第5話 そば切りと、縁結び

「出雲ですか?」


 梨花が聞き返すと、沙月は満面の笑みで頷く。


 社内の休憩スペース。紙コップに入った緑茶を飲みながら、しばしのおしゃべりに花を咲かすふたり。


 しばらく会わないうちに、沙月はばっさりと髪を切っていた。整った顔立ちに、ショートボブもまた、似合う。


「そーう! こないだ腐れ縁の悪友と飲んだ後に酔っ払って人生初の占いに行ったらね、出雲に行きなさいって言われてさ。面白いから、そのままのノリで宿とっちゃったのよー。仕事もプライベートも、良いご縁があるようにお参りしてくるわー! そんなわけで、お土産リクエストがあったら、明日まで受け付けてるから♡」


「沙月さん、さすがの行動力……! お土産、嬉しいです。ありがとうございます! 考えます」


 出雲といえば、因幡の白兎にちなんだ、うさぎグッズもありそうだし。和菓子も、素敵なものがたくさんあったはず。

 せっかくだから、じっくりリサーチさせてもらおう。

 

「遠慮なく言ってね♡ よし、じゃああと少し、仕事も頑張りますかー!」

「ですね!」



          ◇



 ふと空を見上げると、飛行機雲がまっすぐにのびていた。


 はっきりと青い空に、道筋をひく白い雲。


 きっと今もたくさんの人が、誰かに会いに行く道のりの途中にいるのだろうなと、梨花は想像をふくらませる。


 いまの梨花のように。


 目線を前に戻すと、そこにあるのは白いシャツを着た梶田の背中。


 4月ももう終わる。肌を焼く太陽の熱と汗ばむ陽気に、梶田も梨花も、ジャケットは脱いで手にかけていた。


 今日は昼から会社のビルの空調工事があるため、ほとんどの社員は午後の仕事が休みになっている。


 梨花と梶田もその例に漏れず、だったらと、梨花の提案で、紅子に会いにいく事になったのだった。


 今日は、お弁当を、3人分用意した。

 事前にホームに連絡して、食事を一緒にとる許可も取ってある。

 紅子には他にも、渡したいものがあったし。ちょうどよかった。

 


          ◇



「紅子さん」


 広い食堂の一画。すでにテーブルに座って待っていた紅子に、声をかける。

 顔を上げた紅子が、子供のようにふわりと笑う。


「あら、あなたは……の、カヨちゃんだったかしら?」


 何度か通ううち、紅子は梨花のことを認識してくれるようになった。それがとても嬉しい。

 入れ替わった名前や肩書きなど、些細なことだ。


「はい、カヨです」


「いつも翔太がお世話になっているわねぇ。この子、ではどーお?」


 梶田の事も、孫として認識している。時々、亡くなった旦那さんと混ざる日もあるみたいだけれど。

 前よりも、その頻度が減ってきたと、梶田が嬉しそうに言っていた。


 梨花はふふっと笑って、梶田のほうをちらりと見やる。

「人気者ですよぉ。先輩方のアイドルです」

「梨花さん」

 照れたように止める梶田。


「そうでしょう、おじいちゃんの若い頃に似て、男前でねぇ」

「ばあちゃん」

 二対一で誉められて、たじたじの梶田である。


 梨花たちはかまわず、話を続ける。

「おじいちゃん、イケメンだったんですねぇ」

「中身も優しくってねぇ」

「素敵です」

「きっといまも、見守ってくれていると思うの」


 梨花は頷き、そうだ──、と、思い出した。


「これ、お守り。お土産です」


 京都の神社で買ったお守りを、紅子の手にそっと乗せる。

 白地に金色の刺繍が入った、健康祈願のお守りだ。


 紅子の顔が、ぱっと華やぐ。

「あらぁ! 素敵。綺麗ねぇ。ありがとう」


「あの時の──。ばあちゃんに、だったの」

 梶田がほっとしたような、嬉しそうな、表情で呟く。

 その表情の意味は梨花にはよくわからなかったけれど、喜んではもらえたようで、なによりだ。


 梨花はにこりと笑って、大きな保冷バッグを開けた。

「こっちは、たけのこご飯のお弁当です。よかったら、お味見してくださいね」


「あら、美味しそう。たけのこご飯、大好きなの。ありがとうねぇ」

「どういたしまして。いいサワラも手に入ったので、照り焼きにしてみました。お口に合うといいのですが」


「あ、お箸出すよ」

 と、梶田。

「ありがとうございます」

 と、持ってきたカトラリーを渡す。


 紅子は目を細めてにこやかに、ふたりを眺めていた。

「カヨちゃんみたいなお友達がいて、安心だわぁ。翔太の事、よろしくねぇ」


「はい。こちらこそです」


「なんだよ、あらたまって。俺だってがんばるし」

 紅子に対する梶田は、学生のような少年のような顔をしていて、梨花はなんだか微笑ましい気持ちになった。



          ◇



「美味しい──」


 たけのこご飯をひとくち食した、紅子の顔がほころぶ。

 

 今日は三人分なので、取り分け式にして、大きなタッパーにつめてみた。

 紙皿を並べて、好きなものをとってもらう。


 梨花はおかずの入った容器を、紅子の前に動かす。


「よかった。サワラもぜひ」


「こっちも美味しそう。肉厚ねぇ。──うん、とっても美味しい。隠し味は山椒かしら? 爽やかだわ」


「ご明察です! あとオイスターソースも、少しだけ」


「なるほど、コクの正体はそれね」

 手を打って、子供のようにはしゃぐ紅子。


 ふたりの会話を聞いていた梶田が、ぽそっと呟く。

「ばあちゃん、俺だけの時より楽しそう」


 ふふっと笑って、紅子は言う。

「だって女同士、楽しいのだもの」


 梶田は眉を上げて、おどけるように唇を尖らせる。

「いいけどさ」

「すねないの、あなたのまわりに素敵なお友達がいることが嬉しいのよ」


 会社とも、梨花に対するものともまた違う、紅子に対する梶田の顔。

 なんだか家族の内側を見せてもらったようで、嬉しく思う。そんな梨花の手を、紅子はとって、ぎゅっと握った。


「ありがとう、カヨちゃん」


「いえ、喜んでもらってよかったです」


「お土産も、ありがとう。大切にするわ」



          ◇




 帰り道──


 梶田がぺこりと礼をして、言った。

「今日は、ありがとう。ばあちゃんも調子良くて、ちゃんと会話できて、よかった。──いや、逆か。梨花さんがいると調子が良いのかな」


「私も、楽しかったです」


「それに、お守り、ばあちゃんに買ってくれてたなんて。俺、勘違いしてて」


「? 勘違い? って、何をですか?」


「あ、いや、大したことじゃ」

 少し慌てたように、顔の前で両手を振る梶田を、不思議な気持ちで眺める。


「──とにかく、嬉しかった! ありがとう」


 これ以上、追及してくれるなという圧を、梶田から感じる。

 梨花にだって聞かれて困ることはあるので、ここは大人の対応でスルーすることにした。


「どういたしまして。おばあちゃんの代わりって言ったら失礼ですけど。紅子さん、とっても喜んでくれるから。本当のおばあちゃんが増えたみたいで、嬉しいです。私も」

 梨花はそう言って、ふと思い出した。


(そういえば、沙月さんに、お土産リクエストのお返事をしないと)


 駅までの道を歩きながら、ぼんやりと考える。


 出雲かぁ。出雲といえば──。


(縁結び、なんて)


 梨花は自分の胸に問いかけた。

 自分の気持ちは自覚した。


 そこで、だ。


 梶田と、どうなりたいのだろう。


 付き合いたい? でも、恋人として梶田の隣にいる自分は想像ができない。


 玉砕をして、気まずくなってしまったら?


 万が一、まかりまちがって気持ちを受け入れてもらえたとしても、いちど付き合ってしまったら、いつかは終わりがくるのではないだろうか。


 友達のままだったら、一生もののお付き合いができるかもしれないのに。


 でも、いざ梶田に家庭ができたら、どのみちこんなふうに会ったりは、できないのかも。


 そんな未来を想像したら、胸のあたりがチクリと痛んだ。


「──ままならないなぁ」


 自分にだけ聞こえる声で言ったつもりだったのに、梶田が耳聡く梨花の方を向いた。


「何かいった?」


「──いいえ」


「ほんと?」


「ん──。独り言です」


「気になるなぁ──」


 意外に、食い下がる梶田である。

 梨花はあえて、違う言葉を呟いた。


「ケセラセラ」


「って──」

 梶田が思い出すように宙をみながら、首を傾げる。


 梨花はふふっと笑って、言う。

「おばあちゃんがよく言っていた、魔法の呪文です」


「ああ──。ヒッチコック映画の、あれだっけ」

 ふむ、と、あごを触る梶田。


 梶田のセリフに、梨花はテンションがあがってしまった。

「! よく知ってますね! 同世代だと、フレーズは聞いたことあるけど映画は知らないって子が多いのに」


 ニカッと笑う梶田。

「昔の映画、けっこう見るよ──。なるようになるさ、みたいな意味だよね?」


「そうですね。いろいろと解釈はあるみたいです。一生懸命に自分にできることをやっていれば、明日はきっと素晴らしいものになる、って解釈が、特に好きです」


「へぇ! 前向きな捉え方だね。うん、いいな」


 そう言って笑う梶田の横顔を、盗み見る。


 明日のことはわからないけど、続いていく明日のどこかに、お互いがいたら良いのに。


 そう、思ってしまうのは、梨花の本心だ。


 だったら、もしこの先後悔しても、梨花自身が納得できる道を選んだほうが、良いのかもしれない。


 ──いつか、気持ちを伝えられますように。


 せっかく芽生えたこの気持ちを、無かったことにはしないであげたい。


 梨花は、晴れ渡った空を見上げて、そう思った。




「ケセラセラ」

 と、梶田が呟く。


「ケセラセラ」

 と、梨花も呟く。


「で、なんでいま?」


 もういちど首を傾げた梶田に、梨花は笑って、人差し指を自分の唇にそっとつけた。


「ないしょです」



          ◇

    


「ふ〜。お腹いっぱい」


 梶田とは、電車に乗る駅で別れた。


 ひとり電車を降り、最寄り駅から百階段までの道を歩きながら、梨花はなんだか朝より膨らんだ気がする、お腹をさする。


 梨花の持って行ったお弁当も、3人で食べるには少し多かったなと反省する。

 京都で買った素敵な食材たちを前に、つい、張り切ってしまったのだ。

 梶田がたくさん食べてくれて、よかった。


 さて、今日はまだ日が高い。


 人通りのほとんどないこの道も、たまには通行人とすれ違う時もある。


 うっかり人前で階段から飛び降りてしまったら、大事だ。きっと第三者から見た梨花の姿は、飛び降りたそのまま、忽然と消えてしまうのだから。


「あれ?」


 階段のいちばん上に、小さな影が佇んでいた。


 こちらに背を向けて立っている。


 百階段を降りるでもなく。


 立ったまま動かない。


(どうしたのかしら)


 声をかけて、驚いて落ちられても困るし。


 でもそこにずっと立たれていると、家に帰れないのだけれど。


(困ったな)


 とりあえずの距離を保ったまま、梨花は相手の様子をしばし観察した。


 両手は、パーカーのポケットに入れている。

 右腕には、レジ袋をぶら下げたまま。


 梨花よりも少し、背が低い。

 小学生……高学年くらいだろうか。白いフードを被っている。




(あっ──)


 デニムをはいた細い足に、軽く力が入ったように見えた。


 その瞬間、咄嗟に梨花は動いていた。


 走り寄って、腕を掴む。


 覚えがある。あの感じ。


 いつも、梨花がやっていること。


 ──この子は、ここから飛び降りようとしている。




「危ないっ!」


 力いっぱい白いパーカーの左腕をつかんだけれど、何せ、走り寄った勢いがついている。

 梨花の体は、踏ん張りがきく体勢では、なかった。


 ぎょっとして、梨花を振り返る──少年、だろうか。


 ずいぶんと、整った顔をしていた。


 真ん中で分けられた、白い前髪が揺れる。肌も透けるように白い。


 驚きに見開かれた目の、その瞳はつやつやと黒い。


 顔立ちがあまりにも大人っぽくて、もしかしたら背が低いだけの青年なのかもしれないと、考え──ている場合ではないことに気づく。


「わ、わわわっ」

 気づいたところで、もうどうにもできない。


 ふたりとも、すでに半身は宙に浮いていた。


 梨花はつかんだ腕を離すまいと力をいれる。


 梨花がしっかりとつかんでいれば、もしかしたら一緒に行けるかもと思ったのだ。


 そうすれば、この少年だか青年だか──仮に「彼」と呼ぶことにしよう──は、怪我もなく済むはずだ。


 ちょっと、異世界には連れて行かれてしまうけれど。

 ちょっと、いやかなり、驚くと思うけれど。


 階段を転がり落ちて、大怪我をするよりはマシだと思うのだ、たぶん。きっと。


「誰、あんた──、くそっ」

 バランスを崩しながら、パーカー君は悪態をつく。


「余計な真似を──」

 悪態をつきながら、その反面、まるで梨花をかばうように、梨花の体を引き寄せた。



          ◇



 体は、痛くない。

 

 無事、転移できたようだ。


 梨花は恐る恐る、目を開ける。


 なんだか冷ややかな目をした「彼」が、隣に座って梨花を見下ろしていた。


 彼の白さとフードの白さと、中性的な美貌。細められた目の冷たさも相まって、まるで雪女の親戚みたいだ。


 雪女に会ったことはないけれど。


 とりあえず、一緒に転移はできたのだ、よかった!


 梨花はがばっと起き上がって、彼に向き合った。


「──あっ、君、大丈夫?! ここは、なんていうか、危ないとこじゃなくって──、いや、どこ、ここ?」


 異世界の、説明をしようとした。の、だが。


 その語尾はすっとんきょうな叫びとなって、宙に溶けて行った。


 梨花たちがいるのは、針葉樹の森の中にぽっかりと広がる、丸い空き地だった。

 剥き出しの地面は茶色い土。

 

 木々の向こうにはひたすらに木々しかなくて、森の深さは測れない。


 しかも、夜だ。


 肌寒さに身震いをして見上げた先の、ぽっかりとひらけた空には、見たこともないような満天の星が。


 そして、同じく見たこともない大きな満月。


 夜なのにぼんやりと明るいのは、月の光の恩恵か。


「わぁっ──」


 梨花の目に入ってきたその景色は、見慣れたそれとはあまりに違うもので──。


 あんぐりと口を開けたまま夜空の光に見入っていると、パーカーの彼が、深く深いため息をひとつ落とした。


「よけいなもん、連れてきちまった」


 よけいなもん。


 梨花の、ことだろうか。

 そうなのだろうな。


 言い方が引っかかるけれど、梨花は知っている。

 落ちる時、彼は、梨花を守るようなそぶりを見せた。


 つまりあれだ、俗に言う──


「ツンデレ?」

「何がだ」


 違うかったらしい。ギロリと睨まれた。


 若者言葉は難しいなと、遠い目をする梨花である。


 しかし、良いこともわかった。


 彼は「連れてきちまった」と言った。


 つまり、ここは彼の「ホーム」なのだ。


 その可能性に、なぜ思い至らなかったのだろう。


 梨花と同じように、あの階段を入り口として使う「誰か」がいると言う事に。



          ◇



「ここは……」


 どこ? と聞こうとした梨花の肩近くに、彼は急に顔を近づけてきた。

 状況がつかめず、固まる梨花。


 彼はそのまま、すん、と鼻を鳴らし、すっと離れた。


「あんた、食いもんの匂いが染み付いてる。料理人か?」


 なるほど、匂いを嗅がれていたのか。


 にしても、匂いが染み付いてるって。

 

 少し遅れて頬が赤くなるのを感じながら、なけなしの大人のプライドを支えになんでもない顔をとりつくろい、梨花は返事を返す。


「料理人──ではないけど、料理は、好き」


「ふん?」


 彼は梨花の頭からつま先まで、見定めるように視線を動かす。


 なんなんだ。


 そしてくるっと梨花に背を向けて、ぶつぶつとひとりで話し出した。


 梨花のことは、ほったらかしだ。


「……どうせこのままはかえせないし──」


 漏れ聞こえるセリフが、なんだか物騒なのだけれど。


(失礼だけど、悪い子には見えないけどなぁ)


 とりあえず、逃げる必要は感じないし、下手に逃げて迷ったらそれこそ命の危機が訪れそうな気がするし、彼の結論が出るまで大人しく待つとしよう。


 しかし、すごい夜空だ。


 まんまるのお月さまをみていたら、あたたかい蕎麦が食べたくなってきた。


 あたたかいつゆに、ごま油で炒めた長葱と牛肉の薄切りをトッピング。

 さらに刻み海苔と生卵の卵黄をおとして、そばに絡めながら食べる──


 梨花のふくらみかけた妄想は、彼の声にパチンとかきけされた。


「なぁ、あんた、ワタリだろ?」


「はぇ?」

 

「……」


 よだれを垂らしていたわけではない。決して。


 しかし彼の呆れたような沈黙に、梨花は思考を読まれたような気分になる。


「わ、わたりって?」


「複数の世界を渡る人間。あの階段が、どこかにつながっていると知っていたんだろう? なんなら、日常的に使っている」


「ああ──うん。私の住んでいるところに帰ろうとしていた。でも、君もそうとは思わなくて。普通に落ちちゃうんじゃないかと思って、止めようとした」


 彼は少し高い位置にある、梨花の目を見上げた。


「どこのだ?」


「どこ……」

 梨花が質問の意図を汲みかねて首を傾げると、彼は少しせっかちに言葉を続けた。


「お前の世界の、主人は誰だ」


 と、言われましても。


 主人? 主人って──


「ああ、大家さんのこと? えっと、このくらいの大きさで、黄色くてふわふわで」


 梨花が身振り手振りをつけながら説明すると、彼は脱力したように肩を落とした。


「わかった。あいつか」


 脱力というか、安心というか、そんなふうに、彼のまとう空気が一気に緩んだ。


 ひらひらと手を振って、梨花に手招きをする。


「あとでちゃんと送ってやるから、手を貸せ、娘。俺についてこい」


「?」


 大家さんの知り合いというのなら、人ではないのかもしれない。

 それでも、見た目は年下(に見える)の子に、「娘」って呼ばれるのは不思議な感覚だわと思いながら、梨花は黙って頷いた。



          ◇



 見渡す限りに森が続いているように見えたけれど、彼についていくとすぐに、賑やかな大通りに出た。


「わぁっ! おまつり?」


 さっきまでの静寂が嘘のようだ。

 にぎやかな話し声や笑い声が、波のように押し寄せてきた。


 知らない場所なのに、懐かしい気がする。


 それは幼い頃に見た夏祭りの光景と、少し似ていたからだろうか。


 通りの左右には木造の屋台がずらりと並び、まんまるの提灯がふわふわと

 

「ああ、俺たちの世界のな」


 彼が、ぼそっと答える。

 

「あいつも、来ると思うぞ」


「あいつ? 大家さん?」


「ああ」


 そうか、大家さんにも大家さんの付き合いがあるのだな。

 と、梨花は納得する。


「出会えたらあいつと帰れば良いし、会えなければ俺が送っていく」


 だから心配するなと、気を遣ってくれているのだろうか。


「ありがと」


「……」


 相変わらず愛想はないけど、やっぱりいいやつだ。


「あ、待ってよ」


 すたすたと先を歩く彼を、追いかける。

 といっても、梨花の方が体格は良いのだ。すぐに追いついて横に並んだ。


「で、私は何をすれば良いの?」


 ちら、と梨花を見たあと、彼は立ち止まり、小さな屋台を指差した。


「俺の──出店。トラブルで開店できなくて、困ってる。手伝ってくれ」



          ◇



「トラブルって?」


「材料が、足りない」


 彼の言葉に、梨花は、ふむ、と考え込んだ。


 冷蔵庫の材料を計画的に使い切ったときの、高揚感が好きだ。


 あるもので工夫して、思いがけず美味しいものを生み出すのが、楽しい。


 彼のお願いは、梨花の料理心を刺激するには十分だった。


 腕まくりしながら、梨花は聞いた。


「わかった。とりあえず何を作る予定だったのか、いま何が使えるのか、教えてくれる?」


 至極当然のことを聞いたはずなのだが、彼はぱちくりと目を瞬かせたあと、少しうつむいてぽそっと言った。


「……き」


 うん、声が小さすぎる。


 周囲の喧騒もあり、彼の言葉は梨花の耳にまで到達しない。


「ん?」


 梨花が聞き返すと、


「たこ焼き」


 と、ボリュームを上げて言いなおした。


 白い頬が、うっすらと色を帯びている。


 そんなに、恥ずかしそうに言わなくても。


 堂々と胸を張れる、夜店の定番だと思うけれど。


「たこ焼きね、了解──。えっと──、ごめん、名前を教えてもらっても良い? 私は梨花よ」


「コハク」

 ぶっきらぼうな言い方にもなれてきた。


「よろしく、コハク。で、生地は作れる?」


「ああ。こっちに。でも、タコが、足りない。馴染みの魚屋が休みで。他の店にも買いに行ったけど、量が見つからなくて。とりあえず、あった分は買ったんだけど」


 しょんぼりとレジ袋をのぞく姿は、まるでお使いに失敗した小学生みたいだなと思ったけれど、口にしたら怒られそうだ。梨花はそっと心の中だけでとどめおいた。


「そうねぇ──」


 梨花は出店の中を遠慮なくのぞき、あるものを確かめていく。


 たこ焼き粉よし、天かすよし、紅生姜よし。

 かつおぶしも青のりもソースもある。


 日本の食品会社の製品は、こちらの世界にもずいぶんと馴染んでいるようだ。


「問題は具、だけなのね。とりあえず、いまある分はタコを使ったら良いし、あとは──」


 梨花には、心当たりがあった。キョロキョロと、あたりを見回す。


(さっき、たしか──あった!)


「ねぇ、ちょっと一緒にきて!」


 コハクの手を引いて、もときた道を少し戻る。


 コハクは意外にも嫌がらずに、おとなしくついてきた。


 相変わらずの仏頂面ではあるけれど。




 梨花が立ち止まったのは、よその出店の前。

 

 ねじり鉢巻の恰幅の良い大将が、出店の奥で大きな鍋を混ぜていた。


 近くで嗅ぐ、かぐわしい匂いに確信を得る梨花。


 その出店の横で、双子だろうか、同じ顔の狐目の少女たちが向き合って、お互いの身だしなみを整えていた。


 まだ売り子の準備は出来ていなさそうだったけれど、梨花は大将に直接交渉をする。


「これ、ちょっとだけ売ってもらえませんか? とっても美味しそうな匂いがするから、気になって。──不躾なお願いで申し訳ないのですが、お味見させてもらって、もし私の探しているものだったら、この器にいっぱい売ってほしいのです」


 と、梨花はコハクの出店から持ってきたボウルをさし出した。


 巨躯を揺らして、大将が答えてくれる。


「らっしゃい! いいよぉ、何かに使うのかい? おや、お嬢ちゃん、人間だねぇ。お目が高い! これは人間も食べて大丈夫な自信作だからね!」


 なんだかとても嬉しそうな反応をいただき、ほっとする梨花。

 そして大将の言葉に、ひとつの確信を得る。


 この祭りに並ぶ出店のひとたちは、一見普通の人間のような見てくれをしているけれど、きっと普通のひとではない。


 コハクがおそらく、そうであるように。


 しかしこんなにも好意的に受け入れてくれているのだ、必要以上に警戒する必要も無さそうだ。


 梨花は本題に意識を戻して、交渉する。


「たこ焼きの具にしたくて──あっちのお店で出す物なのですが。もし、差し支えなければ」


「おっ、面白そうだねぇ。いいよぉ、いいよぉ。どれ、まずは食べてみてさ」


 大きな銀スプーンで鍋の中身をひとすくい。それを大将から渡される。


 梨花はふーふーと冷ましてから、ぱくりと一口でいただいた。


 赤味噌の濃厚な味と風味が口の中に広がる。


 牛すじはしっかりと下ごしらえがされているのだろう、一切の臭みもない。


 柔らかくトロトロになるまで煮込まれたそれは、口の中でほろりと解ける。


 一緒に煮込まれたこんにゃくのぷりぷりとした歯応えが、また美味しい。


 すごい。想像以上に美味しいぞ、これは。


 企業秘密だろうけれど、レシピを教えてほしいくらいだ。


「んっ! 美味しい! これですこれ! ぜひ使わせてください! もちろん、お代とは別に、売り上げの一部をお納めしますので──」


 コハクの意見を聞く前に言ってしまったけれど、こちらの商品を使う上でそれは必要だと思った。


 利益の横取りのような真似は、トラブルの種だ。


 しかし大将は、がははと大きな笑い声をあげ、梨花の杞憂を吹き飛ばすように、うちわのような手をひらひらと振った。


「いいよ、いいよぉ! 嬢ちゃんは、この世界のモンじゃないだろう? この祭りのことを知っているかい? ここにいる皆は、お金のためにやっているんじゃないんだ。人の真似をして、お金や物で名目上の物物交換はしているけどね。本来の目的は、皆で集まり飲み食いすることそのものなんだ。皆でよく飲みよく食べよく笑う。そしたら溜まった澱は消えて気分もさっぱり晴れて、良い気が舞い込むからね。祭りを盛り上げてくれるなら、何でも大歓迎だよぉ。それと」


 にやりと笑って、大将が言った。


「おいらの料理がどんなふうに化けたのか、あとで食べさせてくれるかい?」


「もちろん! 皆さんもよかったら、ぜひ!」


 興味津々と覗き込む双子の少女にも、梨花は声をかけた。


 少女たちは嬉しそうに、手を取り合ってぴょこぴょこと跳ねる。




 大将に礼を言って、ボウルいっぱいのどて煮を持ち帰る。

 商品の対価としてのお代は、コハクが払っていた。梨花の見慣れないお金だった。


「そうか、タコじゃなくても良いのか」


 神妙な顔をしたコハクが、ボソッと言う。


「原点に帰りましょう」


 梨花はにっこりと笑って言う。


「たこ焼きのもととなったお料理に、すじ肉を具にしたラジオ焼きっていうものがありまして──。これから作るのは、言うならば、どて煮のラジオ焼きです!」



          ◇



「たこ焼き生地は、コハク、作るの頼むね! ラジオ焼き用の生地はまだ置いておいて。タコと紅生姜は私が切っておくわ」


「わかった、頼む」


 パーカーを脱いで、かわりにエプロンをつけるコハク。

 慣れた手際で、粉を大きなボウルにあけはじめた。


 梨花はうなずいて、自分の作業に入った。


(うん、これでいけるかな──)


 たこ焼きは、タコのストックが切れたらおしまいにしよう。シンプルに、ソース味のものにしよう。


 ラジオ焼きの味付けはソースではなくて、どて煮のつゆで生地そのものにしっかりと味をつけるのも面白そうだ。


 その場合、ほかの水分は減らして……。


 手は動かしながら、先の段取りを決めていく。


 出店なんて、大学時代の模擬店以来だ。


(ふふ、楽しい)


 なんだか気持ちまで、学生に戻ったみたいでワクワクする。


「こっちはできたぞ、とりあえず」


 コハクの声かけに、梨花は手をとめた。


「じゃあまず、試作品を焼いてみましょうか! コハクは得意? くるくるするの」


「まぁな」


 得意げに鼻を触るコハク。

 利益のためではないとはいえ、店を出すくらいだ、得意なのは本当だろう。


「じゃ、お願いね。切ったものは持っていってくれて大丈夫よ。その間に、私がラジオ焼きの生地をつくるわ」


「わかった」




(──ふむ)


 生地の塩梅をどうしようか。


 つゆだけだと味が濃くなりすぎるだろうし、粉の溶けもよくないだろう。少しずつ水も足しながら、生地のゆるさを確認して──。


 目の前のことに集中していると、背中ごしに慌てた声が飛んできた。


「ちょ、ちょちょリカ」


(おや、出会ってから、初めて名前を呼んでくれたぞ?)


 そんなことを考えながら振り返ったら、目に飛び込んだ光景は、それどころじゃなかった。


「えぇ──?!」


 ただよってくる匂いこそ美味しそうだけれど、いかんせん見た目がよろしくない。


 たこ焼き用の鉄板の上には、ぐしゃぐしゃになった無残な──。


「大丈夫、まだタコは入れてない! 素の生地で練習しようと思ったら……これで……」


 ちょっと待って、聞き捨てならない言葉が。


「練習……。え、たこ焼きの経験は?」


「無いけど?」


 当然のようにしれっと言われて、梨花は頭をかかえた。


(なんで得意って言ったの……!)


「できると思ったんだよ、丸めるのは得意だし……」


 バツが悪そうに、ごしょごしょと呟くコハクである。


「……何を?」


 たこ焼き以外の何をまるめるのだ。


 餅とか?


 と思って聞いた、梨花の考えが浅かった。


「身の程をわきまえずに俺に喧嘩売ってきた低級のようか」


「ストップ」


「は? 聞いたのはそっちだろ」


「ううん、そうなのだけど。思ったのと違うかったっていうか──。人外の事情は聞かない方が、人間として正解な気がする」


「なんだそれ、ワタリのくせに」


 面白くなさそうにコハクは言うけれど、異世界に暮らしてはいても、梨花は人間だ。そこは間違えないでほしい。


 さて、いまはそれどころではないのだ。


 目の前の問題からひとつひとつ。


 とにかく今わかったことは、たこ焼きを丸く焼けるのはこの店で梨花ひとりということだ。


 遠巻きにちらちらとこちらを伺う、通行人や、まわりの店の店主たち。


 梨花はひとつ深呼吸をして、腹をくくった。


 うん、忙しくなりそうだ。




「ほう! うまいなぁ」

 と、どて煮を売ってくれた大将が言い。


「ねぇ、アタシにもおくれよ」

 と、花魁のような格好をした通りがかりの美人が言う。


「少々お待ちを──!」

 梨花は、たこ焼きを焼きながら声を張り上げた。


 コハクも頑張ってお会計係をしている。


「とぉ、一人前が8個入りでぇ、それ以上は8個ずつ増えるんでぇ、あ、注文は一回に3人前まで。あ、支払いね──うん、野菜でも良いよ。じゃあ、これだけもらおうかな。──はい、まいど」


 注文を聞いて、対価を受け取り、注文の数だけ木札を渡すスタイルだ。


 出来上がったら、商品と木札を交換する。


 即席だけれど、作ってよかった、木札ちゃん。


「数が違う違わない」などという、無用なトラブルの防止になる。


 いまはたこ焼き一種類だけしか焼いていないし、日本のたこ焼き屋のように味のバリエーションがあるわけでも無い。


 強いて言えばマヨネーズやかつおぶしや青のりの有無だけれど、いまのところ全ての注文が「ぜんぶのってるやつ」で通っていた。


 たこ焼きそのものが物珍しいのか、待ち時間もたこ焼きの焼ける様をじっくりと観察する客たちである。


 ずいぶんと待たせてしまっているにも関わらず、興味津々といったふうに、見ていてくれる。


 正直、人間よりもお行儀が良いかもと思ってしまうのは、大学時代の接客バイトの経験からか。


 しかし、想像以上の、大繁盛だった。


 少し、いや、とても、焦る。


 いや、わかるよ。


 粉物の焼ける匂いって、無条件で空腹を刺激するもの。


 踊るかつおぶしと香ばしいソースの香りは、何人にも抗いがたい魅力があるもの。


 とにかく、どんどん焼いていこう。


 梨花にできるのはそれしか無い。


 あ、でもそろそろ一旦オーダーを止めないと、今注文が入っている分くらいでタコのストックが無くなるかも──。


 梨花がコハクに声をかけようとしたタイミングで、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。


「リカ!」


「何してるのぉ?」



          ◇



「さくらさん! まつさん!」

 

 梨花の口から、驚きの声が漏れる。


 もう会えないかと思っていたふたりが、並んでこちらに笑顔を向けていた。


 まつは艶やかな赤い着物姿、さくらは真っ白なワンピース。


 妖艶な美女と、可憐な幼女。


 まるで対照的なふたりなのに、並びたつ姿はしっくりときているから、不思議だ。


 さくらが、可愛らしく首を傾げて、問うた。


「リカ、これは新しい遊び?」


「うーん、遊びというか、ボランティアというか」


 あらためて問われると、一体なんだろう。


 梨花も首を傾げながら、歯切れ悪く答える。


 まつが、ニコニコと近づいてきて、梨花の手を握った。


「おもし……忙しそうね、手伝ってあげるわぁ」


 面白そうと言おうとしたな、いま。


 まつは正直者だ、相変わらず。


 いっそ気持ちの良い正直っぷりに、くすりと笑ってしまう梨花である。


 しかし猫の手も借りたい繁盛具合だ。この申し出はありがたい。


「いいんですか……!」


 喜ぶ梨花の隣で、コハクが眉間に皺を寄せていた。


「リカ、こいつらとも知り合いなのか……」


 なんだろう、少しだけ嫌そうだけれど。


 何か、因縁でもあるのだろうか。


 そんなコハクに、まつが、しゃなりとしなだれかかる。


「私たちも、リカが可愛くて仕方ないのよぉ」


 さくらも頷く。


「そおいうこと!」


 苦々しい顔で目を瞑って、コハクは息をはいた。


「……借りを作りたくは無いんだが……。正直、助かる。今回だけ、頼む」


「そうこなくっちゃあ」

 まつが手を叩く。


「まつはお代を受け取る係、私は列の整理ね」

 きびきびと、さくらが役割分担を決める。

 見た目は一番幼いのに、頼りになる。


「梨花は焼くのに専念してね」

 にこりと笑うさくら。


「はいっ! あ、次の新しい注文の人から、ラジオ焼きと言う別メニューになる事をアナウンスいただけると助かります……!」


「ん。りょーかい」



 ……………………

 ………………

 …………



「はいはい、お代は何でもこいよぉ。こっちに置いていってねぇ」


 まつが、にこにこと笑顔をふりまきながら、客を誘導する。


 さっきから、木札をもらう客たちの顔が、うっとりしているのは気のせいだろうか。

 なんだかアイドルの握手会みたいだな、と梨花は思った。


 繁盛しすぎて物々交換した品物が溜まってきたので、敷物をひいた上に並べてもらっていた。


「横入りはダメだよ、ちゃんと並んで!」

 さくらの声はよく通る。


「はい、次の3皿分あがります!」

 梨花も頑張らないとと、気を引きしめた。


「はいよ!」

 コハクも元気よく応える。


 焼き上がったものを容器に入れ、トッピングをし、木札と交換するのはコハクの仕事だ。


 そんなこんなで、たこ焼き&ラジオ焼きは順調に売れていったのだった。



          ◇



「かんばーい!」


 たくさん用意した生地も空っぽだ。

 梨花は清々しい達成感に満たされ、喜んだ。


「売り切ったねー!」

 と、さくら。


「がんばったね!」

 と、まつ。


 ふたりも結局、最後まで付き合ってくれた。


「さくらさん、まつさん、ありがとう! これ、お二人のぶん。よかったら食べてくださいね」

 ふたりのために心を込めて焼いた最後のラジオ焼きを、梨花はさくらに手渡した。


「うん、ありがと!」


「助かった」

 コハクもそう言って頭を下げた。


「いいのよぉ、いつか返してもらうからぁ」

 艶やかなまつの笑みには、えもいわれぬ迫力がある。


「くっ」

 コハクは苦々しく顔をしかめた。


「まぁまぁ」


 さくらが、まつの腕をひいて言った。


「じゃあ私たちは引き続き、祭りを回るよ。リカと遊べて楽しかったよ! またね」


「あの彼にもよろしくねぇ」


「はい! 楽しんでください」

 

 彼、つまり梶田の事だろう。


 梶田には、さくらやまつの事は見えていないので、何とも話すことは出来ないのだけれど。

 心の中で伝えておこう。そうしよう。


「そうだわ、リカ! この間、し忘れたことがあったの!」


 まつが梨花のところに走ってきて、にこりと笑った。



 ……………………

 ………………

 …………



「助かった。ありがとう」


 さくらとまつが、満足した顔で去った後。

 コハクが、梨花に向かってそう言った。


「……待ってる奴がいるんだろ。ひきとめて悪かったな」


 そんな事をわざわざ言うのは、梶田の話題が出たからだろうか。


「んー? 楽しかったよ」


 それは、梨花の本心だったのだけれど。


 コハクは長いまつ毛をふせて、申し訳無さそうに続けた。


「困ってたのは本当だけど。わざと、ひきとめた」


「?」


「たこ焼きにしたのは、あいつが好きだったから。最後にあいつがここに来たのも、この時期だったから。もしかしてって、思って」


 梨花は、そう切なげに笑うコハクの心の中にいる人物を、想像した。


「あいつは、ついに来なかったけど。あんたの顔を見た時、懐かしかったんだ」


 それは、もしかして──。


「コハク」


 梨花の言葉にかぶせて、コハクは続ける。


「もう少しだけ、そばで見ていたかった」


「ねぇ、それって──」



          ◇



「なぁ、まかないだ。蕎麦でも食ってけ」


 梨花に、みなまで言わせないつもりだろうか。


 コハクはおもむろに鍋を出して、湯を沸かしはじめた。


 どこからともなく出した蕎麦の束を、さっと湯に入れる。


 茹でている間に、別の鍋でつゆの準備をして──具材の準備をして──。


 たこ焼きをぐしゃぐしゃにしたのと、本当に同一人物だろうか。

 疑わしいくらい、手際が良い。


 茹で上がった蕎麦をちゃっちゃと湯切りして、漆塗りの麺鉢に入れる。


 沸騰する直前でとめたつゆを、その上からなみなみと注ぎ、細かく刻み炒めた白ネギと薄切り肉の具材を、そっとのせる。


 最後に、具材の真ん中にくぼみを作って、卵黄をぽとりとのせた。


 そして、箸を乗せて、梨花に差し出した。


 梨花は、そおっと、両手で受け取る。


 ああ、美味しい出汁の匂い。


 あったかい湯気が、鼻腔をくすぐる。


「……いただきます」


 まずは、ひとくち。


 こくりと、つゆを飲んだ。


 美味しい。


 かつおのダシが、とても好みだ。


 ほんのり甘い、つゆの味。


 そして、主役のお蕎麦。コシのあるお蕎麦だ。

 そば粉のかおりが、強い。


 具材もつゆに合っていて、美味しい。


 とろりと溶けた卵黄がまた、蕎麦に絡んで、まろやかなうまみを演出してくれる。


 働いた後の一杯は、最高だな。


 そして、懐かしい味がする。


 この味を、梨花は知っていた。


 梨花が幸せな気分でまかないを味わっていると、ふと、コハクと目が合った。


「人間のせいは短い」


 と、コハクは笑った。


 少し、寂しそうな笑顔だった。


「シホは、いったか」


 静かなコハクの問いに、梨花は箸を置いて頷いた。


「うん」


(やっぱり、おばあちゃんのことだったんだ)


「シホは、うちの常連だったよ。もう何回前の祭りだか覚えていないが、あの年、初めて、たまには一緒に祭りを回ろうと声をかけてくれた。バカなことを話しながら、ふたりで過ごした。──楽しかったよ」


 その思い出を、とても大事に思ってくれているのだな、と梨花は思った。


 遠くを見つめながら話すコハクが、とても穏やかな表情をしていたから。


「あれが、最後だった」


 コハクは梨花に向き直って、にかっと笑った。


「あんたもさ、その短い生を終えたとき、シホのところへ帰る道の途中に、寄ってくれよ。待ってるからさ。そんで、シホへの手土産を頼まれてくれ」


 梨花も笑い返した。


「うん。必ず」


「ほら、のびる前に食え食え!」



          ◇



「コハク、美味しかったよ。ごちそうさま」


「ああ。リカ、その時まで、元気でいろよ」


 コハクが言うと同時だった。

 梨花の目の前に、ぬいぐるみサイズの白い獣が、ふわりと現れた。


 白い毛に混じって、虎のような黒い横縞の模様がある。獣は飼い主にするような仕草で梨花に駆け寄り、梨花のまわりをくるくるとまわる。


(かっ、可愛い……っ!)


 その愛らしさに耐えきれず、手を伸ばす梨花。


 ふわふわとした頭を遠慮がちにそろっと撫でると、獣は梨花の足首に一度だけ頬ずりをして、そして消えた。


(ああ、消えちゃった……)


 残念に思う一方で、なんだか懐にあたたかいものが入り込んだような感覚を覚えた。


 コハクを見ると、不敵な顔でにやりと笑っていた。


「俺の加護をつけてやったから、感謝しろ」


 加護。お守りのようなものだろうか。さっきの獣が、そうなのだろうか。


 目には見えなくても、あの子が常にそばにいてくれるようなものだと考えたら、なんだか嬉しい。


「ありが──ひゃあっ」


 突然、梨花の肩越しに何かが、にゅっと現れた。


 のけぞって、よく見ると──


(黄色い……ダチョウ?)


 この色は、もしや。


 ピィ!


 梨花のひらめきに答えるように、ダチョウの向こうから声がした。


「あっ、大家さん!」


 ダチョウは木でできた荷車をひいていて、その中にはたくさんの荷物と一緒に、大家さんがちょこんと乗っていた。


 大家さんも、随分と、お祭りを満喫したようだ。




「ああ、ちょうどきたな」


 と、コハク。


「行け、元気でな」


 手を振るコハクに手を振りかえして、梨花は大家さんに手招きされるまま、荷車の空いたスペースに乗り込んだ。


「ありがとう、コハクも。──またね」


(大家さんと私じゃ、体重が違うと思うのだけれど、ダチョウさん、大丈夫かしら)


 梨花が座ると、ゆっくりとダチョウが歩き出す。

 荷車の車輪が、ギシギシと音を立てて回った。


 一抹の不安はあったものの、きっと人間にはわからない力で動いているのだろうなと、梨花は考える事をやめた。


 それよりも、今この瞬間に思い出した事を、伝え忘れていた大事なことを、コハクに伝えなければ。


 次会えるのは、きっと、だいぶ先だから。


「ねぇ! おばあちゃん、お蕎麦も大好きだった」


 走り出した荷車の上から、声を張りあげる。


「夜に食べたらあったかくて、贅沢にお肉が入ってて。


 今日のお月さまみたいな、卵をおとしたやつ!


 それを食べる時は、おばあちゃん、いつも月を見上げていたよ!」


 梨花が言い終わると、顔をくしゃくしゃにして笑って、コハクが手を振った。


「ああ、俺もだ! ──リカ、またな!」



          ◇



 森に入ると、コハクの姿も、お祭りの音も、嘘のようにたち消えてしまった。


 台車をひくダチョウは軽やかに、木々の間を抜ける。


 荷台は驚くほどサスペンションが効いていて、乗り心地は自動車並みだ。


 やはり、梨花の理解の及ばない力で動いているのだろうなと、心の中で納得する。


 隣の大家さんはというと、ずいぶんとリラックスした様子で、鼻歌を歌っている。


 梨花は心地よい揺れに身を任せながら、つい、と、木々の隙間から空を見上げた。


 この大きい月とも、お別れだ。




「わっ」


 驚いて、思わず声が出てしまった。


 あっさり森を抜けたと思ったら、見慣れた景色が広がっていたのだ。


 こちらの月は、地球で見るそれと同じくらいのサイズ。


 だけれど、今日はこちらも満月だった。


 雲はなく、月明かりがとても明るい。


 そんな夜の景色の中。


 ひらけた土地にぽつんとたつ、ログハウス風の一軒家。


 その姿を目にした瞬間に、安堵の気持ちが生まれる。


 いつの間にかここが、安らげるわが家になっていたのだなと実感する。




「ただいま!」


 ピィ


 扉を開けると、キョーコの声が返ってきた。


「おかえり〜!」


 パタパタと走ってくるスリッパの音。


 モコモコしたパーカーとショートパンツのルームウェアに身を包んだキョーコが、大きな目をさらに開いた。


「おおっ?! すごいね?!」


 梨花たちの後ろにある荷物の山に、気がついたようだ。


 ダチョウはいつの間にか、姿を消していた。


(お礼、いいそびれちゃったな)


 予定外の梨花を乗せて、重くはなかったのだろうか。




 ピィ


 と、誇らしげに胸を張る大家さん。


 梨花が、かわりに説明をする。


「大家さんの戦利品です。お土産、かな?」


 ピィ!


 梨花の言葉に、うむ、と頷く大家さん。


「わー♡ お土産たくさんだ、ありがとう大家さん♡」


 キョーコに抱き上げられて、大家さんは照れたように身動ぎした。




「やばいっすね、うまそー」


 肩にかけたタオルで髪を拭きながら、五味も出てきた。

 上下黒のスウェット姿だ。


「えっ、何なに、すごいんだけど」


 と、遅れてきたのは仙道。


 家の中からではなく、梨花たちの後ろから現れた。

 今、ちょうど帰ってきたらしい。


「とりあえず食べ物を、キッチンに運びましょうか?」


 そう、梨花が問いかけると、


 ピィ!


 頼む。というふうに、大家さんが頷く。



          ◇



 梨花はさっそく、大家さんに託された食べ物たちを検めていく。


 しじみは砂抜きをして、明日の朝、しじみ汁にしよう。


 日持ちするもの、しないものに分けて、保存の仕方を工夫しよう。


 それにしても、たくさんだ。


 美味しそうな和菓子、たくさんのお野菜、果物、魚やお肉。


 お団子にお酒──屋台のごちそう──


 一緒に食べ物を並べながら、キョーコが梨花に目配せをした。


「ねぇ、梨花ちゃん? これは──」


 我が意を得たりと、梨花も頷く。


「ですね──」


 ピィ!


 大家さんも、お見通しなようだ。


 美味しい食べ物、そしてお酒、お団子ときたら──


「お月見しましょう!」


「いえーい♡」


 ピィ!


 夜はまだ、始まったばかりだ。




 皆で協力して、月明かりの下に、特大のレジャーシートを広げた。


 真ん中に、ちゃぶ台を置いて、大家さんの戦利品をいっぱいに広げる。


 焼きおにぎり、唐揚げ、焼きそば。


 お寿司に、ローストビーフ(……たぶんビーフ)もあった。


 梨花がさっと作ったおつまみはというと。


 クラッカーのクリームチーズ&スモークサーモンのせ。


 トマトとバジルのブルスケッタ、ガーリックを効かせて。


 ゆで卵を半分に切って、取り出した黄身にタルタルソースといぶりがっこを和えて戻して、その上にイクラをのせたもの。


 そしてそして、お酒におちょこ、お月見団子に、紫蘇ジュース──




「えっ、この紫蘇ジュースうまっ」


 五味がひとくちのんで、感嘆の声をあげる。


 梨花は胸を張って、得意げに答えた。


「ふふ、おばあちゃん直伝のレシピですよー。こっそり仕込んでいたものを、炭酸で割りました!」


「すげー」


 気に入ってもらえて、梨花も嬉しい。


「おつまみも美味しいよ、ありがとう、梨花ちゃん」


 そう言う仙道は、白ワインを持っていた。


「お口にあってよかったです」


「とくにこのいぶりがっこ! タルタルと合うね〜。ワインが進むよ」


「ローストビーフも美味しいよー♡」


 皆で集まって、食べて飲んで、笑って話して。


(お祭りの続き、みたいだなぁ)


 紫蘇ジュースを片手に、梨花がくつろいでいると、大家さんがにこにこしながら、白い包みを渡してきた。


「え、私にですか?」


 ピィピィ


 こくこくと頷く大家さん。


「わぁ、ありがとうございます。なにかな──」


 受け取って、包みを開ける。


 中から出てきたのは──『縁結びの飴』。


「ぶっ」


 危なかった、口の中が空っぽで助かった。

 思わず、吹き出してしまった。


「あ、ありがとうございます」


 大家さんはぽんぽんと優しく梨花の背中を叩いて、追加のお酒を持ってきたキョーコのほうに歩いて行った。


 またしても、背中を押されてしまったようだ。


(……告白、かぁ)


 百階段から飛び降りるのは得意だけれど、人の心に飛び込むのは、怖いなあ。


 でも、いつまでも待っているだけの自分で良いとは、梨花自身も思ってはいない。


(……あれ?)


 よく見ると、飴のパッケージには「出雲」の字。


 ああ、そうだ、沙月にお土産リクエストをしないとだった。


「出雲そば、お願いします……っと」


 スマホを取り出し、忘れないうちに、メッセージを送る。


 それにしても──。


 もしやと思い、梨花は荷台の荷物を確認した。


 食べ物以外の荷物はまだ、乗ったままだったから。


 風変わりなかぶりものや、置き物。


 懐かしいお土産風のステッカー。


 よく見たら、有名な神社のお札も混ざっている。うん、あちらの地方の。


(そうか、あの場所は──あのお祭りは──)


 人間の生活する場所とは、また違う次元なのだろうけれども。


 知らぬ間に、梨花は沙月よりも一足早く、出雲に行っていた、らしい。




 外袋をあけて、そっとひとつ、取り出した。


 白い薄紙をほどくと、黄金色の飴がすがたをあらわす。


 梨花はそれを口に放り込んで、ころころと舐めた。


「……甘い」




 おばあちゃんとコハクは、お互いにどんな想いを持っていたのだろう。


 自分が恋していると自覚したからって、他の人の過去の気持ちまで、恋愛フィルターにあてはめる気はないのだけれど。


 無数に枝分かれした選択肢の中で、自分が選んで歩いた道を、おばあちゃんは後悔しなかっただろうか。


(どう思う?)


 答えが返ってくるはずもない相手に、問いかける。


 まるい月は黙ったままで、きらきらと光っていた。



          ◇



「かっじったっ君ー」


 背中越しに投げられた、なんだか含みのある声かけに、梶田は胡散臭そうな表情を隠しもせず、振り向いた。


「何その顔」


 やはり。声の主は、駿河沙月だ。


「いえ。なんだか面白そうな顔をされてるなって」


「ふふ。わかってるじゃない。一杯いくわよ」


「え。俺、今日はコミック誌のフラゲ日で」


「帰りにコンビニ寄れば良いでしょ。善は急げよ」


(そこに善はあります?)


 口に出して言えないあたり、何を言っても許されるような愛されキャラには、なりきれない。


 何を演じるにも、中途半端な自分。


 まわりが言うような営業の星なんて、お笑いも良いとこだ。


「駅前のおでん屋台で良いわねー、お姉さんが奢ってあげるわー」


 ぱっと肩を掴まれ、ぐいぐいと前に進む。


「え、ちょ、沙月さ」


 腕は細いのに、力は強い。


 どうやら梶田に、拒否権は無いらしい。


 追い立てられるように、梶田は沙月と夜の街に足を進める。




 おでん屋台のカウンターにて。


「いや〜。仕事終わりの酒は沁みるね」


 と、沙月は2杯目のグラスを空けた。


「ここ穴場ですよね。何頼んでも美味しいし」


「ね。あ、そうだ。渡すの忘れてた。はい、お土産」


 と、沙月が小さな紙袋を差し出した。


 梶田はそれを受け取り、中身を確認する。


「縁結び……」


 縁結びと銘打った飴玉が、入っていた。


「必要でしょ?」


 にまにまと笑う沙月。


 日本酒二杯で酔う先輩ではないので、完全にシラフだろう。


 他に、客はいない。


 店主は黙々と、熱燗をこしらえている。


 梶田は少し口を尖らせて、礼を言う。


「面白がってません? ありがたく、いただきますけども」


 飴を鞄にしまっていると、沙月の前に徳利とおちょこがスッと置かれた。


「あ、注ぎます」


「いいのよ、自分のペースでやるのがいいの」


 やってきた熱燗を手酌で注ぎながら、沙月は言う。


「いやー、焚き付けた人間の役割として、経過報告は聞いときたいと思ってね。どうよ、その後」


「順調に仲を深めてます」


「おっ、告白のひとつもしたの?」


「いいえぇ」


 人がずっと踏み出せない一歩を、そんなに簡単に言わないでほしいと思う、梶田である。


「じゃあ何」


「俺」


「うん」


「俺って言うようになりました、梨花さんの前で」


「中学生かよ」


 沙月のツッコミに、ぐうの音も出ない。


「だってね? 梨花さん、俺のばあちゃんとも仲良いんですよ」


「おっ、いいじゃん、おばあちゃん公認」


「告白なんてして、そんなつもりはなかったとか言われて気まずくなったら、俺が立ち直れないだけじゃなく、ばあちゃんまで梨花さんに会えなくなって悲しむじゃないですか……」


「何で玉砕前提なのよ。おばあちゃんに梨花ちゃんの花嫁姿を見せてあげたら良いじゃない」


「簡単にいいますけどね……! 梨花さんの鈍さ、わかってます……?!」


「突然のディス」


「もちろん、そこも可愛いポイントですけどね?!」


「かと思ったら、のろけかよ」



 ……………………

 ………………

 …………



「わかった。結局は、自信がないのよね」


 沙月のお悩み相談。

 その手に握られた彼女の相棒は、熱燗からウイスキーに移行していた。


「似たもの同士なのよ、あんたら」


 さっきからチェイサー用に頼んだ水ばかり飲んでいるくせに、沙月よりもよっぽど酔っぱらった顔をした梶田が、カウンターに突っ伏して言った。


「俺だって、前向きに考えているんです。『一生懸命に自分にできることをやっていれば、明日はきっと素晴らしいものになる』って、梨花さんもこの間言っていたし──」


「良い事言うじゃない、さすが私の梨花ちゃん」


「沙月さんのじゃないですからね?!」


「そこはツッコむのね」


「俺のでもないですけどね……。とりあえず地道に美味しい食べ物で釣り……誘い出します」


「釣りって言ったわね、いま」


「たとえですよ、たとえ……そして徐々に距離を詰めて、大切につかまえます」


 そう言って梶田は、すうすうという穏やかな寝息しか発しなくなった。


「梨花ちゃんは希少生物か何かかしら? ──あぁ、梶田君、お酒弱かったわね……忘れてたわ」


「タクシー呼びますかい?」


 大将が、ちらりと梶田を見て言った。


「ごめんね、大将。迷惑かけるわね。私、まだ飲み足りないのよ。もうちょっと飲んで食べてからね」


「他にお客さんもいません、構いませんよ」


「ありがとう。よし、熱燗に戻ろうかな。あと、がんもどき、大根とたまごもちょうだい!」


「はいよ」



          ◇



「いってぇ〜……」


 飲みすぎた。 


 久しぶりにやってしまった。


 洗面所の棚から頭痛薬を取り出し、飲む。


 顔を洗って、歯を磨いたら、少しさっぱりとした。


 さて、昨晩はどうやって帰ってきたのか、記憶もない。


 こんな事は久しぶりだ。


 会社の飲み会では、喋りで盛り上げる事により、飲むことをなるべく回避していたから。


 おかげでずいぶんと長い間、梶田は賑やかな場を盛り上げるのが好きなのだと、まわりから勘違いをされているけれど。


 梶田は、圧倒的にひとりの時間が好きだ。


 恋人が出来ても四六時中一緒にいたいと思ったことはなかったし、あれこれ詮索されるのが面倒ですらあった。


 でも皆それを、うまく折り合いをつけてやっている。


 それが下手な自分が悪い。そう思っていた。


 でも、違うかったようだ。


 ひとりの時間と同じような自然さで、時間を共有できる人がいる。


 ひとりの時間が物足りなくなる寂しさを、教えてくれた人がいる。


 そんな相手に、出会っていなかっただけなのだ。


 そして、今の自分はというと。


 出会ってしまった。


 彼女と出会う前の自分には、もう戻れない。


 あなたの隣にいたいのだと、伝えたとして。


 その結果、またひとりに戻るのだとしても。


 その結果、新しい関係が、始まるとしても。


 どんな形にせよ、変わっていく。


 どう転ぶとて、そこには覚悟が必要だ。




 コーヒーでも淹れて飲もうか。


 ダイニングに移動すると、机の上には沙月からのお土産が置いてあった。


 白い薄紙をはがして、黄金色の飴を取り出し、口に含む。


「あっま……」


 電気ケトルがポコポコと音を立てる。


 コーヒー豆の匂い。

 

 窓の外からは、学校へ向かう近所の子供たちの声が聞こえる。


 いつもの日常。


 いつもと違う、甘い味。


 いつもと違う感情は、日常に変わっていく。


 梶田の中に、彼女はもう住み着いてしまったのだ。






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