大先生はいつも不在

 活気ある城下町を離れて田園を抜け森をわけいり川を遡ると、古い石造りの館にたどり着く。石造りの館は蔦に覆われ、くろがねの扉は常に重く閉ざされている。館の主は異形の魔法使いで地獄から来たという。

 太陽が少し傾いた頃、淡い橙色に染めた木綿のドレスを着た娘が難儀しながら山道を上ってきた。扉の前に立つと捧げ物を包んだ布袋を落とさないように強く抱え、震える拳で何度も扉を叩く。


「魔法使い様、どうか助けてください。夫が病に倒れてしまいました。熱が十日も下がりません」


 娘の声は震えている。胸に抱いた袋にはわずかばかりの貴金属が入っている。魔法使いに対価を捧げることが出来れば願いを叶えてもらえる。街でささやかれるそんな噂にすがって娘はここまでやってきた。


「どうか助けてください」


 くろがねの扉が内側から静かに開き、娘は驚き思わず後ずさった。扉の隙間からピンク色の鼻とひくひくと動く黒くて長いひげがはみ出していた。


「ちゅう!ぼくは使い魔のカヤネでちゅ!先生は不在でちゅう。ご用はぼくがききまちゅ」


 扉の隙間から顔を出したのは灰色のローブを着たねずみだった。真っ黒な瞳で娘を見上げ、細くて長いひげをふすふすとゆらしている。笑っているように見えるねずみのふかふかの口元。緊張の糸が切れた娘が思わず地面にへたり込むとちょうどねずみと目が合った。


「あ、あの夫が病で……少ないですが対価をお持ちしました」

「まずは症状をくわしく聞かせるでちゅ」


 ねずみは身を乗り出すと、ふちが丸い耳をぴんと立てた。



 娘の手の中には藤で編んだバスケットが一つ。その中には布に包まれた薬瓶が一つと魔除けのドライフラワーが一束。そして受け取ってもらえなかった対価の袋が一つ。


「旦那さんの症状なら魔法はいらないでちゅ!お薬飲んでねるでちゅう」

「わ、わかりました」

「薬をのんでもみっかかん熱が下がらなければまたくるでちゅ!やまみち気をつけるでちゅ!暗くならないうちに帰るでちゅ」


 娘は何度も頭を下げ、山道を降りていく。ねずみは満足げにひげをゆらした。


「せめてその口調はやめてもらえないっすかね。大先生」


 ちゅうとねずみが飛び上がる。飛び上がったねずみと全く同じ姿かたちをした『カヤネ』が草むらから顔を出した。手に青々とした草の束を抱えている。


「お、お帰りカヤネ。頼んだ薬草はとれましたか」


 ねずみが身震いすると明るい茶色の柔らかい毛皮が影のように黒く染まり、細い手足が丸太のように膨らんだ。地面に垂れた長い尻尾がのたうつと、表面がうろこに覆われ額からはねじれた角が三本伸びる。見開かれた双眼は地獄の業火のように真っ赤に輝いてカヤネを見下ろした。そして地獄から来た魔法使いは背中から生えた猛禽の翼を気まずげにぱさぱさと振った。


「話をそらさんでください。そんなかっこいい姿してんのに何で俺の姿で人間を迎えるんで?」

「私の姿は恐ろしい。この姿が目に映れば人間はびっくりして死んでしまうかもしれない」


 牙だらけの魔法使いの口の奥は赤色に輝いており、喋るたびに光が漏れる。カヤネは目を細めた。


「そんなにヤワじゃないでしょあいつら」

「わからんよ!それに……」


 魔法使いは両手の真っ黒なかぎ爪をうっとりと組むとカヤネを見つめた。


「カヤネ君はかわいくて、うらやましいな……って思いましてね」


 カヤネは草束を放り投げると、魔法使いのうろこまみれの尻尾を少し強めに噛んだ。


おわり

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