05

「んー?」

「もう、ずっと、この邸にいるのよね?」


 カイは手を止め、シュルヴィを振り向いた。シュルヴィは念を押して確認する。


「帝都で暮らすことは、もうないのよね?」

「ああ、そのつもり。たまに竜騎士の仕事で出かけることはあるだろうけど、でも、終わったらここに帰ってくるよ」


 「そう」と、シュルヴィは安堵しほほえんだ。


「わたしがいなくなっても、お父さまのこと、よろしくね」


 自室に入ろうとすると、邸の離れに向かうはずのカイに呼び止められた。


「シュルヴィ。あの、さ……。明日、ちょっと、時間もらえないか?」


 夜、カイは邸の離れで眠る。一緒に暮らし始める時に、アードルフが決めた。


「村の店に、昼飯でも食べに行ってさ。それから、その……話があるんだ。大事な」

「大事な話って?」

「いまはちょっと……明日、言うよ」


 カイは、どうしてもいま言う気はないようだった。内容が気になったが、仕方なく、シュルヴィは嘘をつく。


「わかったわ。じゃあ、明日ね。おやすみなさい」

「うん。おやすみ」


 カイは嬉しそうに笑顔を浮かべていた。その顔を、瞳に焼きつけておく。


 シュルヴィの自室は簡素だ。書き物机と本棚、衣装戸棚、あとは寝台があるくらいだ。書店ではティモに、部屋の片付けがまだ終わっていないと嘘をついた。本当は片付けは綺麗に終えていた。シュルヴィは、枕の下に隠してある本を取り出す。所持する唯一の竜の関連書である、竜図鑑だ。


 シュルヴィの母の事故は、野生の竜によるものだったが、竜は本来、理由がない限り人を襲わない。自分に害がある時だけだ。もはや人の生活と切り離すことができない竜だが、母の死以来、アードルフが竜へ複雑な想いを抱いていることは知っていた。だからシュルヴィは、竜が好きだとアードルフの前で言わなくなった。


 けれどシュルヴィは、どうしても竜が憎いと思えなかった。母を襲ってしまった竜も、悪い事情が重なっただけかもしれないと思った。互いの住み分けさえちゃんとしていれば、人と竜は平和に暮らせる。ただ時々、悪い条件が重なり、哀しい事故が起きてしまうだけだ。


 そう考える自分は、おかしいのかもしれないとも思う。本当は、アードルフのように、竜への好ましい気持ちなどくしてしまうべきなのだろう。それでも好きな気持ちを変えられなかったから、シュルヴィは迷いながらも、隠れて、よくカイに竜の話をした。カイはそんなシュルヴィに眉をひそめることなどせず、責めもせず、興味はなさそうではあったが、いつだって最後まで話を聞いてくれた。


 シュルヴィは、とあるページまで竜図鑑をめくった。その頁には、子兎ほどの大きさの、極小型飛竜の絵が載っていた。


「……パランター……」


 癒竜パランターは、どんな傷をも、たちまちに治してしまう力を持った竜だ。美しい白銀色の鱗が特徴で、常に大陸中を移動しており、棲息地が定まっていない。総数も少なく、見かけることがほぼないため、『幻の竜』なんて呼ぶ人もいる。


 以前から、心に決めていたことがある。


 シュルヴィは寝台に入った。少しでも眠っておこうと思ったが、ほとんど眠ることはできなかった。夜明け前、まだ陽が出ないうちに寝台から出た。昨夜くすねておいたパンを朝食に食べ、普段使いの外出ドレスに着替える。外套を着て、耳当て付きの羊毛帽子をかぶってから、机の引き出しにあったビスケットを三枚だけ、腰の隠しに入れた。ほかの持ち物は何もない。


 最後に、シュルヴィは机上に書き置きを残した。


『殿下に贈るコホタロの花を採りに、山へ行ってきます。夕方には戻ります。 シュルヴィ』


 コホタロの花は、愛する人に贈られる高山植物だ。アードルフとカイには、嘘だとすぐに悟られるだろう。だが大切なのは、アードルフが責められないための建て前だ。シュルヴィは部屋を出て、音を立てないよう最大限に気をつけながら玄関へ向かった。外へ出ると、雪は降っていなかった。


 薄暗い道は、新しく積もった雪で足跡が一つもない。まっさらだ。リーンノール村の誰もが、まだ眠りについていた。シュルヴィは、音のない静かな雪原の道を山へと歩き出す。黙々と銀色の丘を上る。息が上がり、鼻の先は冷たいのに、頬は火照った。


 空が星を失い始め、代わりに光をまとっていく。ついに、後方の稜線から朝陽が顔を出した。思わず足を止め振り返る。リーンノール村と雪原が、太陽の光を浴びる。きらきらと反射する雪原の中、育った邸と庭の針葉樹が小さく見えた。晴れの日の午後には、眩いほどの雪の丘の頂点に、鮮やかな青空を背にした針葉樹が一本だけ立って見える。シュルヴィはその景色が好きだった。


 以前から、心に決めていたことがある。それは、癒竜パランターを探しに行くことだった。幻の竜を、一度見てみたかった。だから以前から、今日は山へ入ろうと決めていた。今日が最後の好機だった。


 火照った頬も、額の汗も、足を止めればすぐに冷気に冷やされる。シュルヴィは、山へ向かってまた丘を上り始めた。


   ×××


「あっ! つららの角があるあの竜は、ヤープイッコ! やっぱり雪山には定番よね。――ん? あんな木の上に、ミュルッキュがいるわ。刺激すると、毒で襲われるから、見つからないようにしないと……」


 ずっと独り言を言いながら、シュルヴィは癒竜パランターを探して雪山散策をしていた。地元の者でさえも安易に立ち入らない、リーンノールの厳しい雪山だ。歩いているうちに、雪に足をとられて何度か転ぶ。子どもの頃から、運動はあまり得意ではなかった。こんな冒険まがいのことは向かないのだが、昔から憧れてはいた。


「あ……。リンドブルムの、親子が飛んでる……。どこへ行くのかしら。速いのに、カイ、よく捕まえられたわよね」


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