「ありがとう」


 当たり前のように受け取ってから、少し遅れて違和感が脳に届いた。醤油をかけようとした手が止まる。


「どうして、醤油ってわかったの?」


 梨花はテーブルの端に置いてけぼりの、ソースの容器を見つめて言った。


 いたずらっぽく笑って、綿貫は言う。


「考えてみてください」


「え────」


 戸惑う梨花に、綿貫はさらにこう言った。


「思い出してくれたら、ご褒美をあげます」



          ◇



 美味しそうなアジフライを前に一旦箸を置き、梨花は口を閉じて思案する。


 どんな可能性があるだろうか。


 たとえば、幼馴染。


 綿貫のような幼馴染が……いや、いないな。


 転勤族とまではいかないが、子供の頃に引っ越しは経験している。

 少ないながらも、それぞれの土地で、仲の良いご近所さんはできた。

 しかし近所に住んでいた馴染みの子は、誰も女の子だ。


 たとえば、昔同じクラスだった。


 浪人や院卒や海外留学など、学年が同じでも入社時期が違うことだってありえるだろう。

 机を並べていたのが何十年も前なら顔も変わっているだろうけれど、どこかに旧友の面影はないかと綿貫の顔をじっと見つめる。


 うん、絶対に年が違うな。

 梨花とは、肌のハリが違うもの。


 たとえば、親戚の子。


 いまでは行き来もなくなったけれど、おばあちゃんが存命のころはまだ多少の親戚付き合いもあったのだ。

 遠い親戚の子供が、彼という可能性は────


(ま、違うよね)


 それならそうと、もっと早く言うだろうし、綿貫という姓に覚えはない。




「降参。教えて」


 梨花は両手をあげた。

 ふふっと笑って、綿貫は懐かしそうに遠くを見る。


「地方から東京の大学を受験して……上京したばかりの頃、定食屋に入ったんです」


「ほうほう」


「その日、俺、誕生日だったのに、朝から最悪で」


「うん」


「いや、その頃はもうずっと、いろいろ最低で。メンタルやばくて。食欲も無かったんだけど、何か食べないと本当にダメになりそうで。通りがかった店から良い匂いがしたから、ふらっと入ったんです」


「あ────」


「入ってすぐ、注文する前に、財布を持ってない事に気づいて。慌てて謝って出ようとしたら、可愛いお姉さんに止められて」


「あああ?!」


 思い出した。


「あそこでしょう、『まさや』!」


 梨花は勢いあまって、綿貫のほうに指をさしてしまった。

 すぐに恥入り、膝の上に手をしまう。


 綿貫は笑って、誰かのセリフを真似して言った。


「おいしくて、参ってしまう」



          ◇



 ────彼と会ったのは、偶然だった。


 たまたま、まとまった休みをとって、のんびりしていた日だったのだ。


 学生時代、梨花は大学の近くの部屋に間借りしていた。

 気のいい夫婦がオーナーの物件で、一階は夫婦が営む定食屋、2階には夫婦の住居、3階を下宿人に貸していた。


 梨花がその部屋を出たのは、新卒で就職した時。


 会社に近い谷底アパートに引っ越した後、その日がはじめての訪問だった。お世話になった夫婦のところに、近況報告をかねて食事しに来たのだ。


 食事をしにきただけのつもりだったのだけれど、どうも旦那さんの顔色がおかしい。聞くと持病の椎間板ヘルニアが再発してしまい、腰の痛みで思うように動けないという。


 そんなことを聞いてしまって、そうですかで終われる性格の梨花ではない。

 梨花は、ランチタイムの間だけでも手伝うと申し出たのだった。


 13時をすぎて、スーツ姿の客たちがぞろぞろと帰っていった頃だった。


 ガラリと戸が開いて、高校生くらいの男の子が入ってきた。


 彼は敷居を跨いですぐに、ジーンズの後ポケットを触り、顔色を変えた。


 もともと悪かった顔色に、慌てたような色が混ざったのを、梨花は見逃さなかった。


「すみません……」


 小さくそう言って出ようとする背中にかけ寄り、思わず手をつかんでいた。


 彼が、そのまま消えそうに見えてしまって。




「試食……しません?! アジフライ好き?!」


 何か食べさせなければ、道端で倒れるのではないか。


 そう思って引き留めたのだけれど、頭の中にあったのは昼の賄いのアジフライの事。そのまま、口から出てしまった。

 試食というのは、気を使わせないために捻り出した方便だ。


「え、好き……ですけど、あの、すみません、俺、財布忘れてしまって」


「大丈夫、試食だから! 他のお客さんもいないし、今!」


「え、あ」


「とりあえず座って!」


 戸惑う男の子を、半ば強引に座らせたのは覚えている。


 しかし、彼の背格好までは、全然覚えていなかった。



          ◇



「梨花さん、俺が顔色悪いから、食べられるならとにかくご飯食べろって、奥さんとふたりでいろいろ出してくれて」


「途中から、みんなで賄い食べたのよね」


「見ず知らずの他人の話を、皆真剣に聞いてくれて」


「そうだったね……」


「おいしくて参ってしまう、ですよね」


「言った! 言ったわ……。あれから私すごく反省したのよ、悩んでいる人にうんちくなんて語ってって」



          ◇



 彼の前に、アジフライの乗った皿を置いた。


 弱々しく箸をとって、しかし礼儀正しく「いただきます」と手を合わせて言う男の子。


(食べる力があるなら、大丈夫)


 彼の様子をうかがいながら、梨花は言った。


「……アジって、名前の由来には諸説あるらしいんですけど。『おいしくて参ってしまう』から、魚に参って書くって説もあるんですよ。だから、なんていうか、参っちゃうくらい美味しいもの食べて、ゆっくりお風呂に入って、ぐっすり寝る! そしたら、次の朝は少しだけ体が軽くなると思います、きっと」


 梨花の言葉に、彼はうつむき加減で頷いて、味噌汁を口に運んだのだ。



          ◇



 そんな事があった事すら、梨花は今の今まで忘れていたけれど。


 スーツ姿の綿貫は、にこにことした表情を崩さずに首を振った。


「助かったんです。本当に助けられた。梨花さんの言葉と、行動に」 




「そんな、大した事は、何も」


「そんなもんです、人が救われる瞬間って。大袈裟な事だけじゃ、ない」


 ふふっと笑う綿貫。

 その表情に、背中を丸めて消え入りそうだった男の子の面影は、微塵もない。


「そうそう、その時、梨花さん、アジフライには醤油がいちばんだと力説してましたよ」


「そうだっけ……」


 懐かしそうに話す綿貫の言葉に、梨花はぱちぱちと瞬きをした。


 言われてみれば、そんな気がしないでもないけれど。

 というか、誰かとアジフライを食べる時には毎回言っているかもしれない。

 

 綿貫は、覚えていたのか。


 一度食事しただけの、梨花の顔まで。

 

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。




「元気になってから、礼を言いに行ったんですよ? そしたら、てっきりそこの店員さんかと思ってたのに、お客さんってわかって。しかも引っ越したからなかなか来ないよって」


「ああ、うん」


 仕事が忙しくなったのもあり、なかなか顔を出せずにいた。


「もう会えないかと思ってたのに、社内報で見て、びっくりしました」


「ああ、新入社員向けのメッセージ……」


 総務部の同期に懇願されて、受けたのだ。

 梨花の人生で最初で最後であろうインタビュー。


「あれ以来、俺もアジフライには醤油派です。人生でいちばん美味いアジフライだったから」


 目の前で笑う綿貫はとても穏やかで、人好きのする表情を浮かべる。

 

 何も知らなければ、恵まれた人生を送ってきた青年に見えただろう。


 どんな過程を経て、いま現在に至るにせよ、本人の努力の積み重ねがあった事は想像に難くない。


「……立ち直った?」


「はい。すっかり」


「よかった」


 あの時呼び止めたのは、ただの自己満足だ。


 そのまま声をかけなければ、後になって、もしかしてという気持ちがむくむくと育ったであろうから。その後の便りを知りようもない彼が、人知れず倒れたりする姿を想像して、それが梨花の杞憂であったとしても、やきもきしただろうから。


 少し未来の自分自身の、不安と心配の芽を摘み取っただけだった。


 そんなに感謝されると、かえってなんだか居心地が悪い。


 とりあえず食べようかと、醤油を少しかけた。箸をとり、アジフライを持ち上げる。


 少しだけ冷めてしまっているのに、なんだかいつもより美味しい気がした。

 



 食後の緑茶を飲みながら、ひと息ついた。


 そろそろ会社に戻った方が良いかなと、腕の時計をちらりと見る。


「梨花さん」


「はい────」


「好きです」


 お会計しましょうか、くらいの気軽さで、綿貫はそう口にした。


「ひゃいっ?!」


 思わず奇声を上げた梨花を、変わらずにこにこと見ている。


 なぜ梨花だけがこんなに動揺しているのだろうか。


 思わず周りを見回してしまった。

 まわりの人々は自分たちの食事や会話やスマホに夢中で、こちらには気も止めておらず、少しほっとする。


「え、それはなんていうか」


 弱った時に優しくされた、刷り込みではなくて?


 謙遜してそんな事を言ってしまいそうになり、すんでのところで飲み込む。


 綿貫の気持ちは綿貫だけのものである。梨花にだって、綿貫の気持ちを否定する権利などないのだ。


「いや、ごめんなさい」


 そう言ったのは梨花ではなく綿貫で、


(え、私、答える間もなくフラれた?)


 と、混乱の極みだ。


「ドッキリ?」


 と、訝しみながら聞いてしまった。


 綿貫はハッとした顔の前で、ぶんぶんと両手を振った。


「いや、違います! ふざけてるわけじゃなくて! 困らせたいわけじゃないって意味の、ごめんなさいというか。俺は見返りを求めてるわけじゃないんです。梨花さんのことを想ってる後輩がいるって、知っててほしかっただけで」


 あ、はじめて動揺したな、綿貫君も。

 そう思って、一気に肩の力がぬけた。


「うん。わかりました。ありがとう。気持ち、嬉しいよ。本当に。あの時の彼が、こうして元気でやってるんだって、教えてくれたことも、嬉しい」


 綿貫は、眉を下げて笑う。


「正直、迷ったんですけどね。ローテーションが終わったら、どこに配属されるかわからないし。ここだったら会社の人もいなさそうだし。このチャンスを逃したくなかったんです。それに────」


「うん?」


「梨花さんには、梶田さんがいるから。わかってて、それでも言いたかっただけなので」


「ななな、なんでここで梶田さんが」


「え、梨花さん、好きですよね?」


「え、いや、え?」


「好きですよね?」


「ええ、ほら、その」


 綿貫の圧が、梨花を追い詰める。

 困らせたいわけじゃないといったその口で、なかなかに詰めてくるではないか。


 むう、と口を尖らせたら、とっても嬉しそうに吹き出された。心外である。


「冗談です。言わなくていいです。あ、俺がそう思ってるということは冗談ではないですけどね。梨花さんの口からその言葉を聞くのは、俺じゃなくて梶田さんですから」


「はい……」


 痛いところをつかれたような気分で、思わず言ってしまった。


「ははっ、認めるんですか」


 綿貫は本当に楽しそうだ。

 梨花は頭を抱えた。


「もう、先輩をからかわないで。威厳も何もあったもんじゃないわ」


「そんな事ないです。俺はきっと一生、梨花さんに頭が上がりません」


「そんなこと……」


「あ、梶田さんよりは出世するつもりで仕事は頑張りますけどね?! 俺がいくら出世しても、梨花さんはいつまでも大切な先輩ですからね、ピンチの時は職権濫用しても馳せ参じますからね、安心してください」


「職権濫用はしちゃだめだよ」


「大丈夫、法は守ります」


「もう」


「梨花さん」


「はい」


「幸せ、つかんでくださいね。つかめなかったら、俺が捕まえますけど」


「……肝ニ命ジマス」



          ◇



 パソコンのモニターの電源をつけたとき、右肩をぽんと優しく叩かれた。


「おかえりなさい」


「あっ、沙月さん」


 振り返ると、そこにいたのは先輩の沙月だった。

 にこにこと笑顔の沙月は、手に持った書類をひらひらと揺らし梨花に見せた。


「梨花ちゃん、この書類なんだけどさ────」


「あ、はい」


 文面に視線をやり、おや、と梨花は首を傾げた。


「? 沙月さん、この書類は先月の────わわっ」


 ぐいっ、と肩に腕をまわされ、椅子の上でバランスを崩しそうになる。

 一体どうしたのだろうと思っていると、押し殺した声で沙月が言った。


「これはダミー。ねぇ、ダークホースが登場したの?」


「はいぃ?」


 何のことだかさっぱりだ。


 沙月は手に持った書類で、机の向こうを指し示した。


「あれよあれ。あの若い子。ああいうのが良いの?」


 その先にあるのは────課長と話す綿貫の姿。


 課長のことを言っているのでなければ、綿貫の事なのだろうな。


「ちちち、違いますよっ! ランチに行ってただけですって」


 一緒に出ていく姿を、見られていたのだろうか。

 まぁランチくらい、課長とだって行ったこともあるけれど。


「梨花ちゃんたら、梶田君というものがありながら……」


 と、しなをつくる沙月は、完全におもしろがっている。

 大好きな先輩だけれど、こと恋愛事をかぎつけるとテンションが上がるのはやめてほしい。


「それも違いますしっ!」


 そんなに強く言ったわけではないのに、沙月がぱっと手を挙げて離れた。


「あ、ごめんね」


 と言う沙月の視線は、梨花の頭を通り越して、もっと上の方を見ていた。


「え?」


 振り返ると、なんとそこに梶田が立っているではないか。


(いつから?!)


 驚きで言葉が出てこない。


 梨花が金魚よろしく口をぱくぱくさせていると、梶田はバツが悪そうに手に持ったスマホを差し出した。


 ────梨花の。


 水色のスマホケースには、少し前に気に入っていた、ゆるキャラのストラップがついている。これを見て梨花のものだと判断したのだろう。


「あ、お取り込み中のところすみません。スマホ鳴ってたんで、お届けした方が良いかなって────」


 と、梶田が言う。

 さっき、給湯室でお湯の補充をした時に、置き忘れたらしい。


「あっ! ありがとうございます!」


 梨花はスマホを受け取り。着信を確認して、かけ直すので失礼しますと断って、その場を離れた。



          ◇



「なんかごめんね、あのセリフはただの脊髄反射だと思うわよ」


 梨花の背中を見送った後、沙月は梶田に声をかけた。


「や、そっちは気にしてないんですけど。待ち受けの写真が、咄嗟に、目に入っちゃって。うーん」


 どうしたものかな、と、顎を触る梶田に、問いかけの視線をむける沙月。


「?」


「待ち受け。梨花さんと、シルバーっぽく染めた髪の、若いイケメンが写ってました。なんか音楽とかやってそうな」


 複雑そうな顔で言う梶田。誰なのか気になると、その顔に書いてある。


「二人だけの写真?」


「いや、なんか着物の美人と、女の子と────」


「親戚とかじゃないの?」


 もっともらしい沙月の予想も、梶田を納得させるには弱かったようだ。


「ですかね……。あ、わざとみたわけじゃ」


「わかってるわよ」


 そうねぇ、と沙月は呟いた。

 何か思いついたようにニンマリとする。


「ねぇ、スッキリする方法、おしえてあげようか」


 期待のこもった梶田の視線に胸を張って、沙月は言葉を続けた。


「告白する。うまくいったら万々歳だし、うまく行かなくてもスッキリしない?」


 がっくり、期待外れだと言わんばかりに、梶田は首をたれた。


「前半のみ同意します」


「思い切りが無いわねぇ」


「ほっといてください」


「いつまでも、まわりがほっといてくれるとは限らないわよ」


 そう言う沙月の目線の先を、梶田もまた捉えていた。


「あぁ、ですね」


 綿貫、といったか。若手の中でも、上司たちの覚えの良い彼。梨花と一緒にビルに入るところを、梶田は見ていた。

 おおかた、ランチにでも行っていたのだろう。

 同僚とランチくらい、誰だって行く。


 そんなことで心乱される自分がいるだなんて、認めたくは無いけれど。


「────仕事に戻ります」


 そう言って歩き出した梶田の背中に、沙月は呟く。


「まったく、真面目ねぇ」



          ◇



 今日は定時上がりだったから、買い物をして帰ってきた。と言っても、お米や野菜は大半が大家さんからの支給なので、大した量の荷物ではない。

 荷物をキッチンに置いて、着替えの為に自室に戻る。


 スーツから部屋着に着替えながら、ひとりごとが口からこぼれた。


「ああ、そうだ。明日────」


 最近、休日は予定が入っていたから、後回しになってしまっていた。

 でも、そろそろ。受け取りに行こう。


 おばあちゃんとお揃いの、桜模様の湯呑み茶碗。


「コナ、いるかな」


 突然行っても良いよと、コナは言ってくれていたけど。やっぱり一言断りを入れてからのほうが、梨花の性には合う。


「……────あした、湯呑み茶碗を受け取りに行くね。……っと」


 メモ用紙にしたためて、小さく折る。

 折った手紙を、水色のガチャガチャカプセルの中に入れた。

 つい可愛くて課金してしまった、ゆるキャラストラップが入っていたもの。


 なんとなく捨てずに置いていたカプセルが、まさかこんな使い方をされるとは。

 カプセルだって、驚いていると思う。


 襖を開けて、暗く続く階段の上に、それを投げた。

 暗闇に吸い込まれたカプセル。

 音もなく、文字通り消えていった。


「これで、よし」


 そっと襖を閉じ、キッチンへ向かう。

 晩ごはんの段取りを考えながら、お湯を沸かして、マグカップを棚から取り出した。


 まずはミルクたっぷりのカフェオレでも飲んで、ほっこりしよう。


 考えることが、たくさんあるから。



          ◇



 ────たん、たたん


 梨花は小さな窓から、次々と落ちる雨粒を見ていた。


 雨の音を聞くと、そちらに意識がひっぱられる。


 激しい雨は苦手だけど、静かな雨の音はむしろ好きだ。


 雨音のリズムに合わせて、心がゆっくりと息をする感覚にひたれるから。




「────迷子みたいな顔してる」


 梨花の顔を覗き込むようなしぐさをして、コナが言った。

 コナの店の二階。テーブルをはさんで、ふたりは座っていた。


「……そう?」


「何かあった?」


 と、首を傾げるコナに、梨花は下を向いて、歯切れ悪くこぼす。


「あったというか、これからというか」


 なんといったら伝わるのか。


 どう言葉を選んでも、なんだか違うニュアンスになってしまいそうで。


 梨花はしばし悩んだあと、諦めて質問を返すことにした。


「コナはさ、好きな人、いるの?」


 そう問うと、コナの顔がぱぁっと明るくなった。


「いるよ! パートナー」


 弾む声と、こぼれる笑顔。その表情だけで、相手のことをどう想っているのかがわかる。


「どんな人? どうして好きになったの?」


「えー? 恥ずかしいなぁ。うーん。気づいたら、だよ。一緒に過ごす時間がふえて、それでも自然な自分でいられたというか」


「自然な自分、かぁ」


「ああ、でもそうだな────。ちょっと違うかも。自分らしく、変わらずいられると、思ったんだよ。でもそれは間違いだった」


「え────」


 どういうこと? と目で問いかける梨花に、コナはシシッと笑って言った。


「いつのまにか、一緒にいることが当たり前になってた。すごく自然に、そんなふうに変わってた。彼と一緒にいない自分が、想像できないくらいに」


「彼と一緒にいない、自分……。そうかぁ」


 なんだか梨花の方が照れてしまい、机に突っ伏した。頬がひんやりして、気持ちいい。


「なぁに、さては例の彼と進展があったのー?」


 楽しそうな、コナの声。梨花は顔を上げて首を振った。


「ううん、全然。好きだって、自覚はあるんだけど。次の一歩が、怖い」


 こんなに素直に言えるのは、コナが異世界の住人だからだろうか。


 梶田とは絶対に交わらない、異世界の。


 梨花は自分の言葉を、胸の中でした。


 そうだ、怖いのだ。ずっと。心地よい関係性が、変わってしまうことが。


 ────たん、たたん


 梨花は窓についた雫を数えた。


 五をこえたところで、あとから降ってきた大粒の雨に上書きされる。


 雨が降っても、いつか空はまた晴れる。


 でも変わってしまった関係は、もう元には戻らない。



          ◇



 ピコン


 音と共に、枕元で小さな画面が明るくなる。


 今朝のことだった。


 スマホの通知が鳴ったのは。


 寝ぼけ眼でスマホのロックをはずし、メッセージを開き────目が覚めた。


 梶田から、モーニングのお誘いだった。


 ────魯肉飯ルーローハンとチャイの美味しい店見つけました! 

 ────週末、モーニングいかがですか? モーニング部員より


 そんな他愛ないメッセージに、一喜一憂する自分がいる。


 布団の上で正座して、時間をかけて返事をかく。


 冷静になれと、自分の中で理性が囁く。


 しかし、無理な話だ。


 うるさいくらいの心臓の音すら、梨花の思い通りになんてなってくれない。



          ◇



「いいじゃん! デート楽しんでおいでよ」


 コナの言葉に、うーん、と頭をかかえてしまう。

 贅沢な悩みだと、自覚はあるのだ。


「告白、しようかとも思ったの。でも、失敗、したら」


 きょとん、と、コナは目を丸くした。コナの思考とシンクロするように、しっぽがゆらゆらと揺れている。


「よくわからないけど、失敗したら、すべてが消えてなくなるの?」


 あっけらかんとした物言いに、今度は梨花が目を丸くした。


「え────。なくなりはしないけど、断られたら……。気まずくない?」


「そーお? 何度でもやり直したら良いじゃない。少しずつ成功に近づくよ。そもそも、なんで断られる前提なのよぉ、嫌いな子を誘ったりしないって」


「うーん、ほら、嫌いではないけど友達どまりとかさ? もし奇跡的に付き合ったとしても、何か違うかったって思われたら、とか、ぐるぐる考えてしまって。今のままのほうが、むしろ良いのかもって」


「えぇ〜?! そんなの、そうなってから考えたら良いよ」


 梨花は心配しすぎだよ、とコナは言う。


「うーんと、そうだなぁ」


 コナは宙を見て考え込む。しっぽだけが、ゆらゆらとバランスをとっている。

 しばらく考えたあと、コナはゆっくりと話し出した。一つ一つ、言葉を選ぶように。


「……かたちがないから、つかみにくい。思ったようにも動かない。


 それが、人の気持ちでしょ?


 伝えないと、絶対に、伝わらない。


 そんなつもりじゃなくても、勘違いされる事もあるよ?


 だから、精一杯伝えるんだよ!


 やるだけやったらさ、後悔しても、清々しいじゃない?


 ────きっとさ、カヨだったら、そう言う」


 コナは立ち上がって、背後の棚を開く。


「もとのままのかたちも、きっと良い物なんだろうけどさ────」


 白い手袋をつけて、棚の中から、桜模様の湯呑みを取り出した。


 コナの手でそっと机に置かれた湯呑みは、欠けていたところが修復されている。


 梨花のイメージする金継ぎよりも、もっと白っぽく、柔らかい色合いの素材が使われていた。

 こちらの世界の、素材なのだろうか。


(まるで桜にかかる霞が、太陽に輝いているみたい)


 梨花の顔を見、にやりと笑って、コナは言った。


「新しいかたちは、お嫌いかな?」


 ううん、と梨花は首を振った。

 一目で、気に入ったのだもの。


「とっても、素敵だわ」



          ◇



 梨花は、目的の店の最寄駅に降り立った。


 南口の改札を出て、あたりを見回す。


 仕事で一度立ち寄った記憶はあるけれど、プライベートで来たことはなかった。


 駅前にはバスのロータリーを囲むように、チェーンのお店やコンビニ、コーヒーショップ、ベーカリーなどが並ぶ。

 先程から空腹の梨花の鼻をくすぐってくる美味しそうな匂いの犯人は、あそこだなと、ガラス越しに並んださまざまな形のパンを眺めた。


 土曜日だからだろうか、スーツを着た人の姿はまばらだ。

 近くの大学の学生だろうか、数人の若者グループがところどころで談笑していた。


 繁華街というには活気が足りず、しかし住宅街というには人が多い。


 このあたりは地価もさほど高くなく、少し駅から離れれば、中小企業のビルも多かったはずだ。


 勤め人の多いエリアのお店は土日のランチはやっていない事が多いけれど、今日行く店は大丈夫。梶田から店名を聞いていたので、下調べはちゃんとしてきた。


 魯肉飯のモーニングなんて、初めてで、楽しみがすぎる。


 しかしその至福を味わう余裕がはたして梨花にあるのだろうかと、脳裏にチラつく雑念にため息をついた。


(落ち着くのよ。まずは美味しいご飯を楽しみましょう。タイミングというものもあるわ。気持ちを伝えるのは今日じゃなくても────)


「お待たせしました」


「わっ」

 

 手に持っていた日傘が、音を立ててアスファルトに落下した。

 梨花が拾うまもなく、梶田が手に取って渡してくれる。


「ごめんなさい! 驚いて────」


「いや、こちらこそ」


「違うんです、考え事を────いえ、何でもないです」


 これ以上、墓穴は掘れない。


 次の言葉を探していると、梶田がにっこりと目を細めて笑った。

「今日は────爽やかですね」


 ああ、洋服のことか。


「例のお友達のです」

 梨花はワンピースのスカートの端をつまんで言った。


 洋服係の五味が作ってくれた、深緑のノースリーブの膝下ワンピース。ベージュの糸でステッチが施してあり、カジュアルなお出かけにぴったりだ。

 二の腕を出したままだと落ち着かないので、手持ちのカーディガンを羽織ってきた。


 手首に添えたブレスレットは、コナがくれたもの。願い事が叶うお守りのようなものだと言っていた。

 淡い薄緑色の小さな石がひとつ、日の光を反射している。


「よく似合ってます」


 そう言って、よし、と、梶田は梨花に笑いかける。


「行きましょうか」


「はい」


 心臓の音もお腹の虫も今日は大人しくしていてね、と祈りながら、梨花は日傘を広げた。



          ◇



「中華粥と、鶏肉のスープもありますね。どうしますか?」


 モーニングのメニューを広げて、梶田が言う。


 こじんまりとしたお店だった。

 人の入りは半分くらい。

 おひとりさまも、カップルも、思い思いにくつろいでいる。


 梨花はメニューにひととおり目を通して、うん、と頷いた。


「魯肉飯で!」


 やはりここは、初志貫徹でいこう。


「チャイで?」


「チャイで」


「了解です」


 梶田が手を上げて店員を呼ぶ。


「魯肉飯とチャイのセットを、ふたつ」


「はい。チャイのお砂糖は入れていいですか? 抜きもできます」


「あ────、どうします?」


「私は、お砂糖半分で」


 初めてのお店だし、ひかえめにして様子見だ。

 甘い飲み物は好きだけど、甘すぎる飲み物はあまり好きではない。

 シロップをよく使うシアトル系のコーヒーショップにも、足の向かない梨花である。


「俺は普通に入れてください」


「かしこまりました────」




「梶田さん、甘いものお好きですよね」


「意外とって、よく言われます」


 鼻の頭を掻いて、梶田が言う。


 そう思ったから口から出ただけで、梨花は決して悪い意味で言ったのではなかったけれど、何ぞ勘違いをさせてしまっただろうか。


「好きなものは好きで、良いと思いますよ。────意外、ですか?」


 特に意外ではない気がする。

 はて、と首を傾げる梨花を、楽しそうに梶田は眺めている。


「らしいですよ」


 過去の梶田に、それを言ったのは誰だろうか。


 梨花は思ったけれど、今度は口にはしなかった。




「お待たせしました。チャイ────お砂糖半分です」

「はい」


 梨花の前に、木のコースターと、チャイがたっぷり入った大ぶりなマグが置かれた。スパイスの香りがいい。


「こちらはお砂糖普通です────」

「どうも」


「魯肉飯とお漬物です────」

 机に並べられた丼には、つやつやのお米と、美味しそうなタレをまとった、ひとくちサイズの豚バラたち。

 モーニングの量にしては多いかなと思っていたけれど、今日はしっかりお腹が空いているから、食べられそうだ。

 高菜のお漬物と白たくあんも、小鉢にのってやってきた。


「いただきます!」


 まずは豚から行こうではないか。

 お米も一緒に口に運ぶと、口の中でトロトロと溶けた。甘辛のたれと八角の香りが、いい仕事をしている。


「美味しい────」


「ね。口コミで探したんだけど、あたりだね」

 梶田も満足そうに頬張っている。


「また来たいですね」

 自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。


 お気に入りのお店が増えていく。そんな未来が、ちらりとよぎった。


「チャイも、美味しいです」

 梨花は一息ついて、大きなマグを両手でもってチャイを飲んだ。


(うん)


 甘さ控えめにして正解だった。

 モーニングには、これくらいのほのかな甘みがちょうど良い。

 これでお砂糖半分ということは、通常でも甘すぎるということは無さそうだ。

 ティータイムに来た時は、通常でいこう。


 そんな事を思いながら、食事をし、談笑する。


 魯肉飯と、お漬物と、優しいチャイ。


 胃の中からじんわりと、あたたかさが広がるような朝食だった。




(……幸せだな)


 もっと緊張するかと思ったけれど、会ってみれば自然と笑えた。

 美味しいご飯を、味わう余裕があってよかった。美味しいねと、笑顔で話せてよかった。


 ────いま目の前にいるのが、この人でよかった。


 そう思ったら、無意識に梨花の口から言葉がこぼれた。


「梶田さん────。私、梶田さんの事が好きみたいです」



           ◇



「えっ────」


 梨花は、しまった、と思った。

 

 戸惑いを隠せない梶田の声に、我にかえった。


 こんな人目のあるお店の中で、言うつもりじゃなかったのに。


 ふたりともモーニングを食べ終えているのが、せめてもの救いか。


 もう、いつでも席を立てる。


 気まずくなったって、大丈夫だ。いや、大丈夫ではないのだけれど。


「ちょっと────ごめん、不意打ちすぎて、びっくりして」


 ごめん、という梶田の言葉に、梨花の肩がぴくりと反応した。


(間違えた。困らせちゃった。綿貫くんはすごいな、あんなにまっすぐ気持ちを伝えてくれた)


 それに引き換え、梶田の目も見られない梨花の体たらくよ。


 穴があったら入りたい。


 しかし勘のいい梶田は、間髪あけずにフォローをくれる。


「あああ、ごめんってそういう意味じゃなくて! えっとね、俺も梨花さんの事が好きだなと思ってたんだけど────」


(そうですよね、梶田さんは私の事なんて友達としか────って、え?)


 ちょっと意味がわからなくて、逆に冷静になれた。


 梨花が顔を上げると、今度は梶田が下を向いて────机に突っ伏していた。


「無理だ、いま、顔見れない」

 と、唸っている。


「無理……」

 梨花がおうむ返しに呟くと、


「いやだから、違うくて。待って」

 と、慌てて顔を上げる梶田である。


 その顔は耳まで真っ赤で、梨花は胸の辺りがきゅうと詰まるのを感じた。




「とりあえず、場所────変えようか」


 梶田が伝票を手にそう言うので、梨花も同意して鞄を持った。


 淡々と会計を済ませて、店の外に出る。


 少し前を歩く梶田の耳は、まだ少し赤い。


 梨花は話題の糸口を探すけれど、何を言っても上滑りしそうで、結局は口をつぐんだ。

 いい歳をした大人でも、慣れていない事態には弱いのだ。


「この近くに、昔ながらの喫茶店があって────」


 と、梶田が歩きながら、通りの奥を指差した。


「シフォンケーキとコーヒーが美味しいよ」


「いいですね」


 その味と香りを堪能できる余裕が梨花にあるかどうかは、置いておいて。


「マスターも……いい意味で無関心っていうか、ほっといてくれるから」


 あ、やっぱりさっきの話の続きはするんですね。

 なんて、思ってしまう。言い出しっぺのくせにね。


(しっかりしろ、梨花)


 皆の応援を思い出せ。


 何より、自分自身が、梶田のいる未来を欲したはずなのだ。


 梨花がもんもんと脳内会議をしていると、


「あの、確認なんだけど」


 と、梶田が疑問を噛み砕くようにゆっくりと、聞いてきた。


「梨花さんの言う、好きっていうのは、俺の思う感じのやつで、良いのかな」


 なんだか歯切れが悪い梶田である。

 梨花もよく知っている、この感じ。相手に勘違いされないように、言葉を選び選び話す、この感じ。


「つまり、その」


 ゆっくり小さく息を吐いて、梶田は思い切ったように口を開いた。

「俺は、梨花さんを彼女として扱って良いのかな」


「え?」

 と梨花が聞き返すと、


「え?」

 と梶田も驚いた顔をした。


 彼女。かのじょ。カノジョ。

 脳内を駆け抜けたその言葉に、やっと理解が追いついた。

 そうか、両思いのその先か……。


「あ、そこまで具体的に考えていませんでした……」

 うっかりそう言ってから、正直は美徳ではないぞ、梨花。と自問する。


「えええ?!」

 梶田の驚きように、慌ててしまう梨花。


 そりゃそうだ。この流れでそれはない。


「ちょっと……考えさせてください」


(しまった。また言葉のチョイスを間違えた。現実感がなくて気持ちが追いつかないというだけなのに)


「えっと────ですね、なんというか」

 口を開けば開くほど空回りしそうで、言葉が続かない。


「ちょ、ちょっと待って。落ちついて。落ちつこう、俺も」

 梶田がおもむろに深呼吸などし始めるので、梨花の緊張も少しほぐれた。


「できればなんだけど」

 と、前置きする梶田。

 その顔はいつもの落ち着いた笑顔で。


「ひとりで考えて結論を出すんじゃなくて、話そう、俺と。きっと梨花さんが思ってるより、俺は梨花さんの事が大切だから。つまんないすれ違いで、失いたくない。話そう」


 梨花はぱちぱちと瞬きをした。


 言葉はしっかりと耳から脳に伝えられているはずなのに、理解が追いつかない。


 これは現実だろうか。

 焦って空回る梨花に、呆れるどころか、こんなにも優しく。


「甘いものでも食べながらさ」


 ああ、この人を好きになってよかった。

 梶田の笑顔を見て、あらためてそう思う。


「はい。焦ってしまって。ごめんなさい。よろしくお願いします」


「うん、行こう。俺も────……聞きたいことがあったし。いいかな?」


「? はい」


「ああ、その前に。大事な事を忘れてた」


 コホンと、ひとつ咳払いをして、梶田はまっすぐに梨花を見た。


「好きです。俺と付き合ってください」


 そう言ってすぐに、両手を顔の前で振りながら、食い気味に言葉を被せてくる。


「返事は! あとで良いから。俺からも言葉にして伝えたかっただけだから。……もらいっぱなしじゃ、なくて」


「はい」


 なんだろう、梶田の優しさが渋滞している。


 梨花は笑って頷いた。


 お返しできる答えなんてひとつしかないのだけれど、梶田の言うように、ゆっくりと話をしてからが良いなと思ったのだ。

 この関係に、新しく名前をつけるのは。



          ◇



 お目当ての喫茶店が入っているのは、レトロな外観の商業ビルだった。


 ギリシャやローマ風の意匠をまとった、太い柱。重厚な雰囲気の建築物。


 梨花がじっくりと時間をかけて見上げていると、これは、と梶田が説明してくれた。


「昔の銀行を改装した商業ビルだそうです」


「なるほど」


 年代物の建造物。嫌いじゃない。むしろ好きだ。


 一階には喫茶店と家具店。上には雑貨屋や美容室なども入っているらしい。

 

 喫茶店の扉を押し開けると、どこか懐かしいベルの音が響いた。


 店内には、いまではなかなかお目にかからない、レコードのBGMが流れている。


 年季の入った建物であり調度品だけれど、手入れが行き届いていて、なんだか品格のようなものまで感じ取れる。

 自然と梨花の背筋が伸びた。


「いらっしゃい」


 そう声をかけてくれたマスターは、ロマンスグレーの髪をオールバックにした初老の男性だった。


 梨花と梶田は、奥のテーブルに座って、それぞれコーヒーとシフォンケーキを注文した。


 梨花はプレーンのシフォンケーキ、梶田はキャラメルソースのかかったシフォンケーキを。




「俺ね、あんまり恋愛に執着したことがなくて」


 梶田の自嘲するような言葉に、ふっと、梨花は真顔になった。


(それはつまり、いつ、気が変わるかわからないということ?)


「うん。絶対、勘違いしてるよね、その顔。最後まで、聞いてね」

 と、梶田は苦笑している。


 どうやら、ずいぶんと正直に感情が顔に出ていたらしい。


 いつぞやのキョーコの真似をして、梨花はほっぺたをむにむにと揉んだ。


「すみません、付き合う前から終わりの話かと思いました。いつもこんなに先走ったネガティヴ発動はしないんですけど」


(根っからのネガティヴに変わりはないけれど、話はちゃんと聞くネガティヴだったはずだ)


「そっかぁ。いつもと違う梨花さんになるくらい、俺を必要としてくれてると思っておくよ」


 冗談めかして言った梶田に、梨花は大真面目な顔で頷く。


「さすが梶田さん。そんなセリフも似合いますね」


 梶田はこらえきれずに吹き出した。


「ぶはっ。こいつ何言ってるんだって、馬鹿にしてる顔」


「してないです!」


「あー、もー、楽しいね。ごめんごめん。いやね、俺……好きな人を他のやつに譲りたくないって思ったのが、初めてで。今回においては譲るどころか、まずはこっちを見てもらえるように時間をかけていくつもりだったから、今日はびっくりしてる。梨花さん本人に、自分の気持ちがこうして話せるのが楽しいよ。いや、この時間がそもそも楽しくて、いっそ話題はなんだって良いのかもしれないけど」


「……とっくに、見てました」


 どうしてこんなぶっきらぼうな言い方しか出来ないのかと、梨花は自問自答した。いつだって、恥ずかしさが可愛げの邪魔をするのだ。


「うん。俺、どうも勘違いしてたみたい。梨花さんの中には俺と違う人がいて、でもいつかその人の事を忘れられたら、俺の方を向いてほしいって思ってた」


 誰のことだそれは。

 まさか課長じゃないだろうな。

 あるとしたら────綿貫くんのことだろうか。


「えっと、だ、だれの話です?」

 動揺のあまり噛んでしまった。


 うーん、と、バツが悪そうに頭を掻く梶田。

「ごめんね、待ち受けの写真を見ちゃってさ。わざとじゃ、ないんだけど」


「待ち受け」


「ほら、給湯室に忘れたスマホを届けたときに」


「ああ────」


 綿貫くんでは無かった。


 すん、と真顔に戻る梨花である。

 のせいか。


 そうか、あれのせいで。


 確かに、あの写真には顔の良い男の子が写っている。

 写真だから、小学生のような身長もわからない。

 顔だけ見たら、コハクは大人に見えるだろうし、実際は梨花よりもずいぶんと歳をとっているのだろうと思う。


 ただし、人間じゃ、ないけど。


 まつに「三柱も写ってるんだから、ご利益マシマシよ!」と、言われたあの待ち受け。


 実際には、ご利益どころか、勘違いを生んでいるではないか。


 彼女らの「自撮りしてみたい」というお願いを聞いた見返りだと、「待ち受けにしたら、へたなお守りより効くわよ♡」と、まつに勝手に設定されたのだった。


 人ならぬ存在のくせに、何故あんなにスマホの扱いに精通しているのだろうと、梨花は思い出して笑ってしまった。


 毎日毎日やってきては写真を撮る、観光客の姿を見て覚えたのだろうか。


 そういえば、まつとは別れ際に「彼によろしく」と言われていたのだった。

 説明はできないけれど、きっとこの写真は彼女らにつながっている。

 いまもどこかで、見ているのかもしれない。


(ご利益があるってことは、そうだよね、まつさん?)


 ふぅ、と一息ついて、梨花は笑った。


「私の、大切なお友達です。みんな。梶田さんの話もしましたよ。よろしくって、言ってました」


「そうか。うれしいな。いつかご挨拶できるかな」


「いまは遠いところにいるんです。とても。でもいつか、きっと」


 そっか、と、梶田は呟いた。

 目を細めて、その時を思い浮かべるように少し笑った。


「いつかを、楽しみにしとく」




「ブレンド、お待たせしました」


 流れるような所作で、マスター自ら、コーヒーをサーブしてくれる。

 続いて並べられたのは、ふわふわのシフォンケーキ。


 薄くクリームをまとったそれは、幸せのかたまりのようにお皿の上で鎮座する。


 添えられているのは絞った生クリームとミントの葉、そして小さな丸いバニラアイスクリーム。バニラビーンズシードの黒い粒が、そばかすのようで可愛い。


 梶田のものには、キツネ色のソースが細く芸術的にかけてある。

 どちらもとても美味しそうだ。


「美味しそう。いただきます」


「いただきます。んー。やっぱり美味い」

 シフォンケーキをひとくち頬張って、梶田は相好を崩した。

 梨花もふわふわのそれをフォークですくって、ぱくりと食べる。


(うん、美味しい!)


 生地もクリームも甘すぎず、それでいて風味豊か。

 とても軽くて、口の中でとろけるようだ。


 しばらく食べ進めたあと、口休めにコーヒーを。

(コーヒーも、美味しい。すっごく好み)


 ひきたての豆の香りがしっかりとする。フルーティで、雑味が少ない。


 ひとしきり幸せを堪能したあと。


 カップの中の黒い水面を、梨花はじっと見つめた。


「私、自分はこっち派だと思ってました」


「ん? コーヒー党?」


「うん、飲むのも好きです。でも、その話じゃなくて」


 何と言ったら伝わるかな。

 頭の中で、しばし考える。

 梶田だったら、この無言の時間も待ってくれるという信頼があるから、慌てずに自分の考えを整理できる。


「……そっけなくて、着飾らなくて、ちょっと苦くて、好む人を選ぶ感じ。なんか、自分ぽいなって」


 対照的に、例えば雑誌の中で微笑むような女子力の高い人種は、デコレーションケーキみたいなものだとして。


「でも、梶田さんの隣にいる時だけ、こっちになります」


 梨花はシフォンケーキの皿を、両手で少し持ち上げて見せる。


「ちょっとだけ甘くて、ふわふわで、他のケーキに比べたら地味だけど、自分なりにおしゃれしてる。……選んでもらえるように」


 そんな事を真面目な顔で言ってみたら、梶田の顔がまた耳まで真っ赤になっていた。

 おそらく同じく真っ赤であろう自分を棚に上げて、梶田の事を可愛いなどと思う。

 そんな自分が。いまだ自分でも知らなかった一面があったのだと、梨花は思った。


 参ったというふうに額に手をやり、梶田は梨花を見た。


「梨花さん────。それはもう、返事だと思って良いよね?」


「はい、いいです」


 またしても、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。


 だって、仕方ないじゃないか。


 好きな人の前で平静でいられるほど、恋愛感情は甘くない。




「……ちょっと待ってね」


 そう言い置いて、梶田はカウンターの奥にいるマスターのところまで歩いて行った。

 かと思えば、すぐに新しいフォークを持って帰ってきた。


「ちなみにだけど」


 と言って、席に戻った梶田は自分のシフォンケーキをひとすくいとって、梨花の前に差し出した。


「俺にとっては、梨花さんはずっとこっちだよ」


 梨花はフォークを受け取り、キャラメル味のシフォンケーキを口に運ぶ。


「……美味しい」


「でしょ」

 屈託なく笑う梶田。


 それは甘くて、ふわふわで、ほんのり苦くて。────忘れられない味がした。



          ◇



「おめでとー!」


「おかげさまです」


 差し出された沙月のロックグラスに、梨花はジンジャーガフの入ったグラスをそっとあてて乾杯した。


「ままま、今日は私のおごりだからさ、ゆっくり飲んでよ」


「ありがとうございます」


 上機嫌の沙月に、カウンターの中から美形のマッチョ店員が声をかける。


「珍しいわね、沙月ちゃんが後輩の女の子連れてくるの」


 白シャツ店員の胸板は厚い。しかし彼の話し方は梨花よりも高い女子力を感じさせた。


「ふっふっふ。今日はお祝いなのだよ。可愛い後輩たちがついに縁をつないでだね」


「あらぁ。素敵な夜に当店をお使いいただき嬉しいわ。もう一方はどちらに?」


 そう言ったのは、もう一人の店員だ。

 こちらも鍛えられた体躯に、彫りの深い顔立ちのイケメンである。白シャツに黒エプロンが、まるでイタリア映画に出てくるバーテンダーのようで、とっても似合う。

 しかしその口調はやはり、女子力高めなそれだった。


 沙月はおつまみのナッツをつまみあげて、口を尖らせた。


「会食ですってよ。けっ。つまらない」


「お仕事ですから……」


 微笑いながらフォローした梨花を、カウンターの中の店員ふたりがジッと見つめ、口々に言う。


「やだ出来た妻だわ」


「でも不満はその都度言わなきゃだめよ」


「いや、妻では。不満も特に……。彼女……って事だって、まだふわふわしてます。私なんかで良いのか……」


「何言ってるのー! 梨花ちゃんが良かったのよ」


 ばしばしと梨花の背中を叩きながら、沙月はそう言うけれど。


「お嬢さんねぇ、相手は『自分なんかが』って1ミリも思った事ない人種だと思ってない?」


「え」


 鍛えられた首を妖艶に傾げて言う店員の言葉に、梨花は自分の思考を省みた。


 1ミリもは言い過ぎだけれど、そうかもしれない。


 梶田は仕事ができて、かっこよくて、人に囲まれていて────。


 梨花が隣に並んだとして、釣り合いがとれるのだろうかと、思う時もある。


 沙月はロックグラスを揺らしながら、たしかに、と頷いた。

「ああ……。梨花ちゃんさ、自分の事になると、時々ちょっとネガティヴよね。いや、それが悪いわけじゃないんだけど。なんていうか────目が曇って、まわりがよくみえなくなるから。そういう時って」


「あらぁ。誰だって、自信をなくす事なんてあるわよ。表に出すか出さないかだけよ。ジンちゃん、言ったげて、アドバイス」


「任せてゴンちゃん。初対面でズバズバ言うけどごめんなさいね。そういう自虐ネタ言ってる娘こほどね、ちょっとしたことで相手に幻滅したりするのよ。

 自分を褒めない────自分に厳しいということはね、裏を返せば心の中では相手にも厳しいの。もう少し肩の力を抜いて、自分にも、まわりにも、ハードルを下げてあげなさい。

 どんな王子様だって、クソもするし鼻毛も生えるわよ?

 凝り固まった頭がすぐに柔らかくなるなんて思わないけどさー?

 だめな自分を積極的に許しなさい、それは相手を許す事に繋がるし、自分の余裕にもつながるわ。

 や、人として道を踏み外したらそれは叱ってあげないといけないし、怠惰とはまた別の問題だわよー?! 

 でもそうじゃないなら、自分が選んだ人と許しあいながら生きていくのは、素敵な事よ」


「なるほど……肩の力を抜いて……」


 梶田に幻滅する自分は想像がつかないけれど、梨花自身に完璧主義なところがあるのは否めない。

 それは自分に対してだけだと思っているのだけれど、無意識に相手に対して完璧を求めないように気をつけねば。


「良いこと言うでしょおー? こんな良いこと言うのにね、もう3年も独り身なのよね、ジンちゃん」


 艶っぽく指で頬をなぞり、ため息をつくゴンちゃん。

 ジンちゃんは片眉をあげて反論する。


「うっさいわね、舞台裏をバラすんじゃないわよ。アタシは運命を待っているだけよ、手近な相手で妥協しないだけ」


 とりあえず、お二人の仲が良いということはわかった。


「まぁまぁ、オネエさんがた、のも。今日はのもーよ」


 と、沙月。


「そうね、今日はおめでたい日だったわ。リカちゃんも彼氏できるのは久しぶりなの?」


「そう……ですね。ちゃんとお付き合いするのは初めてかもしれないです」


 梨花の告白に、カウンターの中で、屈強なオネエさん方が顔を見合わせた。


「アオハルね」


「アオハルだわ」


 くぅ〜っ、と、沙月が喉の奥から声を出した。


「今日は酒が美味いわ。ジンちゃん、ネグローニ作って」


「度数30%の初恋カクテルね……! 沙月ちゃん、流石の酒飲みチョイスよ」

 ジンちゃんが女子高生のようにきゃっきゃとはしゃぐ。


「梨花ちゃんにはカンパリオレンジかな」

 沙月の注文に、ゴンちゃんが頷いてグラスを手に取った。


「そっちも『初恋』ね、良いわね」


 カンパリオレンジは知っている。が、沙月の頼んだネグローニとはなんだろう。

 きょとんとしている梨花に、ゴンちゃんが片目を瞑ってみせた。


「カクテルにはね、花言葉のように、カクテル言葉ってのがあるのよ」


 

          ◇



「うそぉ……」


 ほろ酔いだった気分が、一気に冷めた。


 終電まではまだ余裕がある。と、思っていたのに。


 沙月とは、使う路線が違うので、店の前で別れた。


 ひとり駅に向かって歩きながら、駅前の人の流れが滞っているのを見て、嫌な予感はしたのだ。

 駅に近づくにつれ、声を張り上げる駅員の言葉が、梨花の耳に届いた。


「すみません、人身事故で────」


 復旧の目処は立っていない、とか、現場検証が────とか。


 不穏な言葉を聞いただけで、なんだか気が滅入った。

 さっきまで、とても楽しい夜だったのに。


 ちらりと見たタクシー乗り場も、長蛇の列だ。


 仕方ない、久しぶりに漫喫にでも行くか。続きを読みたい漫画もあったことだし。

 そう思って、駅を背にして歩き出そうとした時だった。


「あれ、梨花さん」


「綿貫くん」


 声をかけられ振り返ると、スウェット姿の綿貫がレジ袋片手に立っていた。

 なんだかいつもと違うなと思ったら、いつも見えている形の良い額が見えない。前髪が下りているのか。


「電車、止まってるんですか?」


 と、綿貫は駅の方を見やって言った。


「そうみたい」


 数秒考え込んだ後、綿貫が遠慮がちに提案した。


「……うち、すぐそこですけど。始発動くまで、うちにきますか?」


「え、大丈夫」


 瞬時に断ってから、慌ててフォローを入れる。


「いや、信頼してないとかじゃなくてね?!」


 苦笑しながら、綿貫は頷いた。


「わかってますよ。警戒ゼロも悲しいけど」


「明日は休みだし、タクシーが捕まらなかったら、漫喫にでも行くよ。ありがとう」



          ◇



 さっきはすぐ引き下がってしまったけれど、やはり夜中に女性ひとりで帰すべきじゃなかったかな、と綿貫はひとり問答した。


 ほんのり頬の赤くなった、梨花の顔を思い出す。

 受け答えも普通だったし、深酔いはしていないふうではあったけれど────。

 お酒のせいか少し目が潤んでいて、いつもよりも守ってあげたい気持ちになった。


 立ち止まり、2秒の逡巡。


 自宅はもうすぐそこだけれど、レジ袋の中のアイスも溶けてしまうかもしれないけれど。


 やっぱり戻ろう。


 綿貫は踵を返した。


 さっきまでの倍の速度で歩きながら、ついさっき見送ったばかりの背中を探す。




 しばらく探して、見つからなかったら諦めよう。


 そう思っていたけれど、思いの外、早く見つかった。


 ゆっくりと歩く、梨花の後ろ姿は、声をかけるにはまだ遠い。


 見失わないように後を追いながら、綿貫は不思議に思った。


 漫喫のある方でもない、タクシーのよくいる大通りでもない、人通りの少ない路地に、彼女の背中はひとり吸い込まれていったから。


 見た目よりも酔っていたのだろうか。大丈夫だろうか。


 彼女が曲がった角まで追いつくと、綿貫は足を止めた。


「────あれ?」


 見失った。


 長い路地の先まで抜けるには、梨花の歩調だともっと時間がかかると思ったのに。


 路地を早歩きで抜けて、反対側に出る。


 飲み屋が並ぶ昔ながらの通りだった。


 どこにも、彼女の姿は見えなかった。




「もう着いたから大丈夫よ。ありがとう」


 心配して送った綿貫のメッセージに、梨花からそう返ってきたのは20分後だった。


「早。梨花さん、家近いのかな」


 そう呟いた自分が寒くなって、綿貫はスマホをベッドに投げた。


「やめよ。ストーカーみたいじゃん、俺」


 そもそも、自宅に帰ったとも限らないのだし。

 脳裏に、ちらりと営業トップの顔が浮かんだ。


「あー」


 抱えた膝に頭をつける。ひとり相撲も良いところだ。


「かっこ悪。全然吹っ切れてねぇじゃん」


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