Frieze

蘭陵キノノ

第1話 Do you recall ?

ボルドーに来るのは、今年で二回目になる。


真昼の太陽が街を照らすと、カンコンス広場にある噴水の水しぶきが虹色に輝く。焼きたてのパンや焙煎したコーヒーの香りが漂い、通り沿いに並ぶカフェやビストロからは楽しげな笑い声が聞こえてくる。遠くから聞こえる教会の鐘の音は、曲がりくねった道に響き渡り、まるで音楽を奏でているようだ。


私はそんな賑やかな街の中を通り抜けて、目的地も特に決めないまま、ぶらりと旧市街での散策をしていた。何世紀も前に建てられた建物に、ゴシックとルネッサンスの意匠が融合したが美しい装飾が施されていて、見ているだけで心を躍らせる。


通りかかる自転車に乗った子供たちは、ごたごたっと石畳の道を走り抜ける。一番先に飛び出してきた、フードを被った少年は片輪を浮かせながらも器用にバランスを取って、快活な笑い声と共に遠ざかっていく。


私はそんな彼らの姿を見て、思わずクスッと笑ってしまった。ここに戻ると、いつも若帰ったように感じる。この国の人々の持つエネルギーに羨ましく思う同時に、自分でも負けないように頑張ろうという気持ちにさせてくれる。


旧市街の路地裏を抜けると、有名なブルス広場に出くわした。この広場の中央にある水鏡から立ち上る霧が、まるで時間が止まったかのように、周囲の壮大な建築物を映し出している。水遊びをする子供たちの声や、写真を撮る観光客の声も聞こえてくる。


(んー……今日もいい天気だわ)


私は空を見上げて、その眩しい光を手で遮りながら、目を細めた。ボルドーは気候が穏やかで、一年を通して過ごしやすい土地だ。しかし、今は夏真っ盛りなので、さすがに暑い。日陰に入っていても、肌がジリジリ焼け付くような感じがする。


(やっぱり、帽子を被ってきて正解だったわね)


私は自分の被っているつば広の麦わら帽を手に取り、それをじっと見つめた。これは私がフランスに来た時によくかぶる、お気に入りの一品だ。もうすぐ三十歳を迎える私には少し子供っぽいデザインかもしれないが、これくらいの方が涼しくてちょうどいい。


水鏡がある広場の階段から降り立ち、ガロンヌ川の美しさに目を見張った。太陽が水面を照らし、川面にきらきらと反射している。川沿いには、そよ風にそよぐ木々が空に向かって枝を伸ばしている。遠くには、ゴシック様式の聖アンデレ大聖堂の尖塔が見え、長い影を川面に落としている。古代の建築物と近代的な景観のコントラストは見事で、この街の豊かな歴史と活気ある文化を如実に物語っている。


私にとって、この街は第二の故郷のようなものだ。大学で海外留学制度を利用して、初めて訪れた時から、ずっと愛着を感じている。華やかさと猥雑さが入り混じったフランスの首都パリとは違って、ボルドーは歴史ある古都としての側面が強く、伝統を守り続ける静寂な空気感を漂わせている。しかし、その一方で、ダウンタウンでは新旧の建物が調和して共存し、芸術的な魅力を醸し出していて、その対比がとても興味深い。


私はこの国の歴史と風土を愛し、そして尊敬していた。それは、生まれ育った環境が大きく影響しているが、それだけではない。この国の人々の温かさや思いやりの心に触れて、心の底からそう思えるようになったのだ。


だから、今回のようにフランスと日本の文化交流イベントのオファーが来た時も、迷わず承諾した。この企画が成功すれば、両国の関係がより一層深まり、お互いの文化を理解するきっかけになるだろうーー、


(……なんでね、本当はよく多くの人に、しのぶの絵を好きになってもらいたいだけなのに)


私は、そんなことをぼんやりと考えながら、また旧市街の街並みに足を踏み入れた。レンガ造りの家々が建ち並ぶ通りを歩いていると、まるで中世の時代にタイムスリップしたような気分になる。


しばらく歩くと、私の視界に一軒の古びたアートギャラリーが入った。それはまるで魔女の隠れ家のような雰囲気を纏っていた、石造りの建物であった。壁を構成する石のブロックは粗く、不揃いで、その表面には何世紀もかけて定着したような苔や地衣類が付着している。入り口の上の尖ったアーチには、ねじれた蔓のような彫刻が施されており、夕日の光に照らされ、橙色に染まっている。


私はそのアーチをくぐり抜けて、大きく重い木製の扉に近づいた。その両脇には、大きな幟が立てられていて、黒地に白い文字で「La sorcière des mémoires - Shinobu Shiodome」と書かれていた。


「ここが、しのぶの絵を展覧する会場か……」


そして、ここは私、芹川姫佳里が初めて主催した、海外での美術展の開催場所でもあった。



***



「やあ、芹川さん、やっと来てくれたんだね」


「お久しぶりだね、アドリアくん」


その建物の扉を押し開けて、中に入ると、カウンター越しに一人の青年が出迎えた。私と彼は互いの頬にキスをすると、ハグをして挨拶を交わした。


彼の名前は、アドリア・ドゥランジュ。このアートギャラリーのオーナー兼キュレーターだ。私は彼と知り合ったのは、今から五年前のことになる。当時私は、またボルドー大学に留学しており、その時からよくこの建物に出入りしていた。


私は彼にハグされたまま、店内をぐるりと見渡した。


この建物の外観から見えほど、広大で開放的な空間が広がっていた。高い天井が伸び、高い窓から柔らかな自然光が差し込み、床には幾何学模様のモザイクタイルが敷かれている。奥への通路には、様々な絵が展示されており、まるで客をさらに奥へと誘い込むように続いていた。


「しのぶはもう来てるの?」


「ああ、二階にいるよ。呼んでこようか?それとも、自分で行くかい?」


「後で行くよ、その前に、まずは展示室を見てみたいわ。しのぶの展示会は初めてだし、楽しみにしてるの」


私は彼の腕から離れると、彼に導かれながら、奥の展示室へ案内された。そこには、額縁に入った大小さまざまな大きさの絵が所狭しと並べられていた。いずれの作品も、色彩豊かで、繊細な筆触で描かれていた一人の女性の肖像画だ。


私はその中の一枚の女性の肖像画の前で立ち止まった。その画の中には、夜空を背に佇む、美しい女性の姿があった。


彼女は白を基調としたドレスを着ていて、その薄絹の生地から透けて見えそうなほど、全身が幾何学的、あるいは植物的な紋様で彩られていた。その胸の間には、大きな蓮花の刺青が彫られて、その下には、フクロウの目を彷彿させる、生々しい対称形の墨線が描かれている。


その女性の瞳は、血よりも濃い、熟したザクロを連想させるような、真紅の色をしていた。腰まで伸びた銀色の長い髪は、雲間を洩れる月光に照らされて、キラキラと輝いていた。


(……さすがは、しのぶね)


私はその油画を見上げながら、心の中で感嘆の声を上げた。彼女の描く世界は、いつもどこか幻想的で、現実離れしているように感じる。でも、画の中の人物を見ると、不思議と親しみを感じてしまう。


(まるで、彼女自身がそこにいるみたい……)


私がそう思うと、心臓の鼓動がドクンと高鳴り、身体が熱くなるのを感じた。


「アドリアくん、私は先にしのぶのところに行ってもいいかな?」


「もちろんだよ、僕も一緒に行こうか?」


「ううん、一人で大丈夫。ありがとう」


私はそう言うと、アドリアくんに軽く手を振って、その場を離れた。


私は階段を上り、二階部分にあるしのぶの部屋に向かった。廊下は壁一面が四角い窓が並び、ボルドーの街を一望できるようになっていた。私はその景色を横目に見ながら、しのぶがいる部屋を目指して、ゆっくりと進んでいった。


そして、目的の部屋の前で足を止めた、その扉の上には、「SHINOBU'S ROOM」と書かれた木札が掛けられている。私は扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。


「……どうぞ」


私はドアノブを回し、ゆっくりと扉を開けた。


部屋に足を踏み入れると、油絵の具の香りが鼻腔にくすぐり、しのびと一緒に過ごした数え切れないほどの時間を思い起こさせた。絵筆やキャンバス、絵の具の入ったチューブなどが板敷きの床に雑然と散らばって置かれている。その部屋の中央には、大きなキャンバスが床に横たえられていて、その上には、一人の女性が寝転がって、熱心に手を動かしていた。


「久しぶりね、しのぶ」


私は彼女を見て、思わず温かい笑みを浮かべていた。


彼女は白いワンピースを着ていて、周りの絵の鮮やかな色と対照して、その純白の衣はまるで雪の妖精のように見えた。真っ黒な髪を肩口まで伸ばし、毛先を遊ばせている。前髪は真ん中で分けられており、そこから覗く切れ長の目には、漆黒の瞳をたたえている。彼女の片手は絵筆を握り、もう片方の手には食べかけのパン・オ・ショコラを持って、それをかじっていた。


「姫ちゃん……!久しぶりっ!」


彼女は私の方を振り向くと、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、まだ幼さが残っていて、無邪気に笑う顔は昔と全く変わっていなかった。


「姫ちゃんはいつボルドーに着いたの?朝ごはん食べた?ほら、ショコラティーヌがあるよ、1個食べる?」


「もう、相変わらずね、しのぶったら」


私は苦笑いしながら、彼女の横にしゃがみこんて、彼女に抱きついた。そして、彼女が手に持っていたパンをつまんで、口に放り込んだ。


「あーっ!それ、最後の一口なのに!」


彼女は私にパンを食べられたことに気がついて、頬を膨らませて抗議した。私はそんな彼女を抱きしめて、頭を撫でた。


「ごめん、ごめん。美味しかったよ、ありがとね」


彼女は私の言葉を聞いて、頬を緩ませた。機嫌が直した彼女は横に置いた紙バックの中から、もう一つパン・オ・ショコラを取り出した。


「もう一個あるから、これあげるよ。はい、半分こしよう?」


「ふふ、しのぶは優しいね」


私は彼女の優しさに感謝して、それを受け取った。それから私たちはしばらく、互いの近況について語り合った。


彼女の名前は汐留しのぶ。私とは幼い頃からの付き合いで、家族ぐるみの仲だった。私がフランスに留学する前は、毎日のように会っていたが、留学してからは互いに忙しくなって会う機会が少なくなっていた。帰国すると、私は画廊で働き始め、しのぶはお父さんのアトリエを手伝いながら、画家として活動をしていた。


私は彼女のことを心から尊敬している。彼女の芸術に対する姿勢は、常に謙虚だ。どんな時でも自分の作品に対して真摯で、妥協を許さない。そして、その作品からは、いつも彼女の強い信念のようなものを感じさせられる。


「それで、しのぶは何を描いてるの?」


私は彼女の髪を撫でながら、キャンパスの方へ視線を向けた。まだ未完成のその画は、彼女のほかの作品と同じ、不思議な女性の肖像画だ。


「うん、この子はね、今度の個展に出そうと思って描いていたの。あっ、今描いてるのはただの練習作だけどね!」


「へぇ、楽しみだね。誰をモデルにしたの?」


「えへへ、それは内緒だよ」


しのぶはいたずらっぽく笑って、私の頬にそっとキスをしてきた。私は少し驚いて、彼女の顔を覗き込むと、彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。


「……でも、きっと驚くと思うよ」


「ふぅん……、じゃあ、期待しておくわ」


私はそう言って、しのぶの額に軽く唇を押し当てた。


私たちは互いのことに特別な感情を抱いている。それは恋愛とか友情ではなく、言葉ではうまく表現できないけれど、家族のように、あるいは姉妹のような関係なのだ。だから、こんな風にスキンシップをしても、私たちにとっては別に不自然ではないのだ。


しのぶは昔からとても人見知りで、寂しがり屋な性格をしていた。私は画廊で働き始めたのも、いつか彼女の絵を多くの人に知ってもらおうという思いがあったからだ。今はこうして、異国の町であるボルドーで二人の夢を叶えることができた。


私は彼女の体をぎゅっと抱き寄せ、その温もりを肌に感じながら、彼女と出会ってからの日々を思い起こした。


「姫ちゃん、どうしたの?なんだかボーッとしてない?」


「ううん、なんでもないよ」


私はそう言うと、しのぶに優しく微笑みかけた。


しばらく他愛のない話をしていると、廊下の奥から誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。私はそれが誰なのかすぐに察しがついた。


「芹川さん、いるかな?」


扉の向こうから、予想通りの人物の声が聞こえてきて、私は小さくため息をついた。


「ああ、アドリアくん。もう打ちあわせの時間かな?」


私はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がって、扉を開けた。


「ええ、もうすぐですよ。さあ、ロビーに行きましょう」


「うん、ありがとう」


私は部屋を出ると、アドリアくんと一緒に階段を下りて、一階のロビーに向かった。そうして歩いているうちに、ふと目についたものがあった。それはひとりの少年だった。年齢はおおよそ8歳、9歳に見えて、ナチュラルカールの黒髪が特徴的な子供だ。彼はしのぶが描いた、夜空の絵の前で佇んでいて、淡い青色の瞳でその絵をじっと見つめていた。


「ねぇ、アドリアくん、あの子は……」


「ああ、近所に住んでいる子ですよ。彼はよくここに来て、その絵を眺めているんです。時に何時間も、ずっとね」


「そう……、絵に興味がある子なんて、珍しいね」


「そうですね……、確かに、そうかもしれませんね」


「……どうかしたの?」


「いえ、ただ……、彼のことが少し心配なんですよ」


「……どういう意味?」


「彼、両親と一緒にここにくることが一回もなくて……、それにいつも暗い表情をしているような気がするんです」


「そう……、両親は忙しいのかしら?」


私は彼が絵を見ている様子を観察してみた。すると確かに、その横顔にはどこか影があり、憂いを帯びたように感じられる。だが、その瞳の底には、悲しみというより、何か深い執着心のような感情も含めていた。


「まあ、そういうことだと願いたいですけどね」


「そうね……。それならいいんだけど」


私はその少年の姿を見て、なぜか胸の奥に小さな痛みを感じた。


(しのぶの子供と同じ歳に見えるのに、もしご家族が近くにいないとしたら……)


そう考えると、その孤独感は想像を絶するものだろう。私自身、両親がいなかったら、今の自分はなかったかもしれない。そんなことを考えると、目の前にいる幼い子供が、可哀想に思えて仕方がなかった。


「……ねぇ、君、名前を教えてくれる?」


私は彼に近づいて話しかけた。突然のことで驚いたのだろうか、その子はびくりと肩を震わせ、私の顔を見た。


「……僕の名前?」


急に知らない人に話掛けられて、その子は少し戸惑っているようだった。私はなるべく優しい笑顔を作り、安心させるように言葉を続けた。


「うん、お姉ちゃんは君のことをもっと知りたくなって、つい声をかけちゃったんだ。君はこの絵が好きなんだよね?」


私はそう言って、先ほどまで見ていた夜空の下佇む女性が描かれた絵を指差した。


「お姉さんは、この絵を描いた人を知ってるよ。よかったら、私が彼女に紹介してあげるよ」


私がそう言うと、少年はハッと目を大きく見開いた。それから、私の顔をまじまじと見て、少しの間考え込んだ。


「……本当?本当に、この絵を描いた方を紹介してくれるの?」


「もちろんだよ、お姉ちゃんが約束するよ」


私は小指をそっと差し出して、微笑みかけた。少年は少し躊躇ってから、やっと意を決したように、私の小指に自分のそれを絡めた。


「……僕は、ルイっと言います……ルイ・ルロア」


「ルイくんっていうのね。私は芹川姫佳里だよ。よろしくね」


私はそう言って、そのまま彼の手を取って、その小さな手を優しく握り締めた。

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