第六話 夫のために命を賭けましてございまする

「うう……」


 影雪かげゆきは、寝床でうめき声をあげた。


 ――とりあえず横になって休んでいてください


 舞姫まいひめにそう言われたので、やむなく床についているが、安静にしていても、腹痛だけではなく全身にひどい倦怠感があった。

 我慢していたが、実は何日も前からだ。


 完全な和食生活を送っていた彼の体は、突然切り替わった欧米型の肉食生活に激しい拒絶反応を示していた。

 筋トレと食事の繰り返しで、肉体強化自体はうまくいっていたが、それに反比例して、身体の内側がボロボロになってゆく。


 だが、それでもやめるわけにはいかない。

 

 試合に負ければ、舞姫が――あの麗しの君が「軟弱者の妻」というそしりを受けてしまう。

 自分が馬鹿にされるぶんにはいいが、彼女がほんのわずかでも嘲笑されるところを想像しただけで、腹を切りたくなってくる。

 

 早く鍛錬に戻らねば……。


「殿」


 何度耳にしても心地よい声が、彼を呼んだ。


 枕の上で顔を向けた影雪は、愛しい妻が白装束に身を包み、短刀を腹に当てているのを目にした。


「な、なにをしておる!?」


 がばり、と身を起こす影雪。


「お目覚めになられましたか。お加減はいかがでございますか?」

「わしのことはよい。それより、そ、そなた何を――」

「切腹の準備にございまする」


 あまりの事態に体の不調も忘れ、彼はあんぐり口を開いた。


 妻が自殺?


「いったいなぜ……」


 疑問に答える代わりに、舞姫はすっと彼になにかを差し出した。


 湯呑だ。

 中になにか緑色の液体が入っている。

 異様なオーラを放っており、正体は不明だが、本能的に危険な代物とわかる。

 

「影雪様、どうかこちらをお飲みくださいませ」


 彼は、顔を上げて妻を見たのち、もう一度目を落とす。


 ……………………え? 

 

 これは人が飲める物だったのか、と呆然とする影雪。


 無言で湯呑を手に取ると、表面に毒沼のごとく、ボコボコと泡が浮かんでいるのが見えた。


「『青ノ汁』と命名しましてございます。百薬にもまさる仙水にて、殿の御身もかならずや回復なさるかと存じまする」


 いやいやいやどう見ても猛毒じゃろ、と心の中で突っ込む。


「ただ、一つ注意点が」

「……とは?」

「飲むのに、若干の労苦を要するかと」


 解放した禁忌スキルには、レシピと効能の解説以外に、ご丁寧に歴代使用者たちの感想レビューもついていた。


 いわく、


『この世のものとは思えないぐらい、まずい』

『味がやばすぎて、一舐めで断念した』

『これを飲み干せるのは、十万人に一人だろう』


 などなど。


 これから飲む影雪に恐怖感を与えないよう、なるべくオブラートに伝えたわけであるが、それでも彼が戦慄しているのは、傍から見ても明らかだった。


「そ、それより姫、なぜ切腹の準備などを?」

「殿の御覚悟に殉ずるためにございます」

「………………?」

「先程のお言葉、舞は感服いたしました。夫が身を賭して物事に挑むのならば、妻も我が身を賭すのが甲斐性というもの。よって、この青ノ汁が殿、責任を取って腹を切りまする」


 ぽかーん、と口を開く影雪。


 …………これは要するにあれか? 『くそまずいけど、飲め。飲まなかったら、腹を切って自殺するぞ』という脅しか?


 影雪はふと、舞姫の背後に菊之丞きくのじょうが立っていることに気付いた。

 小姓の少年は刀を振り上げている。


「き、菊之丞! 貴様、乱心したか!?」

「いえ、舞姫様に介錯仕るよう、命じられましたゆえ」


 当惑した声ながらも、介錯ポーズを取り続ける菊之丞。

 

「いざという時にはよろしゅう頼むと、伝え済みにございまする」


 あまりの驚きに再びあんぐり口を開く影雪。


「さあ、殿! ずずいと」


 舞姫はそう叫びつつ、無意識に影雪が遠ざけていた湯呑を再び彼の眼前に寄せる。


「………………」


 影雪は湯呑を持ち上げた。


 顔に近づけるが、ゆら~りと揺れるヘドロ状の表面を見て、ぴたと手を止める。


 妻の顔を見た。

 彼女は真っすぐな瞳で彼を見返してきた。


 ――ええい、ままよ


 意を決して、ぐいと一口含む。


 …………………………………………………………………………んん? 

 なんだこれ、臭………………というか草!?


 青々とした苦りが口中一杯に広がり、というかまずいまずいまずいまずいまずい――――


 彼は、背を仰け反らせ、そのまま布団に倒れ込んだ。

 手足を駄々っ子のようにバタバタと激しく動かす。


 ――なんだこのまずさは。まず過ぎて、早く飲み込みたくても喉が拒絶して通らない…………やばい、息が苦しくなってきた…………


 彼は半ば無意識に四つん這いになる。


 ――もう駄目だ。吐き出そう


 半分白目を剥きながら、顔を仰け反らせるが、その時、偶然にも舞姫の姿が視界に映った。


 途端に混濁した意識が明瞭になる。


 舞姫は涼やかな瞳でこちらを見ていた。

 

 彼の醜態を馬鹿にするでもなく。かといって同情するでもなく。

 在りし日に、兄を殴り飛ばした時と同じく、凛とした眼差しを正面に向けている。自らの意志を貫くものだけの――


 影雪は、彼女が冗談や誇張ではなく、本気で腹を切るつもりであることを悟った。


――ッ!」


 気合一閃。

 口中の汁を一息に嚥下する。


 ついで、湯呑を手に取り、一気に残りを流し込んだ。


 ごくごくごくごくごくごくごくごく…………ごきゅ。


「ふしゅうぅ」


 たーんと湯呑を置き、口元を拭う。


 床の間に静寂が降りた。


「殿、お見事にございまする」


 ようやく短刀を下ろして、舞姫が言った。

 そんな彼女の手を、影雪はそっと両手で取る。


「舞よ…………成ったわ。すべてそなたのおかげよ」

「初めて名前で呼んでくださいましたね。嬉しゅうございます」


 手を握り合って熱く見つめ合う夫妻。

 なんかやばいところに奉公に来ちゃったみたいだけど、この先大丈夫かな、という顔で呆然と二人を眺める小姓の菊之丞。

 一連の事態に飽き、庭先で蝶々を追いかける侍女のイズナ。


 御前試合まであと二月。

 このあぶれ者一家の命運やいかに!?

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