3月29日 七ツ森の国
3月29日/『七ツ森の国』蜥蜴岩村
昨日も行く先が湖になったままだということで、乗合馬車は足止めだった。
急ぐ客からルート変更の提案も出たが、遠回りになるということで御者が拒否した。
別の馬車へ乗り換える人もいて、行商夫婦は運賃の上昇を愚痴っていた。
二人は足止めの間も町で順調に商売をしている様子だったから、本当にたくましい。
おかげで俺は、宿にこもって三日分の記録を書くことができた。
熱心にメモをしていたら、先生が嬉しそうに褒めてきた。まさか自分への愚痴を書き殴られているとも知らずに「関心なことだ」と。
◇
今日はまだ日の上らない時間に叩き起こされ、馬車に詰め込まれた。
二日も休めたバッファローは、風のように駆けた。
太い車輪がガラガラと激しい音を立てて乾燥した地面を滑っていく。
石を轢くたびガタンと大きく揺れて、乗客が跳ねる。
着地のたびに尻が痛い。
俺はすっかり女性の体に慣れた気になっていたが、状況が変わると勝手の違いに気がつくものだ。
しばらくは力の入れ方がわからず、揺れに振り回されたしまった。
これなら男に戻してもらった方が良かった。
っていうか、逞しい男にしてもらいたい。こんな揺れではびくともしないような。シュワちゃんみたいな。スタローンでもいいし。
とにかく、昼前には(つまり五時間は移動したわけだが)次の停留所に着いた。
『停留所』と書いたのには理由がある。
そこは目印の大きな木が一本生えているだけの、何もない場所だったからだ。
そこで先生と俺は降車した。
行商夫婦に「さよならー」と手を振られた。
周りは草原で、空気中に水分が十分含まれている感じがした。気候がすっかり変わったのだ。
「もしかして、国境を越えましたか?」
「よく気がついたな。そのとおり。ここはもう『七ツ森の国』だ」
「国境には何もないのですか? 門とか……許可証とか」
パスポートと言いそうになったけど、頃合の言葉を見つけることができた。
「『黄金の国』となってからは、国の間の行き来が自由になった。まあ昔から手薄な街道は出入り自由だったが」
先生は大きく伸びをすると、荷物を木の根元に下ろして自分も隣に座ってしまった。
「逆に街の中へは入りにくくなった。どこも塀や門を強固にして、兵士を立てている」
俺もつられて隣に座った。
先生は地面を撫でて、何か囁いた。
すると、草の一本が長く伸びて、先端が先生の手の中に収まった。先生はそれを水筒の中へ差し込む。
はっきりと、水の流れる音が聞こえた。
溢れるほど水が溜まると、今度は俺の水筒も満タンにしてくれた。
これは魔法ということでいいのだろうか。
「ありがとう」と言って先生が草を撫でると、それはスルスルと元に戻って行った。
「あ、ありがとうございました」
と、俺も一応地面に礼を言った。
先生はそれを驚いた様子で見てくるので、もしかして阿呆だと思われたか不安になったが、
「お前はいい奴だな。彼らも喜んでいる」と、まさかのいい反応でホッとした。
「彼らって誰?」というのは聞きそびれてしまった。
しばらく木陰で涼んでいると、大きな山羊が引く荷車がやってきた。樽や荷物を積んでいるから、買い物帰りかもしれない。
先生は手綱を持ったおじさんに手を振った。
「ピピン!」
「え! 驚いた。フィスじゃないか」
荷車を止めたおじさんは駆け寄ってきて、先生と握手した。
「いつかとは言ってたが、こんなに早く戻ってくるなんて」
「せっかく彼らに受け入れてもらえたからな、忘れられる前に戻らなければ」
「それもそうだ。さ、村まで送るよ」
二人はとても親しそうに話した。
ピピンさんの言葉は、少し訛っている気がする。
この地方の方言かもしれない。
「あれ、そちらのお嬢さんは?」
こっちを見たピピンさんにそう言われて、改めて女になっていたと思い出す。
ぱっと見でわかるほど女子なのか!
「助手のサトーだ。まだまだひよっこだが」
「はー。孤独を愛するあんたが、ついに助手か。もしかして引退なんて考えてないだろうね」
「やめてくれ。私は引退なんてしないよ」
先生は荷台に腰掛けながら笑った。
ちょっと待ってくれ、先生すごく愛想がいいぞ。
人当たりが良さそうな、知的な美人がそこにいた。
俺の知ってるフィス先生じゃない……
人っていろんな顔を持ってるな……
荷車に後ろ向きに座って足をぶらぶらと垂らしていると、子供に戻ったみたいな気分だった。後方へ流れていくのは美しい青々とした深い森。蝶や羽虫がひらひらと飛び回って、轍の周囲は低木やかわいい花に縁取られている。
砂漠のすぐ隣なのに、信じられない潤いだ。
しばらく進むと、さっと森が終わり、眩しい光に包まれた。
反射で振り返った俺は、目の前にそびえる、まるでアルプス山脈のような雄大な山々に目を奪われた。
『すげえ……』
「『スゲェ』と言うのか。意味は?」
「あ……凄いってことです……」
「なるほど」
先生はそんなどうでもいいことまで書き留めている。
メモ魔がすぎる。
送り届けてもらったのはピピンさんの住む『
村の後方の山肌に、蜥蜴の形をした岩があることからこの名前がついたそうだ。
羊(っぽい動物)の放牧で生計を立てていて、羊毛製品や肉を売っているという。
『七ツ森の国』はそのほとんどが森林で、この『
彼らはその昔、平地から追いやられた一団の末裔なんだというけれど、現在はむしろ珍しい羊毛のおかげで他の地域より潤っているらしい。
長い時間でものを見ると、何がいいのかわからないものだ。
俺は日が暮れるまで、来客にテンションの上がった子供達に村中を引きずり回された。どの実が美味しいとか、どの木が登りやすいとか、川で魚釣りまで披露してもらった。
夕食はもちろん豪華な羊料理が並んだ。シチューやステーキ、大きなチーズも。
肉にはクセがあるが、香草がてんこ盛りで、食卓はそれどころではないほど素敵な香りに包まれていた。
「先生、彼らはあなたの素性をご存知なんですか?」
「『知識の塔』の学者であることは知っている。それ以上は話していない」
その塔については今度聞こう……。
俺たちは案内された来賓用の小さな家で、干し草のベッドに腰掛けていた。
もうすっかり夜だ。
「どうして王の命令だと言わないんです?」
「偉い人が来るとかしこまるだろう。私は素の状態を知りたいんだ。逆に王を恨んでいる者なら私の身が危険だ」
「そんな人もいるんですね……」
「お前の国が、急に誰かのものだと言われたらどうだ?」
「嫌です……たぶん」
正直、俺は自分の国を「自分のものだ」なんて風に考えたことがなかった。だから嫌かどうかなんてわからない。
たぶん、頭が挿げ変わっても、法が変わっても、どうせ俺は従うだけだろう。
「ただの、いち学者の方が、なにかと都合がいいんだよ」
「確かに……そうですね」
「明日は歩くぞ。よく寝ておきなさい」
森の切れ目、山裾の村の夜は、虫や鳥が鳴き止まない騒がしいものだった。
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