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   ×××


 学園寮に帰り、夕食を終え体も洗ったシュルヴィは、寝台に座って書店で手に入れた本を取り出した。部屋の燭台しょくだい蝋燭ろうそくは、まだ一本だけ灯してある。


 ニーナは猫捜しにより疲労困憊こんぱいのようで、上段の寝台に横たわったままずっと動かない。すっかり深く眠り込んでいるらしい。覗かれる心配もない――と思ったのに、本をいくらも読み進めないうちに、上から声がした。


「初めての恋、これが好きということ……」


 シュルヴィは「ひゃっ」と肩を跳ねさせた。本から顔を上げれば、ニーナの顔が逆さまにぶら下がっている。ニーナはほんのりと頬を染めた。


「シュルヴィちゃん……何ですか、その本は」

「ね、眠ってたんじゃ、なかったの!?」


 シュルヴィも負けじと赤面する。ニーナは梯子を伝って上段から下りてきた。


「まどろんでたら、明日までの文法学の課題があったことを、思い出しまして。シュルヴィちゃんが終わってたら、写させていただこうかと」

「課題は自力でやらないと意味がないのよ!?」

「まあまあ。して、その本は?」


 ニーナはにやにやと目尻を下げる。シュルヴィは羞恥と葛藤しながらも、最後には諦めた。シュルヴィの寝台へ入り込んでくるニーナを受け入れる。二人は内緒話をするように肩を並べて座った。


「あのね。自分の気持ちを、はっきりさせておこうと思って、買ってみたのよ」

「ふむふむ。お相手はやはり、カイくんですか」

「まあ……ね」


 互いの真ん中に本を置き、シュルヴィは頁をめくった。


「わたし、カイのことは、長いこと家族として見てたから、恋愛感情との差がいまいちはっきりしなくて」

「ほうほう」

「だから、答えを出す参考に読んでみようかな、って。そもそもわたし、恋っていうのがよくわからないのよね。恋なんてしたことがないし……。ニーナは、誰かに恋をしたこと、ある?」

「それはもちろん。いままで、十人以上は好きになったことあります」

「ええっ! そんなに?」


 ニーナが遠い昔に想いをせるように目を細くした。


「初恋は、五歳の時――近所に住んでいた、飴屋さんのお兄さんでした。お小遣いがなくて飴が買えず、子どもたちの後ろにただ立っていたわたしに、『秘密だよ』って飴をくれたんです。それが初めての恋……。二人目は、六歳の時です。流行はやっていた竜の人形のおもちゃが買えず、公園で、竜の人形を戦わせながら遊ぶ子どもたちを、物欲しそうに眺めていた時。男の子が一人やってきて、片手と片足が折れた竜の人形をくれたんです。『新しいの買ってもらったから、壊れたほうやる』、と。いま思えばひどい気もしますが、その時は本当にうれしくて男の子の優しさに感動して……懐かしいですね。そして三度目の恋は七歳の時。水に野草を浮かべた飲み物しか飲んだことがなくて、スープ屋さんの店内をよだれを垂らして覗いていたわたしに、『毎日来てくれてるから』って、苦笑いしながらスープをくれたお兄さんを相手に。四度目は八歳の時、蒸し肉屋さんのお兄さんが露店の前で差し出してくれた蒸し肉が――」

「あの、なんだか哀しくなってきたから、もう大丈夫」


 シュルヴィはやんわりと続きを遮った。ニーナが振り向く。


「つまり、わたしの恋はこんな感じです。優しくされて、きゅんっと心を射られる――それが恋です」

「心を、射られる……」


 リーンノール邸の共同生活で、ときめいたことなどない。お互い気遣いは基本で、カイにからかわれることはあれど、優しくされることにも慣れている。カイに想いを告白していたあの女子生徒エルサからすれば、シュルヴィが当たり前に受けていたことは、きっとものすごく贅沢だ。


 だが今日、街で手を繋がれた時は、ときめいたと言えるかもしれない。悩み込むシュルヴィを見て、ニーナがシュルヴィから本をもらい、軽く読み始めた。


「では、本の力を借りてみましょうか。恋に落ちているかがわかる質問事項が載ってますよ。八つの質問のうち、当てはまるのが二つより少ない場合はただの友達、三つ以上の場合は恋のはじまり、五つ以上の場合は彼に夢中、八つすべてに当てはまる場合は、彼なしの人生はありえない、だそうです」


 彼なしの人生はあり得ないとは、大層なことだ。信憑性しんぴょうせいは定かではないが、あくまで試しだと、シュルヴィは「どうぞ」とニーナを促した。


「では、いきます。まず一つ目。彼のことを、よく考える」

「まあ、そうね。何してるかな、とか、大丈夫かな、とかは、考えるかしら」

「彼が喜んでいる顔を見ると、うれしくなる」

「それは当然、うれしいわよ。家族だもの」

「彼に話しかけられたいと思う」

「多少は、そうね。せっかくまたそばにいるんだから、会話くらいしたいのが普通よね」

「彼と二人きりになりたくなる」

「うーん、まあ……でもそれはきっと、最近、ゆっくり二人で話せてないからで」

「彼に触れられると、ドキっとする」

「うん……いや、でも……誰かに急に肩を叩かれたら、ドキっとするわよね?」

「彼がほかの女性と仲良くしていると、おもしろくない」

「……別に、それほどってわけじゃあ」

「彼に触れたいと思う」

「……それは……」


 触れたいか触れたくないかの二択なら、触れたい。


「彼とキスをした時に、幸せだと感じる」

「待った」


 シュルヴィは眉をひそめた。


「その質問は、おかしいわ。順番が違わない?」

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