第46話 俺が次期男爵と呼ばれていた頃 1



「グレイス様」



 …………チッ、またこいつか。


 振り返ると、侯爵の従者、チャールズが真っ直ぐにラビを見つめていた。

 侯爵の姿はない。こいつだけだ。


 ラビは、むっと眉間に皺を寄せた。


「あたしはラビだってば。何度言ったらわかるわけ?」

「……記憶のないフリをされているのは、侯爵様のためですか?」

「だから――――」

「侯爵様が倒れた時、貴方はあの御方のことを“お父様”と」


 チャールズがラビに近づき、俺が思わず前に出て遮ったところで、あいつはその場に膝を折り、頭を垂れた。


「本当に、本当に申し訳ございませんでした、お嬢様。僕は貴方に、許されない暴言を。その所為で貴方は――――」

「違う。……あんたの所為じゃない。そういうのやめて。面倒臭い」

「そういう訳にはいきません。どうか罰をお与えください」

「はあ? 罰って……」

「貴方からの罰は、なんなりと」


 ラビはやれやれと額に手を当てた。

 呆れているのかと思ったが、それにしてはどことなく、困った子どもに対する愛情のようなものを感じさせて、俺はますます苛ついた。


 最初からそうだった。ラビは、あいつに特別な感情を抱いている。愛情か、憎しみか、そのどちらもか。

 過去にこいつとの間で何かがあった。それだけは間違いないと、確信めいたものがあった。


「馬鹿ねえ、ほんとに……」


 ラビはチャールズの前に腰を下ろし、その頭をぽんぽん、と軽く撫でた。

 チャールズは驚き、やつれた顔を上げる。昨晩一睡もしなかったのか、目の下に濃い隈ができている。


「罰がほしいと言うなら、秘密にして。お父様には、このこと絶対に言わないで」

「…………」

「それだけでいい。そしていつかは、貴方も忘れなさい。もし自分を責めているなら、そんな必要はもうどこにもない。……貴方のおかげで、私の人生は悪くなかった。それは紛れもない事実よ」

「グレイス、様……」


 チャールズの目が泣きそうに歪む。


 頼む、早くそいつから離れてくれ。そう言いたくて堪らなかったが、どうしても今は二人の間に割り込むことができなかった。


 ラビは、困ったように眉を下げ、俺の知らない穏やかな笑みを浮かべた。


「……お姉様は、元気?」


 その言葉にチャールズは目を見開き、涙が一筋、とうとう頬を流れた。

 そのままラビを抱き締める気じゃないかと心配になった俺は、咄嗟に手が動いていた。


「そこまでだ」


 ラビの手を引き、チャールズから引き離す。

 随分空気は読んでやったんだ、もう充分だろう。


「行くぞラビ」

「? どうしたのそんなに怒って」

「ついてくるなよチャールズ! お前は二度とラビに近づくな!!」


 チャールズは何か言いたげに眉間に皺を寄せた後、唇を引き結び、ラビに向けて頭を下げた。


 ラビもチャールズも俺より年上で、二人は俺が知らない時間を、恐らく俺よりずっと長いこと共有している。まさか前世の知り合いなんて、そんないかにも特別そうな絆と、一体どうやって張り合えって言うんだ。敵う気がしない。それが……それが堪らなく悔しい。



 ……ああクソ。もう小さなガキじゃないと言ったばかりなのに。

 こんなに余裕がないんじゃ、ガキと変わらない。



「ギルバート」



 名前を呼ばれて顔を向けると、優しい顔のラビが――――顔かたちはまた随分と変わってしまったが――――俺の大好きな彼女が、そこにいた。


 何度彼女に助けられてきただろう。

 はちゃめちゃでむちゃくちゃで、小憎たらしいことも平然と言うけれど、素直で自由で豊かな発想を持っていて……



 愛おしい人。

 俺に、生きる希望と楽しみを、教えてくれた。



「ずっと、俺の傍にいてくれるんじゃ、なかったか?」



 思わず零すと、ラビは辛そうに顔を歪めた。泣きそうなその表情からは、彼女だって俺と同じ気持ちなんじゃないかって、俺と一緒にいたいって、そう思ってくれているんじゃないかって――――……そんな淡い期待を、抱かせた。




「…………約束、破っちゃいますね」




 ラビは、泣きそうな顔のまま俺から視線を逸らした。




「じゃ、あたし荷造りしますね~。すぐ発たなきゃいけないだろうし」

「ラビ」

「本いくつか持っていってもいいです? 男爵秘蔵のやつで気に入ったのがあるんですよね~、ここだけの話。神殿に入ったら取り上げられますかね?」

「ラビ……」


 彼女は、俺から逃げるように離れへ向かった。


 後を追うこともできたのに、その時はどうしてもできなかった。

 もしかしたら本当に、彼女は望んでいるのかもしれない。……美しい、安全な神殿での、悠々自適な生活。

 奴隷時代、彼女がどんな生活を送ってきたのか、俺は知らない。情報としてならば多少は知っているが……それを詳しく尋ねられるほどの無神経さはなかったし、掘り返さない方がいいことはある。

 俺は所詮、男爵家に守られてぬくぬくと育った身だ。彼女の本当の苦しみなんて、わかりもしない。死体を漁るしかなかった頃もあると言っていた。いくら自由であったとしても、そんな危険と隣り合わせの生活より、間違いなく神殿での生活の方がいいに決まっている。


 男爵家で解放奴隷と思われながら生活するより、俺とどこか遠くへ逃げるより、神殿で聖女と崇められながら守られる方が、彼女は幸せかもしれない。

 それが彼女の幸せだと言うなら、俺がするべきことは…………



「ッ………」



 俺は拳を握り締め、来た道を戻った。






 ――――あの時、どうして俺は彼女を追いかけなかったのか。

 追いかけて話をすればよかった。あの手をむりやりにでも繋いでいればよかった。


 

 まさかあんなことが起きるなんて、思いもしなかったんだ。

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