第9話

 その後、良哉は少年院に入れられた。親父の暴力は当然、ない。平穏な日々――あるのはただ、由紀子を殺したおれが生きている事実。最後に見たテレビ――おれと話したこともなかった奴らが、好き放題事件について語っていた。コメンテーターはおれと親父を非難した。恵まれたものがそうでない者に石を投げる世界――死ぬほど嫌気がした。

 由紀子は幼稚園にも行かせてもらえなかった。当たり前の幸せが与えられず、兄にも裏切られ、風呂場で冷たくなって死んだ。

 おれのせいだった。由紀子を救うことは絶対にできたはずだった。おれには由紀子を守ってやる責任があった。

 由紀子はおれを恨んでいるだろうか。唯一信じていた兄にも見放され、恨む気力もなく絶望して死んでいったのだろうか。少年院はクソみたいなところで、皆、性根を腐らせていた。おれ以上のクソはいなかった。おれは自分の誓いを反故にしたのだ。

 死にたくてたまらない。それ以上にどこにいるかも分からない父母を殺したくてたまらない。他のことは何も手に付かなかった――苛立ちだけが募った。

 確かに少年院はクソだった。嫌気がさした。だが、妹を殺したことに比べれば、どうってことなかった。

 ほとんどの奴らは性根を腐らせて出て行ったが、おれには腐る性根すらなかった。全部ごちゃ混ぜにされ壊された後の抜け殻だった。

 おれは十八歳。由紀子は生きていれば八歳。

 風呂に放置されて、全身の痣を浮腫ませた由紀子の死体。見るに堪えなかった。おれがそうした。親父がそうした。

 親父を殺すべきだったのだ。妹を守るべきだったのだ。こうなるぐらいなら。親父はクズだった。殺しても構いはしなかった。

 親父を殺せない、妹を救えない。出会ったサラリーマン、主婦、老人――彼らに、その苛立ちをぶつけているだけ。だから、後味が悪かった――留飲を下げることもできなかった。

「水が飲みてえな」

 意味のないことを呟き、良哉は公園の小さな蛇口をすすった。水圧が強く、すぐ喉は潤った。家の近くの公園でやった、由紀子との水遊びを思い出した。そのときは公園の蛇口が老朽化しており、少しの水しか出なかった――この公園の蛇口を知るまで、水圧など気にしたこともなかった。

 最寄りのヤマダ電機に入る。朝からエアコンが効いており、良哉を心地よい冷気が包んだ。

 うんざりした。

 店内にいくつもある大型のテレビ――良哉の家では見たことがないものだった。良哉の頭にあるテレビはもっと画面が小さく、分厚かった。閉じ込められ、社会から取り残されていたことを実感した。

 テレビに視線を流す。殺人事件のニュース、バラエティー番組のドッキリ企画。どんな事柄も、テレビは平等に映し出す――すぐ移り変わる。ほかにすることもなく、おれは立ち尽くしたまま画面を見つめる。

 女優の映画出演インタビュー。小綺麗な女が笑顔でインタビューに応じている――

 良哉は目を見開いた。テレビを凝視した。腹が潰れたように痛む。まさか、まさか――動悸が激しくなる。女優の顔――見覚えが、ある。随分洗練されたが、幼いころ見てきた顔は忘れない。顔のつくりは変わらない。何より――恨みは消えない。

 テレビ画面の女優――おれの母親だった。

 画面を凝視する。自宅――豪邸といってもいい広さ。男性と二人、インタビュアーの質問に応えている。

 目の前が回り出す。知らなかった。投獄されていたから、母が再婚していたことを。知らなかった。おれたちを見捨てた女が、一人だけのうのうと幸せを摑んでいることも……。

 ヤマダ電機のパソコンのコーナーに向かう。インターネットが通じているノートパソコンで母の名前と経歴を検索する。

 ――DV夫と乱暴者の息子の暴力に耐え、見事掴んだ女優の栄光‼

 眩暈がする。目の前が回り続ける。脳みそを揺さぶられるような吐き気が止まらない。

 知らなかった。親父もおれも知らなかった。記事を見るに、おれと親父は完全な悪者だった。

 おれに全部の責任があるってのか……?

 また、頭の中がぐらついたように痛みだす。親父との生活、由紀子の死にざま、おれに注意をまったく向けてくれなかった母親――とめどなく記憶があふれ出す。

「冗談じゃねえ」――声が漏れる。

「このたびは、映画出演、おめでとうございます」

 インタビュアーが喋っている。

「昔はいろいろ、苦労したそうで」

 インタビュアーはしゃべり続ける。

「はい。災難に襲われましたが、いつかは報われると信じて」

 母の声だ――肌という肌に怖気が走る。怖気は怒りの震えに変わっていく。

「冗談じゃねえ――」

 良哉はひび割れ声を絞り出す――画面の中の女には聞こえない。

「素晴らしい人にも出会えたので、辛かった生活も無駄ではなかったのかなと」

 画面の中の女は笑顔で流暢に喋る。おれたちのことは全部解決した過去の問題だとでもいうような滑らかな声で。

 限界だった。目の前の光景をおれは許容できなかった。

「冗談じゃねえよ、クソ‼ ふざけんな!」

 叫んだ――画面の中の女には聞こえない。

「いろいろありましたけど、幸せになれて良かったです。ねえ」

 血の気が引いた。母の笑み――作った笑みじゃない。心の底からの幸せ。わかる。おれたちと暮らしていたときは一度も見せなかった表情。だから、わかる。

 母の横――子供がいる。おれの知らない子供。おれの知らない家庭。由紀子の知らない家庭。由紀子にあげるはずだった温もり。

「その子はだれだ」

 良哉は叫んでいた。肉から糸を引いて垂れ落ちる血のような、呪詛に塗れたおれの声。

「その子はだれだ」

 叫ぶ。母は笑顔で子供を撫でている。

「その子はだれだ」

 叫びは止まらない。

「その子はだれだ」

 叫びは止まらない――現実は変わらない。

「かわいいお子さんですね」

「ええ、この前も――」

「その子は誰だと聞いてるんだ‼」

 母は新しい家庭を持っていた。新しい子供を持っていた。良哉と由紀子は全部リセットされていた。

 あどけない表情の子供――まだ、一歳か二歳。丸みのある顔と瞳――由紀子の面影。

 爆発した。

「なんで由紀子を可愛がってやれなかった⁉ 新しい子供を作るくらいなら。一緒じゃねえか。由紀子も可愛がってやればよかっただろ‼」

 良哉は首を振る。耐えがたいおぞましい現実から目をそらすことを試みる。母の幸せの映像は続く。ヤマダ電機のテレビは消すことができない。

「いい加減にしろ‼」

 由紀子が幸せになるべきだった。おれたちは由紀子の命を奪った。おれと親父――捕まった。母――何のとがめも、罰もない。母は確かに何もしていない。それでも、由紀子の不幸の原因のひとつは間違いなく母だった。

「おれのせいで死んだんだ。お前のせいで死んだんだ。みんなみんなくそくらえ‼」

 消し飛ばしたかった。目の前の光景は何よりも耐え難いものだった。

「何でだ。何でだ、何でだ⁉」

 地面を殴った。叩いた。ひたすらに喚いた。拳に血が滲んだ――どうでも良かった。この衝動を抑えることが出来ない。みんな死んじまえ――人を踏みつけて幸せを享受している奴ら、全て。幸せな奴ら、全て。

 どす黒い気持ちが溢れ出続ける。何も起きない。どうにもならない。

「何してるんだ、おまえ⁉」

 ヤマダ電機の店員らしき制服の男が駆け寄ってくる。目尻を裂いた鬼の形相――親父の面。教員の面。世間の面。

 またおれは連れていかれるのか――良哉は自問自答した。抗うのだ。とことんまで抗ってやれ。どんなことになろうとも、あの時ほどひどいようなことはない。

 ポケットに手を差し入れた――ナイフ。今度は躊躇しなかった。男に飛び掛かり、口の中にナイフを突き刺した。生暖かい真紅の液体が良哉にかかった。男は喉を引っかき、痙攣した――死んだ。背後で無数の悲鳴が沸き上がった。

「おまえらにおれの何がわかるっていうんだ?」

 良哉はもう一度呟いた。ふいにテレビが消えた。黒い画面に映る良哉の顔。

 おれを虐げるときの親父と同じ顔がそこにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪性遺伝子病 大宮聖 @oomiyanoir1994

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ