第19話 5日目 18時17分 愛と決別の日

「あー、すっごく楽しみ。高校三年間でこんなに文化祭が楽しみなのはじめて!」


 涼花は鞄を肩にかけて目を輝かせた。

 15人も高校生が集まれば250個のクッキーは2時間で作ることが出来た。やはり血管のアイシングが一番難しくて1時間掛かったけれど。

 お昼を食べ終わるころには完全に乾燥させ、5、6時間目にはラッピングを終えた。教室にはホラースイーツという看板が掛けられ、クッキーを置くテーブルは赤く染めた白いシーツが準備され、完璧な状態だった。出来上がったクッキーは学校から一番近い子の家で預かって貰うことにした。

 涼花はインスタを開いて、


「見て、もうイイネが150! 今日の時点で買いたいって何人かに言われちゃったよ~! 250じゃなくて350くらい作れば良かったかな」

「早めに売り切って遊びにいくほうが楽しいって言ってたのに」

「褒められるとテンションアゲアゲになるじゃん。儲けたら遠足Aランチ確定だよ?! もう日の丸覚悟してた~」

 

 そういって悲しそうな表情をした。どうやら文化祭での儲けはそのままクラス費にプールされて、儲けが大きいと11月に行われる遠足で出るお弁当に、松阪牛が入るらしい。儲けがないと日の丸弁当に揚げたちくわが一本乗ってるだけになるようで、妙に気合いが入っていた。

 まあ松阪牛とちくわと言われたら、お肉かしらね。

 これで私が学校にくることはもう無い。本当に短い間だったけど、毎日楽しかった。

 下駄箱で上履きを脱いで靴箱に入れて、丁寧に踵を揃える。少しの間だけ借りてました。これを履くことはもう無い。

 ふわりと香る土煙に顔を上げて鞄を肩にかける。

 綿埃が舞う廊下でスライディングをしている男の子に、壁に貼ってある英語で書かれた標語。忘れ物コーナーに置かれた体操服と飲みかけのペットボトル。家庭科室にあった大量の古いボウルは底がボコボコで。古すぎるリンナイのオーブンが発するハイトーンな異音も、市販品では見たことがない食器洗剤も。

 ありふれて目にもとめない日常が、どうしよもなく輝いて見えた。そして横にいる友達。

 こんなの全部忘れていた。

 正直、涼花がいたからなんとかなった数日間だと思う。こんな友達がいて結菜は幸せね。

 私は昇降口で涼花にしがみついた。涼花はひょんと身長を伸ばして、


「おっーっと、超儲かって感動で泣くのは三日後だぞ?! ちょっと気が早いのでは??」

「……そうね。三日後、月曜日に会いましょう。でももう少しだけ……手を繋いで自転車置き場まで行って良い?」

「いいよお~~。もう結菜は甘えんぼだなあ。私も甘えんぼしたい~~。てかあれ。なんか結菜手がめっちゃ冷たくない? 氷みたいだけど」


 その言葉に私は自分の手を頬に触れさせる。ああ、懐かしい。この冷たさは『遙のものだ』。

 魂がゆっくりと戻ってきているのを感じる。それはこの身体をちゃんと結菜本人に返せるという証拠だ。

 準備という楽しい時間を私が勝手に進めてしまった罪悪感はある。でもごめんなさい。とても楽しかったわ。

 私は涼花のことをとても好きになってしまい、離れるのが惜しくて仕方が無いが、そんなこと涼花に分かるはずも無い。

 涼花はショートボブの髪の毛を揺らして自転車に跨り、


「んじゃバイト行ってくるねー、おつかれちゃーん!」


 そう言って去って行った。もうこれで最後だなんて私と優太朗以外知らないのがすごいわね。でも中にいる私は消えるけど、結菜はここで生き続ける。自分のことばかり考えて感傷的になるけど、その事実が嬉しい。

 横をみると瑞樹の目からも涙が流れていた。大きな身長、焼けた肌、そして真っ黒で切りそろえられた髪の毛に真っ黒で大きな瞳。

 そこからポロポロ流れる涙を見て、私は手を握った。

 瑞樹は涙を拭き、私のほうを見て笑顔を取り戻した。


「……本当だ。手が冷たい。これは遙の手だ」

「そうなのよね。言われるまで気がつかなかったわ。神さまの手、戻ってきてるみたい」


 就職した時に料理の研修を受けた。その時に私の手の冷たさに講師が感動して言った言葉が『神さまの手』だ。

 手が冷たいと食材を痛めない。有名菓子店で働く条件のひとつに手の温度があると聞き、そんな才能があったのねと思ったものだ。

 もう始まりはおしまい。

 私たちは自転車で一気に帰るのが惜しくて、ゆっくりと押しながら家に向かった。

 自転車が事故で壊れてしまい、古い自転車だったけど、この自転車はカラカラと鐘が響くような音が定期的にして好きだった。

 自転車をマンションの一階にとめて私は瑞樹を見た。


「ね、瑞樹。私の部屋で一緒に遺書を書かない?」

「人生であまり言われそうにない言葉だ」

「伝えておくことにお互い抜けがないがチェックしましょう。借りていたものはちゃんとお返ししないと」

「分かった。俺も書きかけてるのがあるから、それもって部屋にいくよ」

「了解」


 家の鍵を開けて中に入る。最初はお邪魔しますと心の中で言っていた玄関も慣れてしまった。

 手を洗い、着替えてお湯を沸かす。優太朗は緑茶が好きだったけど、この家には緑茶がない。緑茶がない家があるのねと思ってしまうほど我が家には緑茶があった。

 そうやって私の家とこの家を比べるたびに思う。あの家……ひとりで杏樹が片付けるの大変じゃないかしらって。

 更地にすると決めてかなり片付けたつもりだけど、リビングしか片付いてない。

 でもこうなったら逆に捨てられないわね、そんな気がする。耳かきひとつ捨てただけで、今も心が痛い。

 私はキティーちゃんのキーホルダーに触れた。これを棺に入れて欲しいと書き忘れてるわ。

 チャイムがなり、瑞樹が来た。

 瑞樹は私服に着替えていた。ベージュのパンツに白いTシャツで、紺色のシャツを羽織っている。……思ってたけど瑞樹顔がすごく良いのよね。端正だわ。

 これで野球部のエースなんて、とてもモテるんじゃないかしら。結菜が必死になるのも分かるわ。 

 私がぼんやりと瑞樹を見ていたら瑞樹も私を見て、


「ハイネックにロングスカート可愛いな。結菜はモテるだろうな。これからの瑞樹が大変だ」


 と言った。お互いにお互いの外見を褒めていて笑ってしまう。

 私はお茶とお菓子をお盆に載せて、


「この身体で私服デートは、まだしてませんね。遺書書き終わったら少しお散歩しませんか?」

「いいな。近くにデニーズがあったぞ」

「まあ」

「あとで行かないか。俺たちの家の近くにはデニーズが無かったからな」

「そうですよね、一時期あなた、あの店のキャラメルハニーパンケーキにハマって、わざわざ電車で行ってましたよね」

「この身体ならキャラメルハニーパンケーキが三皿は食べられる気がする」

「ああ……いいですね、あのキャラメルが二倍かかってても食べられそうです」

「よし早く遺書を書こう」

「そうですね、書いてしまいましょう」


 お互いに「遺書書こう」と言っている状態に笑ってしまう。

 私たちはお茶を飲みながらノートを開いた。まずは助けてもらったお礼をたくさん書いた。今も思い出せる、結菜が手を伸ばしてくれた時を。

 そして代わりに一週間も死んでしまって?(これを死んでと表現してよいのか分からず優太朗とお菓子を食べてダラダラ)それに対する謝罪を。

 自己紹介も書いた。どこに住んでいるのか、連絡先電話番号。お金を使ってしまったので、それを娘である杏樹に請求してほしいと。

 使った分だけレシートはすべて取っておいたので、それを持って行ってほしいと。引き出しを開けたこと、スマホを隅から隅まで見たこと、ごめんなさい。

 そして優太朗とふたりで杏樹にも書いた。何を書いても泣けてきてしまって苦しい。

 瑞樹は、ひたすら肘の痛みを言ったことに対して謝っていた。


「あれは絶対瑞樹本人から言うべきだったよな」

「そんなの分からなかったから仕方ないですよ。それに瑞樹は永遠に言えなかった。そう思うのはどうですか?」

「そう思うしか無い。そう思わないと救われないから」


 そう言って瑞樹は肘に触れた。常に薬を飲んでないと痛むほどの肘……。そんなの私が母親だったら素直に言えない環境を作ってしまったことが辛い。

 子どもは嘘をつく生き物だ。幼い頃は怒られる恐怖から。大人になると、もう子どもではないという見栄から。

 瑞樹のような嘘はもっとも辛い、人を守るための嘘だ。真実を言うことで今までの幸せも、努力も消えてしまう。

 私は瑞樹の服を引っ張って、


「お家は大丈夫?」

「ああ。父さんも母さんも今は何も言わない。父さんはとにかく菱沼さんと病院を調べてる。顔を合わせるたびに肘のことを聞いてくるのはもう無意識なんだろうけど、頭の一番前、口の中にすでにある言葉だから仕方が無いだろうね」

「明日の食事、おじいさん大丈夫そう?」

「結菜が謝りたいと言ったら、満足そうに頷いていたよ。肘の事も、結菜がそれを見て苦しんだことも説明したのに、それでも結菜を悪人にしたいようだ」

「分かったわ。それでいい。私なら冷静に話せると思う。結菜はたぶん無理。だから私がするわ」


 私がそういうと瑞樹は目を細めて横のクッションをチラリと見て、私のほうを見た。

 これは横にきてほしい時の合図だ。付き合いはじめのころ、部屋でいつもこうして視線を送ってきていた。

 嬉しくなって瑞樹の横に座る。瑞樹は優しく私の頭を撫でて、


「遙はそんなに冷静タイプかな? 真ん中は結菜に似てるんじゃないか。本来は思った通りのことを口にするタイプだよ」

「じゃあ結菜も、大人になったら私みたいに冷静になれるかも知れませんね?」

「はは、冷静を譲らないな。でも冷静になれるようになっても、言いたいことはちゃんと言える子に育ってほしいな」

「……そうですね」


 確かに昔は言いたいことをちゃんと優太朗に伝えていた気がする。

 でも静子さんがおかしくなって、それを辛いと伝えたら、引き剥がされてしまうのが分かっていたから言わなくなったのだ。

 辛いけど愛している。離れたいけど離れたくない。

 矛盾している気持ち、答えなんてない、結末なんてない言葉を言えなかった。

 頭を肩にポスンとぶつけて口を開いた。


「私は静子さんを愛してて、嫌いでした」

「うん」

「愛してほしかったんです」

「うん」

「だから嫌いです」

「うん」

「でも愛してました」

「うん」

「怒ったまま、分からないまま、この気持ちを手放さないままの私で、良かったんですね」

「うん」


 あふれ出す涙をそのままに、瑞樹は優しく私を抱き寄せて、何も言わずにずっと頭を撫でていてくれた。

 こんな風によく分からない言葉を、そのまま受け取ってくれる人がすぐ横にいたことにも気がつかず。

 涙を拭いて瑞樹をみると私を見て目を細めた。そして私の両頬を包んだ。

 瑞樹の唇にキスをして、太い首筋に抱きついて……と思う。でも勝手にそんなことをされるのは、やっぱりいやだと思う。

 瑞樹も同じ意見のようで、頬を包んだまま私を見ているだけだ。

 でも我慢ができなくなったようで、頬に軽く唇を触れさせた。頬に軽く触れる柔らかい感覚が久しぶりすぎて気持ちが良い。

 瑞樹は顔を離して、


「これくらいなら挨拶でもするかな、って」

「アメリカですか、ここは。でも……」


 私も膝を立てて瑞樹の顔を包み、頬に優しく唇を寄せた。

 付き合う前も、付き合ってからも、頬にキスなんてしたことない気がする。

 だってこんなの性交渉が普通ではない年齢の子たちがすることだ。

 私たちは知り合った時点で大人だった。だからこんな甘く苦しいキスを知らない。

 瑞樹は私を膝の間に入れた。そして後ろから抱きしめた。

 温かくて気持ちが良い。私たちは泣き疲れて、残りは明日でいいやとデニーズへ向かった。

 私は結菜のハイヒールを借りて、瑞樹と手を繋いで歩き、キャラメルハニーパンケーキと薄いコーヒーを飲んだ。

 風が冷たい冬の始まり。

 私たち夫婦の始まりで、歪んだ愛と決別の日。



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