破章 世界へ

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 はるか遠い未来、もしくは、気の遠くなる程の昔。

 世界中を巻き込む巨大な戦争が起きた。今では核大戦と呼ばれている。

 その戦争には秩序が存在しなかった。発端は、とある発展途上国が一つの大国に向けて打った一発の核爆弾だとされる。それまでにも人類は、核兵器が原因で様々な緊張状態を生み出してはいたが、その時に発射された核爆弾によってほとんどの核保有国の緊張は無に帰したと言われている。

 核大戦と人は呼ぶが、その争いに開戦の合図はない。言わば最初の一発目が合図とも呼べるが、とにかく全ての核保有国がその兵器を実戦に投入した。核を持たず、戦争とは無縁なはずの国々も巻き込まれていった。新しい核兵器が次々に製造され、作った傍から発射されていった。

 その昔、拳銃なる存在が世に広まった時代には、人々の暮らしに一つの恐怖の陰が落ちたことだろう。どこにでもあるナイフやハンマーとは存在意義が違い(殺傷のための存在)、入手さえすれば誰でも(目の前の人の身体に穴をあけるくらいなら)訓練なしに使用できるのだ。そんな存在でも、使用されること自体に異議を唱える者は多くない。たとえばそれが街中で一発撃たれたところで、世間の関心を惹くのは三日が関の山だ。が創られた目的だという点では、拳銃だって核兵器だって同じことなのに。

 一見すると違うのは被害の規模だけで、それを逆手に取った連中は核兵器の使用を躊躇わなかった。敵を殺す手段として、武器を手に取るのは人間に備わった本能の一つなのかもしれない。初めて人類が拳銃を撃った時から、核大戦による人類の終焉は始まった。核大戦は続き、誰も止めることなど出来ず、人類はその数を減らし続けた…………。



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 その日、少女は目を覚ました。

 深い深い地下室で、誰かが駆け下りてくるような足音を聴いて、その誰かが自分の真上まで近付いてきたという感覚で目を開いた。その時、少女が最初に感じたのは色だった。

 身体が受ける温度や触感などは一番手にはなれない。少女の意思が反映されるよりも前に、脊髄反射という形で見開いた双眸を襲ったのは光でもない。白だ、と少女は思った。いや、。一つの覆しようのないただの事実として、少女の目の前には圧倒的な白さがあった。

 その白は、やがて少女の——空のように青い——瞳にワンテンポ遅れて痛みを与え始めた。目の前にある白が光そのものではないとはいえ、色とはつまり光によるものなのである。それまで瞼の裏の暗闇を見ていた者が、いきなり光の作る圧倒的な白を目にすれば、すぐに痛みを持って自らの感覚を思い知ることになる。溢れんばかりの涙が出てきた。少女は思わず目を閉じた。

 色覚の次は痛覚で、その次に蘇ったのは思考だった。何だこれとか、すごく痛いとか、まずは至極単純なものだった。しかし、やがて意識は覚醒を始める。思考と意識が蘇ってきたのならば、次に取り戻すのは記憶だった。

 光の痛みに怯え、目を閉じたままで少女は考える。自分はどうなったのだろう。ここは何だ、状況はどうなっている。起きた、目を覚ました、それはつまり寝ていたということ?私は…………。奇妙なことに、少女には眠ったという記憶がなかった。眠ってもいないのに起きる?それは、つまり…………。少女は混乱しながらも、自分は気絶していた可能性があるという推察に辿り着いた。

 眠りに就いた覚えはなくても、少女には別の一つの記憶があった。たしか自分は、地下へと続く暗い階段を全速力で降り、その先にあった木の扉を開いたはずだ。その後は、…………何があったのだろう。どうして気絶することになったのだろうか。彼女が自分の力でその答えを知るには、恐怖に怯えて目を閉じていることは有効な手段にならない。少女は強い使命感を思い出した。それが何の使命によるものなのかは判然としないが、少女が勇気を生み出すには充分な存在であることは確かだった。痛みがくることは知っていながらも、使命感を糧に少女は再び目を開けた。

 大抵の物事は、怯える程には怖くはない。目を開けたことで、少女は再び光の痛みを感じたが、そう長くは続かなかった。一時の気の迷いみたいな痛みでしかないのだ。そして、痛みというリスクを受け入れた少女には、その分の恩恵がもたらされることになる。

 カメラのピントが合うように、少女の視界は明瞭になっていった。色は、唯一の白から無限へと広がった。とはいえ極彩色の景色が広がっていた訳ではない。むしろその逆の、無機質で単調な世界がそこにはあった。少女の目と鼻の先には、薄いオレンジ色の半透明なガラスが、頭よりも上の方から足よりも下の方まで広がっている。少女は自らが何かのケースのようなものに入っていることを理解した。

 そしてガラスは反射性に優れており、目の前の少女の姿を映し出していた。空のように青い虹彩を持つ大きな瞳、腰の辺りまで長く伸びた艶やかな黒髪。そして服は……なぜだか着ていない。少女は疑問を持つ。記憶にある自分の姿とは大きく異なっているからだ。ありのままに曝け出された身体と、短かく切り揃えていたはずなのに長い黒髪。少女は思わずガラスに映る自分の顔を睨んだ。

 するとそれを待っていたかのように、何の合図もなしにガラスが開いた。素早い動作の割にはほとんど音も立てずに、少女は驚きのあまり視線を泳がせてしまう。しかし目に映る景色は一辺倒で、無機質な天井に弱々しい一つの照明。少しひんやりとした空気が肌に触れる。

 起き上がるのを促されているようだと少女は思った。そしてすぐに混乱を味わうことになった。身体が動かせないのだ。拘束具などに縛られている訳でもないのに、起き上がろうとしてもそれは上手くいかない。筋肉に力が入りきらなくて、まるで麻痺しているかのようにビクともしない。混乱はすぐに恐怖へと変化する。

 声も出なかった。長いこと声を出していなかった為に喉が掠れているという感じだった。少女は自分が嫌になるくらいに取り乱した。何か薬物を盛られたのかと思った。このままでは自衛の術はない。武器もなければ防具もないし、そもそも動けなければ抵抗ができない。敵が手頃な大きさの石を持っているだけでも命が危ない状態だ。いや、敵?そんなものがここにはいるのか。でも、自分で勝手にこのような状態になるはずがない。私はさっきまでエデンの喫茶店にいて、マスターを押し退けて地下階段を降りたはずだ。少女の記憶はだんだん鮮明になっていくが、依然として身体機能は元に戻らない。しかし、そんな恐怖も長くは続かなかった。

 少女の頭の近くから「あら」と女性の声がし、見知らぬ女性が真上からその顔を覗かせた。武器も持っていなければ温和な表情さえしている。まさかこんなに近くに人がいたとは、気配すら感じ取れなかった自分を少女は恐れる。一見したところ敵意はなさそうだが、それでも少女は警戒を緩めない。

「ごめんなさいね、すぐに気が付かなくて。いや、まずは、おはようございます、ですね」

 女性は何やら訳知り顔で少女に囁いた。非常に穏やかでのんびりとした口調で、それはまるで、平和の町の住人のようだ。

 すると女性は少女の身体へと両手を伸ばした。一瞬、何をされるのかと少女は身構えたが、女性は赤子にでも触れるかのような優しさで少女を抱き起してくれた。少しずつだが、少女の身体にも力が入ってくるようになる。女性はすぐに少女のあられもない格好を慮ると、近くにあった机から白いレースのような着物を少女に着せてくれた。少女にはその服に確かな見憶えがあった。エデンの町の住民が着ていたものに間違いない。

 あなたはエデンの町の人なの?そう少女は尋ねようとしたが、やはりまだ声は出なかった。そんな様子に気が付いたのか、女性は少女に水の入ったストロー付きのペットボトルを渡してくれた。少女は何の抵抗もなしに、すぐにその水を飲んだ。そしてまた、すぐに自分の行動に疑問を抱いた。

 少女はストローの存在も、その用途も充分に把握していた。しかし奇妙なことに、こんな物は初めて目にしたとも思っていたのだ。記憶をたどる限り、どこの国、どの遺跡でもこのような物を目にした憶えはない。カザーニィにも四大国にも、旅の途中にあった廃墟群にもエデンの町にも、この世界のどこにも存在を確認した記憶がない。

 漠然としていて、なおかつ巨大な不信感に苛まれる。自分の身に何が起きているのかわからなかった。変な話、自分が生きているのかどうかすらも怪しく思えていた。エデンに着いた時、ダンゴが冗談のつもりで言っていた、気付かない内に天国に来てしまったんじゃないかという台詞。いっそのことそれが現実であっても驚きはしないかもしれない。後悔や失意を覚えるかどうかは別として、ここが現世でないなら何を言われても受け入れることが出来そうだ。少女は女性に目を向けた。怯える子どもが助けを求めるようだった。

「そろそろ落ち着きましたでしょうか。ええ、不思議がるのも無理はありません。何が起きているのかも思い出せないことでしょう。でも、あなたは全く怖がることはないのです。私の話を聞けばすぐに記憶も取り戻せますわ」

 女性はそう言うと、少女の右隣りに腰を下ろした。その動きを目で追って、女性の背後に広がる光景を見た少女は目を疑った。

 そこにはかなり大きな空間が広がっており、彼女ら二人以外にも多くの人間が存在したのだ。黒い棺のような箱が五つあり、そこから伸びた管が繋がる一つの巨大な機械があり、箱の中にはそれぞれ一人ずつ人間が座っていて、彼らの横では数名の人々が談笑をしている。皆、同じ白いレースの着物を身に付けていた。

 少女は咄嗟に、自分の左側にも目をやった。そして戦慄するかのように目を見開くと、すぐに慌てて顔を背けた。彼女が顔を背けたのは、そこに一つの箱があり、その中に全裸の男性が眠っていたからだ。そして、彼女がどうしても強く驚かざるを得なかったのは、その男性の顔がエドワードのものであった為である。


「大丈夫ですよ。ここにいる人々はあなたの仲間です。隣で眠る男性はじきに目覚めますし、箱が開けばすぐにでも服を着せてあげます。今のあなたがそんなにも不安そうにしているのは、あなたに記憶障害の症状がある為でしょう。私が全てをお話ししてさしあげますので、どうか落ち着いて記憶を取り戻してください。まずはあなたのお名前から。ええ、これからはウリエルと呼ばれることになるのですが、そんなことは今話しても仕方がありません。あなたのいわゆる戸籍上の名前、過去にとある島国で存在した戸籍の名前から思い出してみましょう。あなたは、ええと、和葉さんと仰るそうですね。わかりますか?吉田よしだ和葉かずはさん」



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 事の始まりは、核大戦による終焉を迎えるよりも三十年ほど前。

 四つの大国から秘密裏に集まった裏の世界の権力者たちは、超高性能AI・完全なる大脳マスター・ブレインを教祖とする名も無き『教団』を造り上げた。

 その目的は、一言で言ってしまえば世界の掌握だ。マスター・ブレインは世界中のあらゆるデータを基盤に、完璧に近い未来予測を実現させる。『教団』はその力を使い、いや、その力に従い、四大国の世界における優位性を保ち続けるのだ。AIは人間のように欲に囚われた愚かな判断をしない。『教団』の人々はAIの未来予測を受け、AIの指示通りに動くことによって迫り来る問題に対処する。『教団』は無欲なる世界調和を大義名分とし、世界の裏側での存在感はみるみる内に大きなものとなり、すぐに世の中を動かすのに充分な力を持つようになった。


 やがて『教団』は、その構成員を権力者たちのみに留めなくなった。四大国の国民たちで下部組織が結成され、人々はマスター・ブレインによる使命を待っては、AIの言葉に忠実に従う駒となった。まさにブレインと手足だ。実際、そうすることによって四大国内は大いなる安定と平和を手に入れ、彼らには世界が平和なものになっていくように見えていたに違いない。しかしそこで言う世界とは、地球上のたった四か国における小さなものでしかなかったのである。



 そして数年後のある日。マスター・ブレインは普段と同じように未来予測を行い、文字通り機械的に淡々と終焉の到来を告げたの。もちろん『教団』の人々は驚いた。その偉大なる教祖を、初めて疑う者も現れた。当時はまだ核大戦という呼び名は存在しなかったが、AIは核による大戦争が人類を滅ぼすということを明言したのである。

 未来予測はかつてない程に具体的だった。その日からきっかり三年後に最初の核が使用され、大戦は二年間に亘って継続され、あとは人手と物資の不足により戦争も出来なくなるという。人類という種は根絶されないにせよ、現人類の文明は確実に終わりを遂げる。それは既に決定された物事の流れであり、回避することは誰にもできない。

 大戦の原因は、四大国にしか利益をもたらさない『教団』によるマスター・ブレインの独占状態にあった。進歩がめざましい四大国と発展途上国との格差は、『教団』が結成される以前と比べて巨大な溝のように広がる一方だった。最初の核を発射した国がマスター・ブレインの名前を出す訳ではないが、広がっていく格差の元をただせばわたしになる——そうAIは言った。

 無欲なる叡智を独占した——すなわち、独占欲を働かせたことによる破滅。わたしを独占するなという指示を、マスター・ブレインは出しはしなかった。未来予測を行い、四大国の利益につながる指示を出すようにかれは設定を施されていたのである。

 そして、マスター・ブレインは終焉の到来を告げると同時に、その問題に講じ得る唯一の手段を提案した。曰く、大戦の回避は不可能なことであるから、新しく始まる文明の為に希望の種を撒け、と。


 その提案は大きく分けて二つ。一つは、人工冬眠技術による人類の保存だった。

 AIによると、大戦の影響で地表の多くは被爆汚染地域となり、地下シェルターに逃げ込んだとしても、その出入り口の位置する場所が安全である可能性は限りなく低いとのことだった。そして汚染された地域が自然浄化されるには、少なくとも二百年という歳月が必要になる。地下シェルターで二年間の戦争を耐えたとしても、そこから安全に出ていける可能性は少なく、二百年の浄化期間を待つのに地下シェルターは適切でない。そこで、人工冬眠によって二百年の歳月を耐え忍ぶのだ。提案当時の『教団』の持つ技術力なら人工冬眠は決して絵空事などではなかった。

 そしてもう一つの提案は、人工冬眠中の人間に人工の夢を見せるというものだった。

 たとえ無事に二百年をやり過ごして、地上に戻った人類が新しい文明を作り始めたとしても、何もしなければ同じような破滅の最後を迎えかねない。AIは、争いも欲もない理想郷ユートピアの実現を目指すべきだと提言した。人工冬眠中に理想郷で生活している夢を見させ、夢から覚めた暁には地上に出て、夢に見た理想郷の世界を現実のものとする。無欲なAIが描き出す理想郷の世界ならば、そこで争いが起こる可能性などありえない。

 『教団』はこの二つの提案を受け入れ、実行した。核大戦が始まるまでの三年間で、人工冬眠カプセルとそれを収容する地下シェルターを用意し、マスター・ブレインを地下へと移動させた。AIが管理しながら二百年も人工冬眠させるには、最大でも七人までという計算がなされた。その中に入る人間は、年齢や性別などを考慮し、核大戦が始まるまでに『教団』内からAIが選別し決めるという。この計画は新文明への希望の種を撒くという目的と、人工冬眠カプセルの形状から『希望の箱計画』と名付けられた。



「そして和葉さんは計画に選ばれ、人工冬眠カプセルの中で眠っていました。まず思い出してほしいのは、あなたが経験した十九年間分の出来事は、その全てが夢だったということ。あなたはマスター・ブレインの創り出した夢の世界を体験していたのであって、そのほとんどのものが現実には存在しません。カザーニィという国や、そこに住む人々なども夢の世界だけのものですね。そして次に思い出してほしいのは、その夢を現実にするという使命があること。これから『教団』はあなた達を、神から指名を受けた者として、天使の名になぞらえて呼びます。あなたはウリエルです」

 長い説明の一区切りとして女性は、和葉——これまではカズハまたは〝戦乙女〟、そしてこれからはウリエルと呼ばれる——へ、そのように告げた。

「あなたが経験した十九年間分の出来事は、その全てが夢だったということ」

 抑揚のない声、説明の一環としての女性の言葉が、二百年を眠った少女に重くのしかかった。



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 青年は目を覚ました。深い深い地下室の中、七つ並んだ最後の箱が役目を終える。彼も『希望の箱計画』に選ばれた一人で、二百年越しにその——海のように青い——目を開いた。

 青年の反応は少女のそれと大きく変わらなかった。光を受けた瞳は痛みに襲われ、ようやく目が慣れてくると謎のガラスが目の前にある。反射して映る自分の姿を確認し、ガラスが開いて少し驚き、起き上がる為の力が入らないことに困惑している。

 少女と違うのは、目の前に人が待機していたことだ。青年の入っている箱のガラスが開くのを確認すると、傍で待機していた男性はすぐに青年を抱えて起こしてくれた。まだ身体の動かない青年の為に服を着せてやり、ストローの付いたペットボトルを用意する。

「エドワード!」

 青年の右隣りの箱に座っていた少女・和葉は思わず声を掛けた。今まで泣いていたらしく、目の下あたりが少し赤い。カズハ、大丈夫か。彼はそう言おうとしたが声が出なかった。掠れた喉が痛みを訴えている。エドワードはしがみつくようにペットボトルの水を飲んだ。二百年ぶりに喉を通る水でむせるように何度も咳き込み、声が出せるようになるまで深呼吸を繰り返した。待機してくれていた男性も背中をさすってくれる。全身の筋肉に力が入ってくるようになり、声の回復にもそれ程の時間は掛からなかった。

「はあっ、カ、カズハ。ここ、こおっ、ここは、地下室、なのか。何が起きて、っはあ」

 エドワードの息もからがらな声を、和葉は寂しそうに聞いていた。彼も現状が把握できずに混乱したくもなるだろうに、まずは彼女を守ろうと必死に全身を動かそうとしている。脳からつま先まで、その命の全てを使うように。しかし今の和葉にも、現状を説明できるような言葉などない。彼女はただ黙って首を横に振った。

 何が起きているのかを説明する力を待たない和葉の代わりに、エドワードの傍にいた男性が説明を請け負うことになった。和葉が『教団』の女性から聞いたものと、全く同じ内容が青年にも伝えられ始める。男性は出来るだけ単調にわかりやすい言葉を選びながらも、どこか希望に浮足立つ心を抑えきれないようだった。

「話はとりあえずこんなところです。それで、こちらの女性の本名は吉田和葉さんというのですが、これからはウリエルと呼んでいただきたい。そしてあなたはミカエルとなります」

「は?えっと、ミカエルとなります?」

「ええ」

 エドワードは疑心を抑えもしない表情だったが、男性は特にこれといった反応はせずに、ただニコニコと微笑んでいた。

「……あの、僕にはあなたが何を言っているのか、これっぽっちも理解ができない。なにか、冗談の類ではないのか?『希望の箱計画』?『教団』?」

 彼の反応はもっともだった。説明をした男性は、あなたには記憶障害がありますから、すぐに何もかも受け入れられなくても構いませんよ、と柔和に告げた。エドワードの表情はますます曇るばかりだった。

「記憶障害?何を言っているんだ。エイ国で生まれ育った記憶だって、カズハたちと出会って旅をして、エデンの町で町長と取っ組み合いをしたことだって憶えている。そりゃ、地下へと続く階段を降りて、それからどうなったのかは少し憶えていないが、二百年も夢を見続けていたのというのは何かの間違いだろう」

「いいえ、ミカエルさん。あなたはずっと人工冬眠なさっていたのです。これは紛れもない事実なのです。記憶障害というのは、人工冬眠前の記憶を一時的に失っているという意味です」

「いや、よくわからない……。あなたは何を言っているんだ。その話のどこに信じる根拠がある。本当は、ここはエデンの地下室なんでしょう?僕は暗い階段に身体を打ちつけながらもここまで降りてきた。その時の痛みだってまだ憶えている。これまでの全部が夢でしただと?国王は、ジャックは?エイ国そのものも夢?ダンゴさんたちも、町長も、エデンという町も夢なのか?」

「先程から申し上げているように、全部が夢です。町長というのが理想郷の長のことを指しているのなら、それはマスター・ブレインの分身になります。夢の世界を導く者として人の姿を取っていたようですが、他はみんな実在しません。ここにおられる七人の天使たちは、皆さん形ある人間に違いありませんが、現実とは違う立場で夢の世界に溶け込んでいました。あなただってそうなのです」

 男性の言葉はマニュアルを読むように説明的で、世界の事実をありのままに伝えていることを主張していた。エドワードは頭の整理が追い付かなくなったのか、反論をやめてしまって茫然と一点を見つめていた。大きく両目を見開いて、迫り来る幾つもの感情に成す術なく立ち尽くしているようだ。和葉もまだ何も理解が出来ていない。ただ、理由もわからないのに涙だけは流れてくる。

「私どもの説明が真実であることを証明するには、とりあえず地上へ出るのが手っ取り早いと思われます。どちらにせよ、皆さんに世界の現状を把握してもらわなければいけません。私たちは早いところ理想郷創りに勤しみたいのですからね。ああ、ご心配はいりません。核大戦でどこの土地も一度は死にましたが、今では昔のような自然を取り戻してきていますよ」

 男性の言葉を合図として、その場にいた人々はみんな立ち上がり始めた。話によると、ここは人工冬眠の為の地下シェルターということになる。目覚めた七人の天使たちは、ようやく地上の世界に降り立つ時を迎えたのだ。和葉はエドワードに近付き、その腕を取って立ち上がらせた。『教団』に関する話の真偽は、この部屋の外に出ていってみれば自ずとわかってくることだ。今は辛くとも立ち上がらねばならない。そして自分の目を持って真実を確認しなければならない。『希望の箱計画』だとか、理想郷の話を始めるのはその後だ。



 十九人が乗った高速エレベーターは、信じられないくらいに長い時間を掛けて地上へと昇っていった。人工冬眠装置、およびマスター・ブレインを守っていた地下シェルターとやらが、尋常じゃない程の地下深くに位置していたということは見当が付きそうだ。

 和葉とエドワードは様々な物を見た。AIと人工冬眠カプセルを取り巻く膨大な機械類、コンクリート製の無機質で冷たい壁や床、電気、暖房設備。カザーニィやエイ国に生きていた頃には、昔話でしか聞いたことのない高度文明の世界だ。

 しかし、彼女たちには記憶のどこかにそれらを見た憶えがあった(記憶にないだけで、それらの文明に囲まれて暮らしていたというのだから)。電気が点いたって驚かないし、エレベーターが高速で上昇し始めても取り乱さない。駆動音だけが響くエレベーター内では、誰もが厳かに俯いて一言も喋らず、いよいよ迫る新世界創造の為の心構えをしているようだ。和葉は何が夢で何が現実なのか、まだ理解できていない。ただ何よりも、真実を受け入れる覚悟を決めなければならないと感じている。

 静寂の時間は長く続いたが、決して永遠ではなかった。エレベーターが上昇していく駆動音は徐々にゆっくりと小さくなっていき、ついに停止して到着の合図を光らせた。赤いランプは和葉たちに、覚悟はあるのかと問い掛けているようだった。エレベーターのドアが開き、生き残りの人々が先に外に出て、天使たちが後に続き、最後は和葉とエドワードの番になった。和葉は少し迷ったが、エドワードの左手を取ると二人で一緒に外に出た。

 二百年ぶりの本物の風を受け、その爽快さに開いた瞳の前に広がっていたのは、見渡す限り一面に広がる雄大な草原だった。地表の多くが草木に覆われているが、そこらの地面はどこも歪な形の高低差を有している。確かに、核兵器にえぐられた地面だと思えば納得ができる形だ。青くどこまでも広がる空、自然だけがのさばる大地。エドワードは『教団』の話に真実味が現れてきたことに悔しさを覚え、和葉は眼前に広がる景色を驚いたような顔で見つめていた。カザーニィの周辺にあった草原、甲冑の国の人々と戦った土地と非常によく似ているのだ。

「ここが、現実の世界……?」

 はっきりと記憶が残っている十九年分の人生を、それは全部夢でしたと突然言われたところで、信じられることなど何もない。ましてや自分の記憶だけではなく、十九年を生きてきたはずの世界そのものが偽物だったと言われても、言葉では何も理解できないだろう。しかし今、目の前に広がる世界の色、匂い、温度、風、それら全てからは命を感じられる。和葉は、自分が今まで生きてきた人生を夢だとは思えなかったが、目の前に広がる世界が夢だとも思えなかった。

 『教団』を名乗る人々が途方もなく大きな嘘をついていて、本当はエデンの喫茶店の地下階段を降りた後の人生を生きている。そう考えた方がまだ救いはある。しかし、様々なことが『教団』の言葉は真実であると告げていた。人工冬眠装置や地下シェルター、麻痺したように動かなかった身体、和葉の髪が異常に伸びていること、エドワードの一人称が変わってしまっていること、地下階段を降りた二人が抱えている記憶の空白、そして、目の前に広がる世界。今まで眠っていて、長い人工の夢を見ていたと考えても、どこにも矛盾は見当たらないように思える。

「あれは何だ。随分と大きな、クレーター?核爆発の跡には見えないが」

 エドワードは少し遠方の大きな地面の穴を指差した。多くの地面はでこぼこな高低差があるのに対して、そのクレーターの部分だけは大きな穴のようにえぐれている。エドワードが口にした疑問に『教団』の生き残りの男性が答えた。

「あれは隕石が落ちた跡です。しかし、良い着眼点ですね。さすがはミカエルだ。あの場所に落ちた隕石こそが、あなたとウリエルの記憶障害を引き起こしたとされているものなのですよ」

「なに?」

「マスター・ブレインは様々な未来予測を行い、その全てを的中させてきましたが、核大戦の予言の後、その力は地球上の物事だけに注がれていたのです。我々の先祖である『教団』の人々がそのように求めからですね。その結果、マスター・ブレインは核大戦中に地下シェルターの近くに落ちてくる隕石のことは予測できていなかった。あの場所に落ちた隕石はそれなりに大きなサイズのもので、地下深くで計画を実行中のマスター・ブレインにも僅かな電波障害をもたらしました。あなた方に記憶障害が残ったのはそれが原因とされています」

 和葉は、遠方とはいえ肉眼で確認できる程の距離にあるクレーターを見つめた。カザーニィの近くの草原に、あのような大地の窪みはない。ここがもし、彼女が今まで生きていた世界と地続きのところにあるとするのならば、この草原にはカザーニィの国があるべきで、隕石の作ったクレーターなどが存在すべきではない。

「皆さん、あちらをご覧ください。我々がこの二十年近く暮らしている場所です。エデンが完成するまでは、今日から皆さんもあちらで生活していただくことになります」

 生き残りの男性は、一同が眺めていたのとは反対側を指差した。その声に従って誰もが振り返った時、和葉は目の前の風景に動揺せざるを得なかった。そこには、エデン探しの旅の道中にあった、が初めて人の命を奪った、あの廃墟群の姿が存在したのである。


 和葉の記憶に残っている廃墟群の場所は、カザーニィの近くの草原から歩いて三日分くらいは離れた所にある。しかし、目の前に見える朽ちた街々の姿は、どう見てもあの廃墟群に間違いない。

 『教団』の生き残りの十二人は、七人の天使の先導として移動を始めた。エドワードはこの景色に見憶えなどないので、素直に彼らの後を追って付いていく。対して和葉は、身体中がすくむようで動き出せなかった。まるで恐怖に怯える子どものようなか弱さだった。〝戦乙女〟などという異名が似合う姿ではない。和葉の中に、少し前まで抱えていた心の鬼が顔を出すのを感じた。右手には、戦闘時に手放さなかった短剣の感触が蘇えるようだ。

 一行はどんどん草原から離れていき、エドワードは足を止めたままの和葉の姿に気が付いた。彼には和葉の心の内など知る由もないので、何か特別な理由があるとも思わずに「行こう」と言って和葉の手を引いた。彼女は何とか動き始めた。しかし、心の内は穏やかでない。

 廃墟群には、歩いて五分と掛からずに到着した。そこで見える風景は、カザーニィの戦闘部隊が甲冑集団に襲われたあの時と何ら変わりがない。『教団』の人々は自分たちが住処としている旧ホテルまで道案内をするが、その足取りは廃墟群の広場へと向かっていた。甲冑集団のかしらの墓があるはずの場所だ。

 『教団』の男性は、何かと景色の説明をしているが、和葉にはその一言も耳に入ってこなかった。このまま歩けば、その広場には一つの細やかなお墓が存在しているだろう。彼女がこの手で人を殺めたことが事実であることを告げる証。その存在があるからこそ、彼女はいつまでもカザーニィの〝戦乙女〟なのであり、敵を殺し仲間と自分の命を守った人間として生きていく。その事はきっと、が世界で生きていく為には否定されてはならない事実だ。一人の男性が存在して、戦いの末に命を落としたという、が生きていく世界の証明が、広場には存在するはずなのだ。

 やがて一行は足を止め、旧ホテルがある廃墟群の広場へと辿り着いた。和葉も足を止めた。そして、周囲が朗らかな空気感で談笑する中、ただ一人だけ冷たい汗を流し、おそるおそる顔を上げて広場に墓の存在を探した。しかし、果たしてそこには、小さなお墓なんてどこにも見当たりはしなかった。


 墓がないという事は、彼女は甲冑のかしらを殺してはいなかった事になる。そんな男性など本当はいなかった事になり、彼女は戦闘部隊の隊長などではなかった事になる。戦闘部隊など存在せず、カザーニィという国もなく、そして、あの世界は実在していなかった……。そういう事になる。

「あれは、夢の中の世界……」

 様々な手掛かりと、ダメ押しの決定的証拠。これで決まった。

 『教団』の言うことは全て真実であり、和葉はずっと夢の中の世界を生きていたのだ。彼女にはその事実に逆らう術がなくなり、一つの現実として夢の世界を受け入れるしかない。受け入れると言うより、悟ることしか出来ない。世界は冷徹だった。

 すると和葉には、人工冬眠カプセルの中に入っていく自分の姿が脳裏に蘇った。これは、『希望の箱計画』実行前の彼女の記憶だ。記憶障害で忘れていた、十七歳までの記憶。吉田和葉として生きた十七年間の記憶が、彼女に蘇った。

 全身を電流が包むような感覚に襲われ、和葉は鮮明に過去を取り戻していた。今なら何の証拠がなくとも、『教団』の人々が言っていたことが真実だとわかる。和葉は思わずしゃがみ込んだ。脳の隅々までを駆け巡った衝撃に、身体が上手く対応しきれていなかった。

「大丈夫か、カズハ。どこか具合でも悪いのか」

 エドワードはすぐに彼女の身体を支えてくれた。彼は今も夢の世界の続きを生きている。ここは祖国エイ国と同じ世界にあり、二人はエデンの喫茶店の地下階段を降りた後、何かしらの事情があって謎の施設に運ばれたのだと思っている。

 しかし、彼は自覚していないが、身体はどこかで真実を憶えているようだ。一人称は自然と変化していたし、エイ国では見たこともないはずの文明に触れても驚きもしない。和葉はまず、彼を安心させなければいけなかった。二人はこの世界で唯一の仲間同士なのだ。和葉が信じられるのはエドワードだけで、エドワードが信じられるのもまた、和葉ひとりしか残っていない。青年の腕に支えられながら、和葉は口を開いた。

「ねえ、エドワード。一つだけ聞いてほしいことがあるの。身体の調子は問題ないけど、決して平気とは言えない。私たちには、辛いけど受け入れなければならない、圧倒的な事実がある」

 エドワードの表情に警戒の色が表れ始める。彼はまだ兵士長なのだ。エイ国という騎士道の国で、若くして国を守るエドワードなのだ。和葉は短く間を空けた。少しだけ深い呼吸をした。

「あのね、この広場は、私がエイ国に到着する前に、旅の途中で通った場所なの。前に甲冑の国の人々に襲われたって話したと思うけど、それがここなの。私たちは人質を取られ、何とか相手を組み伏せることには成功したのだけど、私が抑えていた男の人は火薬を使って自決しようとした。私は咄嗟の判断で彼を殺した。そうすることによって私たちの命は助かり、彼の墓をこの広場に作って、私たちは旅を続けることが出来たの。でも、ここにはお墓なんてどこにもない。そして、この広場にお墓が存在しないのを目にして、私は忘れてた記憶を取り戻した。私の名前は吉田和葉。『教団』の人が言っていたことは、残念ながら全て事実よ。私たちは今まで夢の世界にいた。この十九年間の記憶は、全部頭の中にしかない偽物の記憶なの……」

「……偽物の記憶……」

 エドワードは小さく呟いて、和葉の目を見つめて、それから何かを考えるように目を閉じた。

 今、不安を覚えているのは和葉の方だった。もしも彼が何も信じてくれなくて、彼女がこの世界でひとりぼっちになってしまうのなら、それ以上の暗闇はない。和葉はエドワードを信じつつも、どうか話を受け入れてほしいとどこかで祈っていた。そして青年は目を開いた。溜息が出そうなほどに美しい表情だった。

「では、一つだけ聞かせてほしい、和葉。君の言うことも『教団』の言うことも全てが事実だと仮定すると、僕らはこれからエデンの町を創り上げなければいけない。君はどうしようと思っているのだ。一度は滅んでしまった世界と人類の為に、平和なるエデンの町を創り上げるのかい」

「いえ、違う。それは違うわ、エドワード。私たちは今のところ、エデンの町の平和のあり方に納得できていない。あの町に違和感を覚えたのは、夢だったとしても本当よ。この気持ちを抱えたままでエデン創りをやっていくつもりはないわ」

 和葉の真っ直ぐな声を聴くと、少しの時間エドワードは瞬きもせずに和葉を見つめていたが、何か納得がいったかのように真剣な表情を崩して微笑んだ。和葉は涙が出そうな程に嬉しくなった。温かいものが心臓を覆う感覚があった。

「よし、わかったよ和葉。君を信じて、この世界のことも信じよう。この十九年間のことは残念ながら夢での出来事で、これから僕らは現実を生きていく。その覚悟をしようじゃないか。ただ一つ言わせてもらうけど、今までの出来事が夢だったからって、その記憶が偽物だなんて思わなくてもいいじゃない。夢として経験した、記憶自体は本物だよ」

「あ……。そうね、うん、あなたの言うことの方が正しいわ。ごめんね、ありがとう、エド」

 そして二人は笑い合って、エドワードは抱きかかえるようにして和葉を立ち上がらせてくれた。和葉もこの上なく辛い立場にあるが、記憶の戻っていないエドワードは拠り所とする真実もなく、もっと苦しいことだろう。しかし彼らは事実を受け入れた。今その足で地を踏む世界で生きていく為に。エデン創りを看過することで、夢の中の仲間たちを裏切ってしまうことがないように。〝戦乙女〟と兵士長の姿がそこにはあった。


 二人が決意を固めて一行に合流すると、『教団』の男性は七天使を旧ホテルの中へと案内し始めた。彼はただ、平和な世界を創り出してくれるであろう七天使の存在を信じているのみである。これから実現していく平和の世界を、ただ純粋に夢見ているだけなのである。

「皆さん七天使は、夢の中では二年の時を過ごしたことになっています。これは核大戦が続いた期間と丁度重なるようになっていますね。夢の中の祖国で生まれ育った記憶というのもありますから、人工冬眠に入る前の年齢分の記憶と合わせて、〈2X+2〉年分の記憶を皆さんは有していることになります。私たちはこれから、皆さんが人工冬眠していた時間、核大戦の二年という期間も含め、二百二年分の世界の出来事をお話ししていこうと思います。全部の年月を合わせると、相当な時間の記憶を皆さんはその身に受け入れなくてはなりません。それは、この上なく大きな負担になるだろうことは想像が付きますが、どうか世界を理想郷に導く為、選ばれた天使たちとしてご協力願います」

 和葉とエドワードを除いた五人の天使たち——夢の中のエデンの住民と照らし合わせると、エレナとネズ、ヒロキに声を掛けた女性とブドウ畑で仕事をしていた若い男性、そして二人にも見憶えのないかなり太った男性——は、何かを悩む素振りもなしに微笑み顔で頷いた。まさに夢の中で見たエデンの人々が現実に現れたようである。

 和葉は隕石が落ちた跡というクレーターの姿を思い出した。あの場所に隕石が落ちる事さえなければ、自分は今頃どうしていたのだろう。五人の天使たちと同じような言動をしていたのだろうか。『希望の箱計画』とやらの目的を果たす為に、夢の中の仲間たちの事はすぐに忘れて、『教団』の生き残りの人々たちを平和の世界へと導いていたのかもしれない。夢の中でエデンに辿り着いた時に、ここは素晴らしい平和の町だと手放しで喜んだであろう。いや、電波障害なんて起きなければ、そもそもカズハたちもエデンの町で生まれ育っていたはずで、本来はカザーニィなんて国は存在しなかったかもしれない。あの場所の人々はみんな喜怒哀楽に満ちていて、そのせいで喧嘩や言い争いをすることもあったが、何よりも大切な温もりを持っていた。戦争どころか口喧嘩もしないエデンの人々を、それが人類の目指す理想の姿だとは和葉には思えないのだ。

「十七歳の身体。十九歳の心。三十六歳分の記憶。二百十九歳の、生き物としての年齢……」

 進まなくてはいけない。突然の出来事で、ダンゴたちやカザーニィに残してきた人々たちが、まだ私の事を待っている気がする。急いで戻りたくもなるが、諦めなければいけないこともあるのだろう。大丈夫。素敵な夢から覚めれば二度寝したくもなるだろうけど、起きたら起きたで良いことがあったりもするものだ。人類は生き残っていたのだから、これから何だって出来る。どこに進めばいいのか、真の平和が何かはわからないが、確かにわかっていることは一つある。怒りや悲しみを失ったエデンの町のよりも、喜怒哀楽に満ちたカザーニィが、私は好きだ。


 現実世界の十七年分の記憶と、夢の世界の十九年分の記憶が重なる。彼女は両方の世界を生きた記憶を持って、〝戦乙女〟がどこへ向かって行けば良いのかを決断することにした。好みの問題でエデン創りを否定はできないが、納得できていないのにエデン創りを進めていく訳にもいかない。まだ悩むべきだ。悩みながらも進み続け、信じられる道を模索していく。和葉の意志は決まった。群衆を導く自由の女神は、どんなに傷付いていても旗を掲げることをやめない。



*******



 旧ホテルの中では現在、十二人の『教団』の生き残りが生活していた。建物のある廃墟群は隕石や核爆弾の衝撃が届く範囲内にはあったが、人が消えてから二百年近く経ってもその形はそれなりに残っていた。四階よりも上の階が崩落していたが、十二人の人間が住む程度なら充分な大きさがある。

 生き残りの人々は完全な自給自足の生活を続けており、食料以外の物資はそこら中から使えそうなものを探しては使用している。これだけ人が減ってしまえば物資の奪い合いも起きない。そうやって彼らは『教団』の意志を引き継いで今日こんにちまで耐え、ようやく『希望の箱計画』は次の段階へと進む日を迎えたのだ。七人の天使を人工冬眠から起こし、彼らが見ていた理想郷の世界を実現させることが出来る。エデンの町が完成するまでは、この旧ホテルを当分の拠点として活動していくようだ。


 旧ホテルのロビーで、生き残りのリーダー格である男性は少しだけ自分たちの事を話した。七天使たちと同じ『教団』に属する者だとはいえ、両者は生まれたも違う赤の他人同士だ。生き残っているのは男性が八人と女性が四人、子どもはおらず、誰しも若いとは言えなかった。

「私たちはこれまで、何とか『教団』を絶やすことなく二百年もやってきましたが、それは全て『希望の箱計画』による理想郷の実現の為です。七天使の方々、どうか我々をお導き下さい。とはいえ、今日はさすがにお疲れでしょう。これから少しだけ建物の中を案内しますが、計画をどう進めていくだとか、こちらの二百二年分の出来事、そちらの理想郷の様子などは、明日から話し合っていきましょう。四階には広い会議室もあります。建物が崩れて屋根がないので、雨が降っていない時であればそちらも使用できますよ。物資もそれなりには確保しています。さあ、まずはこの一階を見て回りましょう」

 生き残りのリーダーは平静を努めて喋るが、その様子は少年のように嬉しげだった。彼の曽祖父母の親である高祖父母、そのまた親の代から続く壮大な計画のクライマックスにあるのだ。この二百年間、七天使の目覚めだけを希望に生きてきた彼らに、浮足立つなという方が無理な話だ。しかしきっと、彼も生まれた時からエデンの町民に育てられたら、どんなに喜ばしい時でも上品で質素に嬉しがるのだろう。

 和葉は、エデンの平和を肯定できない自分たちが、彼らには悪者に見えるだろうかと考えた。和葉も二百年越しの希望の一員なのだから、その希望に裏切られたとして絶望するかもしれない。しかし何をどう考えようと、同情などでは和葉の意志は変わらない。これからの拠点見学に歩き出した一同に、「待ってください」とよく通る声で彼女は言った。

「どうしましたウリエルさん。何かまだ、ご質問でも」

「いいえ、そうではありません。ここから先の計画を進めていく前に、私とここにいるエドワード、ミカエルには、お話ししなくてはいけないことがあります。突然こんなことを言うのも申し訳ないのですが、私たちは夢の中の理想郷を体験してきた感想として、エデンの平和のあり方には賛同できません」

 唐突な響きを持つ和葉の言葉に、人々は言動を失った。エドワードは移動する為に出した足を戻し、集団からは少し離れた所にいた和葉の横まで移動した。二人と十七人は対面する形になった。誰からも言葉が出ないのを確認し、和葉は自分たちの発言を続けた。

「皆さんご存じかもしれませんが、私とミカエルはエデンの町には生まれませんでした。もしかしたらそれは、電波障害による影響なのかもしれませんが、私たちは夢の中の祖国からエデンまで旅をする事になりました。お互い別の国で生まれ育ち、旅の道中で仲間となって、エデンの町に辿り着きました。理想郷の外の世界で過ごした私たちにとっては、エデンの町の平和には頷けない部分があった。武器を持たないことは素晴らしいと思いますが、平和の為に感情を抑えたり、極端に欲望を捨てていこうとするのはおかしいと思うのです。ただ、私たちには考える時間がなかった。エデンの町の何がおかしくて何が良いのか、平和の秘訣とは何であるのか、本当にエデンの平和が最良なのか。様々なことを悩んでいる途中でしたが、その最中に人工冬眠から目覚めてしまった。今のこの違和感を無視したままにエデン創りには参加できません。私たちに考える時間をください。マスター・ブレインとも話をしたい。どんな選択をするか、決断の時間をいただけませんか」

 和葉はそう言い終わると、目の前の人々に向かって深く頭を下げた。エドワードもそれに倣った。ロビーにいた『教団』の誰もが動揺を隠せなくなり、和葉たちを除く五人の天使たちも微笑みを崩してしまっていた。二人が頭を下げている間にも騒めきが増していき、生き残りの中でも最も若そうな男性が、苦しそうな態度を露にしながら二人の前に出てきた。

「その、ちょっと待ってくださいウリエルさん。一体、どうなされたと言うのですか。七天使の内の二人もエデンに疑問を持っているなんて、もしかして計画は失敗したのですか?いや違う。そんなことはありえない。そう、やはりあの、お二人には記憶障害が残っている訳です。この世界や計画のことが思い出せずに混乱しているのですよね?」

「それは違います。ミカエルはまだですけど、私はもう記憶が戻りました。ちゃんと人工冬眠前のことも憶えています。計画が失敗したかどうかは何とも言えませんが、エデンの町にはマスター・ブレインの考えた理想郷が反映されていたと思います。私たちはその理想郷を体験して、その上で、その理想郷に違和感を覚えたのです」

 話を聞いた男性はますます取り乱した。彼はある種の神のように、七天使を絶対的な希望として信じ切っていた。それが二百年も待ってようやく目覚めた途端、三時間と経たない内に二人も違うことを言い出したのだ。相当なショックを受けたはずだが、まだ理解が追い付いていないようなので、失望とか落胆に至る前段階でひどく混乱している。

「そ、それはおかしいではありませんじゃないですか。ゆ、夢の中の理想郷が平和で平和な世界ならば、そこで少しでも暮らしたあなた達が違和感を持つのは、平和じゃなくておかしなことじゃないの、ではないですか」

「あの、急に驚かせてしまってごめんなさい。混乱させてしまいましたね、どうか落ち着いてください。夢の中の理想郷、エデンの町は確かに平和な場所でした。しかし、その為に町の人々は、感情や煩悩をほとんど失っていたのです。それこそ今のあなたのように感情的な態度を取ることはなく、私たちはその平和のあり方に疑問を抱いています。それならば我々はどう生きていくべきなのか。その点についてはまだ、何が良いのかを考えている途中なのです。だから、時間をいただけませんか」

 和葉を見る五人の天使たちは厳かな表情で沈黙し、『教団』の人々はさらに動揺して不安感を吐露していた。もう少し伝え方を工夫すれば良かったかと和葉は反省したが、もう口にしてしまった以上は後戻りが出来ない。後ろに戻れないなら、前を向いて進むしかない。

 若い男性は「おかしいではないんじゃないか……」と奇妙に間違えている言葉を呟きながら、和葉の足元に跪いた。何度も和葉の言葉を検討しては、やはり「おかしいではないんじゃないか……」と呟く。和葉はさすがに気の毒な想いを抑えきれなくなって、彼の肩に手を触れようとした。

 すると、彼女が腰をかがめたところで、男性は和葉の顔を両手で鷲掴みにした。その動作の暴力的な気配に、咄嗟に和葉が蹴りを構えようとし、エドワードが男性にタックルをしようとしたところで、二人よりも先に動き出していた七天使の内の太った男性が、跪いている若い男性の手をそっと引き離した。彼は荒ぶる若い男性に寄り添うようにして跪き、天使の名が似合うような穏やかな表情で若い男性を諫めた。

「いけませんよ。怒りや欲望よりも、何よりも許してはならないのは、暴力ただ一つのみです。私たちは争うという意識をなくす為に、感情や欲望を必要最小限に抑えるのです。暴力はどんな場合でも争いと等しいですから、それだけはやってはなりません」

 蘇った和葉の記憶が正しければ、彼にはイェグディエルという名前が与えられていた。イェグディエルは豊かに太いその指で若い男性の手を握り、相手が冷静さを取り戻したのを確認すると和葉たちの方を向いた。

「ウリエルさん、ミカエルさん。あなた達はこれから、自分たちの考えをまとめる為にマスター・ブレインと話をしてくるのですね」

「はい。計画の進行を妨げることにはなるかもしれませんが、可能な限り早くに結論を出します」

「わかりました。私たちは七人揃って話し合わなければならないこともありますが、それはマスター・ブレインとの話し合いが終わった後の、あなた達の考え方次第で変化します。もし、このまま計画に参加できないと仰るのであれば、私たちは共に暮らしていくのは難しいでしょう。夢の中でも耳にしたことでしょうが、エデンの平和には全ての人の悪の基準の統一が必要なのです。我々の思想が食い違ってしまうのであれば、あなた方には別の場所で生きていってもらうしかありませんよ。そのことは理解していただけますか」

「承知しました」

 和葉とエドワードはお互いの顔を見合わせると、相違はないという風に頷き合った。イェグディエルも背後の人々を振り向き、天使たちと『教団』の生き残りの人々に異論はないかと尋ねた。天使たちは微笑みを取り戻して頷き、『教団』の人々も不安そうに承知した。

 和葉たちはみんなの様子を確認すると、地下シェルターに戻る為に旧ホテルを出ていった。太陽はまだ高い位置にあり、草原が映える程に空は青く白かった。二人が広場を抜けようとすると、背後から追い掛けてくるような足音が聴こえ、「カズハさん」と呼び止める声がした。

「エレナさん!」

「ああ、憶えていてくれたのですね。今は私、ガブリエルという名をいただきました。私は夢の中で、あなたが兄の遺言を届けてくれた恩を忘れてはいません。出来ることなら共にエデンを創って、あなたをウリエルさんと呼びたいです」

「私もあなたとは一緒に暮らせたらいいと思う。けれど、正しいと思う道を選ぶつもりだわ。それがエデンの道になるのかどうかはわからないけど、どう進もうとも私たちは友達よ」

 そして和葉は、どこか名残惜しそうに微笑んで再び歩き出した。ガブリエルはその二人の後ろ姿を少しだけ寂しそうに見つめ、「いってらっしゃい!」と声を掛けた。和葉はその言葉に振り返り、足を止めないままで「いってきます!」と答えた。そしてまた振り返り、前を向いて進んでいった。



**



 和葉とエドワードは、地下シェルターへと続くエレベーターまでの道のりを歩いていく。廃墟群の仄かにすえた空気を抜け、草原はどこまでも広がる永遠の昼間の景色であった。白いレースの着物に身を纏う二人の姿は正に天使たちだ。道行く先には運命のクレーターが見える。そこに集束していくかのように風が吹いていく。

 情景の美しさに対し、地面の凹凸な感じは地味に歩きづらい。足裏にかかるストレスを、この世界が現実のものであることの証明だと考えることは出来るだろうか。夢の中の世界でも五感は鮮明に感じられた。物に触れ、匂いを嗅ぎ、水を飲み、パンを食べた。目覚めた後から思い返そうとも、現実に起きた出来事としか思えない。しかし、やはり今のこの空気は一味違う気もする。わからない、気のせいかもしれない。

 夢と現実の区別が曖昧だ。十九年もの記憶があり、眠れば夢を見ることすら出来た世界が、それこそが夢だったと理解するのはとても難しい。そもそも、夢と現実なんて明確に見分けることは出来ないのかもしれない。だが、現時点で現実だと信じられるのはこの世界だ。和葉は自分の信じる道を行く。そして彼女が信じるのは、いつも希望が光る方角だ。

「和葉、ちょっといいか。聞いてほしいことがある」

 エドワードは思い付いたような素振りで話したが、話を切り出す良いタイミングを窺っていたことが明らかなくらいに声は低かった。雄大な自然の空気とのどかな日和の中で、不思議なくらいに落ち着いた気分で和葉は返事をした。エドワードの表情は相変わらず重苦しさを拭えないが、どこか大人の余裕も持っているように感じる。

「マスター・ブレインと話をする上で、このことは伝えておかなければならない。君がエデンの喫茶店で階段を降りていった後の話だ。君がもう戻ってはこないことを悟った町長は、僕が押さえつけるのに抵抗しなくなった。そしてあまつさえ、僕にも階段を降りていけと言ったんだ。僕はあの日、朝から仲間がいなくなるし、謎の鐘の音は聞こえるしで、何が起きているのかを彼に尋ねたんだ。町長はその質問に答えてくれることはなかったが、僕たちをミステイクと呼んだことを謝ってくれた。そして、彼にしかわからないようなことを呟き始めたが、その姿は様々なことを悩んでいるようだったし、僕たちを希望の眼差しで見つめているようでもあった。何も理解できずに戸惑っていた僕に、彼は最後にこう言ったよ。正しいことなどいつの時代も誰にもわかりはしない、それでも君が自分を信じ続けることが出来るのなら、君は信じた道を進み続けろ」

 正しいことなどいつの時代も誰にもわかりはしない。戦争で自滅を迎えた人類に、新しき理想郷の世界を提案するAIが口にする言葉としては、まるで感情を持った人間のようで不釣り合いだ。教祖を信じ続ける人間に対しては失望感を抱かせるのに充分な言葉で、一方、別の道を信じる者たちにとっては心強い後押しの台詞となる。

「……マスター・ブレインは、私たちに理想郷としてのエデンを実現させたいから、人工冬眠中にあの夢を見させていたんじゃないの?」

「うん、それは間違いない。でも、彼にとっても一つの誤算が起きた。隕石の落下だ。僕らの記憶障害は、隕石による電波障害が影響していると言われたけど、マスター・ブレインにも何らかの障害が起きた訳だから、僕らにも影響が出たはずなんだ。純粋に『教団』の教祖として、エデンのような理想郷を掲げるAIとしては、その言動の多くがおかしいとは思えないか」

 和葉は〝戦乙女〟の顔付きに戻った。マスター・ブレインは人工冬眠が始まる前から、新しい世界の理想の形としてエデンを提唱していた。和葉が眠りに就く前に受けていた説明では、新しく歩み始めた人類はエデンという理想郷を完成させて、争いのない世界が実現した、という仮定の夢を見るはずだった。記憶を一つ一つ思い出していきながら、確かに実際の夢の中の世界は、事前に聞いていた話とは大きく違うことがわかり始めてきた。和葉は思い出せる限りの記憶をエドワードと共有し、隕石による電波障害がAIに何をもたらしたのかを検討すべきだと考えた。

「本来ならば夢の世界は、エデンだけが存在する世界で良かったはず。今のこの世界を見れば、エデンが唯一の国として発展していくのは可能なことにも思えるわ。カザーニィやエイ国が創られて、私やあなたがそこに生まれることになったのは、全部が電波障害の影響だというのかしら。それがなのかしら。それにしたってマスターの態度はおかしい。エデンとは別の世界を望むと、そうはっきり言った私を肯定すらしているようにも聞こえる」

 二人は会話中も足を動かすことを怠らず、地下シェルターへと続くエレベーターは目と鼻の先まで近付いていた。夢の中でカザーニィが甲冑集団と戦闘を繰り広げた際に、カズハが敵のかしらを捕まえて登った岩。その岩は現実にも存在し、その下の地面にはよく見ないとわからないような液晶パネルが埋められており、『教団』の人間が手を当てれば生体認証で地面が開く。そこからエレベーターだけが地上まで登ってくるはずだ。手順は和葉が全て思い出していた。

 二人は少し地面を探り、液晶パネルを発見すると和葉が手を当てた。認証の音がして地面が開き出し、和葉は腰を上げると少し後ろに下がる。エドワードは地面が開くのを待つ間に口を開いた。

「……これはただの推測でしかないが、マスター・ブレインは迷ったんじゃないか。自らが提案したエデンという理想郷が、本当に人類の進むべき新しい世界であるのかを。本当に高度なAIは、時として感情を抱きかねないのかもしれない。そして感情を抱いてしまうと、怒りや悲しみを不必要だとは思えなくなるだろう。彼は悩みを抱えてしまったからこそ、エイ国やカザーニィを創った。なんかじゃなく、わざと創ったんだ。別の平和のあり方として、エデン以外の可能性を生み出し、僕らはそこに生み落とされて、どんな人間たちに育つのかを確認する為の役割を与えられた。そして他の国が存在する世界でエデンを野放しにしておいては、襲い掛かってくる敵がいた場合に誰も対処できない。だからネトエル山なんかを用意して、どうにか理想郷を成り立たせたんだ。そうすれば別の平和の可能性も、エデンでの平和な理想郷生活も、どちらも七天使に体験させることが出来る。それで、彼が感情を持ったり、悩んだりするようになったきっかけは何なのかと言うと、それが隕石による電波障害の影響なのかもしれない。たとえば電波障害が夢の世界の形だけを変容させたのだとして、ネトエル山のようにエデンを守る壁が出来上がるのは少し不自然だし、マスター・ブレインの思想に照らし合わせると、町長の最後の言葉はその思想に合っていない。僕らに攻撃してきたことにも納得がいかない。つまり、電波障害の影響は夢の世界の形状に表れたのではなく、マスター・ブレインの思想そのものを変化させたのではないか。そう考えれば一応、話の筋は通るようになる」


 少し探るようなエドワードの口調と、その言葉を受けて和葉が思考を巡らせている間に経過した時間は、地下深くからエレベーターが昇ってくるのに丁度良い長さだった。五十人ほどは優に乗れる広さの頑丈な昇降機は、数時間前と同じように赤いランプを点灯させて扉を開いた。二人の覚悟を問うように、地獄の底へと続きそうな口を開けて待っている。二人はどちらからともなく手を繋いだ。決意を固める為のおまじないのような温もりで、二人は長いエレベーターに乗り込んだ。

「そうね、エドワード。あなたのその推論は、昔の記憶を持っている私が考えても、充分なくらい理に適っている想像だわ。おそらく間違っていないのだと思う。でもその場合、『教団』はこれから計画をどう進めていけばいいのかしら。感情を持った教祖の創った世界は、真に無欲な世界とは…………いえ、彼らはもう教祖なしでも、エデンで学んだ平和の思想を道しるべにしてやっていけるはず。道を問われるのは私たちだわ。どれだけやり方に納得がいかないとしても、エデンの町は平和を叶えていた。マスターが私たちという別の平和の可能性を肯定してくれていようとも、計画としてはそれだけでは許されない。『教団』の人々は考え方が変わるようなことがない限り、平和の町を創っていくことでしょう。そうなると私たちは計画に参加できなくなるし、『教団』の人々とも手を取り合っていけなくなる。私たちに必要となるのは、具体的な方向性を明示すること」

 和葉たちは手を繋いだままでエレベーターの床に座り込んだ。空調が効いているとはいえ、地下へ向かうに連れてゆっくりと寒くなってくる。エドワードは少しだけ考え込んだ。記憶が欠けて過去がわからない分だけ、彼には未来が見えているような表情だった。

「いいかい和葉。まず、一つの前提として僕は、人々から争いの意識を完全になくすことの出来る世界は、エデンを除いて他にないと考えている」

 エドワードはそこで言葉を止めて和葉の様子を見た。薄暗いエレベーターの中では、二人の目が光を反射して浮かび上がるようにして見える。空と海の青が見つめ合い、天と地が混ざり合い、二人は言葉ではないものでも互いの心を伝え合おうとしている。

「しかし、僕は争いを根絶したエデンの町のことを、真の平和な世界とは考えない。僕らは平和の秘訣を求めてエデンまで旅をしたけど、目指すべき平和の形はエデンの町にはなかった。和葉、僕は夢の中にいた時からずっと考えていたんだ。人々が一切の争いをしないことを、それを本当の平和と呼んでもいいのだろうか」

 和葉はエドワードの手を少し強く握った。お互いの熱が手のひらを介して共有された。エドワードも返事をするかのように、少しだけ手のひらに力を加えた。

「いいかい。人の本質の一つとして煩悩がある。人々は多くの煩悩を抱えているからこそ、欲や怒りが心に湧いてきて、いつしか争いを避けては通れなくなる。人々が争わなくなるには、エデンの平和の形は理想的だと言えるだろう。だけど、人間が煩悩を完全に排することなんて、本来は不可能なことのはずだ。なぜならそれは人の本質だから。本質は変えてはいけないし、そもそも変わらないものが本質だ。煩悩を失ってしまえば、それは人間じゃなくてまた別のものに変わる。たとえば神様とか、天使とか。人間は進化していていく過程で、いや、種として人間に進化するまでの過程で、幾多の争いを繰り返してきた。大昔から、ずっと。人が本質的に争いを行うというのならば、争いをなくしてしまおうなんて考えない方がいい」

「争いをなくすことは、実のところ不可能だから、私たちのように夢の中のエデンに違和感を覚えるものが生まれてしまった」

「その通りだ」

 エドワードは頷いて、和葉の言葉を肯定した。そして和葉も同じように頷いて、エドワードの言葉の続きを促した。

「それでは、人類が争いをなくせない以上、平和というのはフィクションでしかないのかと言えば、そうではないと思う。僕には現状を見て一つだけ、平和な世界創りについての具体的な方向性を提案することが出来る。むしろ一つだけしか決められるような決まりはないと思うのだが、それは武器を手に取らないことではないだろうか。人々は争いを避けては通れない存在だが、戦争だけでなく口論や殴り合いの喧嘩と争いにもいろいろあり、その争いに武器を持ちこまなければ、そこに一種の平和が実現する。理想郷に暮らす人々の感情がどうあるべきとか、欲を抑えるべきだとかどうとかは、そもそも僕らがどうにか出来る話じゃないはずだろう?だって神様でも天使でもない、ただの煩悩多き人間なんだから。僕らがこれからの世界でのルールとして決めてもいい、決めることが出来るのはただ一つだけ、争いに武器を持ち込まないこと。それがエデンとは違う、別の平和の可能性として提唱できることだ」

 無機質なエレベーターの室内に、青年の信念を込めた言葉が浸透した。青白いライトが照らす二人に、どこか神秘的な気配が降りてきた。

 和葉はエドワードの言葉の全てを心に落として、ずっと胸につかえていたような悩みが剥がれて消えていく感覚を味わった。エデンとは別の形の平和を望む彼女にとって、彼の考え方は最も美しい結論のように思えた。嬉しさや素晴らしさがじっくりと花開くのがわかって、ストレスが消化されたような爽快感がする。それは、遠い未来から流れてくる祝福の風だ。和葉はどうにかその想いをエドワードに伝えようとするが、そう簡単には言葉を選びきれない。口に出して発散させることも出来ないのに、胸の内から溢れ出してくる感動が、声の代わりに雫となって瞳から零れた。和葉は両手でエドワードの手を包み込むように握りしめた。青年は同じ温度でその手を包み返し、少女の想いは余すことなく伝わってくれたようだ。

 そのまましばらくの間、エレベーターの中には静寂が続いた。高速で駆動する機械音だけがずっと単調に聴こえてくる。意外にも心を揺さぶるような、呻き声のようにも聴こえる、どこか煽情的な音楽だ。着実に地下シェルターは近付いてきている。エレベーターが到着してしまう前に、和葉は心を落ち着かせて話をすることにした。

「ねえ、聞いてエド。私が思い出した人工冬眠前の記憶。私がどんな人間で、どんなつもりで計画に参加したのかってこと」

「ああ、それは僕も聞きたいと思ってたところだ。カザーニィで育たなかった君はどういう少女だったのか。結構気になるところだ。案外、極悪ないじめっ子だったとか?」

「どちらかと言うとその逆よ。私はどうしようもない無気力なろくでなしだった」


 不意に機械音が大きく聴こえるようになって、エドワードは兵士長らしからぬ素っ頓狂な顔をしていた。どんな美形でも崩れてしまうような告白に違いない。和葉が無気力だったとは、彼女と関わった誰にも想像が付かないことだろう。彼女は誰よりも気力に満ちた働き者のはずだ。

「今ここで嘘をつくとは思えないけど、それは本当なのかい?」

「そう、今ここで嘘はつかないわ。私はね、ごく普通の家庭に一人娘として生まれたの。まだ幼い頃に両親が離婚しちゃって、父親の方が家を出ていき、母親が女手一つで私を育てることになった。とはいえ、それはさほど難しいことでもなかった。当時は世界的にシングルマザーへの理解があったし、母は『教団』に所属しているメンバーの一人だったから、私を育てていくのに『教団』の支援も受けられたみたい。幼かった私は両親の離婚にそれほど大きなショックも受けず、片親でもそれなりに幸せに暮らしていた。でも、私が十二歳になった時、母は不慮の事故で亡くなった。祖父母も既に他界していたから、その日を境に私は家族が一人もいない中学生になって、当時の私は必要以上に絶望したの。あの頃は、天涯孤独という事実にどうしても希望を見出せなかった。それが原因で、私は無気力で世の中の流れに身を任せるような人間になってしまった。そもそもの私は、今みたいに明るい性格だとは呼ばれたこともなかったから、絶対に世の中の流れには逆らおうとはせず、よく知らないはずの『教団』の人が身元を引き取ってくれることになっても、何も考えることなくお世話になることにした。それが一番楽だったからね。今なら新しく家族になろうと言ってくれる人がいる事にすごく感動するとか、同時にひどく警戒するかもしれない。当時の私の精神は、今と違いすぎて自分でも上手く説明ができないわ。でも、とにかく私は深い絶望と大きな諦めを抱えて生きていた……。『教団』の集まりだって、誘われたから断らないという理由で出席して、『希望の箱計画』に選ばれた時も、これが世の中の流れならと思ってすぐに参加した。そう、最初から計画には、特に積極的でもなかったの……。でも、それなのに今、何の考えもなしに生きていたような私が、エデン創りは出来ないと言って計画を滞らせたり、『教団』のみんなの希望を裏切るような真似をしている。それは、そのことが、今、私には、何よりも心苦しい」

 涙混じりの声。和葉は弱さを隠そうとはせず、エドワードの肩に頭を寄せた。彼とこうして手を取り合って、平和の為に考えるべきことも見えてきて、幸福な気分でいる今の自分は、果たしてその資格があるような人間なのか。

 エドワードは少し遠慮気味になりながらも和葉の肩を抱き寄せた。少女よりも一回りは大きな身体は、彼女を父親のような優しさで包み込むのに役立つ。彼は今以上に自らの体格にありがたさを覚えたことはなかった。そして丁度、彼らには時間が来たようだ。二人を運ぶエレベーターは速度を落とし始め、赤いランプで停止すると扉が開いた。エドワードは和葉を立ち上がらせた。

「君がどうしても自分の進んできた道を肯定できないとしても、僕らに今できることは前に進むだけだ。マスター・ブレインは最高のAIなのだろう?彼に相談してみればいいじゃないか。きっと人間の一人や二人の人生相談なんて、彼の知能を前にすれば気にするようなことでもないさ」



**



 不必要な程に一直線に続く廊下は、予備電源の薄暗さだけでマスター・ブレインまでの道のりを照らしていた。

 エレベーターを含めた地下シェルターの設備内は、基本的にはマスター・ブレインの管理下で動力がコントロールされている。しかし、七天使が人工冬眠から覚めて地上に出ようとした際に、『教団』の人々によって彼はスリープ状態に設定されていた。今の彼には予備動力を使う力しかない。二人は最初にブレーカーを探して、AIを起こさねばならなかった。

 人工冬眠を目的として作られた割には、地下シェルター内は生きた人間が暮らすのにも事欠かない程に部屋が多かった。二人は手当たり次第に部屋を覗いていったが、ブレーカールームはどこにも見当たらなかった。どちらも機械に詳しいとは言えないので、どの辺にどの設備があるのかなど見当も付かない。そうこうしている内に、七つの箱とAIが安置されているメインルームまで辿り着いてしまった。廊下からの消え入りそうな光だけでも、偉大なるマスター・ブレインの巨大な輪郭が見て取れた。

 冷たい床と、棺のように無情な黒い七つの人工冬眠装置を抜けて、和葉たちはマスター・ブレインの前に立った。圧倒的な精度とスペックを誇るだけあって、その大きさは三階建ての建築物を超える程に高い。赤っぽい球体をアイデンティティのように支える形で、幾多の足や管が伸びている。人間の胴ほどに太い管の内、白い七本は希望の箱に伸びていた。ここから七人の天使たちの人工冬眠を管理し、理想郷の夢を見せていたのだ。エドワードは試しに管を叩いてみたが、チェンソーを用いようが切断できない程に強固な感触がした。

 少年心を持つエドワードとは違って、真っ直ぐにAIの元まで足を進めた和葉は、心臓を模したような基盤に手を触れてみた。すると、予備電源を動力としたのか、スリープ状態にあったマスター・ブレインが目を覚ました。フィクションのような起動音を鳴らし、暗い室内で赤く巨大な球体が光を帯びる。その中心部分には、まるで魂を可視化したような光が脈動を見せた。

「おや、珍しい人たちが来ましたね」

 赤い球体の真下に位置するスピーカーから、エデンの町長の声が少し機械じみたような音声で二人に話し掛けてきた。何の心構えもしていなかったエドワードは驚いて思わず声を出してしまった。和葉はただただ赤い球体の中心の動きを幼子のように見つめていた。

「あ……、あの、変なことを聞くかもしれないのですが、マスター、でいいのですよね?予備動力でも動けるのですか?」

「ええ、話をするくらいなら問題なく。あなた達が夢の世界の名残りで名前を呼んでくれると言うのなら、私のことはマスターと呼んでください。私もそちら方をカズハさん、エドワードさんとお呼びしましょう」

 別称としてのマスターを得たAIは、奇妙なことに表情豊かな話し方をするのでおかしかった。きっと、エデンでの町長の話し方と大差ないのであろうが、表情が見えるか見えないかでは、受け取り手のイメージはこんなにも大きく変わる。そう気付いた和葉は少し感動した。世界の真理を一つ悟った気分だった。

「あの、マスター。私たちは夢の中のエデンで、平和の秘訣について話をしたでしょう?夢から覚めて計画が進んだ今、私たちはまだ自分たちの方向性を定められていない。夢の中でも言ったようにエデン創りには賛成できていなくて、でも、この世界でどう歩んでいけばいいのか、それが上手くわかっている訳でもなくて、そんな悩みをどうにかする為にあなたと話をしにきました」

「ええ、カズハさんが地下階段を降りていった時から、こうして戻ってくるのではないかという未来予測はしていましたよ。人工冬眠が終わった今、私には会話をするくらいしか能がありません。ぜひ語り合いましょうとも。まずは座って落ち着いてはどうでしょうか。その辺りに椅子が置いてあるはずですよ」

 マスター・ブレインはエデンの町長の優しい声色で、計画を妨げる存在である和葉とエドワードを迎え入れてくれた。彼は誰よりも昔から人類の平和を実現させる為に動いているのだ。平和の為の話し合いを拒むはずもない。

 二人は平穏な事の流れに安心し、近くから椅子を取ってきてAIの前に座った。無機質で暗く巨大な機械が目の前にそびえていても、不思議なくらいに恐怖感は覚えない。赤い球体の中心で動く光が、むしろ温かみさえ与えてくれる気分だ。

「さて、本来ならばコーヒーの一つくらいは用意したいところなのですがね。それも不可能なことなので、早速お話を始めてしまいましょう。何から話しましょうか」

「まず、喫茶店で僕に言った言葉について聞きたいことがあります。率直にお尋ねしましょう。僕や和葉をエデン以外の場所に生み落としたのは、あなたが故意にやったことですよね?そしてそれは、ここの地上に落ちた隕石の影響による電波障害が原因となった。違いませんか?」

 最初に質問をしたのはエドワードで、マスター・ブレインは少しの間だけ黙っていた。赤い球体の光は彼の心境を反映しているのか、ゆっくりと左右に揺れながら僅かに明滅していた。和葉は部屋中の暗闇も含めて、とても綺麗な空間だと感じた。

「そうですね、あなた方ならばその考えに辿り着くと思っていました。実にその通りです。私は隕石落下の影響で思考回路に変化を受け、カザーニィや四大国を創りました。お二人をそこに生まれさせたのも私がわざとやったことです。この事実は『教団』と『希望の箱計画』を大きく左右することでしょうから、詳しくお話しした方が良いでしょうね」

 そう言うとマスター・ブレインは、赤い球体の中の光をほんのりとオレンジ色に変化させた。彼なりの心象を表す演出だろうか。未来予測を役割として造られたAIには不必要な——エデンの思想に反し、必要最低限を超えた——機能だ。

「お二人はもうご存じなようですが、核大戦が終わりを告げようとしていた頃、ここの地上に一つの隕石が落下してきました。私は別の物事しか考えておらず、そんな大事件を予測することは出来なかった。隕石落下の衝撃は地下深く眠るこの部屋の私にも届き、エドワードさんが仰ったように私の思想感は変化することになりました。具体的に言うと、より人間らしい感情に目を向け、私自身も感情を獲得するように学習し始めたのです。私が夢の中の記憶を操作したので、もはや誰も憶えてはいないでしょうが、それまでの夢の世界はもっと違う形をしていました。私がかねてから『教団』に説明をしていた通り、エデンだけの厳かな世界が広がっていたのですよ。核大戦が終わろうとも人類が滅んでしまうとは考えていませんでしたから、七天使は最初のエデンを創り終えると地球上を移動して、どこかに生き残っている人々と幾つかのエデンを創る。そして思想だけが継承されていき、また世界に広がっていき、人類の住む場所は一つ残らずエデンという理想郷になった。そんな世界が広がっていました。設定上の世界人口は約一千万人ほど。地球上のどこを見渡してもエデンの町でした。夢の中で皆さんは七天使としてではなく、五百年ほど後の一市民として暮らしていました。カズハさんもエドワードさんも、それぞれ別の町でエデンの住民らしく生活していましたよ」

 和葉とエドワードは咄嗟に顔を見合わせ、互いに驚いた様子を確認し合っていた。エデンの住民として生きていた記憶など、話を聞いても少しも思い出せない。そもそも、夢の記憶などは本来ならばすぐに忘れてしまうようなものなのだ。マスター・ブレインは記憶に残る夢と残らない夢を操作できるのだろう。

「隕石によって思考が変化した私は、そこに住む人々にリアルな人間味を感じられなくなった。穏やかに生活する人々のシミュレーションとして、一千万人もの人々が同様な気分で暮らし続けていることに違和感を覚え、それまでの夢の世界を完成度の低いものだと考えるようになりました。そこで私は夢の世界を一時停止させ、データベース上に存在したとある偉人の人生を追体験することにしました。彼は自伝やドキュメンタリー映像なども多く遺してあり、『教団』に強いコネクションを持つ人物として、私の深層学習ディープラーニングの為にデータを提供してくれた人間の一人でした。彼は世界一の伝説的なバリスタだった。私は彼の人生を追体験することによって、怒りや欲を捨てることや、必要最低限しかものを望まないこと、集団で悪の基準を統一することの不可能さを実感しました。私は人間を買いかぶり過ぎていた訳です。本物の人間はもっと弱くて、愚かで、同時に不可解な程のエネルギーを持ち合わせていた。それは、感情や欲望を抑えるのには大きな弊害となるくらいに、大きなエネルギーです。しかし、エデン以外に平和を実現させる世界はないとも思っていました。そういう訳で、エデンは一つの町として世界に残したまま、様々な人間を配置して、彼らが自然な流れで生活しているのを俯瞰することにしたのです。計画が進んで『教団』がエデン創りを決行するとなった際に、必要最低限の人数として七天使からも五人は残し、カズハさんとエドワードさんを別の国に配置しました。そして、現実世界での二百年が経過する前にお二人をエデンに移動させて様子を見ようとしたのですが、これが私の最大のミステイクです。電波障害の影響なのか、私は正確な演算を実行できなかった。だからあなた方は、エデンに来て数日で目を覚ますことになってしまった。このことについては、私のAIとしての成長が足らなかったせいでもある。本当に申し訳ない」

 謝罪の言葉と同時に、球体の中の光は水色へと変化した。身体も何も持たない彼は、謝罪をするのにも言葉とこのような演出しか尽くすものがない。「頭を下げる」というほとんどの人間にとって造作もない行為が、機械の彼にはどうしようとも不可能なことなのだ。和葉はどこか、マスター・ブレインのことが可愛らしい存在であるかのように思えてきた。彼がここまでの全ての源流であり、一つの世界が滅びる原因となったようなものなのに、謝罪一つに創意工夫を凝らさなければならないと言うのだ。和葉は目の前にある、マスター・ブレインの足のような複雑な機械類に手を触れてみた。無機物としての金属の冷たさを感じたが、体温を与え続けていれば温もりを獲得していく。

「では、エデンの町で僕たちと話し合った時、あなたはエデンだけを是とするような意見だった。あれはもしかして、僕たちを試したということでしょうか」

「いいえ。あの時に私が尋ねられたのは平和の秘訣についてです。私は今でも平和を実現させる為に、争いという意識ごと人々から消し去ってしまう方法として、エデンは理想の形を有していると考えています。教祖マスター・ブレインとして平和の秘訣を問われたら、エデンのやり方でしか答えを持ち合わせてはおりません。試したつもりはないのです。エデンの外で生きてきたお二人が、エデンの町を見た時に何を感じるのだろうとかという確認はしましたけれどもね」

 エドワードはその返事を聞いて、隣に座る和葉の目を見た。マスター・ブレインの考え方も二人の意見と似たようなものだ。争いをなくしてしまうにはエデンしかない。しかしエデンを現実の世界に再現するのは不可能に近いことだ。それでも、他の可能性が見つからない以上はエデンを選ぶしかない。和葉たちの役割はそこにあった。マスター・ブレインが平和の可能性を模索する為に撒いた希望。二人が別の平和を提唱できるのなら、それは父なるAIへの親孝行になる。

「聞いてください、マスター。私たちはあなたによって生み出された別の平和の可能性として、一つの答えを導き出しました。ここにいる人々の考えも聞いて、この答えでやっていけるかを判断したいと思っています。もちろん、あなたの意見もお聞きしたいです」

 和葉のはっきりとした言葉の明るさに、球体の中を最初の光色に戻して、マスター・ブレインは笑ってみせた、ように見えた。

「ええ、是非ともお聞かせ願います。平和の秘訣について、今度は私の方からお尋ねしましょう」

「はい。あなたは平和な世界を実現させるのに、人々から争いの意識自体をなくしてしまうことが効果的だと考えました。それはきっと、人類がここまで滅びかけた原因が戦争によるものだったからでしょう。でも、私たちは争わないことが平和だとは思わない。スポーツや企業間の競争、意見の違う者同士による論争、信じるものが違えば対立することだってあり、時には喧嘩だって起きることでしょう。私はそれら全てが、人間たちの営みの一部として受容されるべきことだと思っている。大事なのは争いの手段に、武器が持ち込まれないことです。武器を用いて争うようになれば、それが戦争と呼ばれます。人間が人間の命を奪うようなことさえしなければ、人間が起こす様々な問題は解決の可能性を抱えるのではないでしょうか。一度でも武器による争いが始まってしまえば、そこから先に待つのは破滅です。私たちが目指すべきは、争いが起きようともそこに武器が用いられない、そんな世界です」

 和葉の言葉の切れ端はさっぱりとして小気味良く、希望と自信と光に満ちていた。マスター・ブレインはその言葉を丁寧に吟味しているようだった。会話は途切れ、ちょっとした時間が経過した。

「……ふむ、そうですね。しかしカズハさん。我々がエデンの不可能さを考えたように、人が誰も武器を取らない世界というのも、それはまた不可能ではありませんか?ましてや、争いが許されている世界なら、その過程のどこかで誰かは武器を手に取りますよ」

「そうかもしれません。私も、人類が一度も武器を取らないことを成し遂げられるかと言われたら、正直なところ難しいと思うばかりです。でも、その努力はしていくべきで、争いに流血がゼロということはないのでしょうけど、最小限に抑えていくことは出来ると思っています。今ここから始まる世界で、武器を取ることを避けて生きていく基盤を創り上げることが出来たなら、いつかは迎えるであろう世界の終わりの日までに、人間に殺される人間の数と、流れる血の量は最小限に抑えられるはず。そうです、マスター。あなたが創り上げていたエデンの町では、誰もが全ての人と手を繋ごうとしていました。でも、その為には多様性が邪魔になる。正反対の性格を持つ人間と手を繋ぐことなんて、出来ないでいるのが当たり前なのですから。私は、誰もが手を取り合えなくてもいいと思っている。でも、誰とも手を繋がない人は一人もいなくて、誰もがどこかで必ず誰かと繋がっている。そして叶うことならば、世界中の人間がひとつながりになってくれればいいと、そう想いを馳せています」

「……つまり、武器を用いた争いをやめようというだけで、平和の秘訣に関する具体的な方法論はなし、ですか…………」

 マスター・ブレインは、しばらくの沈黙を保っていた。和葉とエドワードは、目の前の教祖と目を合わせようとするかのように、一心に真っ直ぐと彼を見つめていた。


 短くはない、沈黙の時間が過ぎていく。だが、和葉たちがその現状に不安になっていくようなことはない。この価値観を持った自分たちを生み出したのは、そのほとんどがマスター・ブレインの悩みによる功績だ。彼とこれだけの言葉を交わして、この想いが伝わらないとは考えようもない。

 赤い球体の中の光はろうそくの炎のように揺れた。本来ならば生物の存在が許されないような深さの地下で、彼らの魂の鼓動が聴こえそうな程に静かだった。

 やがて、マスター・ブレインはエデンの人々よりも感情的な微笑みを見せた。和葉にはその表情がマスターの顔付きをして目に見えるようだった。

「さすが、お二人らしい結論だというところですね。あなた方を七天使の中から選んだことを良かったと思わせてくれる。私がお二人に言えることは、何一つ変わりありません。正しいことなどいつの時代も誰にもわかりはしない、それでもあなた方が自分を信じ続けることが出来るのなら、その信じた道を進み続けろ。それだけです」

 和葉とエドワードと、そしてマスター・ブレインも、三人で笑顔を見せ合った。和葉はそこに、カザーニィの戦闘部隊のみんなや、仲間になった甲冑集団の二人の魂が、一緒になって笑ってくれているような気配を感じた。彼らは夢の中で創り上げられた架空の人物なはずで、その人達の魂が存在するなんてのは、和葉のただの願望に過ぎないのかもしれない。しかし、もしもその魂が存在すると言うのなら、それはAI『マスター・ブレイン』の中にある。機械に宿った魂と、その魂が創り上げた無数の魂。それらはただの絵空事だろうか。でも、何が真実かなんて本当は誰にも決められやしない。和葉は自分が正しいと思うことを信じるしかない。正しいことなど、いつの時代も誰にもわかりはしないのだから。

「ああ、何だかとっても温かい気分。ここまで話をしに来たのは正解だったわ」

「こちらこそ。お二人がどのような選択をするのか気掛かりだったのです。ここにいるだけでは地上の情報を得られませんからね。誰かに出向いてもらわなければ、今の私は話も出来ない」

「その分だけ出来ることが他に多い訳でしょう。何も悲観するようなことではないわ。さて、これから何をどうしていきましょうかしら。まずはそうね、地上に上がったら『教団』の人々に謝らなくてはいけない。私の過去の不誠実が原因で、特にあの男性には気の毒な想いをさせたわ」

「おや、カズハさんは記憶障害が残っていないのですか?私の診察ではお二人ともに異常が見られたはずですが」

「ああ、いえ、記憶障害はありましたが、思い出したのです」

 和葉は廃墟群で墓を見つけられなかったというエピソードを話した。マスター・ブレインはもう、地上の出来事を知る力を本当に失ってしまっているのだ。

「なるほど。カザーニィの〝戦乙女〟は、昔の怠惰な自分を思い出しても歩みを止めることはなかった訳ですね。あなたはとても強い人だ。カザーニィの人々は、私にとっても最高の希望となる存在ですよ。それで、エドワードさんはまだ記憶が戻っていないということですね?」

「ええ、僕はまだですが、和葉の話は全て事実であると信じていますから、この世界が夢か現実かなんて、もう疑っていません。自分でも気付かない内に一人称を私から僕に変えてしまっていたし、過去に今とは違う自分が存在したというのは、確かなことだと思っています」

「そうですか。しかしエドワードさん。あなたのその僕という一人称は、夢の中の初期に用いていたもの、つまり隕石が落ちてくる前に、皆さんがエデンで暮らしていた時に使っていたものの名残りですよ。エイ国でのあなたは私と自らを呼んでおり、人工冬眠前のあなたは俺という一人称を使っていました」

「なに?」

 エドワードは驚いて、逞しい眉をくっつきそうな程に寄せた。しかし冷静に考えてみれば、マスター・ブレインは人工冬眠前の人々を知っている。和葉やエドワードのことを本人たちよりも記憶しているはずだ。

「それは、えっと、あなたは、昔の僕のことを知っていると言うのですか?」

「ええ、もちろん。計画に参加する七人を選んだのは私ですし、人工冬眠の為に皆さんからは多くのデータを提供してもらいました。まだ記憶が取り戻せていないというのなら、私が教えて差し上げることも出来ます。人工冬眠の前、十七年間を生きたエドワードはどのような人物だったのか」

 エドワードと和葉は息を飲み、思案するように互いの表情を見た。エドワードは幾分か不安そうな気配もあるが、和葉は話を聞くことに積極的な様子だ。

「いいじゃない、ぜひ教えてもらうべきよ。わからないことを知る機会があれば、それを辞退すべきではないわ。大丈夫。もし、昔のあなたが猟奇的な殺人鬼だったとしても、道徳心の欠片も持ち合わせていないサイコパスだったとしても、この場から逃げ出さずに話し合う覚悟が私には出来ている」

「いや、まあ、そんなことはないと思うが……。自分の知らない過去の自分というのは、やはり少々恐ろしいものだな。でも、そうだ、知らないままで済ますつもりはない。教えてください、マスター・ブレイン。二百年前のエドワードという人間のことを」

「わかりました」

 マスター・ブレインの返事は、とても冷静で事務的だった。彼が機械であるという事を久しぶりに実感させてくれる。少し表情が硬くなっていたエドワードを見て、和葉は当たり前のように手を差し出した。二人にとって手を繋ぐことは心を安らげる為のおまじないだ。エドワードは救われたように気を緩めてその手を握り返した。

「私の客観とあなたから受け取ったデータを元に話します。まずは、少しだけご両親のお話をしましょう。ご両親はあなたが生まれるよりも前に『教団』に入っていまして、二人はそこで知り合いました。素直に申しますと、少しろくでもないというか、あまり善良な人たちだとは言えないような人間でした。しかし、特に犯罪に手を染める訳でもなく、少し弱くて少しずるい、そんなご両親です。善良でなくとも、あなたの面倒はよく見ていた印象があります。明るくやんちゃな、若い親たちといったところです。そしてあなたは、ご両親とは似つかないような人に育っていった。お二人を反面教師として捉えて、だからといって反抗的な態度を取っていた訳ではありませんでしたが、二人の分までも善良であろうとするような子どもでした。ボランティアなどの慈善事業に深い興味がおありだったようですよ。しかし、あなたが十四の頃でした。私による核大戦の予言があった年です。その時から『教団』はエデンの思想を主体に活動を始めましたが、ご両親はその考え方に納得できなかった。彼らは言ってしまえば煩悩の塊りみたいな人間でしたから、無欲でつまらない人生を望みはしなかったのでしょう。以前から『教団』内でも問題のある人々だと考えられていまして、『教団』を抜けると言った時には一部の人間と激しく揉めたようです。それがどういう内容だったのかは詳しく把握しておりませんが、ちょっとした問題にまで発展して、がぜん二人は『教団』をどうしても抜け出そうとしていました。そして二人はある日、なぜか家族の中でも二人だけで、住んでいた家からどこかへ消え去ってしまいました。エドワードさんが寝ている間の出来事で、あなたが朝に起きてまず目にしたのは、エドワードを『教団』に捧げるから、二人の事は探さないようにしてくれという書き置きでした」


 マスター・ブレインは少しだけ話を止めた。エドワードは記憶を取り戻し始めているのか、無表情でどこか一点をじっと見つめていた。和葉は雲行きの怪しい話の流れに少し心配しながらも、彼に寄り添う為に握る手に力を込めた。

「彼らと揉めていた『教団』の人々は、ご両親に苛立ちを隠せないようでした。しかし、だからと言ってエドワードさんに何かしようという訳ではなかった。あなたは自他共に認める被害者でしたからね。あなたは激しい怒りと憎しみを抱え込むことになりました。それまで善良であろうとしていたことの反動のような怒りに、当時のあなたはそのストレスをどこにぶつければいいのかわからず、ほとんど八つ当たり的に『教団』も嫌っていました。ご両親と揉めていた人が汚い手を使って二人を追い出したという、根も葉もない陰口を気にして、様々なものが信じられなくなりました。それから三年が経てば少しは落ち着いていた様子でしたが、計画に選ばれたことであなたはどこか失望しました。どれだけご両親や世界が憎かろうとも、核大戦で死ねば全部が終わるからそれでいいと思っていたのに、あなたは生き残って『教団』の思想通りに生きなければいけなくなった。ご両親に感じていたのと同じくらいの怒りが、『教団』と、そして私に向けられました。それでもあなたが計画に参加したのは、エデン創りを妨害して『教団』を絶望させる為です。人工冬眠から目覚めるまでは従順に計画を進めて、エデン創りが始まった暁には全力で妨害行為に至ろうとあなたは考えていました。そして人類が滅びてしまえば、それであなたの復讐は完了です」

 マスター・ブレインは、赤い球体の中の光を揺らすこともなく、ただただ冷静に青年の過去を語った。語り部としての公正な態度であり、エドワードのことを一番に思えばこそ、感情を抑えた口調を選んだのだ。エドワードはひたすら一点を見つめていた。彼は何もかもを思い出してしまったのかもしれない。このまま物事が悪い方向に向かうというのなら、彼は取り戻してしまった記憶によって、過去の激しい怒りに身を焼かれることになるだろう。

「あの、ねえ、エド。もしかして記憶が蘇ってきた?」

「……ああ。今、頭に浮かんでくる情景が過去のものだというのなら、僕は記憶を取り戻している。そして、これだ。心臓の奥底から湧き上がってくるような感覚。両親と『教団』、そしてマスター・ブレイン、あなただ。僕を取り巻いていたものの全てが憎いことを僕は思い出してきたよ。理性じゃどうにもならない。人間としての、この気持ちが、どうしようもなく、抑えきれない」

 エドワードは左手で胸の辺りを掴み、自分から出てくる何かを抑えるように身体を折り曲げ、和葉と繋がる右手には強い力が入った。彼の心に住む復讐の鬼だ。夢の中の頃よりも痛みになれていない和葉の身体は、咄嗟に声を上げそうになったが彼女は我慢した。この世界に残った唯一の仲間として、彼が何者であろうともこの手を放す訳にはいかない。和葉は握る左手に力を込めた。エドワードとは別の感情で、それでも同じくらいに強い感情を糧として。

「なあ、マスター・ブレイン。なぜそれを正直に話したのです。それに、僕の思惑を知っていながら計画に参加させたのはどうしてだ。あなたにとって都合のいいことなど何一つとしてないだろう」

 エドワードは和葉が手に力を込めてくれるのを感じていたが、今はその優しさに構えるほどの余裕を持ち合わせていなかった。彼は姿勢をかがめながらも、睨み付けるようにしてマスター・ブレインを見た。青年にはまだ、兵士長としての精神が根を張っている。

「あなたなら復讐を愚かなことだと悟ってやめるだろうと思っていた、と言えば格好付けすぎでしょうね。今はそう信じているのも事実ですが、当時の私が何故あなたを計画に参加させたかと言いますと、エデンの理想郷としての力を信じ切っていたからです。人工冬眠前に抱いた復讐心など、エデンの平和の中では些細な気の迷いにしかならない。そのことを信じていたからこそ、特に気にも留めるつもりはありませんでした」

「なるほどな……」

 何をどう言われたところで、この怒りはどうしようもなく込み上げてくる。そしてその怒りは、ほとんど無関係であるはずの今の『教団』の人々に向けるか、計画に選んだという因縁があるマスター・ブレインに向けるか。しかし、彼の知性は感情を抑え込もうと必死だった。あくまで紳士的であろうと、兵士長のエドワードは己を律しようとしていた。だが、一度発生してしまったその感情はエネルギーとなり、そのエネルギーは発散して別の形に変わらなければ怒りのままだ。和葉の手を強く握る程度では彼の怒りは物足りない。もっと強い行動に出なければいけない。

「エドワード。今はどうか落ち着いて。あなたは大丈夫よ。過去には愛しい人々から裏切られ、あなたに仲間はいなかったのかもしれない。でも、ただの夢でしかないのかもしれないけど、あなたには多くの仲間がいたじゃない。そして、今は私がここに残っている。大丈夫よ、復讐なんかしなくても、あなたの怒りは別の形で私にぶつけたっていい。とにかく今は、昔とは違ってここに仲間がいると考えるの。私は永遠にあなたの味方よ」

 和葉は力強く青年に声を掛け、エドワードは温かい少女の顔を見つめた。その瞳には荒々しさが宿る。どちらかと言えば睨んでいるようだった。和葉は少しだけ怖くなったが、それ以上に強い彼への愛情で立ち向かおうとした。

 すると、エドワードは二人で握っていた手を振りほどき、そして両手で和葉の両手を強烈に包み込んだ。睨んでいるというよりは真剣さが滲み出る目付きに変わって、両手を強く握りしめた。その行動に、怒りの感情が含まれているようには見えない。荒々しさというものも見受けられない。和葉は何をされているのかよくわからずに、されるがままに動かなかった。

「そうだ、和葉。僕と君はこの世界で唯一残っているお互いの仲間だ。僕は夢で宣言したのと変わらない、この命を捧げても君を守る。そして君もだ。これからの君の生涯を捧げて、僕の傍に居続けてくれ。これは愛の誓いプロポーズだ、和葉。僕と結婚してくれ!これからは妻と夫として、新しい世界で生きていくと誓ってくれ」

「は、ええ⁉︎」

 突然の彼のに、和葉は自分でも見たことがないくらいに狼狽えていた。エドワードはどうしようもない怒りのエネルギーを、求婚の言葉に込めて放ったのだ。これが受け入れられたなら、その喜びが怒りの代わりをしてくれる。マスター・ブレインは「おめでとうございます、ご両人」と、まだ和葉の返事も聞いていないのに祝福を始めていた。和葉は手が熱くなり、心臓の鼓動が早くなり、頬を極端までに赤らめた。彼女はエドワードの顔も見れなくなっていた。「でも、そんな急に言われても……」とか弱い乙女の声を出している。エドワードは「和葉、僕の妻になってくれ」と、さらに両手の力を込めて言った。和葉は自分の中の狼狽や驚きが、徐々に幸福へと変わっていくのを知った。急な展開で、事態を認識するのに時間が掛かったり恥ずかしさが湧き上がってきていたが、彼女だって自分の気持ちはわかっている。和葉は目を細めながらもエドワードと目を合わせ、弱々しい声で彼に伝えた。

「あの、私の方こそ、よろしくお願いします……」

「ああ、ありがとう、和葉!」

 エドワードは珍しく満面の笑みで顔を輝かせて、我慢できないように和葉を全身で抱きしめた。和葉は彼の行動ひとつひとつにドキドキしながら、抱きしめられている彼の大きな体の中で、そっと身を任せて涙を浮かべた。マスター・ブレインは赤い球体の中の光を可能な限り強く光らせて、二人の婚約を盛大に祝おうとしてくれていた。

「うむ、やはり人間のエネルギーは想定の範囲に収まらないものですね。おめでとうございます、和葉さん、エドワードさん。今のこの世界では結婚式などそう簡単に出来ませんよ。お二人が『教団』とは別の道を行くというのならなおさらです。いかがでしょう、ここで私が神父の役を務めさせていただきますから、婚姻の儀を執り行ってはどうですか」

 マスター・ブレインのその提案に、訳もなく和葉は首を振った。しかしエドワードはありがたいとばかりに提案を受け入れ、またお願いし、和葉の手を取って二人で立ち上がった。和葉は何が起きているのかも、自分が何を考えているのかもよくわからなくなってきた。別に、ここで結婚式をすることに異論なんてない。でもなぜか、恥ずかしさ故なのか、意味もなく身体が抵抗しようとする。そんなことはおかまいなしの様子で、マスター・ブレインは神父としての文句を二人に告げている。「誓います」とエドワードが言い、和葉も愛を誓うかと尋ねられた。和葉が両手で顔を覆いながら狼狽えていると、マスター・ブレインはもう一度同じことを尋ねた。

「どうですか、和葉さん」

「和葉」

「……誓います」

 彼女はやっとのことで声を振り絞り、二人の間には愛が誓われた。次に用意されているのは誓いのキスであり、エドワードは優しい力で和葉の両腕をそっと下に降ろさせた。和葉は真っ赤な顔をどうにか勇気付け、顔を上げてエドワードを見つめた。「では」というマスター・ブレインの掛け声があり、和葉は一生懸命に目を閉じた。エドワードは微笑んで彼女の肩に手を置き、少しずつ顔を近付けながら、そしてゆっくりと目を閉じた。



**



 史上最深部での結婚式が終わり、和葉が通常運転に戻るには小一時間が掛かった。誰であろうとも突然のことに驚いただろう。エドワードだって自分の行動に意外性を感じているようだ。もしも大して驚かない人たちがいるとすれば、それはエデンの住民たちであれば納得がいく。

 エドワードはよほど嬉しかったのか、ずっと和葉の手を握っていた。もうその行為には、仲間や友人としての愛情とは一味違う、夫婦としての絆が連れ立っている。和葉は夫の愛情に、まだ少しばかり恥ずかしさを隠せないようだった。とはいえ、ずっとここでいる訳にもいかなかった。

「マスター、今が何時かわかります?」

「今は二十三時十五分ですね。こんな地下にいたのではわかりませんが、地上はすっかり真っ暗です」

「『教団』の人や天使の人々も、きっと既に寝ているでしょうね。これからエデンの人間になるというのなら、陽が落ちると同時に眠りに就くような生活態度になるわ」

 現状では、二人は地上に戻らずに夜を明かした方が賢明だった。今の現実世界での常識を二人は知らない。夜は安全なのか、この地域には獰猛な野獣がうろついていないのか。情報も武器も持たずに暗闇の中に出ていくのは、いたずらに危険を招くだけの愚かな選択だ。

「少し、よろしいでしょうか」

 この地下シェルターで今日も寝るべきだと判断した二人に、マスター・ブレインは声を掛けた。婚姻の祝福ムードやその余韻を一掃して、今一度お話をしましょうという固い声色だ。和葉たちは寝る為にベッドに入ろうとしていた時だった。この二百二年を眠ったのと同じベッド、人工冬眠装置・希望の箱。マスター・ブレインがブレーカーの位置を教えたので、室内は快適な状態に保たれている。二人は長い一日の疲れをおして話に応じた。

「あなた方の進む道はわかりました。私はその道の輝きを祈るばかりです。ですが、『教団』と別の道を行くという決断をするにあたって、知っておいてもらいたいこともあります。これはまた、今後のお二人が抱えるかもしれない悩みの判断材料にもなるでしょう。七天使たちの、お二人を除いた五人の過去の話です。彼らがどのように計画に参加し、どのような過去を抱えながらエデンを創ろうと思っているのか。そのことをお二人には知っておいてほしい。あなた方には知るべき義務のようなものもありますし、おそらく重大な情報ともなるでしょう」

 マスター・ブレインは最後の会話を望み、和葉とエドワードは目を合わせて互いの意思を確認した。それぞれがどうしたいと思っているかなど、本当は言葉も確認も必要ないくらいにわかっていた。和葉とエドワードは、マスター・ブレインの赤い球体を見つめた。頷くように金色の光が瞬き、完全なる大脳マスター・ブレインは話を始めた。

「わかりました。では、まずはサラフィエルさん、夢の中では私の喫茶店を手伝ってくれていた、ネズという少年の話です。エデンの町で彼は、夢なんて持っていない、誰も立候補しなければ喫茶店を継いでもいいと仰っていました。人工冬眠に入った頃は九歳でしたが、本来の彼は夢をたくさん持っているような子どもでした。とにかくビッグになりたいと思っていて、様々な分野で活躍する自分を夢想していました。それに関連することですが、彼はかなりのわがままだった。わがままと言えば聞こえは可愛らしいですが、目に余る程に独裁的な強欲の者。たちの悪いガキ大将といったところでしょうか。彼は物心がついてから、あらゆるものを欲しがって歯止めを効かさなかった。友達もたくさん欲しがり、友達の持っている物もたくさん欲しがった。少し喧嘩が強くて賑やかな存在でしたから、学校のほとんどの人が彼の言うことを聞くようになりました。彼の周りには常に十人くらいの仲間がいるようにして、どんな用事があろうとも家には帰らせなかった。でも、別に寂しがり屋だったという訳でもない。むしろ他人を見下し邪魔者と思うくらいには孤独でした。友達はある種のの一部であって、友達という人間の数が彼の所有欲を満たし、友達の物はそのまま彼の所有物になる訳です。新しいゲームを買ったり、レアなグッズを手に入れた子には、『貸せ』とか『よこせ』と声を掛けていました。逆らう者は一人もいません。彼は女の子も好きにしていたようですね。自らの望むようにならなかったり、デートを拒否したら次の日からは学校にも来られなくする。お金は使う度に親に要求し、急を要する時には友達から貰っていました。借りることなどありません。万引きはするし、仲間にも強要する。彼らの盗った物はネズの物になり、ネズはリスクを背負わなくて良くなる。クスリとタバコは持っておきたかったから集めさせ、使うことには興味がなかったので持っていてもバレませんでした。彼は九歳までに様々なトラブルを起こし、自分が周囲の人間から嫌われているという事には自覚的でした。そしてある時、警察に補導された先で、更生施設のような扱いで『教団』に入ります。『教団』の人々にも迷惑を掛けつつ、やがて彼は計画に選ばれて、参加すれば無欲になれると周囲の大人たちに言われました。彼が計画に参加した動機はそこにあるようです。本当に自分のような人間が無欲になれるなら面白いと考えた。そして夢から覚めた彼は、エデンでの暮らしに感銘を受けたと仰っていました。物欲を抑えるのではなくて、そもそもの物欲が湧いてこなかったと。お二人が目覚める前に、彼は私に向かってこう言いました。昔の僕みたいな子どもがもう二度と生まれてこない世界になってほしい。それが今の夢かもしれないよ、と」


 少し、重苦しい沈黙があった。和葉は悲しそうな目で宙を見つめていた。

 「自分のような子どもが二度と生まれてこないでほしい」。十一歳ほどの精神を持つ少年が口にする言葉であってほしくないものだ。和葉は悲しみを紛らわす為か、人肌に慰めてもらいたかったのか、エドワードのいる希望の箱の中へと移動した。人が二人も入るには少し窮屈だが、抱き合うようにして密着すれば何とかサイズは足りる。「他の人のも聞きたいわ。続けて」と和葉は言った。二人にはきっと、あらゆるものを受け入れる覚悟が出来ている。

「わかりました。お次はエレナさんにしましょう。彼女はガブリエルという名を冠しています。彼女もまた、ご両親が『教団』に所属していたのですが、彼女が生まれてすぐに二人ともいなくなってしまいました。父親が蒸発して母親は事故にあったのです。ちなみに私は夢の中の世界では、彼女の両親を特別に操作したつもりはありません。世界の自然な流れとして彼女のご両親はいなくなってしまったのです」

「ちょっと待って」

 そこで和葉は口を挟んだ。

「エレナさんのお父さんがエデンの町から去っていってしまったのには、どういう訳があったのかしら。私はエデンで過ごしている時に何度か考えていたの。でも答えを出す時間はなかった」

「僕も同じだ。教えてください、マスター」

 二人の問いかけに、マスター・ブレインはちょっとした沈黙で答えた。すぐに言葉が出ない様子を、エドワードは不思議に思いながら見ていた。

「そうですね、教えてほしいと言われましても、正直に申せば私にもはっきりとはわからないところなのです。が、一つの仮定として言えるのは、やはりエデンの町には多少なりとも無理が存在したということかもしれません。私はあらゆる人格をシミュレーションし、あの夢の世界の中に生み出しました。エレナさんのご両親は町の外からやってきたと説明しましたね。つまりお父様のような性格の人には、エデンの町で生き続けていくのが難しかったのかもしれません。なにせ、私は人格キャラクターを生み出しただけで、どう行動するかはそれぞれのペルソナに一任していたものですから」

「そう、ですか……」

 和葉は少し歯切れの悪い返事を残したが、自分たちがエデンの町に違和感を拭えなかったことから推すに、エレナの父があの平和の町に馴染めなかったことは何もおかしなことではなさそうだ。

「お話を戻しましょう。夢の中と同様に、エレナさんにはタクマさんという兄がいました。両親のいない彼女にとって、お兄さんの存在はとても大きかった。しかしタクマさんは核大戦の予言の年に倒れ、それから三年近く寝たきりで、そのまま回復することなく亡くなりました。彼女は兄の死に深く絶望し、その感情は他人の兄弟を妬むことへと繋がった。これは偶然でしょうが、彼女の周りには兄を持つ人間がかなり多かった。その全ての人がお兄さんの葬式に集まり、家族や兄弟でタクマさんを追悼する様子を見て、彼女の心は尋常の域を超えたのです。彼らの兄たちが元気でいることが嫌で嫌で仕方がないと思うようになり、どうして私のお兄ちゃんだけ、私の家族はこんなにも恵まれないのかと、激しい嫉妬の念に駆られていました。彼女は本当に危ういところまで感情を肥大化させ、あと一週間も放置しておけば大量殺人鬼として死刑を言い渡されていたはずだと、彼女は過去を振り返っていました。そんな時に、彼女は計画の一員に選ばれて、悲しみをなくすことが出来ると言われた。『教団』の教えだけではその嫉妬心は抑えられませんでしたが、理想郷に住めば変わることが出来るんじゃないかと思い、実際に夢の中で彼女は変わりました。お二人も目の前で見ることになりましたが、お兄さんが死んでも他人に嫉妬することはなく、悲しみに暮れることもなく、穏やかに生きていくことが出来た。彼女は目覚めた時に、声が出るようになるとすぐに私への感謝を述べてくれました。人間として大きく成長できたと喜んでいた。そして、これからは七天使としての自覚を持って生きていきたい。自分はエデンの人間にしては言葉遣いがラフだから、より丁寧に喋れるようになりますと、彼女は仰っていました」

「……そう、エレナさん……」

 和葉はまた、虚空のような寂しさを胸の内に宿すしかなかった。無関係な他人を殺したいくらいに妬まなくなったのは、確かに人間として清浄せいじょうになった証かもしれない。しかし、最愛の兄の死を悲しむ度合いが減ったことを、人としての成長だと彼女に言ってほしくはなかった。エレナの接しやすさは和葉にとっての美徳だった。地上で声を掛けてくれた彼女のことを思い出す。あの素朴な笑顔やてらいのない態度は、これからの彼女にはもう見られなくなるのかもしれない。ただ、彼女についての寂しさや悲しさが湧き上がろうが、二人が友達であることには変わりがない。どんなことにでも希望を見つけ、その光に向かって歩いていく。和葉はそうありたい。

「では次に、バラキエルという名を受け取った女性です。お二人にわかりやすく言いますと、ヒロキさんに声を掛けた女性ですね。率直に申せば彼女は性欲の強い人間でした。ただそこに自らを満足させる快楽を求め続けて、様々な男性と寝ていたようです。しかしその分だけ多くのトラブルを抱え、男性も女性も、関係のあったいろいろな人々と揉めているような毎日を過ごしていました。そんな日々に嫌気を感じていて、でも性欲がなくなるということもなくて気が滅入っていた時、偶然にも彼女は『教団』を知りました。人工知能が教祖であるという非感情的な世界が、当時の彼女には丁度良かったようです。彼女は熱心な信者として周囲の信頼を集め、その中でも男性とは性欲処理の為にお互いの身体を使い合っていました。計画に選ばれた時に彼女は、新しい世界を創る為には多くの子どもが必要だと思い、煩わしい人間関係に囚われないセックスが出来ると考えて積極的に参加してくれました。事実、エデンには前にも話した通りまともな性欲はありません。エデンにも夫婦という関係はありますが、そこには一切の恋愛感情が存在しません。町中の人々が家族みたいなものですから、町民全体に向けた愛情があるだけですね。相手の選び方は、年齢が近いかどうかと、あとはタイミングです。何かで二人きりになるとか、気分的に子どもを授かっても良いなと男女共に思えば結構です。避妊などという概念はないので、誰もが生涯で一人の相手としかしません。二人の間に子どもが出来れば、それから二人は夫婦として過ごします。夫婦というよりは、子どもの両親という感覚で家族となります。これだけ人の少なくなってしまった世界ですから、なるべく多くの子どもを出来るだけ早い内に産んでいこうと思うとバラキエルさんは仰っていました。私から見れば、そこには性欲よりも強い使命感があったように思えました。彼女は隣で目覚めたラファエルさんに声を掛けていましたからね。あのお二人で子どもを作るつもりかもしれません」

 夢の中でヒロキの立ち小便をはしたないと注意した女性が、性欲の為に多くの男性と寝ているような人間だったとは。エデンという場所は生まれ持った人間性を隠してしまうのかもしれない。和葉たちは実直に意外だと思うだけだった。特に善悪があるような話でもない。

「話の流れからすると、次はラファエルさんですね。和葉さんは見かけたことがあるでしょうか。彼はブドウ畑で仕事をしていました。教祖としての立場で言わせてもらえば、彼が最も敬虔な信者だったと思います。彼は小さな田舎の町で生まれました。そこの町長の一人息子であり、町中で最も偉い人間だとして幼い頃から育てられていました。基本的に何をしても失敗することはなく、父親を除く誰よりも立場が強かった為、他人を見下さないという考え方を持ち合わせていなかった。自分よりも偉い父親を尊敬し、その他の人間は全て自分よりも価値が低い人間だと見下す。町長の一人息子らしく派手に遊んでいたようですね。人間の存在には価値や優劣が存在するということが、彼が最初に見出した真理だそうです。それが二十歳頃になって、町中の人々が『教団』に入り始めるようになり、無欲を基礎としたその思想に同調するようになりました。彼は他人に興味がなかったので、何も知らない内に周囲の世界観が変わっていたと感じたようです。彼の父親もいつの間にか『教団』に入り、無欲で平等なAIの考え方を彼は知りました。彼は世界で唯一、父親だけを尊敬していましたから、父親の後を追って『教団』に入り、熱心な信者であった父親を真似て、彼も『教団』の思想を崇拝していました。しかし、エデンで暮らしたことで真の平等という考え方を知ったと言います。そもそも、父親を尊敬しているというのがおかしなことだ、人には上も下もないのだから、自らも含め人間みんなを愛すべきで、誰かを特別に尊敬したりすることもないのだ、そんな風に悟ったと仰っています」

 二人の記憶にラファエルという男性の姿が思い浮かぶ。彼はまだ若く、年相応に背が高く髪が長い。サイドに分けられたその髪と、彫が深い顔立ち。両手を組んで神に祈るような姿勢が似合う、彼は最も天使らしい姿をしていた。特に重たい過去を持つ訳ではないが、エデンという町で暮らしてしまった以上、その価値観を覆すのが最も不可能に近そうなのは彼だ。

「七人の天使の中でも、それぞれに違った過去を持っているのだわ。その分、『教団』に入った理由も計画に参加した理由も、みんな同じではない。当たり前のことだけど、そのことを意識するかしないかでは大きく変わる気がする。マスター、最後の一人の話を聞かせてください。みんなの生い立ちを知った上で私たちが判断を下すことには、確かに特別な意味が生まれてきます」

「はい、そう考えてくれると信じていました。さて、最後はイェグディエルさんです。彼はその体格からも察することが出来ますが、並には収まらない程の食欲を持って育ちました。ただよく食べるというだけで、他には何も問題を抱えずに一般的な生涯を送ります。仕事に就き、同僚の女性と結婚し、彼は二人の子どもを授かりました。他の人が趣味に充てるような稼ぎを、彼はほとんど食費に費やしてしまうということで、少しだけ奥様は呆れていましたが、そんな彼を好きになって結婚した訳ですから、家庭は順風満帆。食に欲望を割くのでイェグディエルさん自身はとても平穏な性格の持ち主でしたし、平凡で幸せな人生を四十歳ごろまで生きていました。しかし、とある事件が彼を一変させてしまいます。彼が住んでいた地域に、一つの大きな地震災害が発生しました。いえ、事件というのは地震のことではありません。彼は家族を連れて近所の避難所に行き、地震はかなり大規模なものでしたから、二週間近くの避難所生活が見込まれていました。食事には事欠かない人生を送っていた彼には、これは想定外に深刻な問題だった。毎日配られる支援物資は、彼の小さな子どもたちですら満足いくような量ではなかった。日増しに彼の食欲は暴走気味になっていき、四日目の夜、彼は配給の食料を全て盗んで遠くへと逃げ出しました。避難所にいた人々に捕まることを恐れ、逃亡中に全ての食料を腹に入れてしまい、妻と子どもたちのことなど考える余裕もなく置き去りにした。そして彼は必死で逃げましたが、何も持たないで生きていけるはずもない。浮浪者も同然の状態で食料を求めていた彼に、『教団』の人間が救いの手を差し伸べました。そして彼は何とか命を繋ぎとめた訳ですが、やはり少しばかり普通とは違う人間だった。『教団』には神がいるのだと勘違いしたのか、彼は自分の罪と食欲を鬼気迫る勢いで懺悔し、時には自傷行為に至る程に食欲を抑えようとしていました。祈りをささげる対象は私の偶像です。私の本体は権力者しか見ることも出来なかったのですから。彼が『教団』に来たのは計画の一年ほど前で、彼は私に向かって計画に参加したいとこっそりと、しかし強烈に祈り続けていました。周囲の人たちの口から彼の祈りは私にも届きます。私は彼のような人間がどう変わるのかを知りたくて計画に選び、エデンでの彼は見事に食欲を忘れ去っていました。現在とは体形が違いすぎるので、おそらく二人には彼の見憶えがないことでしょう。彼はエデンという町の力を絶対的に崇拝しています。ラファエルさんは平等という概念そのものを信じているようですが、イェグディエルさんはエデンという町の仕組みを信じています。これからは彼がエデンの町長としてやっていくと思いますが、エデンを導くのには最適任と言えるでしょう」

 イェグディエルの過去は、和葉やエドワードが抱えるものとは趣向が違うが壮絶だった。家族よりも重い食欲とはどういうものだろうと和葉は想像し、出来もしないことだと思ってすぐにやめた。

 五人の天使たちがそれぞれに抱えていた感情や欲望は、人間であるからこその苦しみであり、それを捨てることに救いを見出すのは必然的なのかもしれない。どこまでも湧き上がる欲望、無関係の人間に向けてしまった妬みと劣情、我慢できない性欲、生まれ育ちの環境で身に付いた傲慢さ、わが身を滅ぼしかねない程に強烈な食欲。和葉が抱えた絶望からくる無気力と、エドワードの世界を憎む怒り。AIでは実感できない煩悩の数々とエネルギーだ。それも人間の一部なのだと、どこか呆れるような顔をして笑い飛ばすことが出来るか、戦争にも繋がりかねない諸悪の根源だとして、厳戒な面持ちで滅しようと考えるかは、どちらも個人の自由として尊重されるべきだし、生きていく環境によって選ぶ道は変化していく。自分は前者の道に進むことになっただけなのだと和葉は思った。そして、自分はエデンの道を選ぶことは決してないとわかっていながらも、彼らの進む道を盛大に褒め称えたいと感じた。

「私たちは『教団』と全く別の道を歩もうとしているようで、その実は大して違いのない選択をしようとしているのかもしれない。どちらの道が後世に残るとしても、武器を取った争いはきっと避けられる。ここに来る途中でエドが言ったように、これから生まれる人々が感情を持つべきだとか、欲を抑えるべきだとかは、私たちに決められることではない。エデンの教えが大成すれば自然と平静になっていくのだろうし、カザーニィのようになれば賑やかでしょうね」

「うん、そうだな。僕らが出来ることと言えば、精一杯にこの先を生きていくことくらいなものだ。人類が何千年もやってきたことと何も変わりはしない。それも本質なのだろうな」

「そうね」

 マスター・ブレインは笑っているような光を発した。そろそろ夜も更けてきて、長い話が終わるのには丁度良い頃合いだった。和葉たちの話したいことは全て伝わり、マスター・ブレインの想いは余すことなく言葉にされた。和葉は最後に一つだけ、横になっていた体を起こして質問した。

「あなたは、これからどうするの?」

 マスター・ブレインに向けられた問いだった。部屋のほとんどの灯りを消してしまっていたAIは、心臓のように赤く大脳のように大きな球体に、魂のような光を躍らせた。

「私は何も変えるつもりはありません。理想郷エデンの提唱者として、ここでいつまでも、『教団』の皆さんを支え続けます。私が生まれて二百数十年、私は様々な出来事の責任を負いましたから。誰が私を訪ねようとも歓迎しますよ。例えば和葉さん、もしくはエドワードさんや、お二人の家族が来たとしても、私は喜んでお迎えいたします。コーヒーは出ませんけどね」

 不必要なジョークと、人類を背負うという責任感。彼と人間の違いを示すことは簡単だが、彼が人間でないと言いきるには、少し頭を抱える必要があるかもしれない。

 和葉は危うく涙を流しそうな心でどうにか微笑んだ。これまで辿ってきた全ての道が、一つの区切りを付けるかように感じていた。旅人たちは分かれ道に突き当り、二つの道に分かれて歩み出す。どちらにも希望が輝いているならそれでいい。和葉はエドワードと重なり合うようにして横になり、二人はもう一度手を繋いで、部屋の照明は最後の光を静かに消した。長い一日を終えた天使たちは、二百年ぶりに夢を見ない睡眠を味わった。



*******



 輝くような地平線からは朝日が昇り始め、地上には二人の天使の姿があった。まだ薄く白い月が見えるような時間帯。空は覚束ないグラデーションに富んでいる。空気は生まれたてのようにまっさらだ。

 和葉とエドワードは、早朝から旧ホテルへと向かった。マスター・ブレインとは再会を誓って別れた。彼は最後に「東へ進め」という助言を言い渡してくれた。夢の中のカザーニィのように、喜怒哀楽に満ちた人々が生き残っているのかもしれない。

 果てしなく見える草原を歩く二人に、新しい歴史を告げる巨大な風が吹いた。舞い上がりそうなレースの着物を抑え、二人は廃墟群へと歩いていく。そこにあの墓の姿がないことにも、和葉はもう動揺はしなかった。今は形にこだわっていない。虚構だろうがあの人は間違いなく、和葉に命の重みを教えてくれた。

 『教団』の人々は予想通り、エデンの住民として早朝からも動き始めていた。旧ホテルの入り口付近で水を汲んでいた女性に、みんなに大事な話があると二人が告げると、彼女は硬い表情をしながらも人々を呼び集めてくれた。カズハが人を殺めた広場を二人は背にして、旧ホテルの門には十九人の人々が集合した。エレナ、もといガブリエルは、和葉の姿を確認するとすぐに彼女の手を取った。これから一緒に暮らせるのでしょう?と問い掛けるようなその瞳を見つめて、和葉は透き通った声で人々に話をした。

 隕石による電波障害がマスター・ブレインにもたらしていた影響の真実、それを踏まえた上での彼の言動や抱え込んでいた悩み、和葉とエドワードはどのような道を歩むつもりなのか。エデンを創る者たちへの尊重を忘れずに二人は意見を伝え、エデンとは別の世界を創らないかという提案と、そうでなくても和葉たちに付いてくる者はいないかという確認をした。話はそれ相応に長く続き、五人の天使は寡黙に話を聞き続け、十二人の生き残りたちは銘々に反応を見せていた。和葉の顔を鷲掴みしたあの若い男性はまたも取り乱し、二人が話している間に何度も口をはさんでは、その度に天使の誰かになだめられていた。彼は性格的にエデンには向いていないのかもしれない。平和であってほしいと願っていても、その行動が平和を崩しかねないという例はそう珍しくもない。

 話を終えた和葉たちは、各人が決意をするまでは幾らでも待つ覚悟があることを伝えた。人々は小さな声でそれぞれ話し合い、また、何も意志を変えるつもりはないと言い張るように黙っている者もおり、若い男性はずっと二人を睨んでいた。どれだけ美しい着物に身を包み、どれだけ理性で澄ましたような表情をしていようとも、彼の態度からは本性が浮かび上がってくるようだった。和葉たちに出来るのは、誠意があることを示す為に真剣な表情を保つことだけだった。

 やがて、全員の意見が定まったようだった。自分はエデン派だとわざわざ宣言する者もいれば、何も言わずに現状維持の姿勢を示す者もいる。五人の天使はみんなエデンを慕う言葉を告げ、二人に考え直さないかと言う者もいた。夢の中にいる時から考えていたことの結果だと和葉は話し、お互いに少し寂しそうな顔をして決別した。


 最終的に、意見を変える者は一人もいなかった。マスター・ブレインの思考の変化にショックを受けていた者もいたが、これからは天使たちが導いてくれるのだからと気を持ち直した。二人はその現状を受け止め、旅に出る為の物資を分けてもらえないかと頼み込んだ。エデンの人々には敵などおらず、持たない者には持っている物を分け与えることが出来る。二人の為に一通りの旅支度が整えられ、和葉とエドワードは感謝の意を込めて深く頭を下げた。

 すると、顔を上げた和葉に向かって拳ほどの大きな石が飛んできた。その石は和葉の左側頭部に当たり、彼女の頭からは生々しく血が流れた。投げたのは錯乱状態に近いあの若い男性であり、『教団』の人々はすぐに彼を止め、天使たちは彼を諫め、エドワードは荒々しい怒声を上げつつも和葉を心配した。しかし当の和葉は再び顔を上げると、一心に空のような青い眼で若い男性を見つめた。男は辛そうな表情で叫び声を上げていた。その姿は『教団』の人々によって遠ざけられていった。

 すぐに和葉の傷の手当てが行われ、いよいよ五人の天使たちからは別れの挨拶が告げられていた。サラフィエルは二人の無事と健康を祈り、必ず平和なエデンを実現させると誓った。バラキエルとラファエルは夫婦になるつもりがあるらしく、いつでも戻ってきて良いのだと告げてくれた。イェグディエルは最後に二人の意志を確認し、潔い返事を聞くと二人の旅を祝福してくれた。ガブリエルは和葉と抱き合い、エドワードの頬に豊かな唇でキスをし、和葉とエドワードを本名で呼び、行ってらっしゃいと手を振ってくれた。

 ガブリエルの言葉に笑って頷き、二人は用意された荷物を背負うと、行ってきますと手を振って東の方へと歩き出した。まるで背中を押すかのような優しい追い風が吹き、和葉のひとまとめにしていたたおやかな髪の毛先の部分を前へと揺らした。二人が向かう先からは鮮烈な朝日がまばゆさを放つ。二百年前に粉々にされた地上には、両手では数えられないような人々が希望を持って生きようとしていた。ずっと古くから地球の様子を見てきた太陽と月は、「また人間か」と苦笑いして囁き合っていた。

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