第16話 4日目 8時16分 遙の特技と、過去の真実
木曜日。四日目の朝を迎えた。
窓を開くと昨日の夜に少しだけ雨が降っていたのか、空気がひんやりと頬に冷たい。
このマンションはわりと高い場所にあり、遠くの公園の紅葉が見える。地面に落ちている葉は、雨でしっとりと濡れているのだろう。
雨で洗われた世界は、空気が澄んでいて好き。大きく深呼吸して台所に向かうと、もう朝ご飯を作っているお父さんがいた。
「おはようございます」
「おはよう、結菜。昨日の夜は助かったよ」
「簡単な野菜炒めで、ごめんなさい」
「充分だよ。味噌汁もあって本当に嬉しかった。ありがとう」
そういってお父さんは朝ご飯とお弁当を出してくれた。
私が朝ご飯を食べ始めると、弟の修司が制服を着て出てきた。今日も前髪はぴしりと揃っていて学ランは一番上まで止めてある。
そして横に座ってお父さんに挨拶した。お父さんはお茶碗にご飯を装いながら、
「どうだった、結菜の野菜炒めは」
「いや、普通に旨くてびっくりした。姉ちゃん飯作れるんだな」
「レシピサイトを見て、そのまま作っただけよ」
結菜は料理をしないとはいえ、インターネットに無数にレシピが載っている時代。検索すればすぐに分かる。
調味料もすべて揃っているこの家で、レシピ通りに作るのは、難しいことではない。まあ実は野菜炒めを美味しく作るのは難しいけれど、簡単そうに聞こえる代名詞を作ってみた。お父さんもご飯を装って椅子に座り、
「いやいや、料理をしようと思ってもらえて嬉しいよ。やれないよりやれたほうがいいからね。あ、お母さん、朝ご飯は?」
私たちが朝ご飯を食べていたら、もう着替え終わったお母さんが鞄を持って慌てて出てきた。
髪の毛はひとつに縛っただけで、かなり乱れているし、顔色もよくない状態に見える。
そして靴を履いて慌ただしく、
「ごめんなさい、時間がなくて」
「じゃあほら、おにぎりだけ」
「ありがとう。行って来ます」
そう言ってお母さんはお父さんからおにぎりだけ受け取り、家から出て行った。
マンションの廊下を駆け足で去って行く足音が響く。
私は食べながらお父さんに話しかける。
「……お母さん、働き過ぎなんじゃないの?」
「いや……もう何を言っても聞かないからな。施設長も今体調崩して大変みたいだし」
それを聞いて箸を落としそうになる。施設長が体調を崩している?
昨日ロケットのような運転で自転車に突っ込んできて、唐揚げくんを食べて楽しそうにキスしてましたけど?
とても体調が悪いとは思えませんでしたけど?
お父さんはサラダにドレッシングをかけながら、
「施設長には長く世話になってるから、お母さんも支えたいんだと思う。お母さんは、人に頼られると断れないからな。……うちより大変な人たちしか居ない場所だから仕方が無いよ」
横で聞いてた修司は大きなため息をついた。
「だからって安い給料で使われてバカみたいだと思うけど。世界中の母親になるつもりなら止めないけど、このままじゃ俺の母親ではないね」
「修司」
「ごちそうさま。行ってきます」
そう言って修司は鞄を持って家から出て行った。
私もお茶碗を片付けて、鞄を持って家から出る。そして自転車置き場に向かいながら、この家の形が見えてきたと思っていた。
お母さんは施設長と付き合いが長く、ずっと一緒に働いている。でもやり甲斐搾取されている。
この状態を、結菜も修司も、良いと思っていない。たぶんお父さんも。
でも正しいことをしているお母さんを、誰も止められないのだ。
私は乳児院で働いたことは無いけれど、安心を求めて泣く赤ちゃんがたくさんいる空間は、想像に容易く辛いだろう。正義感が強い人間ほど身動きが取れなくなる気がする。
となると更に施設長の嘘は放置しがたい。
営業車が何台あるのか知らないけれど、高齢者の送り迎えなどしていないなら、それほど車を持っていないだろう。
お母さんが乗って帰ってきている社用車と、施設長が不倫に使っていた車は同じ可能性はある。
そう思った私は、眠れなかった深夜三時……お母さんが乗って帰ってきた社用車のドライブレコーダーのデータを見に行ったのだ。何かあったら幸運、その程度の考えで。
取りだしたSDカードには、ほんの少しの動画しか入ってなかった。設定がセンサー録画のみになっていたのだ。これだとブレーキを踏んだときだけ録画されるのみ。でもGPSは生きていた。データを確認すると、やっぱり複数回あのコンビニの先にあるラブホテルに行っていた。つまりこの車を使って不倫している。
入っていたSDカードは64GBで、常時録画で16時間可能な機種だと分かった。私は画質を少し落として30時間まで運転時常時録画できるように設定した。
ドライブレコーダーのデータは常に上書きされていく。だから常に確認していれば証拠のひとつでも撮れるかも知れない。
私の話を聞いた瑞樹が驚いて目を丸くした。
「……結菜はいつからそんな探偵みたいなこと出来るようになったんだ」
「瑞樹。いいえ、優太朗。あなたの浮気を疑って、一時期徹底的に調べたのよ」
「……え?」
優太朗ははじめてきく話にぽかんと口を開けた。
杏樹が高校生の頃の話だ。
優太朗は極端に家に帰らなくなった。それも週に二度、同じ曜日に。
優太朗は製造会社で働いていたが、残業は少ない会社で、だからこそうちの店に頻繁に食事に来ていた。
しかしあの頃だけ。今でも覚えている、火曜日と木曜日の二日は、24時すぎても帰らず、何度も朝帰り。そのまま会社にいくことがあった。
何度聞いても「遠くの工場でトラブルがあって、その対応に追われてる。ごめん、そのまま会社にいくから心配しないで」というだけ。
不思議に思って優太朗の同僚に聞いたら「あれは確かに大変だったけど、今は落ち着いてると思うけど」と言われた。
……おかしい。
私はネットで調べて昔使っていたスマホにSIMを入れ、トランクに荷物と共に隠した。そして位置情報を把握した。時間を確認するとむしろ火曜日と木曜日は、はやめに会社を出ていた。
そして向かっていたのは都内のホテル。もうそれを見ただけで悔しくて悔しくて仕方が無かった。
私が家に静子さんといる間に、他の女と浮気している。口も聞いていない夫婦だったけど、それでも浮気などしないと思い込んでいた。
私も車に乗るからと言ってドライブレコーダーを付けてもらい、同時に録画をし始めた。
それでも何度録画してもドライブレコーダーには女性の姿は映らない。連続録画しているので毎回データを抜くのだが、ただホテルに入り、会社にいくのみ。
そして私は探偵に依頼した。探偵は「ここまで分かってるならあとは入り口で張り込むのみです」と言ったのに、毎回「ひとりで入って、ひとりで出てきました」。
しびれを切らして同じホテルに宿泊してもらい、部屋の前で録画してもらったが、なんと優太朗はひとりで入り、その後だれも来なかった。
探偵には謝られるし、その優太朗の行為は一年程度で終わった。あの時期に私は調査方法にかなり詳しくなってしまったのだ。
私は瑞樹……いや優太朗の服を引っ張った。
「結局分からなかった。あの頃、ホテルで何をしていたの?」
瑞樹は「はあ……」と長くため息をつき、首をふった。そして自転車置き場の柵に腰掛けて、もう一度ため息をついた。
「……そうだよな。あんなの浮気してるようにしか見えないよな」
「そうよ。分かるまでずっと不安で……正直あの時期に決定的に心が離れたわ。何をしていたの?」
「寝てたんだ。ただ寝ていた」
「……え?」
「あの時期、担当していた会社でトラブルがあって、大変だったんだ。俺の下にいたやつがデカいミスしてあげくの果てに逃げ出してさ。しかも相手の会社に損失まで出していった。俺はそれをなんとかしようと思ってかなり無理して動いた。そして家に帰ると母さんが玄関でひたすら父さんの靴をマフラーで磨いてた。あの時期……全然家で眠れなくなったんだ。会社では眠いのに家に帰ると完全に覚醒してしまう。それで睡眠薬を処方してもらったんだけど、全然効かないんだよ。それでどんどん強くした結果、眠れるけど8時間程度、全く起きられなくなる状態だった。でも週に二度8時間眠ると、その他の日眠れなくても大丈夫だった」
そうだった……確か新人の子が入ってきたんだけど、すぐに逃げ出して大変なことになったとは聞いていた。
でもそれに優太朗が対応してたなんて知らなかった。
「そんな……そこまでのストレスならその仕事から外れたり出来無かったの?」
「無理だろ。一ヶ月とはいえ俺が上司だったんだ。俺以外の奴らもみんな必死で、代わりなんていなかった。会社を辞めることも考えたほどきつい一年だったけど、そんなことは絶対できないと思った。だって遙は家で母さんを支えてる。外で働いてお金も持って帰れるのは俺だけだ。何があっても耐えきる、その覚悟で挑んだ。だから、ごめん遙。言えなかったんだ」
「そんなの……言ってくださいよ……」
私は自転車を引っ張り出した。ガコンと間抜けな音が響く。持っていた鞄を前カゴに投げ込んで顔を上げる。
「何も知らず、病んでいたことも知らず、浮気を疑って、しかもあなたが稼いだお金で調査していたなんて」
じゃああの頃に「仕事が大変で家で眠れないんだ」と言われて優しく出来ただろうか。そんなこと言われても私なんて10年以上まともに寝ていないと思ったに違いない。
誰かを思いやるには自分に余裕が必要だ。そんなものは一欠片も持っていなかった。
ただ今を生きて、目の前のことに苛立ち、悲しみ、苦しんだ。
いや、憎む理由を探すことに必死になった。自分が楽になるために。
優太朗を決定的にわかりやすく嫌いになれる事実を、きっと血眼で探していたんだ。
なんて愚かで醜い私。
瑞樹は私の横にきて顔をのぞき込んだ。
「ごめん遙。誓って、一度だって君以外の女に興味を持ったことはない。遙が好きだったんだ」
「……恥ずかしいです。何も知らず、ただ疑って」
「俺が悪い」
「何も知らなくて。その時に支えてあげられなくて、ごめんなさい、本当にごめんなさい……はずかしい……」
「抱きしめたい」
「もう……朝からなんなんですか……」
そんなことを言いながら、私は静かに抱き寄せられた。実の所最大の謎で、それを聞きたい気持ちはずっとあった。それでも探偵に頼み、同じホテルに宿泊してもらっても何も撮れなかったのだ。つまり優太朗は本当にただ疲れ果てて眠っていたのだ。強い薬を飲んで。
頑張っていたのに、何も知らなかった。情けない、本当に情けなくて泣けてくる。
私はしがみついて背中の服を引っ張り、
「……今は? 寝られてる?」
「寝られてる。今寝られてないのは結菜だろう。話を聞いてると深夜三時にドラレコ抜いて調べるって、昨日寝たのか?」
私は瑞樹にしがみついたまま首をふる。眠れない。
もう今日は木曜日で、あと二日半しか生きられない。徐々に死んできて、片付けてきて、話も出来ているし、こうして一番気になっていたことも偶然聞けた。
心の奥にあった重たい荷物はゆっくりと消えていっているのに、やはり怖くて悲しくて仕方が無い。
でも瑞樹にしがみついていると、身体が温まってぼんやりしてきて……眠くなってきた。
「……眠たい」
「あ~~~~結菜と瑞樹が朝からイチャイチャしてる!! ほら早く行くわよ!!」
自転車置き場に来たのは涼花だった。
そうね、今日も学校に行きましょう。行ってみて分かったんだけど、私全然学校嫌いじゃないわ。
それに学校にいたほうが気が紛れる。
「おっはよー、結菜」
「おはよう、孝太」
席に座ってクッキーの材料や、工程をチェックしていたら、前の席に孝太が来た。
孝太は手に白い紙を持ち、私に見せた。
「今文化祭のメニュー作ってるんだけどさ、写真ってどれを使ったらいいの?」
「じゃあ、このサイトの、このレシピ通りに作りたいから、この写真を参考に絵を描いたらどうかしら」
レシピには当然著作権があり、写真を勝手に使うことは許されない。
高校生の文化祭だし、それくらいは良いと思ってしまうが、やはり万全を期したほうが良い。
写真を参考に簡単だけど、絵を描いたほうが良いと判断した。
孝太は目を輝かせて筆箱を持ってきて、絵を描き始めた。
「俺けっこう上手いんだぜ?」
「うん、良い感じ。そう……全体は白いクッキーで、目玉は黒、その横に水色で塗って。あとは血管を描くの」
私が指示すると、孝太は目玉クッキーの絵を上手に描き始めた。
そして描きながら私に話しかける。
「……結菜はさ、瑞樹が隠してる内容を当然知ってるんだよな」
私はその言葉に何も応えることが出来ない。まだ検査もしていないし、軽々しく口に出来ることではない。
私が黙ってしまうと、孝太は絵を描きながら口を開いた。
「俺、瑞樹と小学校の頃からずっと一緒に野球しててさ。瑞樹のことは何でも知ってるつもりだった。でもさ、アイツ、一時期からすげー辛そうに野球するようになっててさ。もう怖いくらい。俺ちょっと付いて行けなくなったんだよね」
「そうだったの……」
「瑞樹の家がさ、やっぱレベル違うじゃん。もう遊びじゃないっていうか、人生じゃん。なんか俺も引いちゃって」
瑞樹の家は話を聞くかぎり、かなりすごいレベルの野球一家だ。
好きで楽しんで野球をしているというより、野球以外の選択肢がない家のように感じる。
孝太が普通に楽しむ野球をしているのなら、ついて行けなくなって当然だろう。
小学校の頃からずっと一緒にしていたとはいえ、どこか距離を感じてしまうのは仕方が無いことだ。
孝太は絵を描きながら、
「なんか隠してるなって思って、何度も聞いたけど、それでも瑞樹は何も言わなくてさ。なあ結菜、アイツもう大丈夫なのか? その問題って、もう解決しるの? ここから先に何かまた瑞樹が大変になったりするのか?」
私は何て答えれば良いのか分からず、言葉に悩んでしまう。
瑞樹本人が言わない。だから私の所に聞きに来たのだろう。
涼花の前では軽い言動を見せているようだけど、やはり瑞樹の親友。心の真ん中はすごく優しくて、瑞樹のことを心配している。
だったらほんの少しでも、私も真摯に対応すべきだ。
「……孝太が、そうやって気にしてくれてるの、ちゃんと伝えれば、大丈夫だと思う。心配してるって伝えてくれることで、話しやすくなると思う。いつでも聞くって、何度も言って? 私には言えないこともあるから」
「後悔したんだよ、もっと前に。俺分かってたんだ。瑞樹が何か変だって分かってたのに、言ってこないなら大丈夫かって、軽く考えてたんだよ」
「友達で、同じ野球部員なんだもん。聞けないこともあるわよね」
「俺親友なのに、そうやって距離を取ってた。でも瑞樹が事故にあって病院で動かなくなってた姿見て、俺すげー後悔したから、もう迷うのやめようと思って」
そう言って孝太は絵を描き終えた。
上手だと宣言していた通り、目玉のクッキーの絵は見事に描かれていた。
私はそれを見て目を細めた。
「すごく上手」
「だろ? 俺本気出せば何でもイケるからさ。任せてくれよ」
そう言って孝太はグッと親指を立てた。
瑞樹は戻ってきたら検査にすぐに行くだろう。そこで孝太は真実を知ることになる。
小学校からの親友で、野球仲間。
その瑞樹が黙って注射をうち、野球を続けていたと知ったら孝太は辛いだろう。
どうして何も言ってくれなかったのだと嘆くだろう。
それは想像に容易く辛い。でも『本気出せば何でもイケる』孝太なら瑞樹に寄り添って、ずっと一緒にいてくれそうで、安心した。
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