第15話 3日目 18時09分 愚痴とロケットカーの秘密

「いつも全然手伝わない子たちも、目玉クッキーなら作りたいって! 良かった~~~。毎年実行委員と三人くらいが強制的にやらされてるじゃん? もうクジ引いた時点で死んだと思ったけど、結菜にこんな隠れた才能があるなんて神~~~」

 

 自転車置き場に向かいながら、涼花はスマホの買い出しリストを見ながら嬉しそうに言った。

 やりすぎないようにと思いつつ、結菜と瑞樹の魂が戻った時には、すべての準備が終わっていて、文化祭だけでも楽しめる状態にしておきたい。

 目玉クッキーを作るのは丸一日準備できる金曜日だ。午前中から作り始めれば、午後にラッピングまで可能だろう。

 私は涼花を見て、


「ディスプレイも考えましょう。使い古した白いシーツを誰かの家から持ってきて、赤インクを垂らすだけでも雰囲気が出るわ」

「それすっごく名案! よしLINEに流そう。あー嬉しい、結菜ここ2ヶ月すっごくションボリしてたから心配してたんだよ。記憶喪失万歳!」


 ここ2ヶ月……瑞樹が薬を飲んで倒れた頃だろうか。親友にも誰にも言えない、好きな人が薬を飲んで倒れていたなんて。

 そんな心の重荷を持っていたことを、可哀想に思う。

 たったひとり。誰かに話せるだけでも気持ちはとても楽になる。

 私は静子さんの愚痴を誰にも話すことが出来なかった。愚痴ったら静子さんを取り上げられるのを分かっていたからだ。

 状況が間違っていることなんて分かってる。それでも吐けない気持ちがある。そう思い込んでいた。

 でも軽口のように話すだけでも、全然違うと今なら分かる。

 昨日ラーメンを優太朗と食べに行くとき、静子さんのことを笑って話せた。

 あの時から、私の心はとても軽やかだ。どんなことでも、ティースプーンに少し。

 そこから口に出してしまえば、ただの言葉になる。

 私は涼花を見て、


「涼花は……孝太とはもう付き合わないの? 仲良しなのに」


 孝太は同じクラスの野球部で、涼花と孝太は付き合ったり別れたりするような関係だとインスタを見て知っている。

 クラスでも普通の友達以上に仲が良いのが分かる。

 涼花は目を閉じて首をぶんぶんと振り、

 

「今日だって西高の子たちとカラオケだと思う。もうだめだよ、野球やめるって決めてからチ○コがグローブから飛び出しちゃってる。だってインナーメッシュだよ?! まじキモいんだけど」

「ちょっとあれね……食べられると思って中を開けたら腐ってたフルーツみたいね」

「ぎゃはははは!! もうだめ、なにそのたとえ、面白すぎる、そう見えてきた! 明日そう言ってやろっと」


 「じゃあまた明日ー! バイト行ってくるわ~~」と涼花は自転車で去って行った。

 私の後ろでただ静かに話を聞いていた瑞樹は苦笑して、


「……チ○コがグローブから出てる……野球部下ネタなのか……?」

「孝太から涼花とのこと、何か聞かされてる?」

「涼花が真っ赤な下着が好きで山ほど持ってることだけはDMで読んだ」

「まあ、それは……好戦的ね。なかなか買わないわよ、赤い下着。あっ……でも一時期おばあちゃんたちが体温が上がるから赤い下着を着るって言ってたわ」

「それは孝太も言ってた。家のおばあちゃんが真っ赤なパンツ履いてて、それを思い出すからやめてほしいって。ていうかよくそんな事まで友達に話すよな」

「確かに男の子ってそういう雑談をしない印象があるわね。優太朗は同僚の誰かとそういう話をしていたの? 愚痴とか」

「俺は……そうだな、愚痴……家のことなんて誰にも言えなかったし、仕事でも私生活の話は全くしなかったな」


 そういって静かに静かに目を伏せて首を振った。

 私と同じだ。私たちはふたりで同じような気持ちを抱えたまま、別の方向を向くことで楽になろうとしていた。

 それが間違っていると今なら分かる。私は瑞樹の手を優しく握った。

 瑞樹は私のほうを見て目を細めて、


「孝太はすごいな。知りたくなくても教えてくる。でもあれくらいオープンなほうがこっちも言いやすいのかもしれないな。ここにはじめて来た時さ、孝太に部室に連れて行かれただろ。その時『お前俺に隠してることあるだろ?!』って胸ぐら掴まれたもん」

「そうだったの……」

「何も言えなくてさ、困ってたら孝太のほうが泣き出して『お前が何か隠してるの気がついてた!』って言ってたから、良い友達なんだろうな。それでも同じ野球部でさ、絶対言えなかったよな。知ったら止めたいし、でもエースだろ。言えないよ。戻った時、全部知られるけど……どうなるんだろう。この痛みがずっと前からあると思えないくらい痛いんだよな」


 そういって瑞樹は右肘に触れた。私は運動をまるでしないし、体調も崩さない健康体で、あまり身体の痛みに詳しくない。

 それでもその検査は今すべきではない。きっと過去の細かい情報が必要だ。

 私は肘を撫でて、


「普通の生活をしてても痛いなんて、つらいわね」

「菱沼さんに貰った薬を飲むと嘘みたいに痛みが消えるんだよ。これで注射打ったら、球が投げられるの、分かるな」

「そんなの絶対ダメよ。騙してるだけなんだから」

「本当にな。あと数日で検査受けられるから、俺それまで右肘あまり使わないように筋トレしてるんだ」

「えっ?! 本当にしてるんですか?!」

「約束は守るタイプだよ。腕立てとかそういうのはやめて、腹筋、背筋、スクワット。簡単なメニューだけと毎日やってる。この身体すごいよ、もう昔はそんなこと全然できなかったのに、余裕でできるんだから」

「骨の強化のために縄跳びしましょうって誘ったら、10回跳んで視界が揺れて気持ちが悪くなったのに」

「なつかしい。なんか頭がクラクラして吐き気がしたんだよな、今なら100回余裕だな」


 私たちは笑いながら自転車で走り出した。

 夕方と夜の境界線で、空の上のほうは風が強いのか、雲が走り抜けていく。強い風が気持ちが良く、遠くにぼんやりとした月が見える。

 自転車で走っていると、交差点の横に自然食品専門店の看板が見えた。

 私はふと思い出す。


「……まだ帰らなくて平気かな。土曜日にご飯作るでしょ。その時に茄子の白味噌仕立てを作ろうと思って」

「美味しそうだな」

「あれを作るためには、特殊な味噌が必要なの。隣駅の大通り沿いに輸入食料品店があったから、行っても良い? そこならあると思う。自転車で行ける距離だと思うわ」

「もちろん。結菜と出かけるのは楽しい」

「じゃあ行きましょう」


 私たちはスマホのマップを見ながら自転車を走らせた。この身体は本当に元気で自転車で一駅くらい余裕だった。

 10月の夕方は夜がすぐに迎えに来る。青空が残る空はまだ今日だけど、すぐそこに明日が来ている。

 車のヘッドライトは星のようで、影におちていくビルのシルエットが美しい。こんな風に世界を見るのはきっと、もう見えなくなるからだと知っている。

 普通に生きているときは考えもしなかったこの世界を、今はゆっくりと味わいたい。


 大通りを自転車で走っていると、どう考えても危ないタイミングで車が左折してきた。

 慌ててブレーキを握ると、古い自転車がキュキューッと甲高い音を上げた。

 心臓が跳ね上がり、息が苦しくなり、手が震える。

 視界が揺れて目の前の世界がチカチカと光って見える。

 足下がふらふらして、道路ではなく柔らかい豆腐の上に立っているように膝に力が入らなくなっていく。

 ダメ、立っていられない。

 全然大丈夫だと思っていたけれど、車にかなりの恐怖を感じているとはじめて知った。私は震える手で自転車をなんとか制御して、その場で下りた。

 瑞樹が駆け寄ってくる。


「大丈夫か、結菜」

「……怖いわ、すごく怖い」

「休もう。何だあの車は」

「車がダメになってるのね」

「店に入ろう」

「……うん」


 私は瑞樹に支えられながら目の前のコンビニ入った。

 瑞樹は私を抱き抱えて、イートインの席に座らせてくれた。そしてすぐに温かいお茶を買ってきてくれた。

 飲もうとするけれど、手が震えて持てない。

 心臓が大きく動いて身体中に血液を送っているのが分かる。息が苦しくて涙が出てくる。口を開いてなんとか空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 喉が細く震えているのがわかり、指で触れた。どく、どく、と血管が分かるほど脈を打っている。

 温かいお茶を飲んで少し落ち着いた。この辺は駅や店まで遠く、自転車がないと不便だが、もっとゆっくり走ろうと思った。

 結菜の身体に傷を付けるわけにはいかない。

 瑞樹が背中を撫でてくれて、やっと落ち着いてきた。

 落ち着くと、さっき私を車で轢こうとしたヤツが気になった。このコンビニの駐車場に入るために、突然左折してきたのだ。

 駐車場に止まっているはずなので車を見ていると、コンビニで買い物を終えたふたりが出てきて乗った。そのふたりを見て、私は瑞樹の頭を掴んで机に伏せた。


「?!?! なんだ?!」

「……結菜のお母さんが働いている施設の施設長だわ。男性と一緒」

「仕事の途中か?」

「あの車……お母さんも乗っていた施設の車なのね。横に幸音寮さちねりょうって小さく書いてある」


 私たちは机に張り付いたまま、車の中を目をこらしてみた。もう外は暗くなり、車内はよく見えない。

 施設長はたぶん私と同じくらいの年齢だと思う。60手前……最前線で仕事をしているからか若々しいけど、それでも肌艶と体形からなんとなく分かる。

 男性のほうは40代くらいだろうか。身体に合ったスーツを着ていて、白髪もなく、若く見える。

 私の横にいる瑞樹は少し近付いて、


「旦那さん?」

「違うわ。だから頭を伏せたのよ。旦那さんもサイトに載ってたけど、もっと年上の方。白髪で恰幅が良い人」

「じゃああの人は仕事相手……じゃ、なさそうだな」

「そうね」


 私たちが見ている前で、施設長と男性はキスをし始めた。仕事相手かも知れないけれど、個人的に深い付き合いがあるようだ。

 軽く何かを食べて何度もキスして、コンビニからまたロケットのような速度でバックして出て行った。怖すぎる。

 私と瑞樹は机に倒れ込んだまま、目を合わせた。


「……同じ施設の男性とか……? スーツ着てたから違うかしら。分からないわね。とにかく浮気してるのは間違いないわ。旦那さんではない」


 偶然にも昨日の夜サイトを見ていたから、施設長と旦那さんを覚えていた。キスをしていた男性はサイトには載っていなかった気がするけど、スタッフすべてを覚えたわけではないから分からない。

 昨日も朝方に帰ってきたお母さんは、このことを知っているのだろうか。

 サイトに書いてあった理念はご立派だったけど、内部は所詮この程度だ。核家族さえぶち壊しそうな行為を平然としている。

 ため息をついていると、お父さんからLINEが入った。


『すまない、仕事が終わらなくて夕食を作るのが遅くなりそうだ。スーパーで買ってきて適当に食べてくれないか』


 私はそれを既読してすぐに返信する。


『簡単なもので良かったら作ります。お父さんも家で食べて』

『本当か?! いや、ご飯炊いておいてくれるだけでも助かるよ。頼んでいいかな』

『分かったわ、お仕事頑張ってね』

『ありがとう! ごめんな、退院したばかりなのに。無理しなくていいからな。でも結菜にはちゃんと食べてほしいんだ』


 そういって可愛いウサギのスタンプが『すまない!』と踊った。

 本当に優しいお父さんで羨ましい。

 私たちはコンビニを出て輸入食料品店で白味噌を買った。そして私だけスーパーに立ち寄り、買い物をした。

 そしてふと考える。あの車……営業車ならドライブレコーダーが付いてるわよね。

 お母さんが乗って帰ってきてる車と同じかしら。お母さんが何も知らずに働いてると思うと気分が悪いから、情報だけでも抜いておきますか。

 楽しくなってきたわ。

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