アダムとイヴへ(序破急Ver)

稲光颯太/ライト

序章 エデンへ

 *******



 はるか遠い未来、もしくは、気の遠くなる程の昔……。

 大地は荒れ草木は眠り、多くの争いが起こった。誰もそれを止めることは出来なかった。

 ひとびとは減った。どこまでも減り続けた。

 そして、深い深い地下の底、生命の存在など許されないはずの場所に、七つの箱が存在した————。



 *



 二ヶ月前、見渡す限り一面の雄大な草原の真ん中にて。

 戦国武将の鎧に似た甲冑を身に付けた者たちと、原始的で丈夫な毛皮の布を着た者たちが争っていた。

 前者は背丈ほどもある大太刀、後者は二本の短剣を振り回し、あちらこちらで雄叫びが飛び交っている。そこにいるのは男ばかり。皆、荒々しく伸びた髭を揺らし、血管の浮き出んばかりに力を込めた逞しい腕を振るって斬り合いに興じている。

 甲冑の男が太刀を振り下ろし、毛皮の男が二本の短剣で受け止めた。しばしの間、両者はその状態のまま睨み合っていたが、そのすぐ脇を小さな影が横切った。甲冑の男がその影に目を盗られた刹那、短剣を持った男は素早く刀を振り払い、相手の喉元を鋭利な切っ先で貫いた。

 小さな影は戦場の中を素早く駆け巡る。廻る足を止めることなく動き続ける姿は目にも止まらず、その正体がこの戦場で唯一の女であることを甲冑集団は誰一人として知ることはない。

 軽く丈夫な布と二本の短剣で戦いに挑む毛皮の者たちは、カザーニィという国の人々だった。集団から少し離れた場所で戦況を見守っていたカザーニィの一人の大男は、一本の竹筒のような楽器を力いっぱいに吹き鳴らした。高音で耳をつんざくような奇音に、その場にいた誰もが動きを止め、音のした方角に目を向ける。一瞬のその隙を女は見逃さない。

 風のような動きで甲冑集団のかしらに飛びつき、喉元に短剣を突き付けて相手の動きを牽制けんせいし、草原にポツンと置かれた岩の上に登るよう指示する。敵の大将を相手に油断なき命のやり取りを行うのは、まだ思春期の最中にいるような、空のような青い瞳を持ったうら若き少女だった。

 かしらは武器を置いて少女の指示に従うと、戦場にいた者たちの視線の全てが少女の持つ短剣の先に注がれた。

「今すぐ刀を置いて降伏しろ!そうすれば命は奪わない、元来た方角に帰れ!お前たちのかしらは討ち取ったも同然、今すぐ降伏しろ!繰り返す……」

 少女のよく通る声が草原に響き渡る。短剣を持ったカザーニィの人々は目の前の敵に太刀を置くように促し、かしらを討ち取られた甲冑の者どもは力なく武器を捨てて逃げていった。

 その様子を確認した少女は短剣を引っ込めて岩の上に降りた。少し気の緩んだような様子で岩の上から周囲を見渡すと、その隙を窺っていたかしらは咳き込む振りをして身を縮めた。男は甲冑の中に仕込んでいたナイフを静かに握りしめ、少女の喉元を鋭く睨んだ、その時だった。

「ごめんね。ちょっと刃が当たって首の皮を切っちゃったわ。少し血が出てたけど大丈夫?痛まないかしら」

 そう言って少女は敵のかしらの首を覗いた。ナイフと少女の喉元の距離が限りなく近くなる。

 確かに少女の言う通りに血は流れていたが、怪我と言うにも大袈裟な程で、それでも少女は自分の身に纏う布の一部を切り取り、血の流れているところに当てて男に自分で持つように言った。

「はい、このままにしていれば帰り着く頃にはすっかり血が止まっているわ。国へ戻ったらカザーニィとは和解することになったと伝えてちょうだい。後日改めてそちらの王様に手紙が行くと思うから。あ、一応そのナイフもここに置いていってね。それじゃ、行っていいよ」

 謝られた上に傷の手当までしてもらったかしらは呆気に取られてしまい、自分でもよくわからないままにナイフを岩の上に置き、カザーニィの少女の言う通りに国の方角へと帰って行ってしまった。

「いやぁ、よくやったカズハ。またしてもこちらの死傷者はなし。流石はカザーニィの〝戦乙女いくさおとめ〟だ」

 先の戦中に楽器を吹き鳴らした大男・ダンゴは楽器を抱えたまま近付いてくると、剛毅に笑ってカズハと呼ばれた少女を褒め讃えた。

「もう、いちいちそう呼ぶのやめてったら。戦場で乙女なんて呼ばれても嬉しくないわ。それに、戦場では隊長でしょ」

 カズハもそう言って笑うと、短く切り揃えられた黒く艶のある髪を風に払った。勝利を収めた一同は、曇りない顔付きで荷物を抱えて帰国の途に就いた。



 彼らの住むカザーニィという国は、戦場となった草原から二時間ばかり歩いた場所にある。人口二千にも満たないような小国で、国とは名ばかりの村のようなものである。人々は温厚かつ善良で、作物を耕し無益な争いを好まず、甲冑集団のように攻めてくる者どもから国を守る為にのみ武器を取るのであった。

 とはいえ、戦闘力はそこらの国よりも遥かに高く、俊敏な動きを可能にする丈夫で軽い毛皮と二本の短剣を併せ持ち、〝戦乙女〟と呼ばれる女性指揮官の元に最小限の流血で場を収める。〝戦乙女〟は未だかつて一人の命も手に掛けたことのない、不殺の勇者として有名だった。先の戦いでも自国の戦死者は一人も出さず、敵国から出た一人の死者は墓を作って丁重に弔ってきた。

 世界のことを少し話そう。

 幾らか昔、世界中を巻き込む巨大な戦争が起きた。今では核大戦と呼ばれ、不戦の契りを交わしている国々をも否応なく戦火の中に引きずり込み、生み出すものといえば死者、死地、灰の空。そこらは人々の亡骸で溢れ返った。

 世界人口は極端なまでに減少していった。力のある国が惜しげもなく核を落とし続けたのが主な原因だろう。信じられないことに、あれ程も蓄えられていた核兵器が、その開発者も含めて存在しなくなるまでに戦争は激化したというのだから、怒りや恐怖を通り越して呆れるばかり、風刺のような核兵器根絶である。

 そして現代。世界の人口は数百万から数十万とも言われているが定かではない。

 生き残った人々は日本の縄文時代さながらの生活を送り、各地で国と呼ばれるコミュニティを形成していたが、どこもカザーニィのように村レベルの人の少なさであった。



 カズハやダンゴら戦闘部隊の面々がカザーニィに戻ると、国の人々は活気良く迎え入れてくれた。取り分け子どもたちの歓迎は手厚く、疲れているであろう大人たちに水を汲んできたり、どんぐりや泥団子の差し入れで戦士たちの帰還を労うのであった。

「カズハ姉ちゃんおかえり!てき、ぶったおしてきた⁉」

「はい、どんぐりあげる。どこかケガしてない?ふしょうしゃはあたしのびょういんに来てね」

「ええ、みんなありがとう。私は平気よ。ちっとも怪我なんてしてないわ。それより、おじちゃんたちをマッサージしてあげたらどうかしら?ぐりぐりぃって」

 カズハがそう言ってダンゴたちを見ると、子どもらは一斉に男たちの方へ向かった。彼らは無邪気の温かい歓迎に喜びながらも、元気過ぎる幼子たちに少々手をこまねいている様子であった。和気あいあいのおしくらまんじゅうが出来上がり、群衆の中からようやく抜け出してきたダンゴはカズハの元へと歩み寄った。

「あれほど子どもたちが元気なのはワシらの国ぐらいなもんですぜ、隊長」

「ちょっと、戦いが終わったら隊長って呼ぶのやめてって言ったじゃない、おじさま」

「おっと、ついうっかり。カズハ

 十七にして戦場いくさばの隊長になんてなってしまったもんだから、こうして日常と戦場での自分を分けて考えなければならない。この少女にはこれ以上の苦労は掛けてはいけないぞと、ダンゴは自らに言い聞かせた。争いの起こる度に行う反省である。

 前述のようにカザーニィはいくさに関して積極的ではないので、普段は見張りの者が国の周囲を見渡しており、敵影を発見しない限りは何も起こらない。カズハたちのような戦闘部隊員もいつもは農作業や子どもの世話をするばかりで、豊かでのびのびとした暮らしを送っている。季節にあった作物を採り、川や大地の恵みを受けながらお天道様に見守られ、与えられるものを受け、無暗に望まず、よく遊びよく寝て、衣食住に困ることもないのでみんなが穏やかに支え合って暮らしている。そんな優しいカザーニィのことが、カズハはこの世界の何よりも大好きだ。

 ダンゴのみならず、国中の誰もがそんなカズハの細やかな幸福を大事にしたいと思っていた。しかし、こと戦闘においては、この国はもう彼女に頼らずに自衛を成し遂げるすべはないのだということも、国中の大人たちは重く理解していた。それだけカズハという少女は闘いに秀でた才覚を持ち、またそれだけ世界は武力で奪い合わなければならない程に荒廃しているのである。

 戦いに勝つ度に彼女の中の鬼は育ってしまう。いつまでもこうしては生きてゆけない……。これから始まる小さな宴会の前に、ダンゴはひとり抑えきれない焦燥を抱えて武器を見つめるのだった。



 *



 そんなカザーニィにも平穏な時期が続く、ある日の事だった。

 カザーニィには円形の木の塀が張り巡らされており、出入りするには東と西に設置された門からということになる。その西の門のすぐ近くに、今にも倒れそうな様子でよろよろと歩く一人の男があった。

 真っ白なレースのような美しい着物を身に纏っているが、矢が腹に刺さったままなので血がとめどなく流れ続けており、白い着物は半分以上が紅く染まっていた。西門の守衛がその様子に気付き、国中に報せの太鼓が響き渡る。どの国民も一度にして動きを止め、遊んでいた子どもまでもが西門へと集まった。国を挙げての緊急手当てが始まった。

 各地からともなく水や包帯が集まり、すぐに薬が何種類も用意された。客人を招く為の豪華なベッドに男は寝かされ、矢はすぐに抜き取られ止血も行われた。然るべき薬を塗り、手厚く包帯が巻かれ、子どもたちは男の手を握った。男のいる建物の外では無償の祈りを捧げる者が多くいた。

 国民たちの手当てから少し遅れて、カザーニィの国王やカズハたちが到着した。しかし、男はもう虫の息で、普段の呼吸もままならなく喘いでいる。誰がどう見ても、失われた血の量が多すぎたのだ。核大戦後の世界では未だ輸血の技術は確立しておらず、こうなってしまってはもう励ます他に手はない。少しでも、生きる方に心を向けさせるしかない。

「どうか頑張って。何があったの?あなたはどこから」

 カズハが近付いてそう尋ねると、男は今にも消え入りそうな小さな声でやっと答えた。

「私はエデンという町から来た者……。エデンは外交を行わない町なので、私は少し外の世界に興味が湧いて……。町の人には黙って出てきたのですが、突然どこの誰とも知らない者たちから襲われました。彼らは何か、叫びながら私を攻撃して、私が、無我夢中で逃げ出すともう追っては来ませんでした……。その際、この、棒のような物が刺さって、血が止まらなくて……」

 男は自らに刺さっていた矢を指差しながらそう言った。矢とは何なのかも知らないような口振りだった。武器と言えば剣か弓矢しかないこの地域で、それはなかなかあり得ないことだ。

「どうか落ち着いてください、治療に最善は尽くしました。死んでは駄目です、頑張って。これはね、矢といって、生き物を攻撃する為の道具です。あなたが襲われたのはきっと、どこかの国の領地に入ってしまって斥侯とでも間違われたのでしょう。気の毒なことだわ」

「生き物を、攻撃……」

 カズハの言葉を聞いて、男は信じられないと言うように首を振った。

「それで、エデンってどこなの?この時代に外交もしないだなんて、名前すらも聞いたことがないけれど……」

 カズハの問い掛けに男は答えようとしたが、上手く声を出せずに血を吐いた。男の治療をしていた者たちは大慌てで薬を用意したり水を飲ませようとしたが、誰がどう見ても手遅れだ。男は文字通り命からがらといった掠れた声で何とか質問に答えた。

「エ、エデンというのは、私の住む町の事で、ネトエル山、の、山頂にあります。エデンは美しく平和な町です……。まさか今の世界に、あ、争いがあるなんて、私は思ってもみませんでした……。ううっ!」

 男はまたしても血を吐いた。その血はカズハの腕や顔にかかるが、彼女は嫌がる様子もなく男の目を見つめた。カザーニィの人々は全力で治療に当たっているが、男を見つけた時点で既に手遅れだったとしか言いようがない。男の手首を握り脈を計り続けていた老婆は、少ししてカズハを見ると首を横に振った。

「お、お願いです。どうか、エデンに残してきてしまった、私の妹に、兄はお前のことをいつまでも愛しているよと、伝えて……。わ、わた、私の名前、は……」

「ああ!」

 一同は声を上げた。

 男は最期の力を振りしぼるようにカズハへ手を伸ばしたが、名前を告げるのにあと一息のところで息絶えてしまった。カズハは男の手を握った。

 老婆は男の手首を離して心臓の動きを確認したが、もう二度と脈動することはないのだと確認すると弱々しく手を合わせ、その場にいた誰もがエデンから来た男の死を悼んだ。国中が静まりかえっていた。



 その日の夜。エデンから来た男を墓に弔い、国王や戦闘部隊員ら集合の会議が開かれていた。

「まさか、この時代に戦争に巻き込まれていない場所があるとは。ネトエル山の頂上、エデンの町といったか。誰か聞き覚えのある者はいないか」

 国王は集まっていた者たちを見渡しながら問いただしたが、誰一人として首を縦に振る者はいなかった。会議の広場には束の間、夜の虫の声だけが響いた。

「ネトエル山は四大国に囲まれた大きな山です。その周辺の森には恐ろしい魔物が住むというんで、四大国の者は誰も立ち入りませんし、山に人が住んでいるなんて考えもしないでしょうな」

 ダンゴがそう述べ、国内でも最高齢の弓の名手・トシが裏付けのように頷いた。すると、その隣にいた戦闘部隊第二の実力者・サンダユウが大きな口を開いた。

「彼は西門の方から来ました。四大国でもバチこくとエイこくさとい国ですから、武器も持たない人間をそう訳もなく攻撃しないでしょう。特にエイ国は盾とつるぎの国だ、弓矢なんて使っているのは見たことがない。ベエこくは方角からして反対ですし、やはりチョウこく辺りにやられたんでしょうな」

「あの国にエデンなる町の存在を知られてはならんですな。何しろ変人奇人の集まりのようなもんですから、ネトエル山を越えて戦争を仕掛けないという暗黙の了解を辛うじて守っているっちゅうのに、山頂に戦争をしない町があるなんて聞いたら奴ら、魔物なんて恐れずに軍隊でも派遣しますぜ」

 ダンゴはごつごつしたその手で膝をぺんっと叩くと、国王は何か難しいことでも考えるかのように立派な顎髭を優しく撫でた。

「まあまあ、の国には私たちが何も言わない限りエデンの事は知れないだろう。自分たちが攻撃したのが人か猿かの確認もしておるまい。それより本当にエデンという町があって、そこは戦争とは無縁な場所なのか……。今の世に外交を行わずにやっていける町があるとは俄かには信じ難いが、それ程に人の数が少ないのか、それとも山の上には資源が豊富にあるのか……」

 国王はしきりに自慢のお髭を触り、どうもエデンという町に深く興味を持っているようだった。その様子にこれはいけないと、戦闘部隊一小柄なゲンタと国の商店のリーダーであるシンキチは慌てて口を開いた。

「王さま、私はそのエデンとやらに行くのは反対ですぜ。第一あの山に行くには四大国のどこかを通って行かなくちゃならない。山頂に平和な町があるかもしれないから、なんて理由で彼らが通してくれますでしょうか。それこそ我が国の心証を悪くしかねません」

「そうですぜ。それに、あの山には魔物が住むってんでしょ?あっしはそんな所に行く気は毛ほどもありやしません……」

 ゲンタは動きこそ俊敏なものの、ちびで痩せっぽちでおまけに気が小さいので、いつもすぐに弱音を吐いて逃げ回る。どうして彼が戦闘部隊の隊員としてやっていけるのかは、国民の長年の謎なのであった。

「エデンから来た男。彼は武器も何も持っていないのに難なく山を下りてきたのだ。魔物が本当に住んでいるのなら、そんな芸当はとても出来ないだろう」

「それはわかりませんよ。彼らが本当に山に住んでいるなら、魔物を手なづけていてもおかしくないじゃありませんか。むしろそのおかげで他国と戦争になっていない可能性だってありますぜ」

「そんなことは行ってみなくてはわからないだろう。魔物と呼ばれる程の生き物を手なづけられる人々が、そんな簡単に矢に射られて命を落とすとも思えんがね。それより本当に平和な町として、その秘訣を教えてもらえると考えたら足も軽くならんか」

「いえ、しかしですね、実際に行くのは私たちなのであってですな……」

「あの人の、妹さんへの遺言を伝えに行かねばなりませんわ」

 男どもがああだこうだと言い合っているところに、凛として口を挿んだのはカズハだった。静かに立ち上がったその目には、正しき行いとは何かがちゃんと見えているようだ。まさに〝戦乙女〟と呼ばれるのに相応しい姿であった。

「エデンという町に行くのかどうか。私たちの国の損得も考えなければいけませんけれど、あの人の妹さんへ遺言を届けるというのは、もう私たちにしか出来ないことなのですから、それだけは実現させなければなりません。エデンにはたとえ私一人でも必ず向かいます」

 ざわざわと問答を繰り返していた人々は、カズハが立ち上がるのを見て一斉に口を閉じた。そして彼女の言葉を聞くと再び問答を始め、こりゃカズハの言う通りだ、と互いに顔を見合わせると、隊員の男どもはみんな立ち上がった。さっきまで国王に対して文句を言っていたゲンタまで、やれやれといった様子で立っていた。彼が隊員としてやれているのは、この意外な潔さにあるのかもしれない。

「王さま、私たち、明日からでもエデンに旅立とうと思います。この中から四分の一ほどお借りしますが、よろしいでしょうか」

「ああ構わんよ。君に頼らなくてもここの男たちは国を守れるということを証明できる良い機会だとしよう。街では女たちが、〝戦乙女〟がいないと戦闘部隊のへなちょこどもは武器も構えられないと噂しているそうでな。どれ、君が国を留守にする間、一つせがれにでも指揮を執らせてみるかな」

「え、ええ、お父さま、それはまことに光栄なことですが、そんな急に言われても……」

 わははは、という明るい声が会議の場に広がって、重苦しい会議はこれにて終了、その後は旅立ちの無事を祈る宴会が開かれることとなった。

「カズハは本当に真っ直ぐで綺麗な心の持ち主に育った。敵であろうと人命を尊重し、力でもって弱きを守る。あの子の正義のあり方は、悪を滅するのではなく悪しきものに優しさで寄り添うとある。戦闘部隊の指揮官には正に彼女こそが相応しい。きっと、エデン行きでも良い結果をもたらしてくれることだろう」

 国王はすっきりとした色のワインが入ったグラスを傾け、カザーニィに育った美しき〝戦乙女〟のことを思い、この国の明るい未来を運んでくるであろう風に心をゆだねるのであった。



 *



 明朝、カザーニィの東側より太陽が昇る。夜明けの前の清々しい空気、星の消えた空、日光の温度の気配は、遥かな旅立ちの合図となる。

「隊長、エデンはネトエル山にあるということじゃから、どうしても四大国のどこかは通って行かなくてはならん。真偽も怪しい我々の情報だけじゃあそう簡単には国を通らせてくれないでしょうが、ワシは行くならバチ国かベエ国だと思ってやす」

「あら、どうして?」

「バチ国は非常に国土が小さい、従って、国民もかなり少ない。話し合いが通じやすくもなりますな。そんでベエ国、彼らは国民全体がのんきなものです。ワシらの情報も確かなスジからのものだと言い張れば信じてくれるでしょう」

「さすがにそこまでのんきでもないわ。自分たちの国の中に余所者を入れるのだから、国としてはもっと慎重になるでしょう。特にバチ国なんかは他国の言葉には耳を傾けないわ。関所を通すとしたら輸入品だけ、商人も通してくれない。ダンゴはあの国々の王家を見たことがないから知らないのだわ。彼ら、想像以上に殺伐としてた。王さまの護衛に付いて行った時に私、驚いちゃった」

「では隊長はどこから入るのがいいと思うんですか。まさかチョウ国なんていうんじゃないでしょうな」

「私はエイ国がいいと思う」

 ネトエル山、ひいては四大国に向かう道のりで、カズハと副隊長のダンゴは話し合っていた。

 なにしろ四大国は隙間なくネトエル山を囲っているので、どうしてもどこかの国を通らなくてはエデンには辿り着けない。さらに四大国中の三か国は大きな河に囲まれているので、国に入るには橋を通してもらうほかない。唯一チョウ国だけは平野続きで国に入れるが、ここら一帯でも最多の国民数を誇る国なので、四六時中どこかしらで監視の目が光っている。

 四大国はネトエル山を中心に、北から時計回りでバチ国、チョウ国、エイ国、ベエ国とある。カザーニィは四大国の東に位置するので、チョウ国から入れば川も渡らずに済むのだが、その国にはエデンの男を攻撃した疑いがあった。非常に鎖国的で欲深い国民性なのだ。いくらカズハが実力者でも、部隊の面々を危険にさらさなくて済む選択が望ましい。エデンに続く道のりは簡単ではない。

「エイ国の堅物どもがこんな突拍子もない話を信じてくれますかな」

「信じてくれるかどうかはわからないけど、ちゃんと話を聞いてくれると断言できるのはエイ国だけだわ。他の国の王家はみんなカザーニィのような小国をまともに相手しようとはしない。でも、エイ国の人々は相手を力で判断しない。知性や立ち居振る舞いで判断するわ。きっと、ちゃんと話せばわかってくれるはず」

 カズハはそう断言したまま、前だけを見て力強く歩き続けた。カザーニィを出てから一時間、彼女の足取りは強く悩まない。その背中はどんな言葉よりも勇気づけてくれる。ダンゴを含む十二名の隊員も、余計な口出しをやめて隊長の後に付いて行く決意をした。

 早朝に国を出たので、ようやく辺りがはっきりと見えるようになってきた。カザーニィには機械や動物などの足がない。機械なら文明によっては発達してきた頃だが、動物となると家畜以外にはほとんど存在しなかった。核の後遺症は深く大きい。移動には必然と徒歩が選ばれる。

 カザーニィには現役の外交が存在するので、それはまだ幸運な方だった。外交が行われるということは、国の間を人々が移動するということなので、それだけ道に詳しい者や移動の際に出来た獣道が存在する。道路なんてものを作る力は今の人類にはなかったが、戦争によって大地が荒れる前に作られた道路は瓦礫となってそこらに見られた。そういった場所を人々は好んで移動に使った。

 しかし、大自然とは力強いもので、頻繁に移動を繰り返していないと獣道なんかはすぐに見つけられなくなった。今や人間の歩く面積よりも雑草の茂る面積の方が何十倍も大きい。

 カズハたち戦闘部隊の面々は、カズハやダンゴの記憶と景色を照らし合わせながら進んでいく。昨晩カズハたちが簡易的な地図で道のりを確認したところ、エイ国へ向かうにしても三日で辿り着く計画だった。しかし現実と理想は相容れない。

 エイ国に行く為には河を渡る橋を少なくとも二度は通過しなければならないが、一つ目のコンクリートの橋はなぜか崩壊していた。核大戦以前に作られたものだから風化してしまったのかもしれない。河は非常に大きく、対岸がやっと見えるかどうかといった具合だった。それなりに流れもある、つまり人が泳いで渡るには適していないということだ。

「こりゃもう仕方ないですね。エイ国に行くのは諦めて、一度カザーニィに帰りまして、ゆっくり休養してから別なルートを探しましょうや、隊長」

 崩落した橋をどこか嬉しそうに眺めていたゲンタはすぐにそう提言した。彼が常に危険から逃げることを信条としているのは間違いないが、他の者もこればかりは諦めざるを得ないだろうと考えていた、隊員としてはただ一人を除いて。

「カズハ隊長。これくらいなら俺のボートで一時間もありゃ渡れますぜえ。いかだなんてしょっぱい物は作りません。船のような立派なのを三隻、一日で用意してみせます」

 意気揚々と声を上げたのは、機械のないカザーニィでなぜか無類の機械好き・ショウだった。船やボートなどはこの時代誰も現物を目にしたことがないのだが、彼は様々な遺跡で見つかる書物によりその構造まで把握しきっていた。そして機械を見るのも好きなのだが、何よりも作るのが好きな男なのである。機械文明を持たないカザーニィでは機械作りもままならないが、このような場面になると出番だと張り切りやすい。ただし、木製の手漕ぎボートを機械と呼ぶのかどうかは、人と時代によるかもしれない。

 カズハは周囲を見渡して、野営することや材料集めの事などをざっと思案したが、最後にはショウの輝かんばかりの瞳を見つめて頷いた。

「いいわ。みんなでショウを手伝いましょう。この様子なら二、三日は雨も降らないでしょうし、エデンに早く着くに越したことはない。ここが頑張り時よ!」

 戦闘部隊のおじさん達が溜息をついたのは、言うまでもない。



 *



 カザーニィを出発して三日目。旅の道のりはようやく半分に到達していた。

 橋の壊れた河は一日で渡ることが出来た。しかし一行が上陸したすぐ先は、野生の魔物と化した猫や犬が多く生息する地域となっていた。橋が壊れたことで人の往来が減った為かもしれない。人の肉を食べようと襲ってくる獣たちと戦闘した一行は、計画よりも大幅に遅延することを余儀なくされていた。

 カズハの判断により少し迂回することにもなって、エイ国とは幾らか離れた場所を歩いている時だった。核大戦前の街の残骸が見つかって、そこには最近まで人がいたような痕跡が残されていた。それはかつて一国の首都として栄華を築いた廃墟群の真ん中で、まだ見た目の新しい(しかし使い込まれた)歯ブラシや缶詰の空き缶がそこらに散らばっていた。

 旅の途中で誰かに出会ったなら危険は顧みずに交流を求めるというのが、圧倒的に種としての数を減らしてしまった人間たちの常識だった。どこの国でも同じ事だが、資源は手に入っても人手はなかなか手に入らない。外交でそれなりのものは交換可能だが、国民ばかりは交換する訳にもいかない。人ひとりの命の重さは、核大戦の起こる前の平和と比べると、何も変わっていないと言えばただの誤魔化しになるだろう。

 また、どの国もが争いを望んでいるという訳でもない。カザーニィのように、攻め込まれない限りは武器を取ることもしないという国はいくつもあった。この廃墟群を領地としている人々が友好的であるのならば、それはカズハ達・カザーニィの国の人々にとって喜ばしい限りである。

「前に四大国との話し合いに出席した時にもこの道を通ったけど、ここに人が住んでいる気配なんてなかったわ。もしかしたら国を持たない放浪者かもしれない。ゲンタ、キヘイ、斥侯を頼むわ」

「がってん」

 眼鏡のキヘイは指名を受けると、短い返事を残し無駄な荷物をその場に置いてすぐに移動を開始した。ゲンタはその様子を呆れ顔で見ながら、渋々とキヘイの後に続いた。

 カズハら残った者たちも荷物をその場に置き、その内の二人が荷物番として残ることを決め、他の九人はいつでも動き出せるように体勢を整えていた。

 廃墟たちはボロボロに風化してしまっているとはいえ、そこらの森の木々よりは遥かに上背がある。過去にこの土地がどれ程の繁栄を成したのかが窺えるが、同時にどれだけ人類が失墜を果たしたかという証拠にもなる。人工物たちが作る陰は、どこに何が潜んでいるかを悟らせない。それはまた、野獣と化した犬猫どもであるかもしれないし、人であっても友好的とは限らないのだ。カザーニィの戦闘部隊といえども無敵な訳ではない。油断は許されないような空気が漂い、不意にビル風の音が止んだ。十一人の間に緊張が走る。

「助けてくれえ!」

 まるで何かの合図のように叫び声が上がった。声から判断するにキヘイのものだ。カズハたちは目だけで合図を取り合い、荷物番を除いた九人が一斉に駆け出した。

 廃墟群の広間では、キヘイが三人の男たちに捕まって刀を突き付けられていた。カズハ達は迅速にその場へ辿り着き、それぞれが建物の陰に隠れて息を忍ばせた。カズハの近くに隠れたダンゴと長身のユスケは、広場の中央に生け捕られた仲間の姿を確認した。

「あっ。奴ら、この前の甲冑集団ですぜ。奴らの国はここにあったのか。さては負けた報復に出ようと言うのだな。くそっ、汚い野郎どもだ」

「ゲンタの奴、キヘイが捕まったのを確認してすぐにどこかに隠れたな。あいつ、動きだけは素早いもんだからどこでもさっと身を隠す。どうしますか、みんなで一気に襲い掛かりますか」

「待って。ここが国内だと言うなら甲冑を付けてるのはおかしいし、報復を目的とするには数が少なすぎる。それに、兜を付けていないわ。あの国では刀を持った者が兜を脱いで戦場に出ることなんてない。キヘイを捕まえるのに兜を付けなかったのじゃ、国に赤恥を晒す上に防御力も落ちるから危険なだけだわ。他に仲間のいる気配もない。何か別の理由でここにいて、たまたま私たちを見つけたのかもしれない。……しかし、こんな広場の真ん中で人質を取るなんて呆れたわ。ダンゴ、いい?」

「承知しました、隊長。気を付けて」

 そう言うが早いが、カズハは音もなく動き出してどこかに行ってしまった。残されたダンゴとユスケはお互いに頷き合って、武器を置いて両手を上げたまま広場に姿を現した。

「おーい、お前たち。ワシらは抵抗するつもりはない。どうか大人しく、その人質を離してやってくれ」

 ダンゴがそう叫ぶと、廃墟の物陰からさらに三人、カザーニィの隊員が出てきた。みんな、何も言わずとも武器を置いて両手を上げている。その様子を見た甲冑の男は、キヘイの首を絞めつけるようにして口を開いた。

「やいっ、誰一人としてそれ以上動くな!動けばこいつの命は保証しないぞ。俺たちはお前らの隊長に用があるんだ。あの女を出せ!」

「隊長はここにはいない。今日はワシらだけでここらを開拓しに来たんだ。隊長に会いたいのなら国まで案内する。ワシらは何も手出しはしない。約束するから、その男を離してやってくれ」

「なんだとっ!」

 キヘイを捕まえている男は威勢良く叫んだものの、少し弱った様子で仲間と相談を始めた。その間にユスケはダンゴに囁くように耳打ちした。

「奴らみたいなのをとでも呼ぶのですかね。ところで隊長はどこに行かれたのです」

「隊長はどこかに身を隠して奴らの隙を窺っている。いざという時にはあっちの奴らをやっつけてくれるはずだ」

「おい、そこっ。喋るんじゃない!」

 荒々しい怒号が飛ぶと、キヘイを捕まえていた男はいよいよ刀をぎらつかせて不敵な笑みを浮かべた。よくよく見れば、カズハに討ち取られたあのかしらの男である。

「俺たちはこの前の争いで仲間を一人失い、国はますます貧しくなる一方だ。王は和解などという甘ったれた手段にご立腹、女の首を獲るまで帰国は許されなかった。そこでだ、お前たちはあの女をここまで連れて来い。俺は奴と決闘をする!それまでこの男は人質に取ったままだ。そしてだな、お前らには逆らえない立場だということをわからせてやる必要がある。見せしめとしてお前たちの内から二人をこの場で殺す!最初に出てきた二人、近くに来て跪け。さもなくばこの男は殺す。さあどうする!」

 広場にいた誰もに緊張が走った。想像以上に甲冑集団の怒りは激しく、このままではどうあがいても仲間の誰かが殺されてしまう。ダンゴとユスケをみすみす殺されてしまう訳にはいかないが、うかうかしていたらキヘイは助けられない。キヘイを殺してしまっては人質としての価値がなくなるはずだが、そんなことにも考えが及ばないくらい相手のかしらは冷静じゃない。

 ダンゴはこれで何度目の死線だろうかと考えた。とにかく一刻でも時間を稼いで敵の隙を作りたい。全身から血の滲む想いでユスケの肩に手を置き、ユスケは汗を流しながらも無言のままに頷く。二人は静かに相手へと近付いてその場に跪いた。

「何やってるんだ、ダンゴ、ユスケ。俺がへまして捕まったんだから、この場で殺されるのは俺でいいんだ」

「黙れくそ野郎!よし、素直でいいぞ。おい、お前たち。二人の首を一息に落としてやれ」

 甲冑のかしらがそう指示を出すと、仲間の二人は太刀を抜いて嬉しそうにダンゴたちを睨んだ。のらりぬらりと怪しい足取りで近付き、刀を構えて介錯かいしゃくのような恰好を取った。カザーニィの隊員たちはみんなが息をのみ、トシはどうしても一人しか助けられないこと悔やみながらも、一人は必ず助けるという決意を固めながら物陰で弓を構えた。そして、介錯人たちは腕に力を籠め、「やあっ!」と掛け声を上げた、その瞬間。

 キヘイを捕えているかしらの背後より裸足のカズハが駆け出してきて、キヘイもろとも男に飛び蹴りをくらわせた。そのまま男が倒れるのと一間違いでカズハはその上に飛び乗り、男の喉元に短剣を突き付けると「動くなっ」と叫びを上げた。流れるようなその動きに呆気取られた介錯人たちは、振り上げた太刀を下ろす暇もなくカザーニィの隊員たちに囲まれてしまい、両腕を上げたまま刀を取り上げられてしまった。形は違えどあの時と同じ、これぞカザーニィ、風のような早業だった。

「すぐに降伏しなさい。さすれば命までは奪わない」

 カズハは男の目の奥深くを見つめるようにしてそう言い渡すと、短剣を構える両手に力を加えた。

 敵のかしらは罠にかかった獣のように声を上げて抵抗していたが、ちょっとすると諦めたかのように瞳を閉じかけた。が、すぐに「ちくしょう!」と叫ぶと、カズハの目の前で大きく双眸そうぼうを見開き、鎧の中に隠しておいた導線の短い自決用火薬を取り出し、これまた隠し持っていたライターを火薬に近付けて火を点けようとした。

「っっ‼」

 目の前の男が何をしようとしているのか、カズハが脊椎反射で認識したその瞬間、彼女の腕は風のように流滑りゅうかつな動きをもって、男の喉に短剣を深く突き刺し横に割いた。

 いくつか瞬きをするような時間の後、男の喉からは弾けたように鮮やかな血が飛び出し、カズハの顔面を濡らしながら地面に溢れ返った。正確な一撃に絶命した男はそれ以上どうすることも出来ずに、力の入らなくなった腕はライターと火薬をぽとりと落とすと、後はずっと静かになった。血まみれ顔のカズハが鬼のような形相で敵の二人を睨みつけると、二人は抑え付けられながらも必死になって「俺は火薬を持っていない」と大声で主張した。カズハは一瞬間だけ心で安堵し、感情はすぐに焦りへと変わった。戦場でも敵味方の流血を最小限にとどめ、可能な限りは和平の道を選ぶと心に決めたはずの自分の顔が、悪鬼そのものの形で戻せなくなり、敵を殺すと叫び続けていたのである。



 広場には、カズハに屠られた敵のかしらの墓と、その前で涙を流す二人の男、休憩がてら目ぼしいものがないかを探すカザーニィの隊員たち、そしてカズハとダンゴがいた。

「カズハ。何も落ち込むようなことはない。お前さんは戦闘部隊の隊長として立派に隊員の命を守った。敵はお前さんもろとも自爆しようとしたのじゃから、この選択は生き物として正しいものだとワシは思う。我々はみんな死にたくないと思い生きようとする。カズハもそうした。ただそれだけのことなんだよ」

 少し広間から離れた場所では、トシが弓を用いて火薬の処理をしていた。矢の先に火を点けて遠くの火薬に放つのだ。そして静かな廃墟群の中で大きな爆発が起きると、カズハは膝を抱えて丸くなるように顔を埋めた。

 カズハが戦に参加するようになって二年が経過していたが、彼女が人を殺めたのは今回が初めてだった。それ程に圧倒的な才能と意志で勝利を収めてきたのだ。もちろん戦なので犠牲者が皆無だった訳ではないが、カズハが参戦することによって最小限には抑えているという、周りからの認識と彼女自身の自負もあった。今回も最小限の犠牲と言っても間違いはないが、自らの手で命を奪うということは、殺すなら殺される方がマシと思っているような十九の少女には荷が重すぎる。

 ダンゴは黙ってカズハの背中をさすり続けた。時にたくましく勇気づけてくれる背中だが、今はこんなにも小さくて細い。ごく普通の女の子であるはずなのに、いつの間にか背負わせてしまった心の中の鬼。今日の事で闇は深く増すだろう。何も言えずにただ時間が過ぎていく。

 広場には、それぞれ散らばっていた隊員たちが戻ってきていた。ある程度の物資が補給され、旅の休憩としては充分な時間が過ぎたと言える。しかしカズハは動かず、このままでは旅は再開されない。何も出来ないままに夜を迎えるのは得策でないと、隊員たちに焦りが見え始める。そこで、代わりにダンゴが一時的な指揮を任され、甲冑集団の二人は釈放されることになった。

「隊長」

 広間に戻ってきていたキヘイはカズハの元へ行き、うずくまっている彼女に声を掛けた。その場にいた人々の視線は自然と二人に集まることになる。カズハは何も言わない。

「隊長のおかげで俺は命を救われました。本当に感謝します。ダンゴもユスケも殺されることもなく、戦闘部隊は全員無事です。そして何より、隊長自身も命を落とさずに済みました。俺は、隊長が戦場において初めて人を殺すのが、仲間と、そして自分の命を守る為の行為で良かったと、そう痛切に思っています」

 そう言ってキヘイは、カザーニィにおける敬礼——気を付けをして、開いた右手を左胸の心臓の上に当てる——をした。

 戦場において人を殺すのは、始めの内は自衛手段としての行いかもしれないが、数を重ねるごとに勝利の為となっていく。それは結果として国を守ることになり、家族や友人を守ることになり、自らを守ることにも繋がる。殺される前に斬りにいくか、斬りかかられたので反撃するのか。能動か受動か、どちらにせよ、戦場に正当防衛はない。なのだ。殺される者にとって死は死でしかなく、殺した側にも残るのは殺人という事実のみである。殺し方に良し悪しなどあるはずもないが、キヘイはこれで良かったと明瞭に断言した。

「……そんなの綺麗事だわ。今は、戦争をしに来ている訳じゃない。私たちは旅をしているの。ここは戦場とは違う」

「……人々が武器を持って、国の外に出る。一度斬り合いが始まってしまえば、そこはもう戦場です。武器を手にした以上、戦で敵を斬らずに済まそうというのは、やや思い上がりが過ぎませんか。仲間の命を救うために奪った相手の命を、憐れむなんてそれは不遜だ!」

「おい、キヘイ」

 少し荒ぶる様子を見せたキヘイをダンゴは諫めようとした。キヘイの言うことは正しいかもしれないが、カズハがこれまで一人も殺さずに隊長を務めあげてきたことに対して、その言葉は少々乱暴すぎた。そんなことはキヘイもわかっていて、しかしより大きな声を出す。

「いいですか、戦闘部隊に所属している以上は、俺たちみんなが戦場にいる人間の命を負います。あなたが奪ってしまったあの命は、あなたに救われたこの命で共に背負います。だからどうか、エデンへの旅を続けましょう。争いのない平和な町に倣って、奪う命を一つでも多く減らせるように、カザーニィに平和を持ち帰りませんか」

 キヘイはそのまま、心臓にかざしていた右手をカズハへと差し出した。素晴らしく堂々とした態度で、仲間たちは皆その様子を見守っている。カズハはもう何年もこらえていたような涙を、それでもまだ堪えようとするかのように少しずつ流した。

 その表情に鬼はもうない。たとえ戦力として弱くなってしまっても、このまま彼女の鬼が消えてしまえばいい、とダンゴは思う。カズハはキヘイの手に掴まって立ち上がり、遂に激しく涙を流した。少女らしく、一滴も堪えることもなく。

 そしてまた、旅を中断させる長い時間が過ぎた。しかしもう誰も焦りはしない。カズハが気の済むまで泣き続けるのを、同志として温かく見守るだけだ。一時間でも二時間でも、一日だって二日だっていい。大人になっていく少女には見守られる時間が必要だ。

 やがて、カズハの心模様に呼応するかのように、廃墟群に木漏れ日が射した。朽ちてもなお陽を遮るビルの隙間を抜け、カズハたちカザーニィの人々の上に降り注ぐ。その柔らかな日差しは一つの質素な墓の上にも及び、傍らでうずくまる二人の仲間をも温めた。

 カズハはもう泣いてはいなかった。仲間たち——特にダンゴ——は己の罪枷が一つ外されたような気分を抱いた。カズハは墓の傍でうずくまる甲冑の者たちへと歩み寄り、しゃがみ込んで目を合わせながら言った。

「あなた達の仲間の命を奪った私が何を言うかと思うかもしれないけれど、もし良かったら、私たちの旅に付いてきてくれないかしら。さっきの話では、もう国に帰る場所はないのでしょう?一緒に旅をして、一緒にカザーニィへと帰りませんか。国のみんなはもちろん歓迎してくれるでしょうし、このままでは野垂れ死ぬだけだと思うの。でも、私の顔も見るのが嫌だと言うのなら、はっきりと断ってくれてもいいわ。どうする?」

 甲冑の国の二人は、弱々しくも顔を見合わせ、お互いの気持ちを確認し合っていた。ひとたび武器を持って戦場に赴いたのであれば、それ相応の覚悟はしているはずだが、それでも頭領の死は二人にとって酷く受け入れ難いことであるらしい。なおさらカズハたちと共に旅をするなど考えられないかもしれない。しかし時代は弱肉強食。生きる意志のない者はとうてい生き永らえない。

 二人は力なさげに厳かに立ち上がって「よろしくお願いします」と、小さな声で返事をした。



 *



 エデン探しの旅は七日目に突入していた。

 出発前に立てられた計画ではとっくに四大国には辿り着いているはずで、今頃はエデンに向けてネトエル山を登っていてもおかしくはなかった。橋の崩落や廃墟群での騒動に加え、一行は小さな嵐にも遭遇した。物資の補給や怪我や自然災害など、旅に困難と遅延は付きものだった。

 七日目の出発の朝、カズハはカザーニィへと伝書鳩を飛ばして、戦闘部隊と新しき仲間は無事であることを伝えた。まだ四大国には辿り着いていないが、今日にでも辿り着いてエデン探しを前に進めることを、カズハなりの気遣いと明るいメッセージで手紙には記していた。人間が探り歩いて進む道も、鳩は一直線に空から移動できるので、手紙が届くのには一日と掛からないはずだ。

 遥かな青く白い空を、遠くカザーニィまで飛び去って行く伝書鳩は、それを見送る人間たちに明るい希望の姿を見せた。カザーニィを祖国とする者たちは、故郷の暮らしと家族たちの元気で過ごす姿を懐古し、新しい住民たちはより良い暮らしを想像した。カズハはいつも以上に明るく檄を飛ばし、戦士たちはその日も旅を始めるのだった。



 太陽は一番高い地点を通過し、出発から七日目にしてようやく、ひとまずの目的地・エイ国を発見した。

 小高い丘の上からエイ国へと続く橋を眺めると、重そうな鎧に身を包んだ人々が厳重に橋の番をしていた。橋の付近にも小規模な建物が点在しており、エイ国の支配がどこまで届いているのかが一目でわかる。無意味に近付くと穏やかでは済まされないだろう。

「ほらあ、見てくださいよ隊長、奴らの堅苦しい顔。鎧が重くて、表情まで重くなっちまってる。話し合いなんて通じませんよ、今からでも別の国を目指しましょう」

 誰もが予想していたことではあったが、やはりゲンタがいの一番に弱音を吐いた。ゲンタの叔父にあたる年配の兵・フミオが臆病者の頭を小突くが、彼だって不安がない訳でもなかった。

「どうですかな、隊長。何を話せば彼らは我々を通してくれるでしょう」

「何って、正直にありのままを話すしかないわ。あの国の人々はね、誰もが紳士と淑女として自分たちを律しているの。少しは堅苦しいこともあるかもしれないけど、私も同じくらい真剣に言葉を交わすわ。そうすればきっとわかってくれる。何よりも避けなければいけないのは武力行使よ」

 カズハは軽やかな身動きで丘を降り始めたので、仲間たちは急いで後に続いた。この旅が始まる前よりも隊長の風格は増しているように見える。

 四大国の近くともなると、いくらかは道が出来上がっていた。丘を降りると石畳の一本道が続いており、一行は素直にその道の上を歩いた。旅の疲労を抱えた足にはご褒美のようにありがたい道であり、隊員たちの不安も少しは和らいだようだ。

「おい、そこで止まれ。何者だ」

 僅かな安堵も束の間、道の先からは戦闘装備の兵士が二名、カズハたちの前に立ち塞がった。遠くで見るよりも数倍は重苦しい表情である。カズハはまず両腕を上げて、戦う意思のないことを示しながら話し始めた。

「私たちは東の国・カザーニィの戦闘部隊です。とある事情により私たちはネトエル山を目指しています。そこでエイ国からの入山を希望し、ここまでやってきました。私は隊長のカズハ。国王の護衛も務めています。まずはあなた達のリーダーと会わせてください。詳しい話をしたいと思います」

 そこでカズハに続いて隊員たちは皆、装備を下ろした。甲冑の国の二人も慌てて真似をする。エイ国の兵士たちは重苦しい顔の眉間に、深い谷のような皺を寄せていぶかしんだ。

「ネトエル山?あそこに何があるというのだ。果実も鉱石もない上に、魔物が住むという噂すら流れているような怪しい土地だぞ。そちらに敵意がないことはわかったから、まずは目的を言え。話はそれからだ」

「ネトエル山の頂上にあるというエデンの町。そこを目指しています」

「エデン?」

 エイ国の兵士たちは顔を見合わせ、何を言っているのかわからないという表情を二人ともが浮かべた。もしかしたら名前くらいは知っているのではないかとカズハは考えていたが、風の噂にもなっていない程度らしい。

「一週間ほど前、私たちの国に怪我人が流れ着いてきたのです。彼は腹を毒矢で射られ、瀕死の状態でした。そして自分がエデンという町からやって来たことを話してくれ、死ぬ間際に妹さんへの伝言を遺しました。彼が言うには、エデンには争いがないと。彼の伝言と、エデンの平和の秘訣を知る為に旅をしています。どちらにせよリーダーの許しがないと通れないのでしょう?会って話をさせてちょうだい」

 カズハは少しばかり隊長らしさを表に出すと、兵士たちは怪訝な顔で彼女を見た。しかし実際はカズハが言う通りであり、国が関係するような高度な決め事の決定権など持ち合わせてはいない。規則ということでさらに二人の兵士を呼び、重装備の兵士四名に囲まれる形で一行は橋まで案内された。

 橋の手前の関所まで行くと、あらゆる武器をここで預けるようにと命令された。カズハたちを正式な客人として認定するまでは、一切の武器の所有を禁ずると言う。一行はその言いつけに従い全ての荷物を置いた。やがてカズハのみが橋の一歩手前に立たされ、残りの隊員たちは武器を構えた兵士たちに監視される事となった。

 その状態で数分が経過した時だった。全力で石を投げても届かないような橋の対岸から、装備を整えた兵士たちが五人、列を組む形でカズハの方へと歩いてくるのが見えた。一人だけが列の前に立っていて、彼のその透き通るような金髪と、海のように青い瞳は遠くからでも目立つ宝石のようだ。

 カズハと歳の違わぬほどに若い美青年は、兵士たちの長を務める新リーダーであるらしかった。彼の噂はカズハのような国の指揮者たちには広く知れており、突然の来訪にも関わらず、ものの数分で装備を整えてきた様子にカズハは好感を抱いた。

 隊列は橋の中程を過ぎた辺りで止まり、リーダーだけがそこから五歩ほど歩いて止まった。カズハとの距離はそう遠くないが、剣を振るっても届かない程度には離れている。その姿勢に同じ指揮官としてカズハは敬意を抱いたが、彼の鬼気迫った表情からは不審なものを感じ取った。まるで何かを必要以上に怯えているようだわ、とカズハは思う。

「私の名前はエドワード。エイ国の新しい兵士長を務めている。最近この役を任されたばかりだが、あなたの事はよく聞いている。カザーニィの戦乙女。会えて光栄です」

「私の方こそ。こんな突然の訪問になったことをお許しください。よろしく、エドワード」

 表情とは裏腹の柔和な物腰にカズハは安堵した。やはりこの国を選んで正解だったようだと、口調も自然と親密になる。

「ところで、事情はお聞きになりました?私たちはネトエル山を登りたいの。国を通る許可をいただきたいのだけど」

 そしてカズハは番兵にしたのと同じ説明を繰り返した。エドワードは直立不動の姿勢と深刻な表情を微動だにせず話を聞いていたが、カズハが話を終えるとゆっくりと首を振った。

「その話、信ずるに足りる証拠はありますかな。また、我々に国の通過を許すメリットがない。長旅のところ申し訳ないが、ここでお引き取り願いたい」

「そんな、私たちは本当に通してくるだけで構わないの。もちろんお礼の品は用意しています。カザーニィがどんな国かはあなたも知っているでしょう?」

「我が国は近頃、近国からの襲撃が多い。無駄なリスクは背負いたくないのだ。私が兵士長を任されたのも、国の護りをより強化させる為にある。お引き取り願おう」

「そんな……」

 カズハたちの焦りを助長するように、エイ国の兵士たちは鞘から剣を抜いた。後ろの方で囲まれているカザーニィの隊員たちは口々に文句を言ったが、兵士たちの動きで強制的に黙らされてしまった。エイ国に一番の可能性を感じているカズハは容易に引き下がりたくない。何とか許しが出ないかと必死の訴えを続ける。

「では、私たちの武器をそちらが預かったままで、さらに兵士たちに囲まれたままで構いませんから、山まではどうか通してください。私たちもこの国の真面目さに懸けているのです」

「なりません。最近は火薬が多く武器として使用されている。あなた方が国民の集まる広場で、その服の下に隠した火薬を爆破させないとも限りませんからね」

 エドワードはあくまでも厳格だった。国を護るという大義を背負っているが故の、何ものも信用しないという信念が表情に表れている。カザーニィの隊員たちはもう一度抗議の声を上げた。「俺たちがテロリストに見えるって言うのか!」「あんたはカザーニィの人間がどれだけ平和的かを知っているだろ!」「こっちにだって尊厳ってものがあるんだ!」今度は脅されても容易には怯まない。これまでに築いてきたはずの国の信用が無碍むげにされたのだ。カズハも背水の想いで必死に考えを巡らせる。

 相手は真面目で、それを通り越して潔癖だ。こちらを弱き者として侮らないというのであれば、その真摯さ——もとい、紳士さ——を信じるしかない。今この場で、カズハだけに与えられた武器は何だ。そう、私はこの場で唯一の女だ。この国の人々が紳士としての自負を持っているのならば、女性への敬意を忘れることはないはずだ……。

 そしてこれしかないと思いついた方法を、唇を噛みしめながらも実行する決意を固めた。後ろでは仲間たちの文句が聴こえ、エドワードは眉一つ動かさずにカズハを睨んでいる。決意とは関係なく一瞬だけ身体が動きを止めようとしたが、より大きな責任感を糧とし、彼女は毛皮の布を脱いで一糸まとわぬ上半身を曝した。その場にいた男たちの誰もが狼狽を見せた。

「何をしている!嫁入り前の女性が、そんなことをしてはいけない!早く服を」

 そう言ったエドワードを含め、兵士たちはカズハから目線を逸らした。彼らが紳士であるというのは本当らしい。カザーニィの隊員たちも大慌てだった。誰もが兵士の止めるのも聞かずに、カズハの元へ行って自分の服を被せようとしている。

「目を逸らさないでください。私が橋を渡ろうとしたらどうするの。あなた達の話を聞く限りなら、こちら側の全員の装備を没収して、全裸で監視付きの状態でなら国を通っても問題ないはずよね。カザーニィは友好の国としてこれまでやってきたはずだけど、どうしても信用してもらえないならこうするしかないわ。どうかしら、問題がありますか」

「いや、しかし」

「下も脱いでほしいのね!」

 カズハはそう叫んで手に持っていた服を地面に投げ捨てると、下半身を覆う毛皮にも手を掛けた。闘いのときに見せた鬼とは別の鬼の表情——通ずるとしたら、鬼嫁——だとダンゴは思った。エドワードは急いでカズハの服を取り、彼女の身体が隠れるように服を被せた。彼は手に持っていた剣を取り落としてしまう程の慌てようだった。

「わかりましたから、早く服を着てください。ああもう何て強引な人だ。そうですね、わかりました、我々が疑心暗鬼になりすぎていたことは認めます。女性にこんな辱めを与えてしまうなんて、本当に申し訳ない。ああ、我々にも守るべき名誉がある。先程までの非礼はお詫びしますから、どうかすぐに服を着てください」

 エドワードは視線を逸らす為にも深々と頭を下げ、カズハは満足げな顔で服を着た。エイ国の兵士たちは誰もが恥ずかしそうに俯いており、カザーニィの隊員たちはようやくホッとしたり、心配で疲れたような表情をしながらも、取り上げられていた荷物を返却してもらった。誰もが〝戦乙女〟の名は伊達じゃないなと感じたようだった。



 **



 カズハの身体を張った訴えが功を成し、一行は巨大な石造りの橋の通行を許可された。橋そのものに慣れていない隊員たちは、足下に広がる巨大な河を物珍しそうに眺めながらエイ国へと入っていった。

 カザーニィは和平的な国として認知されているとはいえ、他国に入るというのはこの時代そう簡単な話ではない。エイ国兵士たちのカザーニィへの敬意の表れとして、武器も含めた全ての荷物が返却されていたが、一行には警備としての兵士が付き纏うことになった。さらにカズハはエイ国王への謁見を許可(もとい強制)された。事態はそうそうないくらいにイレギュラーだったので、国としても特別な対応に出ざるを得なかったと言う。

 しかし一行は歓迎されている状態にもあった。とりあえずカズハは国王に会いに行かねばならないが、その時間を使って隊員たちには街を歩き回る権限が与えられていた。橋の上での無礼を詫びる為にも、食料調達や休憩などを好きにしてくれて構わないと言う。もちろん隊員一人につき一兵士が監視に回るのだが。

「いやあ、一時はどうなることかと思いましたが、雨降って地固まるとはこのことですな。ここに来ての物資補給は何よりもありがたい。しかしですな隊長、雨が降るって言っても、こちらとしては雹が降ったような気分なのですぞ。あんたまだ十九なのですから、まあ何歳だろうと女性があのようなことをしてはなりません。ワシらのような野郎どもが裸になるのとは訳が違う。いくら目的の為とはいえ、乙女があのようなこと。本当にワシは肝が冷えました。だいだいですな、他にもやろうと思えば手段はいくらでも……」

「もう、おじさまはいつまでもうるさいわ。もう過ぎたことなんだし、ああいうのを女の武器って言うのよ」

「まさか、女の武器なんて。いけませんぞ、そんなことを言い出すようになっちゃ。もっと自分の事を大事にしないと。カズハは昔っから無茶しすぎる。それにそういう考えは男尊女卑とか女性蔑視に繋がると言われてですな、いつぞやの時代ではすぐに規制だの何だの……」

「まあ、いつ見ても立派な街ね!」

 カズハはわざとらしい大声を上げた。ダンゴはお小言を遮られる形になってしまったが、カズハの言う通り、本当に立派な街がそこにはあったので思わず口をつぐんだ。

 石橋を渡って鉄門を抜けて、その先にはエイ国の誇る近代文明の街が広がっていた。二階や三階建ての建物などはそこら辺のどこにでも建ち、人々は知的な服装に身を包み、カザーニィではまだ誰も見たことがない自転車という乗り物が走り始めている。まさに国と呼ぶに相応しい光景だ。機械好きのショウは誰よりも目を輝かし、垂涎すいぜんの想いで自転車に近寄ろうとしたのを真っ先に止められた。

 武器を持った兵士たちの姿がそこらに見られるが、国の外とは違って人々は余裕に満ちた表情で歩いていた。厳格さや貞淑な雰囲気は漂うが、そこに重苦しさはない。紳士と淑女の国の名に間違いはないようだ。気品と自信、四大国の中でもトップを誇ると言われる兵力による安定した国の形がそこにはあった。

 これもまた、一つの平和の形かもしれないとカズハは思った。しかしどれだけ文明が発達していようとも、他国を武力で圧倒できるという余裕から生まれる安定した平和の形、それに喜んで飛びつくことは出来ない。自らの手で人の命を奪ったことで確信したのだ、人が人を殺すべきではないと。美しき人々の営みの姿を前に、羨望せんぼう戒心かいしんをカズハは同時に心へ宿した。

「ここで止まれ。あなた達、隊の人々はこの建物に武器を預けてもらい、監視付きで申し訳ないが街を好きに移動してくれて構わない。我らが街でなら物資は充分に補給できるだろう。そしてカズハさん、あなたは国王に謁見だ。先の話は直接その口から伝えてもらいたい。王にその顔を見せた経験が御有りなら話は早いだろう。まだ疑っているのだとは思わないでくれ。こうすることによって国内での立場が確保されると考えてもらいたい。私の非礼はそのまま伝える。おそらく謝礼としての何かが与えられるだろう」

 エドワードはリーダーとしての風格をすっかり取り戻していて、よく通る声で指示を出すと一同に解散を伝えた。ダンゴたちに見送られながらカズハは彼の後ろに続き、その後ろには兵士が二人付いてきた。カズハにとっては慣れないことではない。カザーニィのおじさま達の大きな声が聴こえた。カズハは明るい笑顔で手を振った。

「えっと、エドワード。さっきはごめんなさいね。急にあんなことされたら驚いたでしょう。どうか、気分を悪くしないでもらいたいのだけど」

「問題ない。話なら後にしてくれ」

「え?ああ……」

 エドワードがリーダーとしての風格を取り戻せば、このように愛想のない兵士になるらしい。治安悪化の情勢で、国を護るために据えられた新しい兵士長としての、屈強で隙のない態度。それにしても少しくらい、とカズハは思ったが、この旅の目的地はエイ国ではないので気にし過ぎないことにした。せっかく国内に入れたのだから、ここで問題でも起こせばネトエル山への道は絶望的になるだけだ。エドワードの態度も下手に感情的にならない分、上に立つ者同士としては話しやすくて助かるのかもしれない。

 エドワードは本当に無駄を省くような動きで王邸へと向かった。カズハは街を眺める暇もなく彼の後を追った。口や態度では無関心を装っているが、橋でのカズハの行いを怒っているのかもしれない。やはり紳士を自負する彼には強引すぎる手段を選んでしまったか。カズハは少し反省し始めていた。もしも時間が与えられるのなら、一緒にみんなで食事でもして腹を割って話をしたい。が、エイ国としては用事が済めばすぐにでも国を通過してほしいところかもしれない。

 そうこう思案している内に、国内のどの建物よりも大きな門の前まで辿り着いた。エイ国王邸である。白一色の横長な建物で、人が住むことよりも政治的な機能に重きを置いた雰囲気だった。カザーニィの国王の家も大きいとはいえ村長レベルの建物だから、庭などなければ二階建てですらなく、広さも普通の家の二倍程度に収まる。カザーニィで一番背の高い建物はやぐらだと言うのに、この国では王邸の方が見張り台よりも高いのだ。橋を渡る途中に国の最重要地点が確認できるというのは、防衛面から見れば呆れるべき事かもしれない。

 カズハは贅沢な王の建物に幾らか辟易へきえきしかけたが、今から自分がこの中に入るのだと思うと少し委縮するようだった。国王の護衛としてここに来た時は、あくまでもおまけのような扱いだったのである。そんなカズハの様子に気付く暇もなく、エドワードは真っ白な石畳の上を歩いて行くので、彼女も遅れながら後を追う。左右には待機していた兵士たちが直立の姿勢で少し上を向き、カズハらの後ろについていた二人の兵士もその中に加わった。エドワードはようやく紳士らしい気遣いを見せ、自ら扉を開けてカズハを中へと案内してくれた。

 そこからは侍女たちが先頭を歩き、エドワードはカズハの後ろに付いてきた。まるでお姫様扱いのようで珍しくカズハの緊張も高まり、二階中央にある王の間の扉の前まで歩くのに、自らの服装——戦闘用の毛皮の布に旅用の軽いマントを羽織ったもの——の場違いさを深々と実感した。

「謁見!」

 前触れもなくエドワードは大きな声を上げ、侍女たちが二人掛かりで王の間の扉を開いた。カズハでなければ驚き慌てる様を見せたに違いない。エドワードに少し促されるように室内へと入ると、少し進んだ先には国王と王妃がおり、カズハが近付くのに合わせて優雅に腰を上げ軽く頭を下げた。贅を尽くしたような服装が上品に揺れる。カズハは二人の前まで行くと、立ち止まってより深く頭を下げた。

「ようこそ、我が国へ。聞くところによると我らが兵士長が入国前に無礼を働いたそうで。何であろうとまずはそれを詫びなければいけない。彼はまだ就任したばかりで気負いが過ぎてね、まさかカザーニィの人々を必要以上に疑うとは。どうかこの通りだ」

 国王は国王らしからぬ腰の低さで、謝罪としての意味合いで頭を下げ、王妃もそれに倣った。

「いいえ、貴国の情勢を考えると決して過ぎた疑いとも思えません。どうかこちらこそ、突然の来訪をお許しください」

 カズハはなるべく国王よりも深い礼になるように意識して頭を下げた。国王は深い理解と友愛を持って頷き、カズハに頭を上げるように告げた。両者は顔を見合わせると少し笑顔を見せ合った。国王は次にエドワードの方へ顔を向けると、彼が橋の上で何をしたのか話すように告げた。

 エドワードはありのままの顛末を話してしまうと、自分には解任や収監の覚悟もあると堂々と述べた。さすがにそれはやりすぎだとカズハは思うと、国王にもそこまでのお咎めをするつもりはないようだった。

「エドワード。君には大きすぎる責務を背負わせてしまったかもしれない。そこまで一人で抱え込まなくても良いのだ。彼女に誠意を尽くして謝罪と贖罪を成したのならそれで充分だ。若いというのは良いことだが、いささか度が過ぎることもあるな。さてカズハどの、あなた達がここに来た目的も聞いておかなければならない」

「はい。私どもがエイ国を通過せざるを得ない理由、それはエデンという一つの町にあります」

 カズハは橋の番兵やエドワードに話したのと同じようなことを、なるべく畏まった口調で話した。普段の三倍は上品な口調だ。この国の、それも国王を目の前にすると、自然と紳士・淑女としての自覚が芽生えるような気がしてならない。

「なるほど。それは確かに証拠もなければ夢のようなお話にも聞こえますな。ははは、我らが兵士長にも同情の余地はある。しかしですな、他でもないカザーニィの〝戦乙女〟の言うことだ。疑う必要などどこにもない。こういう時代だからこそ人と人の信頼関係は何よりも大事だ。違いますかな」

「いえ、そう仰っていただけると誠に心強いです。我々だって事の真偽は定かではないのですが、あのエデンの男性を信じたことから始まっています。ご理解、深く感謝いたします」

 エイ国王は満足そうに頷いて白く豊かな髭を撫でると、王妃を見て共に微笑んだ。畏まって優雅な態度や、上質で人々の目に触れる服装など、紳士や淑女の基盤はこの二人から形成されているのかもしれない。カズハは立場や現状などを無視して、一人の女の子としての儚い憧れを感じた。

「ではカズハどの。あなた達カザーニィの人々には、この国で自由に行動する許可を授けましょう。旅支度が充分に整うまでは好きに過ごしてもらって構いません。監視なんて今すぐにでも外すべきだ。もっとも、ここに住むなんて言い出したら話は別ですがな。やあ、それとはまた別に、エドワード兵士長には懲罰を与えないといけない。出来ることならあなた方への贖罪も同時に満たせるものがいい。いや、これはこちらの勝手な都合になるかな」

「それでしたら国王、私に一つ考えがございます」

 口を挿んだのはエドワードだった。懲罰を受ける者が刑の内容を進言するというのも変な話かもしれないが、国王は穏やかに笑って意見を促した。

「私は己の未熟さ故に彼らを危機に陥れました。よって、彼らの身は私がこの身を持って警護したいと存じます。警護と言うのでは傲慢かもしれません、この命に代えてでも、カザーニィの戦闘部隊をお守りしたく存じます。それは同時に我が国の護りが希薄になることに繋がりかねませんが、私はこのカズハ戦闘部隊長からリーダーとしての資質を学ぶ機会を得るということで、どうかお赦しいただけませんでしょうか。臨時の兵士長にはジャックを推薦いたします。彼なら私も安心です」

「ほう、君が兵士長になってまだ二ヶ月と経ってないぞ。それに、それは君にとって懲罰となるのかね」

 国王はそう言いながらも、年相応の少し意地の悪い笑みを浮かべた。何かエドワードが言葉にしていない腹の中の想いを汲み取った、そんな風な表情である。

「それはもちろん、この命を懸けるという点において。いえ、それでは足りないと仰るのであれば、他にどんな罰が下されようとも受け入れます。しかし、彼女の指揮官としての器は」

「ああ、いい、大丈夫だ。私としては何も問題ないよ。それよりもカズハどのの許可をいただいたらどうかね」

「あ、はい!私としても光栄なことだと存じます」

 カズハの明朗な声を聴くと、国王は若さに体が毒されてしまったとでも言うように疲れたリアクションを見せた。これは意外な展開になったとカズハがエドワードに目をやると、彼は顔を伏せたまま朗らかな表情を浮かべていた。これはとんでもない真面目青年なのかしら、それとも何か、とカズハは少し覚束ない気分を抱えた。



 エイ国王との謁見を経て、カズハたちカザーニィの旅団一行には国内での自由が与えられた。その報せは王邸から国中へと広がることになり、兵士たちを経由してダンゴたちの耳にも届くことになった。

 王の間から退出した後、カズハはすぐにダンゴたちと合流して今後の予定を練ろうとしたが、エドワードより王邸内を案内したいとの申し出を受けた。ここまで移動する際の無粋な態度とは大違いだ。不思議な気分になりながらも、カズハは身の振り方を思案する。エデンへ向かうのは早ければ早い方が良いのは間違いないが、旅の疲れを癒して山登りの英気を養うには、どのみち今夜はエイ国に滞在することになる。エドワードは共に旅をする仲間となったのだし、ここに来るまではお喋りも出来なかったのだからとカズハは案内をお願いした。代わりに戦闘部隊のメンバーが王邸に召集を掛けられることとなった。

 そしてエドワードによる王邸案内が始まったが、建物の中はとにかく立派だった。国の持てる最高品質の建築物を目指し、床に柱に壁紙や花瓶までもが最高級の一言に尽きる具合だった。エドワード曰く、この世の気品を結集させた邸宅がこの建物であるらしい。

 兵士長というのが国王からどの程度の権限を与えられているのかは定かでないが、庭やキッチンにバスルームまでをカズハは案内された。彼女としては何もここまで豪華にしなくてもとは思ったが、その反面ここまで繊細に造り上げる職人たちの腕は素晴らしいとも感じたので、その感想だけをエドワードには伝えた。

「さあ見てくれ。ここからは街の建物の全てを眺めることが出来る」

 カズハの背の三倍はあろうかという天井を三階分も登った先で、二人は建物の屋上へと辿り着いた。屋上は王妃専用の庭園となっており、夢が現実に姿を現したような幻想的な空間が広がっていた。可能な限り敷き詰めた花々をどこから見ても隙のないようにガーデニングしており、日光浴を楽しめる広間には林檎の樹までが生えていた。二人はそこまで歩いてようやく腰を下ろした。カズハとしては早朝から十時間ぶりの休憩である。

「気持ちのいい場所。心を静かにできる空間ね。……んんっ。ところでエドワード、本当に護衛までやってもらってもいいの?私たちは何もそこまでしてもらわなくても、こうして国内を自由に歩かせてもらうだけで充分にありがたいわ。もしもその、わたしの事だったら、そんなに気にしなくても大丈夫だから。自分から勝手にやったようなものだし」

「いいや、それでは己の決めた道に反してしまう。国の為とはいえ女性にあのような辱めを受けさせてしまったのだ。隊長としての覚悟とか、過ぎたことだと君は言うかもしれない。しかし私の未熟さが招いた結果だ。そこだけはしっかり償いを果たして進まねば、私はこれ以上の人間にはもう成り得ない。一人の紳士としての責任を取るべきだ。カズハさん、この先もどこかで危機は訪れる。それがいつ、どんな時であろうと、私のこの命を削ってでも君を守らせてほしい」

「……ええと、あの、ええ、そこまで言うなら。私としても別に困るって訳じゃないから、それじゃあお願いするわ。ああそれと、これからはカズハって呼んで。一時的でも仲間なんだし。私もエドって呼びたいわ。構わない?」

「ああ、構わない」

 承諾の返事をエドワードはくれたが、何となく浮かない表情にも見えた。しかし、とにかく美青年である。たとえ表情が曇ろうとも顔の輝きが消えることはない。ちょっと時間を置いて、エドワードが照れ臭そうに顔を逸らすのを見て、カズハは自分がエドワードに見惚れてしまっていたことに気が付いた。男とか女とかではなく、一人の人間として素直に感嘆する想いだった。

「ああ、えっと、カズハ。私の覚悟は生半可なものではないと認識してもらいたい。君のあのような姿を見てしまったのだ。それも私の失態が原因となって。そんな君を守るというのだから、この身を生涯ごと捧げても構わないと思っている。これは兵士としての務めではなく、紳士としてこの国に生まれた、一人の男として、生涯懸けての責任だと考えているのだ。しかしそれはその、もし君さえ良ければということであってだな。君の気持ちを無視しては元も子もなく……」

「ええ、だから守ってくれるんでしょ?そこまで大仰じゃなくてもいいけど、折角だから快くお願いしますわ。エド」

 にっこりと笑うカズハとは対照的に、エドワードは歯にものが詰まったような顔をしていた。「その、男としてというのが重要であってだな……」と何やら呟いている。

 そこに足音が幾つか近付いてきた。カズハが振り向くと一人の兵士がダンゴとキヘイとトシを連れている。ダンゴはカズハを見つけると安心したような素振りを見せた。

「やあ、お元気そうで何より。あのまま捕まって牢屋にでも入れられちまうんじゃないかと考えてましたわい」

「何よそれ。エイ国の人々に失礼だわ。ここから国民全員に謝罪でもしておきなさい。それより他のみんなは?」

「どうやら観光に忙しいらしくて、近くにいたのが我々くらいだったようですぜ。丁度良く国内での自由を許されたんですから、今日一日くらいは甘く見てやってくだせえ」

「まったく」

 文句ありげな様子を見せながらもカズハは穏やかな態度だった。隊員たちがのんびりしている事こそが、平和を表す状態なのである。そもそも、ここに集まった四人がいれば部隊の頭脳は機能する。隊長の招集に駆け付けなかったことは不問としておいて、何となく不服そうなエドワードも含めて、庭園で休息も兼ねた作戦会議が行われることになった。カザーニィを出発して以来、初めてカズハの心に平穏が訪れるような時間が過ぎていった。



 **



 翌朝、頭痛と気怠さを伴ってエドワードは目を醒ました。ようやく空が白んできたような早い時間である。

 まるで風邪を引いたかのような体調をエドワードはいぶかしんだ。しかし、用意されていた井戸水で顔を洗うと、ようやく昨日の夜のことが脳内で輪郭を成してきた。

 昨夜はカザーニィの人々を歓迎する大規模なパーティーが王邸で開かれたのだ。この国での来賓歓迎は、豪華な食事と自慢のワインで行われる。もちろん、国王自慢の大きな王邸の広間を会場として、様々な国民が招かれることになる。

 昨日は急に開催が決まったパーティーだったので、国民の大多数は参加することが出来ず、代わりに多くの兵士たちが参加を許された。兵士長を務める程になると、若くても多くのパーティーに出席した経験があり、エドワードはいつもと変わらず紳士的な立ち居振る舞いが可能だった。しかし兵士の中には警護でしか王邸に入ったことのない者も多くおり、彼らは不慣れなタキシードに身を包んで落ち着かない様子が目立っていた。

 どうもそれがいけなかったらしい。会が進むに連れ兵士たちにはワインが効き始めるし、カザーニィの隊員たちは余り飲まないワインを珍しがってあおるので、徐々にパーティーは宴会の様相を呈してきたのだ。

 しかしここは紳士と淑女の国。カズハはすぐに隊員たちを王邸内から追い出し、エドワードも兵士たちを一人ずつ外へと運び出した。そして彼らを街の酒場へと移動させた。

 エドワードはすぐに王邸へと戻るつもりだったが、数多の酔っ払いに囲まれた状態では簡単なことではなかった。国が認めたお客様だからと、飯もお酒も次々に運ばれてくる。酒場にいた人々は兵士たちを囲んで日頃の感謝の盃を交わすし、エドワードは最年少で兵士長を務め上げる英雄として中心に座らされた。街の人々も普段はもっと落ち着いているのだが、この日は国から来賓歓迎のお告げもあって無礼講だった。そこからエドワードの記憶はない。

 誰かが運んでくれたようで、彼は王邸内の兵士長部屋のベッドいた。ローテーション制の警護兵士と、常駐する兵士長には王邸内に部屋を与えられている。もっとも、兵士たちと比べるとエドワードの部屋は数倍も豪華だ。

 紳士としての昨晩の体たらくを恥じながら、酔いを醒ます為に窓を開けて外を眺める。この部屋からは屋上ほどではなくとも街中を眺めることが出来るのだ。国を護る兵士長への褒美と戒めを兼ねた贈り物だ。

 しばらくして部屋を出ると、王妃が階段を降りてくるところに遭遇した。エドワードはすぐに背筋を伸ばすと、エイ国式のマナーを持って深々と頭を下げた。

「お早いお目醒めで、王妃様」

「貴方もね、エドワード。昨日は随分と飲んだようなのに。貴方を運び入れてくれたお姫様は屋上でまだ寝てるわよ。キスでもして起こしてきたら」

「キス?」

 王妃からすれば、カズハと同い年のエドワードなどまだまだ子どもだ。上品な素振りで早朝から彼をからかって、王妃は下へと降りていった。エドワードは恥ずかしいような呆気に取られたような気でいたが、すぐに屋上へと上がることにした。本当に豪華なこの王邸には、屋上の温室内に王妃様のお昼寝用ベッドが置かれているのだ。

 朝から気品のある香りが漂う屋上庭園には、はたして本当にカズハが眠っていた。水気をたっぷり含んだ温室の空気の中で、王妃から借りたのであろう衣服を身に付けて、王妃の言葉通りにお姫様のようなカズハが寝息を立てていた。ベッドの傍らには昨晩のドレスが置いてある。十九歳にぴったりなエレガンスさと少女性を兼ね備えた赤いドレスだった。エドワードは急にこの空間が夢の中であるような気分が起こった。

 彼は少し気後れしながらも、なるべく邪魔にならないよう静かにベッド脇の椅子に腰掛けた。こうして健やかに眠る姿を見ると、彼女が戦闘の鬼として名を馳せているなど信じ難いことだった。豊かに蓄えられた睫毛まつげを眺め、不意に昨日の橋の上での彼女の姿を思い出してしまい、彼は赤面して己を戒めた。平常心を何度も己に言い聞かせ、兵士長としての風格を取り戻した頃にもう一度カズハに目を向け、口に入りかけていた髪をそっと払いのけてやった。するとカズハはうっすらと瞳を開いた。

「……ああ、エドね。おはよう。もう元気?」

「おはよう、カズハ。君のおかげでよく眠れたよ。ありがとう。昨日のドレスはよく似合ってた」

「ええ、あなたも、いいドレスだったわ……」

 そう言い残してカズハはまた目を閉じた。寝ぼけている様子で何を言われたかもわかっていなさそうだ。エドワードは、とりあえずドレス姿を褒めることは出来た、続きはまた今度だと自分に言い聞かせた。そして音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、静かに温室の中を出ていった。

 屋上を見渡すと、北にはネトエル山がそびえ立っている。山頂を見つめるが、そこに争いのない平和な町が存在しているようには思えない。しかし行くしかないのだ。そしてカズハの命を一番近い所で守るのだ。エドワードは今一度、不屈の心に刻み込んだ。東からは太陽が近付いてくる気配があり、それでもまだ〝戦乙女〟には一時間ほどの休息が残されているのだった。



 エドワードが庭園を後にしてきっかり一時間後、カズハは温室に入り込んできた朝日を受けて目を醒ました。

 生涯に一度でも経験すれば充分なくらいに心地良い空間での睡眠を摂り、心も身体も活力に満ちているようで清々しかった。国王からは、まだまだエイ国内での自由を許されているが、昨晩の時点で既に準備は整っていた。エデンから来た男、カザーニィの人々、道中で奪ってしまった一人の命、様々なものの為にも旅は再開されなければいけない。今日の朝から出発することは、ダンゴたちから隊員へと伝わっているはずだ。

 カズハは寝起きの頭を働かす為にも、庭園の小洒落た机の上で手紙を書いた。エイ国での出来事や街並みの素晴らしさ、エドワードのことなど、きっとカザーニィの国王も手紙を読んで晴れ晴れしく思うだろう。この国には本当に優雅な風が吹いている、と現在進行形で感じることを手紙の締めくくりとし、伝書鳩を飛ばした。カズハは兵士に声を掛けて仲間を王邸前に集めることにした。

 いくら二日酔いが残っていようとも、旅の再開とあれば隊員たちはすぐに王邸前へと集合した。そもそもメンバーの多くが酒豪を誇る為に、アルコールによるダメージは大したことがないようにも見える。エイ国の高度な文明に羽目を外しすぎたショウと、昨晩になって初めてお酒を飲んだ十四歳のユウタだけがまだ気持ち悪いようだ。とはいえ二人ともかなりの修練は積んでいる。じきに回復するだろう。

 エドワードと甲冑の二人が加わった為に、一行は十六人に数を増やしていた。カズハは旅立ちの時よりも仲間が増えていることに誇らしさを覚えた。自分たちのやり方はこの世界で決して間違っていない。心よりの対話を諦めなければ人々は繋がれるのだ。きっと、この姿勢を後押ししてくれる何かが存在して、エデンの平和の秘訣はそのヒントを与えてくれるに違いない。旅の先には希望がある。

「エイ国の尊大なおもてなしを、このような短時間で辞退するご無礼をどうかお許しください。私たちにはエドワード兵士長もいるのですから、必ずやエデンからの帰り道には平和の秘訣を共有しに戻ってまいります」

 平和を手にした日にはカザーニィにお招きすること、そして力いっぱいの歓迎をさせていただくことを、カズハは帰りの為にここでは伝えないことにした。エイ国王と王妃は惜別の表情を浮かべながらも、カザーニィ国王のように新しい風の期待を持って戦士たちを見送った。



 ネトエル山は標高約二千メートル。エイ国を発つ前に立てた計画では、山頂にあるとされるエデンの町まで登りきるには少なくとも四時間は必要だと見積もっていた。季節によっては頭に雪を被っているし、当然ながらカザーニィやエイ国よりは寒い場所になる。部隊はしっかり登山にも耐えうる装備を揃え、防寒具も食料も充分に確保できていたが、隊員たちは決して楽天的な表情にはなれなかった。それは、魔物が住むという噂などが原因ではない。魔物なら似たような動物たちと道中で格闘してきたし、そもそもこの噂はかなり都市伝説じみたところが多かった。翼が生えていて空を飛ぶとか、山に生えている大木を食料としているとか、極めつけは山のように大きいというのだから信じる気もなくなる。

 一同が悩まし気な様子を隠し切れないのは、エデンらしき町の姿が少しも確認できないことにあった。エドワードが屋上庭園で山を眺めたように、カズハたちも昨夜のパーティーの前にはネトエル山を可能な限り調べていた。カザーニィにはない望遠鏡という道具を使って、山頂の辺りに人が住んでいる様子はないかと確認してみたが、そんな気配はどこにも見当たらない。エデンから来た男が着ていた真っ白なレースのような着物なら、山の中では目立ちそうなものだ。エデン探しの旅もあまり雲行きが良いとは言えないが、カザーニィで死んだあの男が最期にろくでもない嘘をつくような人間にも思えなかった。それに、遥か遠い山頂を充分に確認したとは口が裂けても言えない。何にせよ、カズハたちに残された手段は山を登ることしかない。

「可能性はいろいろ考えられるわ。山頂に窪みがあってその中に町があるのかもしれないし、もしかしたら洞窟内の町なのかもしれない。エイ国とは真逆の位置にあるから見えないことだって充分に考えられるし」

 カズハはなるべく声掛けを怠らないようにして山を登った。カザーニィの戦闘部隊には登山くらいで音を上げるやわな男はいなかったが、甲冑の二人が心配だった。昨夜のパーティーにも参加せず、カズハたちに心を開き切っていないのがはっきりとわかる。そして国外では甲冑を決して脱がなかった。山登りにはどうしても向いてない装備だが、こればかりは無理強いして外させる訳にもいかない。彼らの体力には気を配らなければいけない。

「……これがネトエルか。これは確かに、迷信など無くても四大国が手を出さないはずだ」

 いつも山を見ている者として、エドワードは低い声で呟いた。彼が苦言を呈してしまう程に、ネトエル山そのものにも幾つか問題があった。

 まず前提として磁場が狂っている。すなわち、この山ではコンパスが言うことを聞かない。方角がわかりにくくなるということだ。そして、とにかく広大だった。高さとしては二千メートル程度、大したことはない。しかし面積は国が二つは収まる程に大きかった。その為に傾斜は緩く、幸か不幸か登り道がかなり少なかった。歩く分には登り道などない方が良いが、広大な平たい森の中で一度方角を見失えば、それは重大な死活問題となる。ずっと登り道が続くのであれば方向など見失わずに済むのだ。

 問題は他にもあり、人が長いこと干渉していないので道と呼べるものが何もなかった。鬱蒼と生い茂る自然を掻き分けて進むしかない。またそれだけ未知の空間が広く、どこに何があってもおかしくない。動物はいるだろうし、地面に溝が開いているかもしれない。登山というよりは開拓に近い。

 さらに、あまり人目に付く訳にもいかなかった。ここで言う人目とは、エイ国以外の四大国に住む人々の事だ。エイ国王が他の三国に事情を説明した手紙を送ってはいるが、カズハたちの姿がネトエル山を越えての侵略と勘違いされないとも言い切れない。必要以上に派手なことをすると何が返ってくるかわからない世の中なのだ。

 旅人たちの先ゆく道は長く、そして困難に満ちている。しかし立ち向かうのは〝戦乙女〟率いる勇敢な男たちだ。先頭を歩くカズハとエドワードはやはり並の逞しさには収まらず、彼らの背中は追い掛ける仲間たちを寡黙に鼓舞し続けていた。

「カズハ、君の国に来たエデンの男はどのような人物だったのだ。詳しいところをよく聞かせてほしい」

「ええ、すぐに亡くなっちゃったんで、そんなに詳しいことは私にもわからないのだけど、こうして山を登っていると変な感じもしてきたわ。彼はあなた達の国の人が着ているのよりも少し質素な着物を着ていた。ほとんど装飾品に近いような感じで、たった一人で何も持たずにこの山を下りてきたなんて考えにくい気はする」

「それじゃあ彼は嘘をついたのだろうか。それとも、本当は仲間も一緒に山を下りていて、彼は仲間の力を借りて下山してきた。そこで襲われて離れ離れになった」

「それだとどちらにせよ嘘はついてることになるわね。彼は町の人には黙って出てきたって言ってたし。だとすると何か後ろめたい理由があったのかしら。たとえば罪人が国外追放の目にあっていた、とか」

「うむ、どうだろう。そうなると争いのない平和の町と言い残すのもおかしな気もするが……」

 エドワードは顎に手を当てて深慮している素振りを見せた。彼にかかると些細な仕草もいちいち画になる。カズハの持つ空のような青さの瞳に、海のような青さの瞳を持ったエドワードが映る。カズハは心のどこかで、指揮官同士の信頼関係を超えた強い絆のようなものが芽生える温度を感じた。何か、エドワードの端正な顔を眺めるのが尋常ならざることのように思えてきて、不意に顔を逸らしてしまい、今日は心の調子でも悪いのかしら、なんて勘違いを抱えた。

 そんな彼女の様子をエドワードは見逃したようだ。代わりに後ろを歩くフミオとキヘイが見ていて、少し疑り深い言葉で囁き合っていた。「おい、隊長のあの顔を見ろ。エドワードがあまりに美青年なもんだから、普通の女の子になっちまったんじゃないのか」「あり得る。隊長もあれだけモテるのに、国の男子にはとんと興味を示さなかったからな。やっぱり男も顔かな」「これじゃあ、ただの〝乙女〟だぜ」

「まあいい、カズハ。我々はもうここまでやって来てしまったのだ。暗い議論は避けて、エデンという平和の町がある前提で話しをしようじゃないか」

 エドワードの態度はすっかり兵士長のそれだった。どんな状況下においても冷静に大局を見つめる。カズハもその様子に連られたのかいつも通りの調子を取り戻した。

「そうね。私たちが悩むべきは、エデンという町の存在の有無じゃなくて、その見つけ方。さっきも言ったように、外からは容易に確認できない形で町が存在するのなら、この旅はここにきて最も難儀な問題を抱えることになる。山頂に窪みがあってということならまだしも、洞窟の中なんてことになると一仕事だわ。この山は一周するのにも一日は掛かる」

「そういうことになるな。ただ、エデンの男が君たちの国に逃げてきたことと、橋や河を渡らないで済むルートを考えれば、そちらの予想通りチョウ国からということになる。とりあえずは東側を探索するのが得策かもしれないな」

「うん、賛成」

 カズハはエドワードを見て頷くと、全身を使って岩肌を一気に登った。ここにいる誰よりも背は低いのに、誰よりも楽々と高所を移動する。重たい荷物を背負っていてもなお身軽だ。

 それぞれの力を合わせて荷物やお互いを岩肌の上に運び上げると、武力だけでなく視覚聴覚も優れたサンダユウが声を上げた。

「お、隊長、近くに滝がありますぜ」

「本当?それは良かった。そこまで行って休憩にしましょ。サンダ、先導よろしく」

「任せとけ」

 未開の山は実際に登り始めるまでは想像でしか語れない。カズハの肌感覚としては高さの五分の一を登ったところだったが、時間は二時間近くも過ぎていた。とにかく平坦な森が続くのだ。傾斜という不利性ディスアドバンテージがない限り、人は山を登っていけないというある種の教訓かもしれない。休憩できるのは誰にとっても幸運なことであった。



 **



 滝つぼでの休憩を終えて、一行は再び山登りを開始した。エイ国から登山口までの移動時間も含め、既に太陽は正午を告げていた。季節のおかげで日照時間は長い方だが、このままのペースでエデン探しに手間取ると、今夜は山の中で野宿することを余儀なくされる。それは少なからずともリスクを背負う選択だが、エデンの存在が不確実である以上は隊員たちも覚悟していたことである。

 カズハとエドワードを先頭に、ここまでは迷うこともなくネトエル山を進み続けていた。副隊長としてダンゴが最後尾に付き、通過した木の幹に一定間隔で印を付けていく。迷った時と帰り道に役立つのだ。

「止まれ」

 野生の獣のように感覚が研ぎ澄まされている最中のサンダユウが、押し殺しながらも皆に聴こえる声でそう言った。誰もが素直に動きを止め、自然と姿勢を低くして警戒する。サンダユウが音を立てないように指差した先には、一番背の高いユスケの三倍は上背があり、最もがたいの良いダンゴよりも二回りは巨大な大熊がいた。これがネトエル山の魔物と呼ばれていてもおかしくない。誰しもに緊張が走る。

 大熊は一行より数百メートルは先にいた。しかし、あの巨体が追いかけてきたら逃げ切ることは不可能だろう。ここは意を決して闘うしか道はないのか。トシは念の為にゆっくりと弓を手に取り、それぞれが自らの武器に手を掛けた。するとカズハは動きで一同を制した。彼女はすぐに動けるような構えを取っているが、まだ武器には手を置いていない。

「相手を刺激するような動きは見せないで。襲ってくるまでは絶対に手を出しちゃ駄目。熊から遠い者からゆっくり後ろへ下がっていくのよ。背中は向けないでね」

 エドワードも自分が兵士たちに声を掛けるなら同じことを言っただろうと思い、背後の仲間たちに頷いてみせた。頼れる指揮官が二人もこの場にいることは全ての仲間たちの心の支えとなる。

 ダンゴやユウタたちがなるべく静かに動き始め、一人また一人と大熊の進行方向とは逆側に動き出した。未知の森の恐怖とはかくも恐ろしい。対話が通じない相手との戦い方には慣れていない者ばかりだ。それでも冷静に最善の対処を目指すことによって、ようやく先頭のカズハとエドワードも動き出せるようになった。

 大熊は一連の動きを微動だにせず見つめていたが、やがて何かを察したかのように背を向けると歩み去って行った。人々は声を出さずに安堵の溜息をつく。特にゲンタの汗のかきようは尋常じゃなかった。それぞれがお互いを茶化すように笑みを交わし合ったが、すぐには声を上げて無事を確認するなど出来なかった。

 なんとか窮地を脱し、一行は再び歩き出そうとしたが問題が発生した。今の熊騒ぎで方角を見失ったのである。ダンゴが付けていた印も近くには見当たらない。どうにか太陽を手掛かりに方角を探ろうとしたが、木々が生い茂っていてわかりづらい。身軽なゲンタが木に登って太陽を確認すると提言したが、誰よりも幼いユウタが口を開いた。

「僕、移動した方向と歩数を覚えています」

 そう言うとすぐに彼は歩き出した。記憶が怪しくなってくる前に行動すべきと踏んだのだろう。突然の緊迫状態と景色の判別の付かないような山中にも関わらず、ユウタは先の状況を読んだ行動を取ったというのだ。彼はまだ隊員としての戦闘能力は未熟ながらも、十四歳とは思えないような賢さと勇気でこの旅に加えられたのである。

 ユウタが歩数を数え、ここだと言った所はぴったり移動する前の地点だった。ダンゴが木に付けた印の後を確認し、進むべき方向が判明したところで歓声が上がった。みんな口々にユウタを褒め讃え、大熊の存在を思い出し慌てて口をつぐんだ。ユウタは無言のまま背中を何度も叩かれ、少年らしく照れ臭そうだった。



 それから四時間が経った。歓喜の時間はそう長く続かない。計画上ではとっくに山頂に辿り着いているはずが、現時点ではようやく半分を過ぎた程度のようだ。旅に困難と遅延が付きものなら、山登りだって同じようなものである。

 しかしカズハは現状が不可解で仕方なかった。陽が落ちる速度が速すぎるのだ。昨日ならこれから陽が傾き始めるという時間には、今日はもう西日色を漂わせているのである。まるで季節が反転したかのようだ。気温も下がってきている。標高が高くなったので当然とも言えるが、そのレベルでは説明できないような急激な変化だった。カザーニィの者たちはマントを深くまとい、エドワードや甲冑の二人にも防寒着が渡された。

「どうするカズハ。今日はこの辺りで野営の準備か」

 カズハたちの物と同じマントが渡されたエドワードはそれを羽織りながら尋ねた。彼は銀色に光る簡易式の軽い鎧だけを身に付けていた。防御力はあっても、やはり甲冑と同様に山登りには向かない。それでも疲れはカズハとさして変わらない様子だ。

「そうね……。予想以上に暗くなるのが早いわ。この山は何かがおかしい。さすが不可侵領域と言いたいところだけど、今の内に野営場所を探さなくちゃ駄目ね。はい、総員注目」

 カズハの合図で一同が歩みを止めると、部隊は野営準備に取り掛かることになった。現在地点に荷物をひとまとめにし、二人がそこに残る。他は近場で焚き木用の枝を探したり、よりよい野営スペースを探す。なるべく自らの足跡を残して元の場所に戻れるようにしながら、お互いの声を頼りに行動する。

 トシとフミオがその場に残ることになり、二人一組で行動が開始された。太陽の光が届きにくい森の中はみるみる内に明るさを失い始めた。このままでは半刻とせずに闇が訪れる。夜の暗闇は熊以上の恐ろしさを運んでくるだろう。

 数分かかって、ここなら野営も出来そうだという場所をダンゴが見つけた時、荷物を置いていた場所から集合の笛の音が鳴った。その音はかなり遠くまで響き渡る為、本当に緊急の場合でしか鳴らさない手筈の笛が鳴ったのだ。ダンゴは足早に元の地点に移動し、カズハやエドワードたちもすぐに合流した。そこでは、焚き木用の木の枝を探していたはずの甲冑の二人が騒いでいた。

「きっとあれだ。エデンに続く道を見つけたんだ。そうとしか考えられない」

 他にも、とてつもなく大きいとか、まるで生き物だとか言って、かなりの剣幕で慌てふためいている。その場にいた者たちはそれぞれ顔を見合わせ、とにかく二人の言う場所まで移動することにした。話が本当ならば、エデンは山頂には存在しないことになる。とはいえ、ここにきて二人がいたずらに状況を混乱させるようなことを言うとは思えない。やすやすと疑う訳にもいかず、一行が木々の隙間を縫うように進んでいると、森が途切れた広間に出た。

「ほらあ、これだこれ。見てくれよここ」

 そこには巨大な壁のような崖と、まるで人間が通行用に作ったかのような坂道があった。崖は雄々しくそびえ立っており、上の方がどうなっているのかは確認できない。高さもあれば、横幅も広く終わりが見えない。坂道は崖に沿うようにぐるりと伸びており、その先は隠れて見えなかった。

「なんだこれは。こんな崖、どこからも見えなかったぞ。もう何が起きているんだか、訳がわからん」

 大きな口を開いたままでフミオは崖を見上げた。まるで世界がせり上がってしまったかのような巨大さだ。その隣で呆気に取られた様子でキヘイが口を開く。

「本当だ、これはすごい。自然が生み出すにしては形が綺麗すぎる。それにしても高いが……もしかして、山頂よりもこの崖の上の方が高いのか?あそこまで登れば町があるというのなら、エデンの男の言ったことにも説明が付く」

「だったら、ここに来るまで見えなかったことには説明が付かないだろう?」

「それもそうなんだが……、今こうして目の前にある以上は、受け入れるしかないだろ。俺たちは気付かない内に山の反対側まで来てしまったのかもしれないし、ここを登れば山頂まで直接繋がってるのかもしれない」

「うむ……」

 様々に怪しい点は拭えないが、僅かながらエデンという町が具体的な輪郭を帯びて見え始めてきたようだ。甲冑の二人は手柄を立てたと言わんばかりに饒舌になり、ダンゴたちは適当な相槌を打つのに忙しそうだった。人々は改めて崖を見上げる。まるで覆い被さってくるかのような迫力があった。エドワードは誰よりも早く驚くのをやめて次の行動を考えていた。

「カズハ、この上にエデンがあるかどうかは別として、確実にこれは人間の痕跡だ。誰であろうがこの山に人が住んでいるのならば、我々は会いに行かねばならない。問題は今ここで登るかどうかだ。見ろ、空が奇妙な色をしている。雨が降るのか雪が降るのか、他の物が降ってきても不思議じゃない。まるで太陽にも月にも見放されたようだ」

 エドワードが指差す空を眺めると、夕焼けは終わったのに夜になるのを拒むというような不思議な色が広がっていた。子どもが絵に描くような宇宙の色が似ていると言えるかもしれない。急激な気温変化、突如見つかった人の痕跡、世界が終わるような色の空。ネトエル山の怪奇は加速度的にカズハたちを包み込もうとしている。

 背後では、風もないのに木々が騒めいていた。これまでには一度も聴こえなかった鳥類の鳴き声が響き、空には流れ星が幾つも見え始めた。カズハはとりあえず松明たいまつを用意するよう指示する。こんな空気の中で崖路を登っていくのは誰の目にも危険と映るが、見たこともない生き物がうろつく森の中で夜を明かすのが安全とも思えない。彼らは四大国も近付かない未知の山の腹の中にいるのだ。前も後ろも危険しか用意されていないことに気が付くと、ゲンタは人目を気にせず泣きたい気持ちになってきた。カズハは躊躇わずに決断をする。諦めるという選択肢だけはない。

「みんな、このまま崖を登っていくわよ。状況は明らかに未知の領域に達している。ここで夜を明かそうとしても安全の保障はないわ。それどころか私は危険だと感じている。慎重に崖の道を登っていくのなら、少なくとも大きな熊に食いちぎられることは避けられる。迷ってる暇はないわ。付いてきて」

 カズハは羽ばたくようにマントを翻すと、松明を一本手に取り崖の坂道を登り始めた。そのすぐ後にはエドワードが続き、サンダユウ、トシ、キヘイと次々に列を作り始めた。ゲンタはいつも通りに渋る姿勢を見せながらも続き、最後に残った甲冑の二人に、最後尾を行くダンゴは手を広げて促してみせた。二人はなかなか決心を固められないようなので、「お前たちが見つけたんだぞ」とダンゴは言う。ようやく全員が崖路を登り始めた。



 確かな感触で地面を踏みしめながら歩いていても、カズハはこの現状がどうしても信じられなかった。崖路を登り始めて一分と経たない内に周囲を深い霧に囲まれてしまい、自分の足元以外は真っ白な世界が広がっていた。それに、この明るさはまるで昼間である。さっきまでは陽が落ちて困っていたのに、今では霧の向こう側に青空が広がっているとしか思えない。松明をあちらこちらにかざして視界を広げようとするが、その間に霧が松明の灯りを消してしまった。手持ちの駒を奪われていくような感覚に眉を歪め、負けてなるものかと背後へ声を掛ける。「総員、点呼始め!いち!」

 カズハ自身を一人目として数え、後ろの声は十六まで続いた。最後は聴きなれたダンゴの渋い声がして、ひとまず誰も欠けていないことが確認できた。

「エドワード、いる?」

「ああ、私はここにいる」

「これは一体何なの?四大国ではこんな意味不明な現象が起きたりするものなの?」

「いや、こんなことは初めてだ。ここは四大国とは全く別物の土地だ。ネトエル山独自の世界が広がっている。この道がエデンに続いているのなら、その町は最も謎に満ちているのだろうな」

 彼の言葉はカズハにとって物事の確認でしかなく、何か新しい見識を生み出す力にはならなかった。しかしこの状況では、誰かの声が聴けるだけでも安らぎを感じられる。カズハにとってその声がエドワードのものであることは、最も望んだものが手に入ることと同じようだった。不安に押し潰されそうで逃げ道を求めている自分に彼女は気付き、私はカザーニィの〝戦乙女〟だと、何度もその心に言い聞かせた。

「たいちょおー!後ろから足音が近付いてきています!」

「え⁉」

 気持ちを切り替えようとしたのも束の間、最後尾からはダンゴの不穏な報告が届いた。こんな状況では何が起きているのか想像するのも難しいが、楽天的な観測を許されるならエデンの人間であってほしいと願う。数歩だけ進んで続きの報告を待つが何も起こる気配はない。カズハは止むを得ず列を停止させて、一人分通るのがやっとな坂道を縫うようにしてダンゴの元まで下った。鼻が当たりそうなくらいに近付かないと互いの顔が見えない。

「ダンゴ、どうしたの」

「後ろですぜ。今は動きを止めていやがる。ワシらの動きに合わせて距離は詰めてこないようですが、さっきから数が増えてるようだ。気味が悪い」

「……そこ、誰かいるの」

 カズハは短剣を構えて声を出した。白い霧は漂うばかりで何も答えない。人が、それも大勢がいるような気配は感じ取れなかった。すると突然、代わりに返事をするかのような烏のがなり声が辺りに響いた。姿形は一握りも確認できないが、もしも本当に烏の鳴き声だとするのならば、声の大きさからして巨大な姿が想像できる。しばらくカズハは様子を窺ったが、そのままじっとしていても仕方がないので先頭に戻って崖登りを再開した。

 崖の下で見上げた高さを登りきるには、まだまだ時間が必要だと思われた。激しい運動で身体が熱を持っても、まとわりつく霧は衣服ごと人々を湿らせてゆく。もう誰も暑いのか寒いのかもよくわからない。足の感覚は触覚だけを残してみんないなくなった。痛いだとか疲れただとか思う元気もない。ただ足を棒にして進み続ける彼らは、ひたすら終わりが存在することだけを望んでいた。

 そして、それは前触れもなく訪れた。先頭を行くカズハが合図もなしに足を止め、後ろを歩く者たちはあちこち身体をぶつけ合った。カズハは謝りながらも一同に前を見るように言った。そこには、どれだけ白い霧でも及ばない程の暗闇を持った洞窟が口を開いており、カズハたちはいつの間にか崖路ではなく平坦な場所に立っていた。珍しくユウタが怯えたような声を上げる。

「この先にエデンがあるんですか……?もう、前も後ろもわかりませんよ」

「だったら信じる方に進むのよ。誰か、濡れていない松明はある?」

 経験豊富なフミオは雨に備えて何重もの布に包んでいた松明を差し出し、先頭のカズハだけが明かりを持つことになった。後続は前の人間の肩に両手を当ててムカデのように進んでいく。

 洞窟内はどれだけ松明が燃えようともその全容を曝しはしない。連なった形を崩さないように注意しながら歩を進めるが、彼らの意思を屈服させようとするかのように、コウモリや水滴がちょっかいを出す。ダンゴが耳にした足音がいつの間にか復活しており、人々の進みを焦らせているかのようだ。

 光を頼りに生き続けていると、暗闇に投げ出された時には圧倒的に無力でしかない。仲間の気配や衣擦れの音でさえ何かしらの脅威と勘違いする。仲間の肩を握る手には自然と力が入り、背後の仲間も同じことなので肩に加わる痛みが増していく。湿った風に熱風、氷のような壁の感触に、砂漠のような足場の感覚。激しい耳鳴りが定期的に起こるし、不意に誘われるような眠気が訪れる。洞窟の中を支配しているのは暗闇だけではない。それ以上に強力なカオスがある。

 時間が経過し洞窟を奥に進むにつれ、漠然とした命の危険も迫ってくるようになった。大型の肉食獣のような唸り声が耳に届き、隊員の一人は謎の触手に髭を引っこ抜かれた。足元が見えないのでそこら中の岩に足腰をぶつける。背後に続く謎の足音は五人や十人のものではない。ゲンタでなくとも、誰もが弱音を叫びたくなった。しかし、夜というものは明けることが出来る。道ゆく先に希望を信じる限り。

「出口よ!」

 彼らの進行方向に小さな危うい光が見えた。カズハの持つ松明よりは覚束ない光だが、この場の何よりも希望を含んだ光だった。一同が抑えきれずに歓声を上げると、洞窟内には雷が落ちたような謎の音が響き渡った。各々が叱られた子どものように驚いていると、瞬きをするくらいの静寂を空けて、ダンゴの後ろの足音は襲ってくるかのように走り出した。二十人も三十人もいるような雪崩みたいな足音が、一つ一つ殺意を込めて近付いてくる。「走れ!」とカズハが指示を出すまでもなく、誰もが我先にと光の方へ駆け出していた。足音は一片の容赦もなく追いかけてくる。一目散に先頭に躍り出たゲンタは叫んだ。

「うわああああああああ!」

 そして光の中に身を投じたゲンタは、洞窟内との明暗の差に目が眩み、すぐに足がもつれて派手に転んだ。フミオだけが呆れたように抱き起してくれたが、ゲンタの身軽さと受け身の技術を知っていれば心配する程のことでもない。エドワードやユウタらも闇を抜け、十六人の旅人たちは、やっとのことで明るい場所へと抜け出した。彼らを追いかけてきた足音は、始めから存在しなかったようにどこへ行ったか聴こえない。一行は次々に寝転がったり汗を拭ったりして、やっとの思いで休憩を手にした。正体不明の命の危険から脱した気分は、そう清々しいようなものとも言えはしなかった。

「みんな!」

 息を切らし膝に手を付きながらも、この部隊のリーダーであるカズハは眼前の一点を見つめて叫んだ。その視線の先には緩やかな傾斜を持った一本道が伸びていた。そして、その行きつくところには大きな木の門と、傍らに控える二人の門番の姿があった。



 **



 ついに、エデンへと辿り着いたのだ。

 洞窟を抜けた先には開けた安全な土地が用意されていて、そこはまるで山の頂のような場所で、ここがネトエル山の山頂だと言われても異論はない。ショウが怖いもの見たさで崖際から下を覗いたが、坂道の始まりとなる地点は遠くかすんで見えなかった。これ程の高さを自分たちはどうやって登ったのか、それも一時間と経過せずに。道中が奇々怪々かつ摩訶不思議すぎて、何が起こったのかと説明できる者は誰もいなかった。

「あの門の先がエデンの町なのか。誰か立っているぞ」

「あれは門番だ。や、武器のような物を持っていないか。平和の町じゃないのか」

 夢物語だった目的地が目の前に現れて、みんな口々に思ったことを喋った。本当なら諸手もろてを挙げながら町へ駆け込みたいところだろうが、この戦闘部隊は警戒すべき時に怠らない。誰よりも早く立ち上がったエドワードが数歩だけ門へ近付き、それを見ていた者たちは少しずつ立ち上がって彼の後ろに控えた。何とか息を整えたカズハはゆっくり歩き、エドワードの真横まで移動して止まった。

「どう、エドワード」

「私の意見は同じままだ。あそこがエデンだろうか違っていようが、この山に人が住んでいるのなら接触するべきだ。何よりこちらには野宿をする余力もない」

「その一言一句に同意だわ」

 カズハはそう言いきって、自らの荷物を背負い直すと仲間たちを振り返った。休憩はこの場ではなく町の中で行うと言いたいのだ。その意を汲んで男たちの目は輝きを取り戻し、一度は休めかけた体に鞭打って立ち上がった。彼らが目指すべきは慢心に満ちた兎ではなく、のろまだが頑張る亀でもなく、決して歩みを止めない脱兎だ。

 カズハとエドワードが並んで先頭を歩き、門までの一本道を進んでいった。門の傍には二人の男がいた。どちらとも不自然な髪型をしている。近付いてようやくわかったが、二人が持っていたのは木製の槍だった。しかも先端は丸みを帯びてしまっている。その物体に戦闘力はほとんどない。せいぜい相手の頭を殴ってたんこぶを作るくらいなものだ。何かの冗談のつもりなのか、やけにのんびりした者たちだ。

「おや、どなたでしょう。やや、もしや旅をしてこられたのですか?」

 お互いの顔が見える距離まで近付くと、門番の男の一人が尋ねてきた。木製とはいえ、槍を持っているというのに構える素振りも見せない。もう一方の男に関しては槍を持つのを忘れたまま歩み寄ってきた。そして二人とも白いレースのような美しい着物を身に付けている。エデンから来た男が着ていたものと同じ服装だ。決定打を得たカズハは、もう何も臆さずに単刀直入に話をすることにした。

「あの、もしかしてここはエデンという名の町ではないでしょうか」

「ええ、その通りですよ。あなた達は?」

 一同は思わず息をのんだ。本当に平和の町・エデンへと辿り着くことが出来たのだ。

「ああ、申し遅れました。私たちはこのネトエル山の東の国、カザーニィという場所から来た者です。私はカズハと申します。こちらは山の南の麓のエイ国で兵士長を務めるエドワード、そして彼らは甲冑の国の方たちです。他の者たちはカザーニィの戦闘部隊の隊員たちになります」

「おお、これはこれは、山を登ってこられたのですね。カズハさんにエドワードさんにその他の方々、ようこそいらっしゃいました。長旅ご苦労様です」

 槍を持った方の男は腰から深々と頭を下げた。隣の男も同じような動作をする。この山の過酷さとのギャップが大きすぎて、逆に不安な感情すら湧いてくる程に穏やかだ。エドワードは兵士長としての警戒心が隠し切れない程に高まり、カズハの前に身を乗り出すようにして話し始めた。

「私たちは二つの目的があってここまで旅をしてきました。一つは、この町から下りてきたという男性が、何者かに襲われてカザーニィにて命を落としてしまったのです。彼は最期に妹さんへの遺言をカズハたちに託しました。それを伝える為に来たのです。もう一つはその男性がここを平和の町だと言ったことによります。聞けばこの町は争いとは無縁だという。私たちはその平和の秘訣を知りたい」

 エドワードの堂々とした口振りと、その鋭い眼光に門番の二人は少し恐ろしそうな表情を見せた。と同時に町の仲間の訃報を聞いたことで、厳粛な様子で顔を見合わせた。

「お兄さんがというと、エレナさんだろうか……。これはまたお気の毒なことに」

「すぐに伝えてあげなければな。では、そういうことでしたら皆さん、どうぞ町の中へお入りください。もしも武器をお持ちなようでしたらそこら辺に捨てていってくださいな。この崖の方から落とせば誰かが拾って怪我をする事もないですよ」

 門番の男はごく当たり前のようにそう言って崖を指差した。あまりにも抑揚を付けずに自然と喋ったので、カズハたちは聞き逃したかのように身動きが取れなかった。

「あの、今、何と仰いました?ええと、私たちが武器を捨てるのですか?この崖の下に?」

「ええ、そうですよ。武器なんて持ってたら危ないじゃないですか。子どもが誤って怪我をしてしまう恐れもありますし。別に崖から落とさなくてもその辺に置いといてもらえたら構いませんよ。帰り道に必要だというならそうした方がいいかもしれませんが、そんな物騒な物は持たない方が身の為です。この町には武器などございませんから、ほら見てください。この槍だっておもちゃです。門番はあまりに暇なので私たちで作ったのです。書物に記されていたものを再現しました。どうですか出来の方は」

 門番の男は世間話をしているつもりで槍をカズハに見せてきた。一方の旅人たちはどうすれば良いのかわからずに棒立ちになっている。カズハは何とか平静を装いながら、仲間たちとの話し合いの時間をもらった。

「どういうつもりかしら。本当に争いがない平和の町だというのなら、確かに武器なんてお断りかもしれないけど」

「罠、ですかね。ここまで来て今さらかもしれませんが、国に入った途端に捕まることだってあり得る」

「そんなの、本当に今さらですよ。僕たちは平和の秘訣を知りに来たんでしょう?だったらここが平和の町だと考えて行動するしかないじゃありませんか」

「二手に分かれたらどうだ。最初の組が入っていって、一通り町を見て回ってからもう一組が入るとか」

「それはあまりにも失礼じゃないかしら。ユウタの言う通り、もう腹をくくるしかないわ。もしもの時でも、私たちなら武器に頼らずに戦えるわよ。それこそ何があるかわからないから、言われた通りに武器は捨てていく。帰りにまた作らせてもらいましょう。平和の秘訣を知ったら、私たちも武器を持てなくなったりしてね」

 カザーニィの戦闘部隊はカズハの言葉で一致して、別れを惜しみながらも、長年使った短剣や弓を崖から落としていった。甲冑の二人は嫌がるような素振りを見せたが、早く町の中に入って休みたいとでも思ったのか、比較的すぐに決断を受け入れて太刀を崖から放り投げた。残るはエドワード一人だった。

「どうかしら、エドワード。ここは言うことを受け入れるべきだと思うの。その剣をここに置いていってくれない?」

 カズハはほとんど形式的に、断られることはないお願いをする気持ちでそう言った。いつも通り二つ返事で済む、上役への義務的な確認といった感覚だった。

 しかし、その会話には不適当な長さの沈黙が生まれた。エドワードを見ると曇った表情をしている。カズハは思わず眉を寄せ、もう一度声をかけようと口を開きかけた。

「……すまない、カズハ。それだけは出来ない」

 そう呟くように言って、エドワードは初めて見せるような後ろめたい顔を作り、カズハの意見に逆らうように目を伏せた。あれ程に頼りがいがあって賢い彼が、まさか断るとは誰も思いもしなかった。

「……あ、ええと、どうしたのエドワード。なぜ?武器を持ったままじゃエデンの中に入れてもらえないわ」

「すまない、本当に申し訳ない。この剣は、私がエイ国の兵士長であることの証であり、一度でも兵士になった男の誇りなのだ。私が兵士長として国を護る間は、命尽きるまで手放してはならない。それにこの身は君を守る為に捧げるとも誓った。武器も持たずに君の横にいても、きっと私は君のことを守り切れない」

「でも、今から私たちが入る町は争いのない場所なのよ。そりゃあ、人間が平和でも命の危険に曝されることはいっぱいあるでしょうけど、そんな時には武器なんて役に立たないわ。あなたの剣に対する想いを軽んじている訳ではないけど、ここから先は武器を持って進む場所じゃない。私たちは平和の為に旅をしてきたわ。ここで武器を置けるようじゃなければ、どのみち平和なんて無理難題な話よ」

「だから、すまないと言っているだろう!道具として必要かどうかなんてことを言ってるんじゃない、この剣は私そのものなんだ。こんな所に置いていくなんて、そんなことが出来る訳ないじゃないか!」

 エドワードはまるで別人かのように口調を乱し、珍しく声を荒げた。普段の毅然とした紳士らしい態度はどこにもない。その様子だけでも、彼がどれほど追い詰められているのかがよくわかる。

「私は生まれ育ちをずっと兵士としてやってきたのだ。今ここで剣を捨てたら、私は私ではなくなってしまう。私は兵士として生き、兵士は剣と共に生きるのだ。なにも、この剣を使って誰かを脅かそうとしている訳でもないのに、わざわざ捨てていくことなどないだろう?……そうだ、私はエイ国兵士長だ。私が今ここで武器を捨ててしまえば、我が祖国は私を受け入れてはくれないだろうな。剣を捨てた兵士長になど価値はないのだから!」

 彼は今まで以上に必死だった。自分に忠義を尽くして生きてきた結果、同じくらいに大事な二つのものを天秤にかけても、その重きを測りかねているのだろう。彼自身も辛いことだし、一生懸命に物事に向かい合っているのは間違いない。しかし、そうすればより良い選択を出来るかと言えば、必ずしもそうではないというところが苦しいのだ。

 想定外の展開に、カズハは正直なところ困っていた。彼女も幾つかの戦場に赴いてきたからこそわかるのだが、男たちの武器にかける想いは特に強い。カザーニィの隊員たちがここまで軽やかに武器を捨てられたのは、彼らにとってより大事だと思うものがあるからだろう。もしも最も大事なものが兵士としての剣であった場合、彼女にエドワードを動かすことは不可能なようにも思えた。

 カズハは旅を諦める選択肢を持ち合わせていない。相手よりも強い意志で臨むのであれば、心は揺さぶれるように出来ているというのが、カズハの人生経験上で得た哲学の一つだ。しかし、今のエドワードよりも強い意志を示すには、何をどうすればいいのだろう?兵士長を担う者として、彼の意志はかつてない程に強く、重い。

 カズハが唇を噛み締め、一筋の汗と共に思索を続ける間、人々の間に流れる空気は静かで不穏だった。

 カザーニィの隊員たちもこの展開をどうにかしようと口を開きかけてはいるが、カズハが説得できない程の相手に何を言えば良いというのか、わからないでいる。甲冑の二人はむしろ、武器を捨てなくても何とかなりそうだぞ、ちぇっ、俺たちももう少し慎重な態度を取れば良かったなぁ、とでも思っているらしい。彼らの国は慢性的に貧しく、国から支給された物資が一度でも自らの手を離れてしまったなら、それはもう二度と手元には戻ってこないと考えるのが当たり前になっている。

 誰も動かず、沈黙が北風のように吹き曝していっても、カズハは口を開けず、エドワードもただ、握りしめた剣の柄を離せない。彼はカズハや旅の仲間たちの姿を見ていた。最悪の場合、ここでみんなと決別してしまわなければならないのかと危惧し、息を浅くして覚悟を決める準備をする。

 エドワードがカズハを見て、他の仲間たちに目をやり、次に目線を移した先には、平和の町の門番の二人がいた。二人はよく見なければわからない程度に、無知的な恐怖の表情を浮かべていた。何をどうしたらいいのかわからない子どもの上目遣いのような視線は、この場でエドワードだけが持つ本物の武器——鋭利さと重厚感、死の気配がする剣——に注がれている。

 その視線と表情に気付いた時、エドワードは自らの身体の一部のように大事にしてきたものが、敵でも何でもない他人を怯えさせてしまうものであることを知った。容易に人を傷つけ得る道具であることなんて、最初に剣を手に取る際に口うるさく教え込まれたことだが、随分と長いこと国を守る為にしか扱ってこなかったせいで、彼自身も気付かない内に剣を美化しすぎて忘れてしまっていたのかもしれない。

 自分が武器を手放さないことは、平和の町の住人たちにとっての恐怖に繋がる。しかしこの剣には、エイ国の人々の希望と誇りと、エドワードの人生の一部が詰まっている。ここで剣を捨てられない自分は、平和の秘訣の為にはそぐわない人間なのだろうか?エイ国の王や国民たちが頼りとしてくれた、兵士長としての自分は、この剣と一緒にここで捨て去るべきなのだろうか。しかし、そんなこと……。

 エドワードは視線を自らの剣に向けて、そこで動かなくなった。その目の映るものには、およそ兵士長には似つかわしくない、年相応の迷いと不安と恐怖があった。カズハはその感情たちを決して見逃さない。どのように声をかけようと考えるよりも前に、彼女の身体は動いてエドワードの手を握った。彼の手が剣の柄を握る上から、優しく包み、その温度を分け与えるように。

「ねえ、エド。あなたはずっとそうなのだわ。強すぎる責任感で何もかもを背負おうとしてしまって、恐怖と不安も一緒に抱え込んでしまう。初めて会った時にも感じた。あなたは強くあろうと考えすぎなのよ」

 カズハはエドワードの目を、深くまっすぐ、そして奥の奥の方まで覗いた。とても力強い視線だ。エドワードは思わず見つめ返してしまうことになる。カズハの目の光にはそれだけの力がある。

「ずっと昔から兵士として育って、こんな早くに兵士長を務めるからこそ、あなたはどこまでも強くなろうとしてしまう。でもそれは、一人の人間が背負える重さじゃない。わかるの、私だって似たようなものだもの。そのうえ女だからって気を遣われ続けてきたから、あなたと違って他人への警戒心だけは薄くなっていったわ。みんな優しいもの。そして大らかで、人は困る時は困るように出来てるのだからって、考え過ぎや悩み過ぎるのが問題だってことはすぐに教えてくれた。あなたは充分にいろんなものを背負って、考えて、悩んできた。この剣と一緒に、いろんなものを抱え込んできた」

 するとカズハは、エドワードの剣を彼の腰の鞘から静かに引き抜いた。切先を地面に向けて、両手を使いへその辺りで構える。そうしていると、エイ国の文化が反映された剣は、まるで美しい調度品かのような輝きを放っている。

「ねえ、エドワード。平和の秘訣って何かしら」

 カズハは無邪気な目で問いかけた。エドワードは力無く、すぐに目を伏せた。

「……私にはわからない。その答えを知る為に、ここまで旅をしてきている」

「そうね。その通りよ」

 そう言うとカズハは、道のすぐ横の草地へ、エドワードの剣を勢いよく突き刺した。これまでに多くの難局を切り抜けてきた剣は、垂直に深々と地面へ突き刺さった。

「あなたの言う兵士としての誇りって、この剣で誰かを斬り付けることを言うの?いいえ、そんなことじゃないはずよ。エイ国の兵士長に与えられた、この剣の存在そのものが大事なの。この先の町では剣を鞘から抜くことはない。それなのに剣を持ち歩いて、エデンの人々に恐怖感を与えてしまうのなら、それこそ名誉や誇りが汚されてしまうだけよ。私たちは武器がなくても自分たちを守れるだけの強さを持っている。そして、あなたも武器を取らずに平和の秘訣を探す。この剣はしるしよ。私たち旅人がこの町にいて、武器を置いて話し合っているという、一つの平和を表す標。そしてエイ国の栄誉と誇りを、ここに示す為の標。そうでしょ、エド」

 カズハはカザーニィの〝戦乙女〟としてではなく、一人の温かき少女として、エドワードに優しく近付いた。エドワードはカズハの青い瞳と、地面に突き刺さった剣を見つめ、そしてゆっくりと屈むように目を伏せた。少女の言葉は今まさに、若き青年へと浸透している最中だ。

 雲が流れ、鳥が鳴き、青年の為の沈黙が生まれた。先程の静けさとは違って、まるで春のそよ風に耳を澄ます為かのような静寂だ。カズハは音を立てないようにそっとエドワードの腰から鞘を取り、地面に突き刺した剣の前に置いた。エイ国の公園広場にある彫像のような、晴々しく画になる風景が生まれた。

「カズハ」

「ん?」

「……ありがとう」

 その言葉を聞いたカズハは満足したように頷いて、エドワードに平和的な抱擁をした。青年は咄嗟に顔を赤らめながらも、母親のような少女の温もりに応じた。カザーニィの面々は感慨深そうに笑っている。特にダンゴは両目に涙を浮かべていた。一連の様子を眺めていたエデンの門番たちは、そろそろいいかと二人に話し掛けようとしたが、カザーニィのおじさん達によって引き留められた。そしてそれからちょっとの間、旅の疲れを忘れるように人々は余韻に浸っていた。



 **



 長い旅を続けた先で、カズハたちはエデンの町へと足を踏み入れた。

 武器を捨てて門を抜けると、カザーニィとほぼ変わらないくらいの大きさの町に、石造りの建物がちらほらと並んでいた。町の気候は寒くもなく暑すぎることもなく、時折り爽やかな風が吹いては、街ゆく人の髪を揺らしている。人々はみんな同じ白いレースの着物を身に付け、子どもから老人までが同じ格好で出歩き、誰もが同様に穏やかに微笑んでいる。小さな子どもくらいが無邪気に声を上げて駆け回っていたが、大人たちを見ていると彼らも遠くない将来は同じように微笑みだすのかもしれない。頭上には視界を遮る影が存在しない為に青空が広々と見えた。崖を登る前には夜になりかけていたのに、時間を尋ねると昼の十二時だと言う。「何だか、夢みたいな場所だ」とエドワードは小さく呟いた。

 一行は町長の元へと案内されることになった。門番の男が言うには、外からの旅人が訪れたのは生まれて初めてらしい。門と門番の存在は何の為に必要なのかわからなかったが、こういう時の為なのかと今日を持って理解したと言う。

「武器は持ち込ませてはならないと言われていましたが、武器とはどういうものなのか知らなかったのです。そこで書物を読んでいろいろと学びましたら、あなた達が似たような物をお持ちだったのですぐにわかりましたよ。あんな危ない物を本当に所持しておられるとは。私たちとは住む世界が違うようですね。まあ、それも今日を境に変わるかもしれません。争いなんてなくても人は生きていけるのですよ」

 男の語気はのんびりとしていた。彼に限ったことではないが、この町の人々はみんな隙だらけで欠伸あくびが出そうになる。カズハたちの姿を見て驚いたり珍しがったりもしていたが、誰もが少し経てば穏やかに微笑んで歓迎の言葉をかけてくれた。

 やがて一行は赤い煉瓦が目立つ喫茶店の前で歩みを止めた。門番の男によるとここに町長が住んでいるらしい。カズハはてっきり町で一番大きな建物を想像していたので、街の一部に紛れたような喫茶店には少々面食らった。町や村や国と呼び名が変わろうとも、この時代のコミュニティは大小にさほどの差がなく、それはコミュニティの長にも共通して言えるはずだった。この町は他と比べると何もかもが異質である。しかしその分、争いのない平和の町というのが真実味を増してくるようでもある。

「いらっしゃい」

 門番の男を先頭に店の扉をくぐると、白髪に丸眼鏡の老人が声を掛けた。読んでいた本を置き、客を迎え入れる為にカウンターから出てきてくれる。他には人の姿がなく、この男性が喫茶店の店員兼マスターであるらしく、そしてエデンの町長だった。

「おや、珍しい人たちが来ましたね。エースさん、お客さんですか」

 門番の男はエースという名前を呼ばれ、肯定の意味の返事をした。町長は嬉しそうに二回ほど頷くと、カズハたちの疲れを慮って店の椅子をすすめてくれた。いくら足がくたくたであろうとも、カズハは先に自己紹介と旅の目的などを述べ、町長が一通りの事情を理解してくれたところでようやく腰を下ろした。カズハ、ダンゴ、エドワードがカウンターの席に座り、残りは皆テーブル席に着いた。町長はカウンターの中の自分の椅子に戻った。

「私の名前はオオサワです。この町に一番長く住んでいるので町長をやっています。みんなからはこの店の店長としてマスターと呼ばれていますが、どう呼んでもらっても構いません。それより、あなた方のカザーニィで亡くなったというその男性、二週間ほど前にいなくなったタクマというこの町の人間に違いありません。後で弔いの儀が執り行われるでしょうから、よければ参加してあげてください」

 すると町長は忘れてたと言うようにコーヒーの準備を始めた。一人で十六人分ものコーヒーを用意するのは骨が折れるだろうと何人かが手伝おうとしたが、店の裏の方に店員が隠れていたらしく、まだ幼い男の子が出てきて準備に加わった。門番のエースもその場に残ってコーヒーを運んでくれた。男の子の名前はネズと言い、名前の通りねずみ色の髪の毛が特徴的だった。一同に歓迎の一杯が用意され、カズハは代表してお礼を述べた。

「ありがとうございます、マスター」

「いえいえ、当然のもてなしです。それでは私は町の皆さんにあなた達のことを伝えにいきましょう。タクマさんの弔いが終われば、そのまま町人総出で歓迎の会を始めます。私たちの町は外と比べると厳かで質素ですが、相応の心を持ってお迎えさせていただくつもりですので、どうか楽しみにしていてください。つもるお話はその後にいたしましょう。では」

 そう言うと町長は後片付けなどをネズに託し、町の人々へ話をしに店を出ていった。門番のエースも後に続いて外へ行き、残ったネズは店の裏側へと下がっていった。どこの誰とも知らない旅人たちに対しては不用心だし、少しばかり素っ気ないような印象もある。カザーニィ随一の大酒飲み・ヒロキは、エイ国の時の宴のような歓迎を受けられると思っていたのか、物足りないような様子でコーヒーを一気にあおった。

「何だか、平和の町と言うだけあって、平和すぎて静かな感じっすな。歓迎の会も厳かで質素だと言ってやしたが、酒の一口くらいは飲ませてもらいたいもんだ」

「まあ、落ち着いていていいじゃない。私は好きよ、こういうの。それよりみんなは疲れてる?気のせいかもしれないけど、あれだけ山を駆け巡った割には全然きつくないの」

 カズハは仲間たちに聞くと、言われてみればと誰もが己の身体の様子に気付いたようである。広大で難解な山をこれだけ登った割には、洞窟内で最後に走った時くらいの疲労しか感じられなかった。この土地、ないしは崖に近付いた時から常識外の出来事ばかりである。もしかして気付かぬ内に天国まで来てしまったのではないかと言ってダンゴはみんなを笑わせた。



 しばらく喫茶店の中で休憩していると町長が戻ってきた。

 彼は町のみんなにカズハたちのことを伝えてきたと言い、一時間もすればタクマの弔いの儀が始まるとのことだった。それまでに旅人たちは寝泊りする場所を用意してもらい、門番のエースが今日は門を閉めて街を案内してくれることになった。

 エデンの町はネトエル山の木々に囲まれ、崖の上の平地に作られた集落だった。地面は舗装されておらず、その点はカザーニィと造りが同じで、煉瓦を重ねて作られた民家や町を囲む柵がないところはカザーニィと違っていた。

 そして人々はみんな同じ例の服を着ていた。エース曰く、服装が人によって違う理由がわからないという。着心地が悪い訳でもないし、顔が違えば個人の判別も付くのだから、みんな同じ服装で結構じゃないかという意見だ。カズハたちも祖国では大体同じようなものだから特別な異論はなかったが、エドワードや甲冑の二人はもう少し個人的なお洒落が欲しいと言った。パーティーなどにもこだわりを持つ紳士である以上、服装から人の心持ちは変わるとエドワードは主張する。カズハも王妃様から借りたドレスを着ていれば誰にも〝戦乙女〟だなんて思われないだろうと、好意を寄せる女性への賛辞もさりげなく口にした。まあ、お洒落ならそれだって楽しくていいじゃないかと、カザーニィの面々は落としどころを見つけた。

 案内される中で一同が最も驚いたのは、この町には貨幣制度が存在しないということだった。物資の数や質を管理する為にそれぞれがお店という形を取ってはいるが、果物屋だって八百屋だって勝手に品物を持っていって良いらしい。必要以上の物は必要ないのだから持っていかないし、持っている者が持たざる者に分け与えていれば平等に暮らせるではないかと、エースは貨幣という存在の無意味さを口にした。ネトエル山の下に広がる地域では、国王会議の取り決めで共通の通貨を用いる事とし、カザーニィでもエイ国含む四大国でも、甲冑の国やもっと遠くの国だろうとも、同じ貨幣を使って物資を交換する。外交を行わない町でも、その中では貨幣が必要だろうと考えていたことをカズハが口にすると、そんなことをすれば持つ者と持たざる者が生まれてしまうではないかとエースは不思議そうであった。やはり平和の町というのは伊達ではない。欲をかく者などは存在しない前提でシステムが成り立っているようだ。

 話を深堀りしてみると、ここでは平等を実現させられるくらいには物資が豊富に存在するらしかった。水は町の外れにある泉に溢れるほど湧いて出るし、主食が木の実や草類なのでこの森では安定して食料が手に入る。落ちている木の枝や枯葉を集めれば暖も取れるし、気候は一年を通して温暖で理想的だ。エドワードやダンゴは、平和の秘訣は恵まれ過ぎた土地の環境にあるのではないかと、僅かな懸念を抱えることを余儀なくされた。

 それとはまた別に特別な感情を抱いた者もいた。甲冑の二人である。

 彼らの祖国は国王による強い統治でなんとか形を成しており、かなりの数の国民と悲痛なくらいに恵まれない土地は、強欲だが確かな手腕を持った国王に頼る他に生きることを許してはくれなかった。自分たちだってこんな場所に生まれていれば平和に笑って過ごせただろうし、頭領だって殺されることにもならなかったはずだ。二人は強い劣等感が己の内に生ずるのをはっきりと感じ取った。

「あれ、あの二人はどこ行った」

 エースによる案内も一通り終わってしまい、そろそろ弔いの会場へと足を運ぼうと話していた時に、ユスケは甲冑の二人の姿が見えないことに気が付いた。一同は近場を見渡して二人の姿を探ったが、そうそう近くにはいないようだった。エデンの町の穏やかな雰囲気は旅人たちの緊張をすっかり緩ませており、歓迎の会までには戻ってくるだろう、考えてみればあの二人にはタクマの死を弔う責務はないのだし、と納得することになった。

 その一方、甲冑の二人組は市場へと向かっていた。彼らは努力もなしに恵まれたエデンの人々の様子がどうしても気に入らなかった。食べ物も水も好きなだけ持っていって良いというのなら、抱えられるだけ取って祖国へ持ち帰ってやろうと画策したのだ。いや、抱えられるだけではまだ足りない。籠でも担架でも何でも使って、国の者どもが少しは安らげるくらいに、市場にある物の全てを運び出してやりたい。とはいえ、これだけ登るのが難儀だった山を、大量の物資を運んで下山できるはずもなかったのだが、二人はそんなことも考えておらず、言わば魔がさしたという状態だ。劣等感が運んでくる嫉妬と、怒りにも近い自らの不遇さへの反逆心は、時に感情的に人を悪しき行動までへと導く。

 二人の作戦はこうだった。まずは一人が不注意を装って市場の棚を崩す。これは申し訳ない、汚してしまった食べ物をみんなに食べさせる訳にはいかないし、旅の疲れで腹も減っているから、悪いが自分にこれらを引き取らせてくれないか、これだけで数日は我慢するから、というようなことを言って落とした分だけを貰う。その騒ぎの内にもう一人がこっそりと市場の食料を確保し、二人合わせてほとんどの物資を手に入れるというのだ。

 実際のところ二人は常に空腹だった。旅の疲れがあろうがなかろうが、生まれた時から腹いっぱいに飯を食ったことはない。市場には肉や酒がないことが唯一の不満だったが、この際もう何でもいい。さっさと奪ってこことはおさらばだ、ということで作戦はすぐに実行された。

 一人が市場の棚を崩すというのは、思いの外うまくいった。この町の中では二人の格好は非常に目立つ。悪意のない態度で騒ぎを起こせば、エデンの人々はすぐに駆け付けて優しくしてくれた。男の主張することに疑いもなく同意してくれ、食料をまとめる為の袋や籠まで用意してくれた。

 そして重要なのがもう一人の方だった。甲冑を脱いで下着一枚になり姿勢を低くし、人々の目が届かない場所を選んでは食料と水を取れるだけ盗った。仲間が起こした騒ぎが治まりそうな気配を常に気にしながら、ここらが潮時と思うと最後の木の実を手に取ろうとした。その時だった。

「あら、あなた。どうしたのですか、服も着ないで。こんなに食べ物たくさん抱えて」

 男の背後から初老の女性が声を掛けた。男は飛び上がりそうなくらいに驚き、手に取った木の実を元の場所に戻して必死に言い訳を考えた。あわよくば隙を付いて仲間と逃げ出そうと思い、心配する女性もそっちのけで目を泳がせていると、女性は慈愛に満ちた眼差しを男に向けた。

「まあ、長旅で疲れ切っているのですね。きっとそうよ。そんなに慌てて持っていかなくていいから、私の家で腰を落ち着かせながら好きなだけ食べてください。満足するまで料理を出しますわ。それに、その格好じゃ気持ち悪いでしょう。外を歩くにはちょっとはしたないし、私の着物の予備をあげるからそれを着てください。ほら、こっちに来て」

 己の行為を咎められやしないかと焦っていた男は、服もあげるし料理も出すぞと言う女性を前に拍子抜けして固まった。仲間を呼ぼうか逃げようか、何をどうすれば良いのかわからなくておろおろしている内に、男は女性に手を引っ張られて家まで連れて行かれてしまった。仲間は男の姿を探して町を走り回ったが、当分の間は二人が出会って悪しきことを考えることも叶わなかった。



 **



 エデンの町の片隅に、森の木々を背に負う形で、古く朽ち果てた寺院がある。この町では唯一の木造りの建物で、永い時間を過ごしている為にあちこちが腐り、蔦は全体を縛るように絡み、内部は意味をなさない程に荒れ果てていた。エデンの人々には宗教や信仰といった文化はないが、この寺院は核大戦が始まるよりもずっと昔からこの土地に存在し、町民たちの間では死者を弔う祭壇として用いられていた。

 寺院の足元には無数の石の板が埋められており、その一つ一つには故人の名前が刻まれている。石板は墓標であり、土は生命の出入り口である。そして今から、一人の男の名前が新しく刻まれる。

 エデンの町民は一人残らず全員がこの場に集まっており、誰一人として違わないような厳粛な表情を浮かべて並んでいた。四百人近くも集まると、その様子はまるで一つの大いなる意志によって動く傀儡かいらいたちのようでもあり、神が地上に使わした大量の天使たちのようでもある。

 人々は示し合わせたかのように黙って手を繋ぎ、白いレースの着物はこの時間だけの純白の喪服となる。カザーニィからの旅人たちもその姿に倣い、お互いの手を強く繋ぎ合った。町長は町人たちの意志を代表する為に言葉を連ね、その隣では故人の妹であるエレナという女性が、涙は流さずに哀しみだけを憂いていた。

 カズハは遺跡の寺院や数多の墓標を眺め、この町の歴史と人々の暮らしてきた痕跡を思い知り、ようやくエデンという町に現実味と親近感が湧いてくるようだった。夢みたいに無垢で平和的な人々だが、彼らが住み着く前にはここも核大戦の一部となり、それよりずっと前には別な人々が暮らしていたはずだ。どれだけ平和で美しい町だって、あの大戦では一面が焦土と化し、そこから今の形を得るまで歩み続けてきた。平和の為にはどんな困難が付いていようとも、希望を絶やさなければいつかきっと実現できる。そう強く信じられる。

 町長の締めくくりの一言を持って、タクマの魂は鎮められた。事故や病気が原因でなく、人によって殺されるというのはさぞ苦しいことだろうと、そこら中でエデンの人々が口にし合っていた。町に住む全ての人が一人ずつタクマの墓に手を合わせにいき、旅人たちも最期の見届け人として冥福を祈った。しかしカズハの役割はそれだけで終わりではなかった。タクマの墓の傍らでじっと見守り続けるエレナの元へ、兄から妹への最後のメッセージを伝えなければいけない。

 近くまで行って彼女の顔をよく見るが、ひんやりとしていそうな白い肌に特徴的な厚い唇がよく映えていた。二週間ほど前にはその唇で兄におやすみのキスをしたのかもしれない。きっとそれは兄にとっては宝物のような存在で、まさか見ず知らずの人間にその幸福を奪われるとは夢にも思わなかっただろう……。

 と、カズハは必要以上の想像を膨らまして、自分の寂しさを助長させてしまっていることに気が付いた。実際のエレナという女性は、カズハが思うよりは事態を受け入れているようだった。兄がいなくなって二週間という時間がそうさせたのかもしれない。

「あなたが妹さんですね。私はカズハ。お兄さんの最期の言葉を伝えにここまで来ました」

「あ……!その、兄は何と」

「はっきりと一言、兄はお前のことをいつまでも愛している、と。息絶える間際の全力を尽くして言い残してくれました」

「ああ」

 兄の遺言を聞いたエレナは堪らずカズハへと抱き付いた。カズハとあまり変わらない背丈でも、カズハよりも一回りは大人の身体が柔らかく触れる。まるでこちらが慰められているようだわ、とカズハは優しく腕を回す。エデンの平和の秘訣を別にしても、この旅を続けてきた甲斐があったのだと心から思わされるようだ。二人がひとしきり温め合うのを見届けて、町長はエレナの肩に手を置いて話した。

「さあ、エレナさん。今日はこのくらいで気持ちを切り替えてもらいましょう。あなたのお兄さんの魂を運んできてくれた旅人たちに、歓迎の儀を尽くさねばなりません。皆さんも、今日の仕事はもう終わりにして、出来る限りのことで恩人を迎え入れましょう」

 町長の合図の言葉で人々は微笑みを取り戻した。涙を流していた者は見当たらなかったが、あの厳粛な表情を輝かせるには相応の気合いが必要なはずである。ここには本当に平和なのだと、カズハは何だか嬉しくなった。



 **



 歓迎の会場は丸い池がある中央広間へと移動し、人々はそれぞれ自分の家から机や椅子を運び出して特設の会場を作り上げた。

 どこからともなく木の実や果物、米に野菜に果汁たくさんのジュースが運ばれてくる。旅人たちのためにこしらえた訳ではなく、普段から備蓄していたり夕飯の為に作っておいたものなどだったが、どれも良質で味の保証は充分だった。歓迎の会とは言っても、町民はお客と同程度に食事はするし、豪勢な料理を特別に用意する訳ではなかった。エデンの人々は人間の立場に上下や優劣を加えない。例えるならまるで家族たちのように、遠い祖国の人々のように、久しぶりに帰った我が家がおかえりを言ってくれるかのように、そんな風にカズハたちは迎え入れられた。

 申し訳程度の町長の挨拶のあと、果物のドリンクで乾杯が行われた。乾杯の音頭もそれは静かで細やかなものだった。派手にグラスを打ち合わせるようなことはなく、人々はすぐに談笑を始めながらのんびりと食事を楽しみ始めた。一番大きなテーブルに座り、次々に渡される食事を受け取りながらも、ダンゴは少し物足りなさを隠し切れないようだった。

「もう立派なじじいのワシらが言うのもなんだが、長生きした老人たちのような人々じゃないか、フミオ、トシよ。平和でのんびりするのは結構だが、こう、もうちっと活気が欲しいな」

 フミオもトシも、ダンゴと並んで戦闘部隊の最高齢の者たちである。彼らはまだまだ戦に出る元気があるので、宴会は酒も用意して盛大にやるくらいが性に合っている。しかし最も寂しげなのはヒロキだった。ダンゴの口から酒というワードが出たのを目ざとく耳ざとく聴き取り、すぐに反対の席から移ってきてダンゴの隣に陣取った。彼は無類の酒好きというよりは、アルコール中毒に近いと言っても間違いはないかもしれない。

「いや、全くですよダンゴさん。木の実や草も旨いのはそりゃ旨いが、宴は何と言っても肉と酒、これに尽きるでしょう。もう旅の目的地には辿り着いたんだ。あとは折り返して帰るだけなんですから、ここで残った酒をみんな空にしちまいやしょうぜ」

「ええ?それは、その、どうかな。カズハに聞いてみんと、後で怒られるのもなあ」

「そんなことを気にしてちゃあ、カザーニィの戦闘部隊副隊長は務まりませんぞ」

「そんなこと関係ないわい。お前、飲んでもないのに今日は変だぞ。疲れとるんじゃないか」

 実を言うのならダンゴたちだって酒の一杯くらい飲みたいところだが、ヒロキの酒癖の悪さは冗談にならなかった。彼は大して強くもないくせにお酒ばかり飲みたがり、多くの場合において迷惑沙汰を起こすので、その度にカズハから叱られている。そして酒を飲ませた者たちも怒りの矛先からは免れられないので、相手側から酒を出されない限りはうかつに飲むことは出来ないのだ。

「まだ酒を取り上げられてるんですから飲めやしませんよ。ね、いいでしょ。とりあえず乾杯だけでもしませんか」

「ああもう、駄目だ駄目だ。お前はいつもそうやって誰かに迷惑かけるんだから。人様の家の窓ガラスを割ったり、素っ裸になって踊りだしてみたり、この前のエイ国でだって、あれだけ言うたのに路上で吐き散らかしたじゃろうが。あれを謝って処理したのはワシらなんだぞ。なあ。トシ」

「お前は飲んではいけない運命にあるんだ。諦めろ」

「あ、トシさんが喋ったの旅に出て初めてじゃないすか。あなたはもっと主張しなくちゃ駄目ですよ。いや、ええと、そんな話じゃなくてですね」

 わあわあと騒いでいるおじさん達を恥ずかしく思いながら、カズハは少し離れた机でエドワードと町長の三人で食事をしていた。その周囲の人々は物静かで慎ましい。今日は泉が特に澄んでいただとか、この空模様を見ると数日中に雨が来るかもしれないとか、素朴を絵に描いたような会話を楽しんでいる。カザーニィの賑やかさと足して二で割れば丁度良くなるかしら、とカズハは溜息をついた。町長はそんな彼女の様子が目に留まったようだ。

「やはり、それだけ若くして戦闘部隊の女隊長を務めるとなると、気苦労も尽きませんか」

「ああ、いえ。いつもの事なんですから気にしないでください。それよりこれ、本当に美味しい白菜ですね。外交を行わないということは、この野菜も全部ここで採れるんですか?」

「ええ、その通りです。ネトエル山というのは不思議な土地でしてね。まるで私たちが平和に生きていく為かのような土地のあり方をしているのです」

「水も豊富と聞きました。風も気持ちいいし、ここは人間にとっての理想郷のようなものですね」

「ええ」

 そして、会話の連続は途切れた。カズハは出された料理を町の人々に合わせて静かに食べ、清らかなその味に満足したいところだったが、旅の目的が脳裏に陣取って離れなかった。なんとか町までは辿り着いたのだし、住む人みんなで歓迎されている最中なのだし、ゆっくりと楽しむのが礼儀なようにも思う。しかし、これだけ平和な町に秘訣があるのなら早くその訳を知りたい。態度に動きまでもがのんびりとしている町民たちに囲まれると、その姿に対する羨望は強くなっていき、気持ちだけは急いて仕方がなかった。

 のんびりしていても確実に食事は進んでいき、広間には楽器を持ってきた人々があった。刃物が存在しないので木材を使わない為、陶器やガラスで出来た瀟洒しょうしゃな楽器だった。この町の中では最上級に賑やかな音を鳴らし、カズハたち旅人を迎え入れようとしてくれる。早めに食事を切り上げた人は、音楽に合わせた優雅な踊りで歓迎を慎ましくも盛り上げていく。客人を耳と目で楽しませ、演奏者や踊る人も同時に楽しんでいる。レースの白い着物は彼らの舞踊によく似合っていた。

 甲冑の二人はいつの間にか輪の中に戻って来ており、その内の一人はエデンの白い着物を着せられていた。彼らやカザーニィの隊員たちは他国への教養に乏しく、祖国の文化にはない食事や踊りを見ても楽しんでいるとは言いにくかった。エイ国のように華やかで酒も食事も豪勢であれば話は別だが、質素で慎ましいのはあまり向いていない。

 その点、カズハとエドワードは他国へ赴く機会も多く、二人には充分な教養とそれを楽しめる心があった。しかし二人にはより大きな使命感が付いていた。何も気にせずに余興を楽しむには、その使命の持つ意味は重荷になりすぎる。歓迎は受けたい、しかしそれ以上に平和の秘訣を知りたい。可能な限り客人としての無礼を働かないように、カズハはどのタイミングで話を切り出そうか迷っていた。すると、食事を終えていたエドワードはおもむろに口を開いた。

「町長。歓迎を受けている途中で失礼かとは存じますが、ここらで平和の秘訣というものについてお話をさせていただきたい。この町が人同士で争わないというのは、今の世の中では大変珍しいことであり、この上ない希望となる状況にあるのです。何か特別な理由があるのでしょうか?それは、他の国々でも真似できるようなことなのですか。例えば、ネトエル山には他に人間がいないから争いも起きないとか、外交を行わないことが秘訣だというのであれば、世界が真似をするのは難しいでしょう」

 悩むカズハの心を、エドワードは察してくれていたようであった。もしも町長が気分を害してしまったらどうしようと、カズハは少しだけ思ったが、当の町長はエドワードの話にもっともだという顔で頷いていた。この町の周辺に人がいないから争いも起きないという訳ではなく、この町の人間は仲間同士でも争う気配がないのである。その為には、何か秘訣のような理由があって然るべきに思える。

「これは、エドワードさん。旅の目的は耳にしておきながら随分とお待たせしてしまいましたね。ええ、ええ、ここでじっくりお話ししましょうとも。しかし、それにはまず誤解を解かねばなりません。あなたはこのネトエル山には人がいないと仰いましたが、それは事実ではありません。他にも山に住む人はおります」

「まさか。そんな話は聞いたこともない。エデン以外にも町があると言うのですか?」

「いかにも」

 町長は明快に答えて頷いた。そもそも人が住んでいること自体が怪しかった山に、エデンという町が実在したばかりではなく、他にも町が存在するとは驚きである。カズハとエドワードは顔を見合わせて動揺を隠せなかった。

「私たちがエデンを町と呼んでいるのは、単純に国という概念がないからという訳ではございません。この山には他にも似たような集落がありまして、ネトエル山という名の国にある町のように考えられる訳です。しかし外交を行わないというのは本当ですよ。私のように長くここに住む者は他の町の存在を知っておりますが、最近生まれたような子どもたちは何も知りません。大人でも知らない人はいるでしょうが、この山の中で他の町の存在があろうとも、誰も他人と争おうとは思わないのです。これなら、あなた達のように隣接国があっても平和は実現可能なはずです」

「では、今しがた口にされた外交を行わないというのが秘訣なのでしょうか。穏やかな人々が寄り集まって、無暗に他所の者と関わらなければそれが良いと?そう仰るのであれば、全てを決めるのは環境ということになる。恵まれた環境に身を置くからこそ外交を必要としないで生活できるし、人々にも余裕が生まれますから、争いとは無縁の暮らしが出来る」

 エドワードの口調は、弱き者が強者を問い詰めているようでもあった。彼の祖国も近隣国との争いが絶えない。それは物資や国民を奪い合う為の戦争で、どこもエデンのような良環境があればわざわざ血を流すことはない。恵まれた土地だからこそ衣食に困らないので子どもが増え、その分だけ働き手も育っていき、他国との繋がりも必要にならない。平和の秘訣は環境が全てであると言われてしまえば、ここまで旅をしたのも無駄な時間とさえ思えてしまう。

「そのことは、私も常日頃からよくよく感じております。エデンのこの平和は、確かにこれだけの豊かな土地に支えられていると言っても過言ではないでしょう。でもそれは、あなた方が求めているような答えには程遠いことかもしれません」

 エドワードはその腕を机の上に叩きつけそうになり、ガラス細工の机の為に歯を食いしばって己を止めた。カズハはただ目を伏せることしか出来なかった。広間での歓迎の舞は終わりそうな気配を漂わせていた。だが、町長はまだ言葉を続ける。

「しかし私は思うのですが、人々に必要以上の欲がなければ、エデンのようにのんびりとした世界の実現はそう難しいことでないはずなのです。あなた方の国には王様がおられるでしょう。また、貴族や上位階級といった存在が一定数は存在するのでは?その方々がどのような暮らしを普段からなさっているのかは、ここで生活する私には想像もつかないことですが、もしも彼らが自分にとって必要もないくらいの食事を摂り、余るほどの土地を確保して眠るのならば、飢えに苦しむ人々は怒りを抱くことにもなりかねません」

 エドワードはすぐに自らの国王の姿を思い浮かべた。実のところ、エイ国は物資にも国民にも困っていることはない。全ての国民に日々の食事と眠る場所は約束されている。彼らが戦争をするのは、敵国が攻めてきた時と侮辱や挑発への報復という形に限定されていた。もし、国王の優雅で上品な暮らしぶりが他国の怒りを焚き付けるというのであれば、あの美しい王邸とそこに住まう人々を悪と呼ばなければならないのだろうか。

「一日を生きて夜眠る時に、明日はもっと食べようとか、そのベッドの倍の大きさの寝床を手に入れようとかを考えると、人は争いに身を赦してしまいます。与えられるものでも無駄な分は辞退し、持たない者に分け与えようとする謙虚さが必要です。大切なのは、慎ましさを誇れるようになることです」

「では、煩悩は悪でしょうか」

 そう口を開いたのはカズハだった。ここまで話が進めば彼女が遠慮する理由もない。平和の秘訣の為に貪欲になることが必要だと決意したのである。

「煩悩という言い方は良いかもしれません。私たちは、食欲も睡眠欲も、性欲ですら子作り以外にはセックスをしませんから、なおさら煩悩はその多くを排しているでしょう」

「私の国のカザーニィではお酒を飲みます。人々は酒の席で笑って楽しんで、日々の辛いことや苦しいことを忘れて前に進むのです。もちろん、お酒による喧嘩も時々は見られます。何かのお祝いの際には派手に料理を拵えますし、少しずつ住める領土も増やしている最中です。煩悩は、人々に失敗や苦しみも運んできますが、それらを乗り越えることで成長することが出来ます。欲があれば文明も育っていきます。何より、笑顔や喜びの糧になるものではないでしょうか」

「ふむ」

 町長はカズハの言葉をゆっくりと吟味するように眼鏡を掛け直した。その目はここではない別の場所を眺めているようでもあった。カズハはふと、そこに憂いを讃えた気配を感じ取った。

「カザーニィに住む人々は、皆さん強い心をお持ちなのだと思います。健全な状態を維持できるというのは、お酒や笑いの力ではなく、当人たちの資質が大きくものを言いますから。私はそんな人々は一握りだと考えていますがね。エドワードさん、エイ国は大きな土地とそれに見合う程の人口があると聞きましたが、そこでは少なからずとも罪人が生まれるのではないですか?彼らを取り締まるのも兵士のお仕事」

「ええ、お恥ずかしいことですが、間違いありません」

「人が増えればそれだけ悪しき考えだって生まれるようになる。平和の秘訣という話でしたが、私は悪の価値観を統一することが効果的だと考えます。悪については幼い頃から同じ基準を共有するべきで、善は人それぞれで構わないと思うのです。正しく見分けなければならないのは、必要なものと、害悪な存在の二つだけで充分なのです。言わば物事は二面性ですよ。生きる為の必要なものだけを用意し、悪の価値観を合わせることによって害悪を排することが出来る。煩悩には、必要でもなく害悪にもならないものがほとんどでしょうが、私たちはいずれ害悪に繋がるものとして切り捨ててきました」

「悪の基準の統一……」

 カズハとエドワードは当時に口をつぐんだ。いよいよ告げられた平和の秘訣めいたものは、彼らの考えていたものとは異を決するものだった。

 もしも煩悩的なものを平和の為に排除して生きなければならないのなら、カズハが愛してきたカザーニィのおじさま達はこれまで通りに笑って過ごせはしないだろうし、エドワードの憧れであった美しき王の町は、隅々まで変えられて静寂を余儀なくされるだろう。

 これ以上の議論を交わすには、もっとまとまった時間と場が必要に思われた。みんなが悪に対する価値観を統一するというのは、悪の反対としての善までも決定してしまうことになり得るのではないか。そもそも、人々が何かに対する価値観を揃えるということは実現可能か。実現したとしてそれは良い方向へと導いてくれるものなのか。論点はいくらでも見つかる。

 カズハがずっと気になっていることの一つに、エデンの人々の喜怒哀楽の希薄さがあった。歓迎の姿から仲間の葬式の様子までを見たのに、彼らの表情に大きな変化が感じられなかったのである。もちろん、喜怒哀楽なんて人それぞれなのは間違いないが、泣くことも声を上げて笑うこともなく、怒ることなど経験したことすらないのではないかという彼らの姿は、感情豊かな国で育ったカズハには不気味なものにも見えた。しかし、そんなことを今この場で口に出すつもりはない。そんなものはただの言いがかりに過ぎないからだ。すっかり言葉を失ってしまった二人を横目に、町長は暮れかけてきた空を眺めていた。

「そろそろ歓迎会も終わらせていただきましょうかね。ここではほとんど火を使いません。ろうそくも作ることには作りますが、消費量は大したことなく、夜になればここらは真っ暗になります。ほとんどの人が日暮れと共に眠る準備を始め、夜明けの光で目を醒まします。皆さんも今日はお疲れでしょうからお早目に眠ることをおすすめしますよ。お話はまた明日以降にでも」

 そう言って町長は立ち上がり、広間の片付けをしようと声を掛けた。踊りは少し前に終わっており、音楽も聴こえなくなっていた。カズハたちもテーブルを運ぶのを手伝い、宿泊に用意してもらった建物に荷物を運んだ。その最中、カズハとエドワードが近くにいた時に町長は言い忘れてたように話しかけてきた。

「そうそう、エデンは外交を行わないと言いましたが、あなた達のようにやってくる旅人も昔はいました。ここ三十年近くはありませんでしたが、山を登ってきた人がふらりと立ち寄り、ここを気に入って住み着いたという例も少なくはありません」

 そんな突然の告白に、若い二人は素直に驚くことしか頭になかった。

「それは本当ですか?ええと、あの、それは、昔ならどのくらいの頻度のものだったのでしょう。みんな大勢なのでしょうか?私たちみたいに」

「いいえ、大抵は一人か二人でした。昔なら二、三年に一度というところですかね。タクマさんとエレナさんのご両親もそうでしたよ」

「まあ、そうなんですね」

 エデンがとにかく閉じた空間のように感じていたカズハは、僅かに希望を覚えたような気分で嬉しくなった。この地で生まれ育った者ではなくとも、平和に生きる者たちと馴染んで暮らせるというのは明るいニュースだ。

「ただですね、これは言っておかないと公平ではないと思うのですが、この町では時折り姿を消してしまう人々がいます。崖から落ちるなどの事故も少なからずはあったでしょうが、自らの意思で町を出た人も少なくはないはずです。エレナさんのお父さんは、彼女がまだ母親のお腹にいた頃に書置きを残していなくなりました。母親の方はそれとは別に、エレナさんを生んで数日後に亡くなったのですが」

「町からいなくなる人?」

 これもまた、突然の不思議な告白であった。カズハもエドワードも、その情報には不信感を覚えざるを得ない。特にエレナの父親は、外から来てこの町を好んで住み、自らの意思で外へ出ていったことになる。いいニュースと悪いニュースを、聞く順序すら選ばせてもらえずに同時に聞かされた気分だった。争いの世界からやってきて、平和の町に住み着く人々。そして、平和の町から外の世界へと歩み去ってしまう人々。理想郷のようなこの町が含んだ二面性のようにも思えるが、それらが何を意味するのか、今は何もわからない。

「私にも彼が何を思っていたのかはわかりかねます。前日まではいつもと変わらない様子にも見えましたが、二人目のお子さんが生まれることに何か意味があったのかもしれないと考えたりもします」

 町長はそう言い残して店へ帰っていった。彼の言うことには、エデンから出ていった人は何人か存在することになる。それも旅に出るという雰囲気ではない。

 カズハたちには一人ずつにろうそくが渡されていたが、山の上での暗闇は小さな火など意に介してはくれない。まるで心に陰を落としていくかのように、空には瞬く間に夜が姿を現していた。



 **



 明朝、エデンの町には管楽器の音楽が日の出に合わせて響き渡った。

 峻険な山登りの旅の疲れが出たのか、昨夜は気絶するかのように眠りに落ちたカズハは、建物の外からやってくる光と音に目を醒ました。この音楽は何事かと不思議がりながらも、外に出て生まれたてのように両腕を伸ばす。その表情は早朝の空気ほど清々しくはない。一晩寝てしまえば昨日の気分も忘れてしまえるような、単純なつくりの乙女ではなかった。

 カズハが寝泊まりしたのは、小屋のような大きさの誰も住んでいない民家だった。男たちは大きな倉庫のような場所でひと固まりに寝ているが、カザーニィのおじさま達の意向で彼女だけは別の場所を用意してもらえたのだ。十九の少女に戦闘部隊を率いらせている以上、普段の生活では隊長扱いする訳にはいかないと思ってくれているのだ。

 そんな倉庫からはエドワードが駆け出してきて、周囲を慌てた様子で見回していた。街に響き渡る音楽を、敵襲の合図か何かと勘違いしたような顔をしている。剣は捨てても兵士長を忘れていない良い証拠だ。カズハは少し笑って彼に声をかけた。ここには争いなどないのよ、と。

 エドワードが少し照れたような顔をしながら、その恥ずかしさを誤魔化すように体操を始めていると、同じ建物からダンゴとサンダユウがのそのそと歩いてきた。サンダユウは五感に長けているためか、エデンの澄みきった心地よい朝の空気に満足げな様子である。ダンゴもおじさんには早起きが気持ちいいと言いたげだ。彼らのような心の持ち主が平和の町には相応しいのかもしれない。

「これは朝からおアツいことで。こんな空気が毎日吸えるなら元気にもなりましょうなあ、カズハ

「おはよう、ダンゴ。本当、朝からお節介を言うくらいに元気があり余っているのね。走ってみんなに挨拶でもしてきたらどうかしら」

「がはは、それも悪くない」

 ダンゴはその熊のような身体を揺らした。エデンの人々のような上品な言葉遣いよりも、カズハにはこのくらいの軽口が楽になれて良い。煩悩のない人生はどんな気分なのかしらと、出来もしない想像を頭に浮かべようとした。

「ところで隊長さん、今日はいかがしますかな。タクマとやらの葬式はもう済みましたし、妹さんへの遺言もちゃんと伝えた。昨日は町長と何やらお話しだったでしょう。まさか、もう平和の秘訣が見つかったんじゃあないでしょうね」

「そりゃあね。そんな簡単に見つかるような平和の秘訣なら、今ごろ世界はお花畑よ。マスター曰く、悪の基準を統一することが重要。必要なものと害悪なものに世界を分けて、必要なものだけを選ぶべきだって。欲張りは身を滅ぼす。煩悩はやがて害悪を運んでくる存在。だからこの町の人は慎ましやかならしいわ。確かにここの人はそれで平和を実現させているけれども、私にはそれで世界を平和に導けるとは思えない。おじさまは感じない?ここの人たちの平静すぎるところとか、表情が少なすぎるところの不気味な感じ」

「まあ、エイ国の機械にも似た気分がしましたな。それで、酒でも飲ませてこれが煩悩だと教え込んでやりますか」

「朝から冗談が下品よ、ダンゴ副隊長」

 ダンゴは少年のいじわるみたいに笑った。カズハもさらりと表情を緩ませる。

「まあ、人々の様子が何にせよ、この町の現状が平和なことには違いがない。昨日のマスターとの会話であなた達と話し合わなければならないことがたくさん生まれたわ。とりあえずの伝達だけをしておくと、今日から数日間はこの町に滞在して、私たちは町の人々と一緒に働かせてもらうわ。そうね、ここの人たちは朝が早いらしいから、寝ているみんなを音楽が鳴り止むまでに起こしてちょうだい。早朝ミーティングを始めましょう。エイ国で枕の味を堪能しなかったお馬鹿さんたちを叩き起こしてくるのよ」

「ああ、こわいこわい。これだから〝戦乙女〟なんて呼ばれちまうんだ」

「ほら、さっさとしない」

 カズハは愛を持ってダンゴのお尻を思い切り叩くと、大男は幼児のように文句を言いながらも倉庫の中に戻っていった。どうせおじさま達はぐずぐずして出てくるのには小一時間はかかるだろうと推測した彼女は、二日ぶりのような気分で町の泉まで汗を流しにいくことにした。



 男たちが寝泊りした倉庫でのミーティングを終え、一同は町長のいる喫茶店へと朝食を食べにいった。貨幣制度がないので、店では好きな物を好きなだけ注文できる。しかし、町長とネズの二人だけで十六人分もの料理を用意するのは不可能に近い。だからと言って朝からコーヒーしか飲まないのも無理な話だと、自然な形でカズハたちも料理を手伝うことになり、町長たちもその提案を快く受け入れてくれた。計十八人が店内を忙しげにうろつき回ることになる。これから当分は同じような朝が続きそうだ。

「こんなに多くの人が走り回るのを見たのは、僕、初めてだよ」

 一時間近く準備をした後に、昨日とみんなが同じ場所に座ったところで、カウンター越しにネズはそう言った。店内には逞しい男たちによるいただきますの声が響き、エデンには存在しない賑やかさが弾けるように広まった。ネズは驚きの拍子に開いた目をパチクリさせる。花火を知らない子どもの頭上で合図もなしに花火が打ちあがった、そんな様子のネズを見てカズハは嬉しそうに笑った。最初は驚いて怖がるかもしれないが、すぐに花火の綺麗さを知ることが出来るだろう。

「ネズくんはいつもここでお手伝いをしてるの?」

「そうだよ。僕はマスターと一緒にここで生活してるから、気が付いたら店を手伝ってたんだ」

「へえ、それはすごいね!じゃあ、このお店の次のマスターは君かな?」

「うん、きっとそうなるね。他にやりたいことがある訳でもないし、他の子が立候補することもないだろうから、僕がこのお店を継ぐよ。なんなら立候補してもいい」

「立候補?」

 ネズの妙な言葉選びの違和感にカズハは首を傾げた。彼のような十歳くらいの子どもなら、マスターの後を継ぎたいと言うような積極性に満ちていてもおかしくない。立候補という制度的な言い回しは、ネズのような少年の口にはどことなく似合わない気もする。まあ、そんな性格の子なのかもしれないな、とカズハが思おうとすると、ネズの横に座っていた町長が代わりに説明してくれた。

「この町では、子どもは十五になった時にそれぞれ仕事を与えられます。ほとんどの子どもが親の仕事などを手伝っていますから、十五になった時に特別に申し出る子がいなければこちらで仕事を割り振り、基本的には親の仕事を継いでいくことになります。幼い頃から慣れた仕事なら難しく思うこともありません」

 町の人々は欲を知らず、子どもも同じ環境で育てば、夢などを抱く子は自然といなくなるという訳であった。カズハは何かがおかしいように思い、でも何がおかしいのかわからない気分に食事の手を止めた。カザーニィの少年少女たちは夢に忙しい。お医者さんになるとか、カズハのような隊長に憧れているとか、大工になりたいとか、いつも輝く笑顔で大人たちに語っていた。自分はそのような環境で育ったせいで夢を持たない子どもを不自然に感じるのだろうか?横で話を聞いていたエドワードは咄嗟に口をはさんでいた。

「それでは、夢を見る子どもはいないのですか?みんな幼い頃から自分の進む道を知っていると?」

「夢と言うと、将来の憧れる職業、という意味ですかな。まあ、そんな希望を抱く者も皆無という訳ではないですが、必要以上の欲がない限りはほとんど見られません。みんなが夢を見たら争いの種になって困るでしょうが、ここでは立候補さえすれば通るので争いも起きません。そこにはみんな関心を抱きませんよ。親の仕事が何であるかを知った時に自分の仕事も知る訳です」

「はあ……」

 エドワードはカズハと同じような気持ちになっているらしく、金色の立派な眉だけが本人には内緒で、訝しんでいる感情を正直に伝えていた。ダンゴは黙ってトーストを一枚まるまる頬張っていたが、その目は一瞬だけ鋭くネズを見つめた。それだけでも何かを多く物語るようだった。

 背後のテーブル席とは対称的に静かになったカウンター席で、カズハは明るい声を出すように努めた。エデンの二人からしたら静かなのが当たり前だということを忘れ、今日から仕事の手伝いをさせてもらえないかと、場の雰囲気を取り繕うように提案した。町長は二つ返事でその提案を受け入れた。彼らとしては手伝いなどなくても構わないが、あっても同様に構わないという口振りだった。



 朝食を終えると、外には既に働き始めた人々の姿があった。時刻は午前七時。彼らは基本動作がのんびりしているので、干支の牛のように早くから働き始めるようだ。どちらにせよ一日の仕事量にノルマなどはないから、みんなやりたいだけ仕事をしていると町長は笑った。

 街ゆく中でも特に暇そうにしている人々を見つけては、町長は手当たり次第に声を掛けた。誰もが何の問題も思いつかなそうな顔で、旅人たちが仕事に加わることを許可してくれた。

 エデンには意外なことに様々な仕事があった。必要な物を必要な時にだけ手に入れるというのが彼らの基本だからだ。

 まずは畑や田んぼの世話。これはもちろんネトエル山の下の地域ともやることは同じだ。そして泉への水汲み。飲み水や洗い水、トイレの流し用などを担当者が運ぶ。それぞれの家で大体これくらい必要だというのを考えておき、その量が入る容器を家の前に出しておけば届けてくれる。余った分はみんな花にでも与えているようだ。ただ一つの例外として、田んぼの水だけは泉から水路で繋いでいた。必要な量が多いからというのが理由だった。町の方については、水路なんてものは必要なことではないし、泉に負荷が掛かるだろうということで人が運ぶ。もしも水が足りなくなってもすぐに誰かが分けてくれるし、そもそもすぐに泉まで汲みにいける。自分の仕事ではないのにと文句を言う者など一人もいない為、この町では仕事に対する責任感は薄い。そしてサボる者もいない。

 毎日行われる仕事としては、果物狩りや薪拾いがあった。常に新鮮な果物を食すので、担当者は朝になると果物屋の在庫を見て仕事に向かう。余らない程度の量を収穫して、昼までには市場へと戻る。薪も料理の火起こし用として使われるので重要だ。一日分に必要な目安の落ちた枝を探す。どうしても見つからない日は諦めて火を使わない料理を増やしてもらう。

 家具職人というのも存在した。ガラスや粘土や石で作られた家具、そして家は破損することも珍しくなく、何かが壊れた時には職人の出番だった。とはいえ、この仕事は出番が毎日あるという訳ではない。普段は素材になりそうな石や砂などを集めているが、もちろん必要になりそうな分だけだ。担当者は服職人も兼任しているので暇にはなりすぎない。

 カズハたちのような旅人が来ると、ろうそく作りも需要が増すようだ。しかしこの仕事は完全に運任せだった。原材料に蜂蜜を用いる為、蜂が住まなくなったがまだ蜜が残っているというような巣が見つかる偶然を期待しなくてはならない。平和の人々は蜂を巣から追い出すようなことはしなかった。彼らの生活状況ではろうそくがなくても困ることはないし、ろうそくだけは備蓄がたくさんあったのだ。

 他には野草探しや養蚕者、他の仕事にヘルプが必要になった時のお手伝いさんなんていうものも存在する(ほとんどが喫茶店の手伝いだ)。そして市場には果物屋や八百屋、町長の喫茶店などがあるのだった。

 旅人たちはそれぞれが興味を持つ仕事へと散っていった。丁度良いバランスで散らばり、今朝のミーティングでカズハから与えられた使命——エデンの町から平和の秘訣を見出すこと——を忘れずに働く。きっと、日常の中にこそヒントは存在するのだとカズハは言った。



 カズハが向かったのは畑仕事の現場だった。戦闘部隊も普段は田植えや畑を手伝っている。普段の自分たちの仕事振りとエデンの人々を比べることによって、そこから見えてくるものがあるのではないかという魂胆だ。

 同じ仕事に付いてきたのは甲冑の二人だった。彼らは祖国で、戦争以外ならこの仕事しかやったことがないのだと言った。カズハにとって、この二人と行動を共にすることは幾らか試練的だった。仲間の命を奪われた者と奪った者の関係は、少し一緒に旅を続けたところで良好になったりはしない。カズハには二人をカザーニィへと連れて帰る覚悟はあったし、彼らもそれに異論はないようだったが、あの廃墟群から出発して以来、両者間には会話と呼べるようなものは生まれていなかった。

 これは確かに平和の試練だ。畑仕事でエデンの人々から平和の秘訣を探しつつ、簡単には手を取り合えない仲間との平和を築き上げなくてはならない。ここで甲冑の二人のことを無視してしまっては、カズハは平和の事など何も語れないだろう。幸いなことに、二人の方にも関係を良くしようという気概はあるようだ。互いに歩み寄る覚悟があるということは、実はこの上なく幸運なことなのだ。

 エデンの町の外れには、小規模な畑が何種類分も並んでいる。町民約四百人分の食料のほとんどをここで生み出しているらしい。お茶に白菜に、パプリカ、スイカ。その他の様々な食材がこの狭い土地で同様に育つというのはまるでファンタジーだ。その奇跡を生み出しているのはネトエル山というカオスに他ならないだろう。カズハは正直に羨ましさを覚えた。

 三人は季節的に栽培の時期にあった大根畑に案内された。そこに向かうまでに他の畑の横を通ったが、どこにでも一人は町民がいて何かしらの作業をしていた。大根畑は特に収穫の時期なので、カズハたちを含めて七人の人々が集まっていた。その中にはエレナの姿があった。

「あら、カズハさん。ここに何日か滞在するって聞いたわ。お仕事も手伝ってくれるなんて、私たちとっても嬉しいのよ」

「こっちこそ、平和の町で過ごせるなんて幸せなことだわ。あの、もう気分は落ち着いた?昨日お葬式があったばかりだけど、無理してない?」

「ええ、もうすっかりいつも通りよ。兄がいなくなってから二週間も経ったし、少しは覚悟もしていたから。それに、人はいずれ誰しも死にゆくものよ。兄の場合、それが人の手によるものだったことは、未だに考えられないことだけれど、あなた達がそんな野蛮な世界をどうにかしてくれるんでしょう?私はこのままエデンで暮らし続けるだろうけど、カズハさんは本当に頑張ってね」

 エレナの笑顔は成人した女性のものとは思えない程に無邪気だった。カズハたちが世界を平和にしたいと述べれば、きっとそれは実現することなのだと疑いもしないようだ。兄を殺した人々に対して、もしくは争いに満ちた世界に対して、彼女が怒りを抱いても不思議なことではないのだが、とカズハは内心で思っていた。確かに、復讐の怒りによって別の死者を出してしまえば、それは永遠に終わらない哀しみの連鎖を作ることになる。平和の町の人間として、兄が他人に殺されようとも受け入れることが出来るのは、とても自然で美しいことなのかもしれない。ただ、エレナの純朴さに対しての兄の死という現象は、怒りではなくとも強い哀しみを運んでくるべき出来事のようにも思えた。彼女のような女性が、すんなりと兄の死を受け入れていることに、カズハの方が寂しさを覚えているのだ。それは自分の勝手なエゴだということをカズハは自覚していたが、身内の死を哀しんでいるような人々には平和の町など築けないと言われたようで、仕事をする手を止めてしまった。

「……どうかしましたか」

 そう声を掛けてくれたのは、甲冑を着た男だった。彼は廃墟群から毎日欠かすことなくその甲冑を身に付けていて、もう一人の男はエデンのおばあさんに白いレースの着物を着せられてから、ずっとその格好のままだった。自分から歩み寄って打ち解けようと思っていたカズハにとって、男の方から近付いてきてくれたのは意外で嬉しかった。エレナのことも考えていたところで、思わず感情が昂ってしまい涙が流れる。甲冑の男は自分が何かまずいことをしたのかと焦る表情を見せた。その顔を見ると今度はおかしくなって、カズハが涙を拭って微笑むと、男は訳がわからないように口をぽかんと開けていた。

「ごめんなさい。なんでもないの。ただ、あなたが話しかけてくれたことが、思ってたよりびっくりして、嬉しくなっちゃって。心配してくれてありがとう。ねえ、仕事はどう?上手くやれそう?」

「おかげさまで。喧嘩か畑仕事しか取り柄がないもんで」

 甲冑の男は恥ずかしさを隠すように声が小さくなった。彼は不器用だがそれなりに繊細な男のようだ。カズハは本当に誰とでも明るく会話ができる女の子だから、一度こうなってしまえば遠慮なく話し続けられる。大根の収穫作業の手は止めることなく、口もずっと止まらない。その様子は甲冑のもう一人をスムーズに会話の中に引き込み、出会ってから数日間分の沈黙を巻き返すかのように盛り上がった。もちろん、ほとんどはカズハの独壇場なようなもので、二人は相槌を打ったり頷くことしか出来ないのだ。

「ねえ、カズハさん、こっち来て!ほら、これ見てよ!」

 三人にも負けないくらい楽しげな声でエレナが手を振っていた。カズハはすぐに走っていくと、エレナが指差しているのは親指の二倍ほどもあるかのような巨大な青虫だった。滅多に見ない程の大きさにも驚くが、大人の女性が青虫ではしゃいでいるというのも可愛らしい。カズハは甲冑の二人も呼んで、四人で青虫を囲んで笑い合った。

「こんなので驚いてちゃいけないわ。カザーニィでは、こんな、握り拳みたいなダンゴムシだっているんだから」

「そりゃあダイオウグソクムシって言うんでさあ。あっしらの国にはそこら中におりますぜ。なんでも水族館ってのが昔はあったそうで、そこに住んでたのが人がいなくなって自由に這い回ってるんですよ」

「えっ、そうなの⁉世界一大きなダンゴムシを見つけたって、ちっちゃい頃にみんなが褒めてくれたのに」

 何てことのない状況、何てことのない会話。そんなもので笑い合える姿はまさに平和の町だった。ここでは全ての人が全ての人と手を取り合っている。旅人として訪れたばかりのカズハたちだって結び付けてくれたのだ。どんな人とも手を繋ごうとする勇気が平和の秘訣になるのかもしれない。カズハはそんな風に思うのだった。



「そうか。あの二人とはそんな因縁がね……。でも、君たちは無事に乗り越えることが出来たんだな」

「きっと、この町のおかげね。彼らもここで勇気をもらって、私のことを許そうと思ってくれたのだわ」

 午前中の仕事を終えると、十時頃から喫茶店へ昼食に集まるというのがエデンの人々の習慣だった。カズハたちもエレナに付いてきて、同じタイミングで来ていたエドワードたちと出会って食事を共にしていた。ちなみに彼はショウと二人で家具職人の元へ出向いていたようだ。

「そっちはどう?テーブルとか椅子とかを作ったりしたのかしら。平和の秘訣になりそうなことは見つかった?」

「今日は仕事の依頼がないからって砂集めばかりだったよ。ショウは作業場の観察に夢中で店まで連れてくるのが大変だった。彼はカザーニィにここの技術を持ち帰ってくれるんじゃないか?平和は結構だが、私に学ぶことがあったかと聞かれたら何もない」

「そうねえ、そんなにあっさり見つかってもね。ああ、そろそろ伝書鳩はカザーニィに着いた頃かしら。次の手紙の内容には平和の秘訣を見つけたって書けるようにしたいけど」

「焦ってもどうにかなるものではないさ。それに、君があの二人と仲良くなれたみたいに収穫がゼロという訳でもない。私も君には救われているんだ。それぞれ得たものは今の時点でも少なくない」

 エドワードはそのまま澄ました顔でコーヒーをすすったが、カズハは彼の言葉を聞き逃してはいなかった。とてもリラックスした様子のカズハは、何かをいう訳でもなくその目でエドワードに次の言葉を促した。青年は目を見つめられて頬を赤らめていた。こっそり感謝を伝えようとしたのだろうが、結局は根負けして話し出す。

「この町に入る前に、君は言ってくれただろう、あなたはずっと怯え続けているって。私は史上最年少で兵士長を任されたことで、何もかもに危険が潜んでいるという覚悟で日々を過ごしていた。君も同じような境遇にあったのに、君と同じように人々と気を許し合えなかったのは、私に心の余裕がなかったからだ。カズハみたいな人が心の内側を触りにきてくれたら、どんなに張り詰めた心も柔らかく解きほぐされていく。あまりにも潔癖すぎては大事なものまで拒絶してしまうということを、君は教えてくれたんだ。だからその、ありがとう、カズハ」

 エドワードは面と向かってお礼をするのに、愛の告白みたいな恥ずかしさを感じていたが、すっかり気を緩めていたカズハにだって愛の告白をされたかのような気恥ずかしさがあった。

「そんな、私なんてたまたま優しい人たちに恵まれただけだって……」

 町民ばかりで落ち着いた静けさの店内には、旅人たちだけにわかる甘さの空気が気配を匂わせていた。いよいよカザーニィの〝戦乙女〟もただの乙女になっちまうのか、とショウは甲冑の二人に愚痴をこぼし、カウンターの中で座る町長は眼鏡の中の瞳が見えない具合に微笑んでいた。



 **



 カズハたちがエデンを訪れてから四日が経過していた。

 ここでの日々は波風の立たない凪の海のように、ずっと同じ毎日を繰り返しているようなものだった。朝起きてから喫茶店で朝食作りをして、それぞれが与えられた役割を果たしに仕事へと向かう。昼には再び喫茶店に集まって、午後は仕事が残っていればそれをやるし、何もすることがないのであれば自由に過ごす。全員の仕事が終わった時点で旅人たちは倉庫に集まり、自分たちの旅の目的について話し合った。しかし、現時点ではこれといった平和の秘訣が見つかっていない。このまま何も見つからずに日々が過ぎれば、彼らは祖国に帰ってこの町の様子をそのまま伝えるということくらいしか出来ないだろう。そして、あの狂乱に満ちたネトエル山にもう一度足を踏み入れる決意をしなくてはならない。

 この日も、具体的な話を始められる者はいなかった。ミーティングとは名ばかりで、暇な時間を持て余す人々の雑談の時間と呼ばれても文句は言えない。

「この際、物理的な物でもあれば助かるんだけどね。平和の木の実、みたいなものがあって、それを食べればみんな平和になりますとか」

「隊長、あまりに平和すぎてボケちまったんじゃねえすか?そんなものがあれば俺たちはもう食わされてますよ。そうすれば、この町で暴れる奴が出てくる可能性もなくなりますもん」

「そんなのわかってるわよ。誰かさんが大きな欠伸をするから冗談でも言ってあげようと思ったのよ」

「ダンゴさん、もう眠いんすか?毎日たっぷり寝てるでしょ」

「ワシは欠伸などしとらん。だが、この山はおかしなところだらけだから、もう何があっても驚かん準備はできとる。もしもそんな不思議なもんがあるなら、それは喫茶店のあの地下なのかもしれんぞ」

「ああ、今朝のあれね」

 彼らの話に上がったのは、喫茶店にあるという地下室だった。

 それは今朝の話だった。相も変わらずに管楽器の音楽で目を醒まし、一同は喫茶店へと朝飯作りにいった。そろそろ厨房の中でも何がどこに置いてあるのかを把握し始めた頃、ユウタが身に覚えのない階段を発見したのだ。それが地下室に続く階段である。

 階段は随分と長く続いているらしく、ろうそくを使わなければ底の方がどうなっているかは確認できそうにもなかった。ネトエル山の洞窟のような深淵の暗闇がそこには広がっていた。ユウタはすぐに町長へ質問した。この階段の先には何があるのかと。

 町長は答えるのに一拍おいて、そこにはコーヒー豆や掃除用具が置いてあるのだと言った。ユウタは言われたままに納得して頷いていた。そんな二人の受け答えを見て、他の者たちも地下へと続く階段の存在に気が付いたようだった。町長は彼らの様子を察し、ろうそくを点けても地下室は暗くて危ないから、慣れていない人たちは決して近付かないようにとの忠告を述べていた。

「しかし、あんな階段があったなんて気が付きもしなかった。まあ、朝飯時はこのエデンでも一番慌ただしいから、ワシらもうっかりしていたのかもしれん」

「そうですね。僕も何だかひんやりすると思ってふと見たら、そこに長い階段があるんですからびっくりしましたよ。エデンの町があまりに平和すぎるから、僕らも注意力が散漫になっているのかもしれませんよ。気を引き締め直さなくちゃ」

「いや、ユウタ、それは違うな。あの地下室は普通の地下室じゃねえんだ。あの場所にこそ平和の秘訣は隠されているんだぜ!」

 そう意気込んで口をはさんだのはショウだった。誰もが彼の突拍子もない台詞に呆れた顔をしている。

「いいか、あの地下室には巨大な機械があるんだ。それは民族平和装置といってな、その機械を町に置いている民族は、機械の出す謎の力で誰しも平和志向になっちまうんだ」

「ショウ、あなたそれ、前に読んでた昔の小説に出てきたやつでしょ。私も同じものを読んだからわかるわよ」

「や、違うんです隊長、じゃなくてカズハ。あの小説に出てきたのは人民平和矯正装置だ。ここのはもっと穏やかなやつなんですよ。強制的に平和へ持ってくんじゃなく、何となく平和な気分になるだけで」

「同じようなもんじゃない」

 カズハは下らない減らず口をぴしゃりと払いのけた。「カズハには男のロマンがわからねえんだ……」とショウは火の消えたろうそくのように沈んだ顔になる。本当に地下室には謎があるのかもしれないと思いかけたユウタは、少し騙された気分でショウを横目で見ていた。

 そんな時、倉庫の入り口からは全速力で走っているような荒い息遣いが聴こえてきた。みんながのんびりとしているエデンの町ではほとんどあり得ないことだ。サンダユウは誰よりも早く耳をそばだて、一同は一人残らず入口へと視線を集めていた。エドワードはこっそりとカズハの盾になれるような位置まで移動していた。

「ああ!みんなあ、ちょっと聞いてくれえ」

 そう叫びながら飛び込んできたのはヒロキだった。この数日は一滴の酒も飲んでいないはずだが、まるで泥酔状態のように顔を真っ赤にして息を切らせていた。

「どうしたのヒロキ。何かあった?」

「や、隊長。あ、カズハ。聞いてくだせえよ」

 彼が息も整わない内に話し始めたことによると、彼は水汲みの仕事から帰る最中だったようだ。エイ国での歓迎パーティー以降は酒を取り上げられてしまっていた彼は、お昼の喫茶店でコーヒーを何杯も飲むのが習慣になっているらしい。そして午後にあった三件の水運びの途中で、我慢できないような尿意に襲われたそうだ。寝床とする倉庫まで戻れば、その横に設置されているトイレ小屋で用を足せるのだが、彼は仕事からの帰り道でもうどうしても我慢が出来なくなってしまった。そこで、漏らすよりかはまだいいだろうと、立ち小便という形でことを済まそうとしたのである。

「なんだ、それを見つかって叱られでもしたのか。まったく、お前はいつも言ってるけどな、もうちっと人前では畏まらんといけん」

「いやあの、それは確かに俺が悪いんだが、違うんだ副隊長。俺が小便をしてる最中に人に見られたのは事実なんだが、もう、何と言うか、人を殺したかのようにみんなが怖がるんだよ。まずは俺と同い年ぐらいの婦人に声を掛けられた。そこのあなた、一体それは何をしているのですかって、刃物を持った奴に近付くみたいにびびってたんですよ。これはとんだ失礼をしましたってすぐに謝って、残りを出しきって婦人の方を向いたんですが、もう視界に映る人間全員が俺の事を信じられないような顔で見ていたんです。子どもも大人も関係なく、みんなが恐怖に怯えたような目付きをしてたんですよ。ありゃあ尋常じゃねえ。婦人の方も、どうしてそんなことをするのとか、トイレがあるのに道を汚してしまうのはどうしてとか、俺が立ち小便をした理由が少しも思い付かないって感じで質問攻めなんです。もう俺の方も逆に怖くなってきちまって、本当にすいませんでしたって大声で叫んで、とにかくここまで走ってきたって訳なんですよ」

 ヒロキは補足説明として、彼が見た町の人々の姿を思い出す限り述べた。それによると、顔を伏せて必死に見ないようにする人、子どもを連れて走って逃げだす母親、中には恐怖に怯えたのか涙を流す者もいたという。ヒロキの心からの慌てぶりと、彼が見たという町の人々の様子を聞くと、話を聞いていた者たちもちょっと冗談では終わらないような気配を感じ取った。立ち小便で人を泣かしたというのは、エデンを知らなければ冗談にしか聞こえない話だ。

 カズハは町長の話していた「悪の基準の統一」という話を思い出していた。町長が言うには、エデンの町の人々は悪の基準を統一して考えているらしい。そして物事を必要なものと害悪なものに分け、必要な物だけを手にして生きていくという。それは裏を返せば、害悪なものはその一切を断ち切るということだが、怒りもせずに罰を与えようともしない彼らは害悪なものをどうやって遠ざけるというのだろう。第三者が害悪なものをもって攻撃してきた場合、ただその恐怖に怯え苦しむしかないのであれば、それはあまりにも人間として脆すぎるのではないか。

 ヒロキはさっきまでの出来事を思い出すと、辛そうにうずくまって汗をかいていた。話に聞いた町の人々と同じくらいに恐怖を感じているのではないだろうか。隊員たちは水を持ってきてやって、カズハは意見を求めるようにエドワードの方を見た。

「こんなことだが、この町においては緊急事態と言わざるを得ないのかもしれない。何せこの町の人々は、自分たちが考えてもわからないことは発生しないと思っているようだ。カズハ、少し外の様子を見にいかないか。町長とも話をしたい。喫茶店まで歩いて、道行く人々がいたら声を掛けてみよう」

「ええ、わかったわ、エドワード。みんな、これ以上に下手な混乱を招いてもいけないから、外に出るのは私とエドワードだけにして。特にヒロキは絶対に外に出ちゃ駄目。もう寝なさい。いいわね?」

「了解」

 カザーニィの戦闘部隊は数日振りに、隊長からの命を受けて低い声の返事をした。よもや、この平和の町の中で気を張り詰めなければならない事態が起きようとは、誰一人として想定していなかったであろう。その原因がこんなにも下らないことで、そして人々がこれ程に脆弱であろうとは。カズハの中で旅の風向きが変化するのを感じる。

 外に出てみると曇り空が広がっているのが目に付いた。ヒロキの一件がなければ、明日の仕事はどうなるのかしらと思う程度のはずだ。しかし今は不穏に思えてならない。雨雲なんかに心を揺さぶられそうになっている自分が情けない。カズハは不自然なくらいに気分が落ち込むのを自覚した。思わず立ちすくみそうになる。すると、少し緊張した顔付きをしながらも、エドワードが手を握ってくれた。その目は隣に立つ女の子の心の機微を捉えている。彼の大きな左手の温もりは、ダンゴたちとは別の場所から彼女を支えてくれる。

 二人は手を繋いだまま喫茶店まで歩いた。空は灰色に薄暗くなっており、仕事を終えた町人たちは家に籠って眠りの支度に入っている。夜が近付く街に明かりが灯されることもなく、人々の姿が見られないというのは、不気味だと思わなかったと言えば大きな嘘になるだろう。

 とはいえ、人の姿は皆無ではなかった。エドワードは、市場から果物を取って家に帰る途中の女性を見つけた。二人は、ヒロキの件について何か知らないかと声を掛けた。

「ええ、そのお方に声を掛けたのは私です。私たちも怖かったですが、彼にも怖い想いをさせたのなら謝りにいきましょう」

 女性はエデンの町人らしい微笑みで二人に応じた。ヒロキと会ってから二十分も経っていないはずだが、話に聞いていたよりは随分と落ち着いているように思える。カズハはその感想を隠さずにはいられなかった。女性はいつもと変わることのない声色で答えてくれた。

「そうですね、私が怖い想いをして、街中で取り乱してしまったというのは事実です。同時に目撃していた他の方々も、あのように怯えている姿は初めて見ました。しかし、カザーニィの男性は私たちに謝ってくれていました。その後に私たちがいつまでも怯え続けていても意味がありません。必要な謝罪を受け取ったのなら、それ以上はもう望まず、あとは普段通りの生活を送るだけです」

 理に適っていて、賢くて、しかし希薄だというのがカズハの脳裏に浮かんだ言葉だった。それが良いとか悪いとか思うのでなく、単純に茫漠ぼうばくとした寂しさが心の内側に生まれてきてしまうのだ。女性はそろそろ寝支度をするからと言って帰っていった。街には人の姿がなくなってしまった。感傷に心を持っていかれてしまう前に、カズハはエドワードの手を引いて喫茶店まで向かった。

 しかし、喫茶店には町長に姿はなかった。店内にはネズだけがいて、尋ねてみても町長の居場所は知らないと言う。

「どこに行ったかは知らないし、お姉さんたちの話がどれだけ重要なものかはわからないけど、マスターに話がしたいなら次の機会まで待つしかないね」

「じゃあ、明日の朝食の時に話がしたいって伝えておいて」

「お姉さん、僕は次の機会と言ったんだ。それは明日の朝とは限らない。二秒後かもしれないし、三年後かもしれない。明日の朝、マスターに会えたからといって話が出来るとは限らないんだからね」

「え?」

 ネズの言葉選びは非常に思わせぶりだった。このエデンの町民で、こんなに不明瞭な台詞を口にする人間は見たことがない。カズハは心に巣食う不安を払拭する為に、子どもがよくやる独特な言葉遣いに過ぎないのだと思い込むことにした。そうしないと今は落ち着いていられない気分だった。

 残念なことに、ネズのおかしな台詞は現実のものとなって翌日のカズハを待ち受けているのだった。マスターと会うことが出来たとしても、それが話をする機会と等しいとは限らない。



 **



 翌朝、カズハの目を醒まさせたのは、降りしきる雨音と等間隔で鳴る巨大な鐘の音だった。

 昨日の曇り具合からして、雨が降っていることには何の疑問も抱かなかった。雨の日にはエデンの人々がどのように過ごすのかという興味すら湧いてくる。しかし、鐘の音は不可解だ。いつもの誰かによる管楽器の演奏は聴こえてこない。雨が降っているからだろうか?雨のせいで外に出て演奏することが出来ないから、代わりに鐘を鳴らしているのだろうか。そう考えた時に浮かぶ新たな疑問は、鐘の姿なんてこの町では見かけたことがないことである。

 カズハは小屋の外に出た。いつもなら白い霧を裂くようにして朝日を全身に浴びることが出来る。この天気ではそうもいかないだろうが、それ以上に何かがおかしかった。エドワードが倉庫から出てくる。鐘の音は鳴り続けて止む気配もない。

「おはよう、カズハ。これは一体どういうことなんだ」

 カズハに尋ねられてもわかることなどない。エドワードが不思議がっているのなら、彼女も同様に不思議がっているのだ。楽器が雨の影響で演奏できないのではないかという推測を聞かせると、そんなもんかなとエドワードは倉庫に戻っていった。そして、すぐに険しい表情でカズハの元へ戻ってきた。

「大変だ。倉庫の中に誰もいない。いつもならこの時間にみんなも起き始める頃なのに、倉庫の中はもぬけの殻だ」

「……え?」

 カズハは血の気が引いていく感覚に襲われた。祖国の仲間がみんな姿を消したというのは、手っ取り早く言ってしまえば絶望である。エドワードが間の悪い嘘をついているのだとしたら、むしろその方がいい。仲間たちの姿さえあれば、もしもエドワードが酷い悪意を持って嘘をついたとしても許すことさえ出来る。しかし、彼がそんなことをしないのは火を見るよりも明らかだ。二人は急いで倉庫の中を確認しにいくと、そこには荷物や布団までを残して人間の姿だけがなかった。どこかへ去っていったのではなく、まるでみたいだった。

 先に絶望しておいたのは間違いじゃなかった、とカズハは思う。目が醒めた瞬間から意味のわからないことだらけの現状で、彼女が真っ先に取るべき行動は何かが見えるからだ。〝戦乙女〟は絶望の言葉の一つも漏らすことなく、エドワードに指示を出すと二人で町中を走り回って仲間の姿を探し始めた。エデンに対しての疑いや、鐘の音に対する違和感などを考えている場合ではない。とにかく仲間の無事だけを願って足と目を酷使した。

 五分ほど走り回って、カズハが最初に見つけたのはエレナの姿だった。少し遠くの方で喫茶店の中へと入っていく。遠目でわかりにくかったが、彼女はぼんやりとした目で虚ろに歩いているようだった。とりあえず、仲間の姿を見なかったかと声を掛けようとすると、道の反対側からは一人の男性を追い掛けるようにしてエドワードが走ってくるのが見えた。

 その男性はエレナと同様に虚ろな表情で喫茶店の扉を開き、カズハたちには気付いていない様子で店に入ると機械的に扉を閉めた。ここまで近付いてわかったのだが、鐘の音は喫茶店の中から聴こえているようだった。カズハにもエドワードにも、この町で何が起きているのか想像もできない。ただ、今は未知への恐怖に足をすくめている場合ではない。それだけはわかる。カズハは迷わず店のドアに手を掛けると、討ち入りさながらに勢いよくドアを開けた。

 薄暗い店内には、まずは先程の男性の姿が見えた。彼は喫茶店に入ったというのに、どこの席に座る気配もなくまっすぐと歩いている。その進む先は、あの地下へと続く階段だった。カズハはそのことに気付くと同時に、店のカウンターに座った町長の姿を見つけた。その瞬間、カズハにはこの男が全てを知っているのだという確信が湧いた。

「マスター!これは一体どういうことなんです⁉今、ここで何が起きているんですか。なぜ、私たちの仲間の姿が消えたのですか!」

 全ての原因を作ったのが町長であると断言するかのように、カズハはカウンターへと詰め寄った。町長は瞳に宿した感情を悟られまいとするような動作でカズハを見た。一瞬だけの沈黙があって、彼が何かを言うか言わないかというタイミングで再び店の扉が開いた。店内へと入ってきたのは、昨日のヒロキに声を掛けたという女性だった。彼女も同じように虚ろな表情で、カズハにぶつかりそうな際のすれすれを歩いて、ろうそくも持たずに暗い地下へと降りていった。自分の進む道に人がいたことに気が付いていないようだった。その姿を見届けると「エドワード、君もここへ」と町長は一言だけ言った。エドワードは慎重にカズハの横まで移動した。

「今の彼女で五人は揃った。あとは君たち二人だけだが、まさかこんな事態になってしまうとは。私の処理能力では現状を予測できず、君たちも私の起こしたミステイクの一部だ。みんなに許してもらおうとは思わないが、謝罪の意があるということだけはわかっていてほしい」

「ちょっと、何を訳のわからないことを言っているの。カザーニィのみんなは?甲冑の国の二人をどこへやったのよ。まずはそれを答えて!」

 町長は冷静じゃないカズハの目を深く見つめた。老人のその瞳に映った一番大きな感情は、他人ではなく己に対する哀しみのようだった。カズハは余計に訳がわからなくなる。エドワードはカズハの身を守ることだけに終始しようと決意していた。

「君たちが疑問に思うことの全ての答えがこの先にある。そして、階段を降りた先の扉を開くことにしか、君たちの疑問を解決する術はない」

 脅しのような低い声色でそう言うと、町長は地下へと続く階段の先を指差した。鐘の音はその先から鳴っている。カズハはそこにある強大な暗闇に、本能的な恐れを抱いた。しかし、仲間たちの行方が知れるというのなら、の恐怖に躊躇っている暇はない。カズハはすぐに階段を降りようとした。が、町長がすぐに目の前に立ちはだかった。

「悪いが、君たち二人にはここを通る条件がある。本来ならもっと時間を用意できたはずなのに、これも私のミステイクによるものだ。申し訳なかったとだけ言っておこう。さあ、君たちの二人の正直な答えを教えてくれ。嘘をついてもわかるように出来ているからな。質問だ。君たち二人だけを残して、世界の人々が滅んでしまったら、君たちはこのエデンのような世界を創っていこうと考えるかね?」

 町長の質問は、まさに突拍子もないものだった。質問だけではない、先程からの言動の全てが理解不能だ。カズハは焦燥感に苛立つ自分を見つけた。こんな緊急事態で、のんびりと問答をやっている場合じゃない。を模索している余裕もない。

 「答えなさい」と町長が突き付けるので、「私は別の世界を望む!」とカズハは叫んだ。何かを考えている程の心の余裕もなかったので、最初に思ったことをただ口にした。つまりは本心を答えた。どう答えれば町長はここを通してくれそうだとか、打算的なものは一切なく、目的の為の手段を見失っていたといえる。その結果、町長はカズハの本心を引き出すことに成功し、しかし彼女との会話を生み出すことには失敗していた。カズハは目の前の邪魔者を無視して通り抜けようとし、しかし、次の瞬間には彼女の身体は宙を舞っていた。

 背中から地面に叩きつけられる強い衝撃を受けて、カズハは自分が投げ飛ばされたのだということを理解した。たとえ十九の女の子だろうとも、彼女は圧倒的な身体能力で〝戦乙女〟とまで言われてきた逸材である。相当な実力がなければ彼女を投げ飛ばすというのは難しいはずだ。カズハを見下ろす町長の顔は、丸い眼鏡だけが怪しげに光っていた。平和の町、エデンでの出来事だとは思えない。不意に、カズハには彼を超えて地下への階段へと辿り着くイメージが出来なくなってしまった。

「うおおおおおお!」

 そんな状況で、町長を組み伏せたのはエドワードだった。彼は町長の横側からタックルをかまし、その体重の全てを持って町長を押さえつけていた。

「カズハ、行け!」

 そして一言だけ叫ぶと、起き上がろうとする町長に様々な攻撃をくらいながらも自由を許さなかった。腹を強く殴られ、首を爪で引き裂かれている。カズハはエドワードのことを考えようとしたが、ここで自分が地下へと向かわなければ、それがエドワードにとっては最悪の選択になるだろうという結論から考え、脇目もふらずに地下へと続く階段まで走った。彼女は目的の為の最良の手段を取り戻したのだ。背後ではエドワードの雄叫びが轟いた。

 階段は本当に真っ暗で長く、四方八方どこを見渡しても黒という色しか見当たらなかった。しかし、足や手が物に触れる感覚はある。カズハは壁を手で触りながら、滑り落ちるように階段を降りていく。身体のいたる所を強打したり、ふくらはぎを擦りむいて血が出てくる感覚があったが、何も気にせず先へ先へと進んだ。

 前のめりで、頭から前方にぶつかったのがわかった。目には見えないが、きっと目の前には木製の扉がある。地上に置いてきたエドワードや町長の存在、エデンという町の謎、故郷のカザーニィの人々。様々な想いが込み上げてきそうになったが、何よりも一番強い意志で自分を抑え込んだ。壁をでたらめに触り、金属製のドアノブの感触と形を確かめると、精一杯の力を込めて扉を開いた。



 *******



 はるか遠い未来、もしくは、気の遠くなる程の昔……。

 大地は荒れ草木は眠り、多くの争いが起こった。誰もそれを止めることは出来なかった。

 ひとびとは減った。どこまでも減り続けた。

 そして、深い深い地下の底、生命の存在など許されないはずの場所に、七つの箱が存在した。

 左から数えて六番目、その中に眠る少女は、この深い地下へと駆け下りてくるような足音を聴いた。ここまで何かが近付いてくる。そして、その何かは、少女の真上まで来ると、驚くような様子で動きを止めた。

 少女は反射的に目を開いた。それは、とても綺麗で澄みきった青い瞳だ。そう、例えるならまるで、深く広く晴れ渡る青空のような瞳だった。

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