第38話 おとはやまと


 休憩の後、真面目な2人と一緒に課題に取り組んでいても、ふとしたタイミングでお互いに人の目がない空間という非日常を感じて照れ臭くなってしまいました。


 武蔵くんがいれてくれた紅茶もすっかり冷めきってしまったころ、ガチャリとドアが開く音がしました。けれど足音がしないから不思議に思っていると、ニヒルに笑った武蔵くんが立ち上がりました。



「ちょっと迎えに行ってくるわ」



 そう言い残して玄関に向かった背中を視線で追っていると、肩をツンツンとつつかれました。振り返ると聖夜くんがぷくっと頬を膨らませていて可愛いです。



「どうしましたか?」


「粋先輩、ここ、分かりますか?」


「えぇ?」



 武蔵くんがいないから僕に聞いたのかもしれないですが、それにしても珍しいです。この中で1番頭が良いのは聖夜くんですし、分からないことがあること自体珍しいことです。それに何かあって聞くなら次に頭が良い武蔵くんに聞くはずで、今まで僕が聞かれたことはありませんでした。


 僕でも分かることなのか確認しようとノートを覗き込みましたが、当然分かるはずもありません。いえ、一応上級生ですから分からないと不味いのですが。



「ごめんなさい、分かりません」



 断りながら顔を上げると、僕を見る聖夜くんの焦げ茶色の瞳が潤んでいてドキリと心臓が跳ねました。泣かせてしまったかと慌てる気持ちは、あまりの官能さに飲み込んだ唾と一緒に流れてしまいました。


 思わずその頬に手を伸ばして触れかけた瞬間、近づいて来た2つの足音に気が付いて咄嗟に離れました。



「会長? 何してんすか?」


「え、いえ、なんでも……」



 不自然すぎるほど開いた距離をそっと埋めて元いた位置にいそいそと収まりました。隣でふわふわと楽しそうに揺れる肩。聖夜くんの行動の意味を理解しきるにはまだまだ時間が必要なようです。



「まあ、良いっすけど。大和、自己紹介できるか?」



 言葉とは裏腹に鋭い視線に射貫かれて肝が冷えます。固まる僕と同じくらいピクリとも動かずに武蔵くんの足にしがみつく少年。大和、というと武蔵くんの弟くんでしたか。



「え、えと、あの……」



 武蔵くんは、口をパクパクと動かして泣きそうになっている大和くんの隣りにしゃがみ込みました。その背中をゆっくりと擦ると、大和くんはその動きに合わせて深呼吸しました。



「鬼頭、大和です。小学、5年生、です」



 途切れ途切れになりながらも一生懸命話してくれた大和くん。僕たちは炬燵から出て大和くんの前にしゃがみ込みました。



「はじめまして。お邪魔してます、吉良聖夜です」


「あ、せーやくん?」


「あれ、知ってるの?」


「う、うん。あの、武蔵兄ちゃんがね、よくお話してくれるから」



 まだ緊張はしているのでしょうけど、それでも聖母のような微笑みを浮かべる聖夜くんを前にして安心したように肩の力が抜けています。僕たちの恋人は本当にすごい人です。



「こんにちは。僕は北条粋です。よろしくお願いします」


「……」



 まさかの無言。


 え、僕何かしましたか?


 怖かったのでしょうか?


 あまりにも無反応のまま固まられてしまって、僕もどうしたら良いか分からなくなりました。武蔵くんに助けを求めましたが、笑いながらグッドマークを見せてきます。


 いや、全然グッドじゃないです。助けてください。



「ごめんごめん。大和、このお兄ちゃんが会長だよ」


「かいちょー? かっこいいお兄ちゃん?」


「ちょ、大和!」



 思ってもいなかった言葉に驚いて武蔵くんを凝視してしまうと、武蔵くんは慌てた様子で大和くんの口を塞ぎました。前に尊敬していると言われたことはありましたが、いないところで言われているのはまた違った気恥ずかしさがあります。



「ふふっ、武蔵くん、粋先輩のことかっこいいって言ってるんだね」


「せーやくんは、可愛いって」


「そ、そっか……」



 ここぞとばかりに武蔵くんを弄ろうとしたのでしょうが、純粋無垢な目でそんなことを言われてしまえば聖夜くんも恥ずかしそうに手の甲で口元を隠しました。言われた僕と聖夜くんは照れくさくて何も言えませんし、武蔵くんも思わぬ暴露に何も言えない様子です。何とも言えない空気の中で大和くんがキョトンと首を傾げていると、また玄関のドアが開きました。



「ただいまー」


「乙葉姉ちゃん、おかえり」


「うん、大和もおかえり。っと、お客さん? でも何、この微妙な空気は」



 乙葉と呼ばれた少女は、僕たちの顔を見回すと困惑したように首を傾げました。



「あのね、せーやくんと、かいちょーさんだって」


「あぁ、武蔵兄ちゃんのお友達の。兄がお世話になってます。妹の乙葉です」



 丁寧にお辞儀をしてくれた乙葉さんに、聖夜くんと僕もぺこりと頭を下げました。武蔵くんが咳払いをして何とも言えない空気を吹き飛ばそうとするのを見た乙葉さんは、ニヤリと笑いながら大和くんに抱きつきました。



「もしかして、もう大和から聞きました? かっこいい会長さんと、可愛い聖夜さん?」


「乙葉! あの、聖夜、会長、ごめん。その……」


「ううん、嬉しかったよ?」



 武蔵くんがついにしどろもどろになると、それを見ていた僕たちは少し冷静さを取り戻せました。聖夜くんがニコリと笑いかけると、武蔵くんは耳を赤くしながらもホッと息を吐いてくれました。



「確かに、武蔵くんがそんなことを思っているとは思いませんでしたからね。驚きましたけど嬉しかったですよ」


「会長、顔がうざい」


「あはは、武蔵くんは可愛いですね」


「あのなぁ……」



 武蔵くんがムッとしているのを見ているとついつい楽しくなってきます。いつもは僕よりも大人びて見える武蔵くんが子どもっぽい一面を見せてくれる瞬間は新鮮で嬉しいものです。



「会長さん、本当にかっこいいですね。めちゃくちゃモテそう」


「そうですか? それほどでもありませんよ」



 乙葉さんが少し恥ずかしそうに言うのが可愛らしくて、ついつい頬が緩みます。


 大切な人の家族の前だから下手なこと言って印象を悪くすることだけは避けないと、なんて思っていました。ですが、この家は不思議な場所です。自分の家にいるよりも空気が軽く感じます。だからなのか気持ちも軽くなって、気張らないでいられます。



「嘘つけ。モテモテだろうが」


「昔の話ですよ」


「それはそれでコメントしずれぇな」



 武蔵くんと軽口を叩いていると、乙葉さんはクスクスと笑いながら大和くんと顔を見合わせて嬉しそうに笑っていました。



「聖夜さん、武蔵兄ちゃんから聞いたんですけど、頭が凄く良いって本当ですか?」


「え? うーん、学校の中では良い方、かな?」



 聖夜くんは謙遜しているけれど、うちの学校の偏差値を知っている人ならば誰でもそのすごさが分かります。その境地に至るまでにどれだけの努力が必要なのか、僕も最近少しずつではありながらも実感しています。



「ということは凄く良いじゃないですか!」


「すごーい!」



 2人にキラキラした目で見つめられた聖夜くんは、嬉しくも恥ずかしいという様子ではにかんでいました。聖夜くんが年下の子と話している場面を見たことがありませんでしたから新鮮な気がします。聖夜くん自身も末っ子ですし、あまり慣れていないのだろうと伝わってくる反応が可愛くて仕方ありません。



「せーやさんは、お料理上手?」


「えっと、よく作るかな。けど、多分ボクよりも粋せんぱ、あっ、会長の方が上手だと思うよ」



 聖夜くんだって一般的な高校生に比べればよくキッチンに立っていますし、さっき食べたオムライスだって愛情入りで余計に美味しかったです。そこまで謙遜する必要がないのに僕たちを立てようとしてしまうしおらしさは可愛らしいですが、もっと自信を持っても良いと思います。



「そうなの?」


「うーん、一応毎食作ってはいますよ」


「じゃあ、今度作りに来て!」


「こら、乙葉。会長も忙しいんだぞ?」


「まあまあ、僕は構いませんよ。またお邪魔させてもらっても良いですか?」



 頭の中の9割は聖夜のことを考えていたせいか、考えなしなことを言ってしまったんじゃないかと後から思いなおしました。ですが乙葉さんと大和くんがこんなに喜んでくれているのなら、大丈夫でしょう。


 こんなになんでもないことを笑って話し合える家族。僕もそんな家族が欲しかった、なんて有り得ないことを考えてしまいます。



「会長、また変なこと考えてねえ?」



 乙葉さんと大和くんが聖夜くんに宿題を見てもらおうと手を引っ張っていくと、武蔵くんがそっと僕の横に来てくれました。ムスッとしているとパッと見たところは鬼の形相にも見えなくはないですが、その声からも目からも心配していることが伝わってきます。



「ちょっと羨ましくなっただけですよ」


「へぇ。なら良かったっす」


「どうしてですか?」


「俺と家族になれば、2人とも家族になんだろ」



 ポンポンと僕の頭に優しく触れてニッと笑った武蔵くんは、そのまま聖夜くんたちの方に行ってしまいました。



「ありがとうございます」



 武蔵くんの言葉に、僕は何度救われればいいのでしょうか。


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