第20話 6日目 17時7分 リミット前の伊勢エビ
強い風が髪の毛を揺らして、頬を叩いた。
窓から入ってくる空気はどこか暖かいのに、風だけは鋭利な凶器のように強く、冷やした髪の毛を振り回す。
乱れた金髪を両手でまとめて、後ろにクッと縛り、顔を上げた。
土曜日、24時間生きている最後の日。最後の仕事がはじまる。
リミットは明日の日曜日12時ごろ。結菜の魂がすぐ近くまで戻ってきているのを指先の冷たさで感じる。
ごめんね、最後に好きにするわ。私は夏のベランダで炭酸を飲む夜のように自由に思う。
時間は夕方。この部屋からは大通りがよく見えて、そこを走る車たちがヘッドライトで存在を知らせ始める時間。
瑞樹のおじいさんに謝りたい。私は悪いことをした。だからおじいさんに料理を作って話がしたい。
そう伝えると結菜の両親も、瑞樹の両親も受け入れてくれた。むしろお互いの家の間にあった棘のような私がポテンと抜け落ちたように見えただろう。
結菜がしたことは許されず、でも本体の結菜は悪いと思っておらず、むしろ全てを憎み、こんな時間は望まないだろう。
だったら事情は知っているけれど無関係で、大人な私が話すわという気持ちが半分。
残りの半分は、瑞樹のおじいさんとただ話してみたいと思ったのだ。
瑞樹が絶対に知られたく無いと強く思った相手。どんな人だろう。
17時にチャイムがなった。私は立ち上がり、開いていた窓をしめた。
玄関を開くとそこには白髪で身体が大きく優しそうなおじいさんが立っていた。
何も知らないのは失礼だと思い、私なりに情報を入れてきた。長崎出身で今は自動車会社の役員をしている。
高校野球で甲子園にいくことは出来なかったが、大学野球で頭角を現し、明盛大学で秋季に4回の優勝を経験。大学野球の日本代表にも選ばれてる。
その後現在も働いている自動車会社に入社。社会人野球でもチームの優勝に貢献して、現役引退後は監督に就任。チームを勝利に導いていた名将だ。
育成に秀でていて、面倒を見た選手たちは、みな日本中の大学や高校で監督をしている。
久雄さんの写真も見てきたけど、ネットに記事になっているものはいかにも名匠という雰囲気のものが多かった。
しかし目の前にいる四条久雄の目元は非常に優しく雰囲気も丸い。瑞樹から話を聞いて身構えていたけれど……。
私は礼儀正しく頭を下げる。
「こんばんは。宮永結菜です」
「こんばんは、結菜ちゃん。今日はお食事に誘ってくれてありがとう。小学校の時に何度か会ったことあるけど、覚えてるかな?」
「すいません、覚えてないです」
「そうだろうね、結菜ちゃんは変わらないね、華があって元気だ。入ってもいいかな?」
「はい、スリッパこちらです」
「ありがとう。おお、良い匂いがするね」
「取り寄せたものばかりですけど、外より家のほうが話しやすいと思って」
そういって久雄さんを椅子に座らせた。
私はお茶を注ぎながら食事の説明をはじめた。
「これは胡麻豆腐、えのきのお浸し。煮物は茄子と海老の白味噌仕立て。そして銀鱈西京焼きに、赤だしの味噌汁です」
「おお……まるでコース料理のようじゃないか。ここまで出来るなんて知らなかったよ」
「煮物を作っただけです。あとはデパートで買ってきたものをそのまま出しているだけですよ」
買ってきたというのは嘘だ。お父さんとお母さんは仕事、修司も朝から出かけていた。だから私も都心のデパートに出かけ、久しぶりに地下食品売り場を満喫した。そしてお父さんから渡されていたお金で食材を購入。楽しくなって午前中から作って遊んでしまった。しかしここまでのレベルのものを料理初心者の結菜は作れないので、そう言った。最初は結菜でも作れそうだし、優太朗が好物なチキンカレーでも作ろうと思っていたが、ご高齢だし、柔らかめのご飯を食べていると聞いた。だったら……と思い品数少なめで和食にしたのだ。
実際胡麻豆腐は遙だった頃に気に入って食べていた店の物だし、お浸しは簡単。煮物に使った茄子は普段買えない高級な丸茄子を買った。エビと言ったが実は伊勢エビだ。やっぱり都心にある食料品店は値段が高いけれど、新鮮で品が良いものが多い。楽しかった!
久雄さんは箸を手に取り、食事を始めた。
「では頂きます……おお、この茄子、すごく柔らかくて美味しいな。エビも一度叩いて形成してあるのか」
「そうですね、レシピにそう書いてあったので」
レシピなど見ていないが、ご高齢の人に出す料理は基本的にそうしている。
久雄さんは美味しそうに食べながら「どこの店で売っているのか、あとで教えてくれ。これは家内に買いに行かせよう」と目を細めた。
頑張って探してみてください。どこかに売っていますよ、きっと……と心の中で思う。私は食べながら伊勢エビを叩いたのははじめてだわ……と舌鼓を打った。
どうやらかなり食事を気に入ったようで、お替わりはないのかと聞かれて、会が始まって30分、ひたすら食べてしまった。何の会だったか忘れてしまいそう。
お腹が膨れた頃、久雄さんはお茶を飲んで、
「いや……すごく美味しかった。煮物しか作ってないと言うが、その煮物がすごく美味しかった」
「良かったです」
一万円の伊勢エビを叩いて潰したら美味しくて当たり前な気がするけれど私は笑顔でお皿を片付け始める。
久雄さんは、湯飲みを机に置いて、
「こんなに落ち着いた料理を作れる君が、感情に振り回されて瑞樹を閉じ込めたとどうしても思えない。食べながらずっと考えていた」
「状況で人は変わります。殺人が罪な世界でも戦争がおきれば、敵を殺した人が英雄。状況ひとつで人なんて簡単に変わるし、変わらざるを得ない」
何があっても離婚をすると決めていた一週間前。それだけのために土砂降りの中を歩き、事故にあい、こんな目に遭った。
そして状況が一変した。見えてきたのは、何も知らなかった愚かな自分と、すぐそばにあった愛だ。
あの頃見えていなかった優太朗の顔が、温もりが、言葉が、今はしっかりと見える。
久雄さんは箸を置いて顔を上げる。
「じゃあ君は、状況次第で、また瑞樹を閉じ込めるかもしれないということだ」
「必要だと思ったからしたんだと思います」
「俺はな結菜さん。弟子が50人以上いるんだ。みんな高校や大学、地域で監督をしている。だから息子や孫に何があっても野球を続けろなんて言わない」
「あら、そうなんですか。じゃあ無理に瑞樹に野球をさせることもないですね」
「俺はな、社会人野球三年目で頭部に硬球が直撃した。頭蓋骨骨折、脳挫傷の重傷で、あれから40年、右目の視力はほどんどない」
「え……」
「それでもな、支えてくれたのは野球をしていた仲間たちだ。分かるか結菜さん、何を続けるかじゃない、何の仲間を信じて、どう生きていくかなんだ」
「なるほど」
私は思わず頷いてしまった。これは野球の話をしているのではない。どの世界で生きていくかという観念に近い話だ。
久雄さんは続ける。
「野球を続けろと言うのは、俺がその世界の王だからだ。息子の稔も野球はしていながら、俺が長年監督を務めた自動車会社に勤務している。俺が面倒をみた選手たちは、今日本中の会社や高校大学で監督やコーチをしていて、その頂点に立つのが俺だ。つまり何かあっても生きられる世界がここにあるんだ。だから肘の痛みなどたいした問題ではない。誰もが得たい縁故を瑞樹は誰よりも強く持っている。俺たちの世界を出ると守れなくなる。その世界を捨てる必要はないんだ。しかし結菜さん、あなたのような異分子は本当に困る」
「異分子」
「有名大学野球の監督になるためにはその大学に入り経験を積んだあと、10年以上コーチとして監督に仕える必要がある。それは一家全員でだ。監督の家が旅行にいくといえば一緒に出かけ、引っ越しをすると言えば荷物を運び、祝い事があるならば料理を作る。そうやって20年積み上げた先に監督になる可能性がある。古くさい世界だと思うだろう。しかし築いた信用関係が100年200年と続く伝統を作っていくんだ。絶対に裏切らない人間を見つけるために必要なことだ。その信頼関係があるから、怪我をしても、誰かが死んでも、皆で助け合う。それがこの世界なんだ。世界に天才など99.9%いない。それでも好きなことをして生きていくためには、絶対信じられるファミリーが必要なんだ。そこに思いつきで主人を閉じ込めるような女がいては、縁故があっても、限界がある」
「なるほど。これを一行で言うと、信用できる人しか世界にいれたくないから、言うこと聞かないやつは出て行け、ですね」
私がそう言うと久雄さんは目を丸くして、はっはっはっとわかりやすく笑った。
「年寄りは話が長くてすまないな。老い先短いからたくさん語りたいんだよ」
「分かりますよ、だから聞いてますけど」
「瑞樹はみんなに愛されていて将来有望だ。それが何より大切なんだ。皆に愛されて真ん中にいて家柄の特権が許される人物。その才能を瑞樹は持っている。肘は半年もすれば治る。俺が見た限り、注射と薬であの程度投げられるなら、問題はない。問題は君だ。不確定で異分子。瑞樹を連れて事故に巻き込まれる運のなさ。どれをとっても好ましくない」
私はそれを聞いて涙ぐんでしまう。
「……良かったです」
「え?」
「瑞樹の肘が大丈夫って聞いて安心したよぉ。それを知ってからずっと……ずっとめっちゃ心配だったんだもん……」
心の奥から私の言葉ではない、でも確実に私の気持ちと完全にシンクロした言葉が出てきて驚いて口に触れる。
私が発した言葉ではない。
でも私が言いたかったことと同じで、自分の思い通りにならない身体を好ましく思う。
結菜がもうそこまで来て、この話を聞いているのかも知れないと思う。良かったわね、結菜。長く見てた人が大丈夫だって言ってるわ。
そんなことを冷たい指先を握って思う。
私は顔を上げる。
「頭部に硬球が直撃したとき……本当に全ての人たちが自分の思い通りの反応をしましたか?」
「え?」
「誰も久雄さんを裏切らず、全ての人たちが、ファミリーとやらが、あなたの世界の住人があなたを信じて、ただ全てを愛してくれましたか?」
「それは……」
私がそう問うと久雄さんは黙った。
久雄さんは社会人野球の監督になる直前には離婚して、同じ会社の女性と再婚している。何かあったと考えるのが普通だろう。
期待されていた時にした大けが。復帰には数年かかっただろう。その時にみんなが助けてくれたなど生存バイアスだ。間違いなく良いことしか語っていない。
その裏には山のような裏切りと苦しみと妬みがあり、それでも一筋の光にすがって生きてきたのではないか。一筋の光は自分で、仲間を信じている自分を信じていただけではないか。それに振り回された無数の人たちは追い出されている。だから聞こえないだけだ。
今この人は都合が良い事だけを言っていると私には分かる。
静子さんとの思い出を語れと言われたら、私は30年の間にあった幸せな数日を語るだろう。
こんな小娘に、すべてを話す必要などない、ただ面倒な所を見せて遠ざけたいだけと私には分かる。
面倒なのだ。
私は顔を上げる。
「愛だのファミリーだの、そんな綺麗な言葉の裏に、どれだけの人が苦しんでるか知っているでしょう、嘘つきさん」
「……」
「結菜はまだ17才……」
と続けようと思ったら、そのまま口から言葉が飛び出しはじめた。
「あのさあ、私まだ17才だよ。あなたの半分も生きてない。おばさん助けようと思っただけでこんなことになるなんて全く思ってなかったよ、でも身体が動いてた。でも私は瑞樹を愛してる。誰よりも愛してる。だから異分子なんて言わないで、黙って見ててよ!! てかそんな偉そうなこと言うなら私より先に瑞樹の肘に気がついてよ、そんで先に助けてくれたら良かったんだよ、そしたらこんなことにならなかったんだよ、くそじじい!!」
いやちょっと待って? もっと丁寧な言葉で同じような内容を言おうと思っていたのに、口から飛び出した言葉がこれで笑ってしまった。
ぽかんとしている久雄さんに私は続ける。
「短所を消すと長所も消えるのが人間です。年長者である貴方が短所だと思って目立った場所こそ伸ばして行くべきなのではないですか。気を付けても事故はおきます。普通に暮らしていてもいつか死にます。山のように後悔して悔やんでもまだ遅くないなら、結菜を必要としている瑞樹の心も愛してあげて」
口を開くと「おいくそじじい、なんで先に気がつかないんだ、くそじじい、お前だって離婚してるじゃねーかくそじじい、お前が不倫して前嫁捨てたって知ってるぞコラ、何がファミリーだこの野郎」と叫びそうで黙る。
不倫して捨てて……あらまあ。言いたいけれど、結菜? ここは私に任せてくれないかしら。こじれるだけだわ。
近くまで来ている結菜に対して心の奥で笑う。
久雄さんはお茶を飲んで立ち上がり、
「……君は、まったく理解が出来ないな。大人だと思ったら子どもだし、子どもだと思ったら大人だ」
「思春期ってそういうものじゃないですか」
「……まずは検査だ。検査して徹底的に治す。そして明盛の試験は受けてもらう」
「瑞樹に言ってください。私はただの恋人です」
「そうだな。その通りだ。……食事、本当に旨かった。あとで買った場所を教えてくれ。瑞樹経由で」
「わかりました」
そう言って私は久雄さんが送り出した。
茶碗を洗いながら残った伊勢エビの殻を茹でてスープを作って飲んだ。殻まで美味しい、すごい! ああ、楽しかった。
たまに出てくる結菜に安心して、嬉しくなる。もうすぐ戻れるわね。木彫りの人形を信じるしかなくて、本当に結菜が戻ってくるか少し不安だった。良かったわ。
そして私の意見と結菜の意見が一緒で安心していた。残念くそじじいね、それでも付き合うなら頑張って。
私ならどうかなー。でも瑞樹はかっこいいわね。でもどうかなー、引っ越しの手伝い20年する?!
でもきっと結菜なら、自分のやり方で瑞樹と一緒にいる気がする。そんな強さを感じた。
結菜、私は結菜が大好きよ。
明日この身体を返すわ。
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