7. 司書は聖母の家に招かれる おうちでまったり編

 まりあ先生のお宅は綺麗に整えられていて、玄関には花のような良い香りが漂っている。

 下駄箱の上には竹ひごが立ったアロマディフューザーが置かれている。

 靴を揃えてまりあ先生の後ろをついていき廊下を進む。

「綺麗なお部屋ですね。」

「宇津森先生がいらしてくれるので、昨日綺麗にしたんですよ! 掃除するのもなんだか楽しかったです。」

「まあ、ありがとうございます。でも、これは普段から綺麗にされているお部屋ですよ。」

 私の部屋もそれなりに掃除して整理されている(はずだ)けれど、それでもまりあ先生のお部屋は綺麗で居心地がいい。

 まりあ先生が扉を開ける。

 扉の先は、窓越しにお日さまの光が柔らかく降り注ぐ暖かなお部屋だった。

 そして四角い箱のような形のピアノが堂々と胸を張っている。

「これ、アコースティックのアップライトピアノですか。」

 まりあ先生は嬉しそうに、誇らしげに応えてくれる。

「ええ。実はここ、時間は決まってますけど楽器OKのマンションなんですよ! それでも防音壁と防音マットは要りますけどね。アップライトでも振動や音が大きいので。流石に夜には弾けませんよ。」

 よく見るとピアノの後ろの壁は、他の場所の壁と少し違って厚手のボードのようなものが貼られており、ピアノの下の床には厚手のマットが敷かれている。

「私もたまに吹きたくなった時にフルートを吹きますけれど、実はフルートには弱音機がないんですよ。だから吹く時間は気を使うんですよね。」

「えっ、フルートに弱音機無いんですか。あるものだと思ってましたわ。」

「実は無いのですよ。ですので、吹けるのは休日の昼間ですね。放課後に学校にいると吹奏楽部の演奏が聞こえてきて、思い切りのいい音を聞くたびに、羨ましいような、でもそんなに吹ける体力は私には無いなって思ってしまいます。……実は、星花生だった頃に少しだけ吹奏楽部にいたことがあります。ですが体力的にきつすぎて、とてもじゃないけど勉強と両立できないって思って、退部してしまったのですけどね……。そうそう。『霧の向こうのとあるコンサート』は吹奏楽部を退部した少し後に書いたんです。吹奏楽部から文芸部に転部した直後ですね。懐かしい……。」

 まりあ先生はうんうんと頷きながら私の話に耳を傾けている。……はっ。

 いけない! 一人で話し過ぎてしまったわ! しかもピアノの前で立ち話で!

「そうだったのですね。宇津森先生のお話をたくさん聞けて、初めて聞くことばかりで、とっても楽しいです!」

「そ、それなら良かったです! うう、つい一人で話し過ぎてしまいます……。」

「いえ、もっともっとお話してください! ……ここでしたら、誰の目も気にならないでしょう?」

 まりあ先生はむしろ私が話すのを促してくる。こんなに、誰かに興味を持たれるなんて初めて。家族以外だともしかしたら生まれて初めてかもしれない。

 まりあ先生のご厚意を無下にも出来ないし、だったらお話しちゃいましょう!

 ……でも。招かれてる側の私が言うのもおかしなことだけれども。

「そ、そうおっしゃっていただけるのでしたら……! ところで、幸先生。」

「はい!」

「あの。言い出しにくいことなのですけれど……。立ち話もなんですし、ゆっくり座ってお話しませんか?」

「ああっ! 私ったら、なんてことを! あ、あの。お茶、入れますね! 宇津森先生は、先にお掛けになっていてくださいませ!」

 パタパタとスリッパの足音を立ててまりあ先生がキッチンに消えていく。

 お言葉に甘えて私はソファーにそっと座る。

 まりあ先生は大慌てだけれど、私はそんなまりあ先生が可愛らしくて、見ていたいと思ってしまう。

 まりあ先生は電気ケトルに水を入れて沸かし始めると戻ってきて、私の隣に腰かけた。

「お見苦しくごめんなさい……。私の方から誘っておいて立ち話だなんて。」

「いいんですよ幸先生。それより、はいどうぞ。遅くなりましたが、手土産、です。」

 私も出すのを忘れていましたもの。要冷蔵じゃないからいいと思うけれど。

「あっこれ! スイーツ小径にあるお店のフィナンシェですね! 私も大好きです!」

 よかった。気に入っていただけたみたい。

 これも、あの子のおかげよね。

「ええ。幸先生のお宅にお誘いいただいて、お菓子がいるわよねと思ってスイーツ小径でお菓子を探していたら、柚原さんがいたんですよ。バナナが好きな子ですね。」

「ああ! 柚原さんね! うちのクラスの!」

「はい! 柚原さん、どうも私が幸先生へのお菓子を探していることを知っていたみたいで、彼女の方から幸先生はこのフィナンシェが好きだって教えてくれたんですよ。バナナマフィンを欲しそうにしてたから、お礼ということでバナナマフィンを買ってあげたんです。そうしたら、またまりあ先生のことでもなんでも、いつでもどうぞーって言っていなくなったんですよ!」

「まあ! 本当にあの子は……! ふふふ、うちのクラスの子が宇津森先生のお役に立てたなんて素敵です! 柚原さん、あっちこっちで取材してるみたいで、熱心過ぎるのかたまに遅刻してくることもあるのよね……。」

「あらあら。でもなんだか柚原さんらしいです! それに私は、柚原さんの取材のおかげでまりあ先生の好きなお菓子を買えましたもの!」

 まりあ先生は驚いたような顔をして、そのすぐ後には私に微笑んできた。

「あっ……。いえ。柚原さんのおかげね。お湯が湧いたら紅茶を淹れますのでいただきましょう! これ、ミルクティーによく合うのですよ!」

「ええ、柚原さんもそう言ってたわ。ミルクティーによく合うからまりあ先生はこのフィナンシェが好きだ、って。」

「……はい。本当に美味しいんです。そのフィナンシェ。貴女と一緒に食べられて幸せですよ。……彩雪先生。」

 ……あの。なんだか急にまりあ先生が近くなってきた気がするのですが。

 ……え。彩雪。貴女は私を、名前で呼びましたよね。

 急に名前を呼ばれて、私はどうすべきか迷ってしまう。

 どうして、私を名前で……。

「あの。まりあせんせ……あっ。」

 いつから。一体いつから。私は貴女を。

 まりあ先生と、呼んでいたのでしょう。

「ごめんなさい。幸先生……。私、幸先生を」

「彩雪先生。」

 幸先生に、私は名前で呼びかけられる。

「……え。」

「まりあ先生と、呼んでください。……あっ。オフの時は、です。私も貴女を『彩雪先生』と呼びたいですから。」

「みゆ……こほ、まりあ……先生……。」

「はい、彩雪先生!」

 まりあ先生が、満開の花のような笑顔で返事をする。

 いつも微笑みを絶やさないまりあ先生。

 でも今、私の目の前のまりあ先生は微笑みよりももっと嬉しそうに、大輪の笑顔の花を割かせている。

 初めて見たまりあ先生の、春先のお日様みたいな笑顔に、私はなんだかあたたかくなっていくような、優しくて穏やかな気持ちで満たされていった。

「もっと、彩雪先生の事を聞かせてくれますか?」

「はい、……といっても、何をお話ししましょう?」

「霧の向こうのコンサート、について、そうですね、どんなきっかけであのお話が生まれたのか、聞いてみたいです。」

 やっぱり、まりあ先生はあのお話に何か思い入れがあるみたいですね。

「ええ。わかりました。ここでなら誰かに聞かれる心配もございませんし、まりあ先生になら安心してお話できます。2人だけの、……秘密ですよ。」

 ひみつ、と言うときに言葉に詰まりそうになった。滑舌悪くなったのかしら?

「もちろん、2人だけの秘密です。彩雪先生も、私に聞きたいことがあったら、言ってくださいね?」

 まりあ先生は、私が話すのを促してくれてるのかしら。

 こんな、図書室に引き籠っていた私から、私の言葉を引き出そうとしてくれてるのかしら。

 でも、私はそれが嬉しいのです。

 だって貴女は、ずっと薄暗い書の森にいた私を、優しく照らしてくれるから。 

 強すぎる光は本を日に焼いてしまいます。

 けれど光が無くては、本を読むことはできません。

 まりあ先生、貴女は……。図書室に降り注ぐ温かで優しい光のようなひとですね。

 2人だけという空間と、まりあ先生の優しさに甘えて、私はまりあ先生に、ずっと聞きたかった、あのことをたずねる。

「私が高等部2年生……立成8年度の星花祭で、軽音楽部のライブで歌っていたのは、まりあ先生、貴女ですか。」

 まりあ先生は、まるで秘密基地を見つけられた子供のような顔で答える。

「ええ、はい。その通りです。……生徒にはもちろん、他の先生にも、絶対に、絶対に、秘密です。彩雪先生と、私だけの秘密、ですよ。」

 秘密を共有し合う、私とまりあ先生はそんな関係にいつの間にか突入したみたいです。

「わかりました。まりあ先生と私、2人だけの秘密、ですね。では、私から……霧の向こうのコンサート、について、お話しますね。」

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みゆきの森に聖母と祈りを 星月小夜歌 @hstk_sayaka

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