第7話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 4


 坊ちゃんの朝は遅い。


 睡眠を邪魔すると癇癪を起こすから、あたしは基本昼まで放置してる。

 朝食のゲロは部屋の前まで運ぶだけ運んで、その間あたしはくすねたお菓子を囓ったり、日当たりの良い庭でごろごろしたりする。

 この離れはあたしたち以外誰もいないから、そういう意味ではめちゃくちゃサボりやすい。 


 昼過ぎになったら厨房に向かい、昼食のゲロとくすねた林檎なんかをカートに載せて、部屋へ向かう。


 わざわざ声を掛けるのも面倒だから、最近は無言で部屋に入ってまずカーテンと窓を開けて、それから林檎を剥いておく。

 そこまで終えたら毛布を捲って坊ちゃんを抱えて、シーツを交換する。


「触るな。気持ち悪い」


 ぶすっとした顔であたしを睨んで、坊ちゃんはよろよろと床にうずくまる。

 ちょっと前までギャンギャン喚いていたのに、最近は随分大人しくなった。坊ちゃんの情緒も若干安定してきたのか、以前ほど部屋を散らかすこともない。

 野菜とフルーツは偉大だな。間違いなく。


 坊ちゃんの歯磨きを終えたら、不機嫌極まりない彼に皿を渡す。

 坊ちゃんが林檎を囓っている間に、浴室にお湯を運ぶ。

 少し温いくらいのお湯を溜めたら、薬剤を入れて坊ちゃんの部屋に戻る。


 薬湯を嫌がっていた坊ちゃんも、最近は少し慣れてきたらしい。薬湯に浸したタオルでそっと体を洗う程度なら、あまり痛みもないんだとか。

 本当は薬湯に肩まで浸からなきゃいけないらしいけど、こんな温いお湯でも彼の体には刺激が強すぎるらしい。


 勿体ないなとは思う。一応毎回浴槽たっぷりにお湯を入れてるのに、使うのはほんのちょっと。

 じゃあ要る分だけお湯を運ぼうかと思ったけれど、それだと冷たい浴室が温まらないと、坊ちゃんが却下。

 それならお湯を坊ちゃんの部屋に持ってけばいいや、どうせちょっとしか使わないんだしと思ったけれど、薬湯の臭いが嫌いな坊ちゃんは、自分の部屋にその臭いがつくのが嫌だとまたしても却下。


 うちの坊ちゃんは注文が多い。

 たぷたぷしたお湯に手を入れて、金持ちは贅沢だと憎々しくなった時だった。


「あ、あたしが入ればいいのか」

「は?」

「体によさそうだし。このまま捨てるのどう考えても勿体ないし」


 ラビとして生まれてこの方、あったかいお湯に浸かったことなんて一度もない。

 グレイスだった頃は何度も薬湯に浸ったことがあったけど。

 あれが最高の贅沢だったなんて、あの頃は思いもしなかった。薬湯の独特な臭いは苦手だったから。


「坊ちゃん大体拭き終わりました? じゃああたしが入ってもいいですよね!」


 坊ちゃんはあたしに触られることを極端に嫌がるから、体を拭くのも自分でやってる。白いローブを着たまま、器用に丁寧に。

 あたしはその間、坊ちゃんの傍で待機している。ほんとはこの時間も外で煙草でも吸ってたいけど、もし坊ちゃんが足を滑らせて怪我をしたらあたしの所為になる。


「よ~し湯船湯船。また湯船に入れる日が来るなんて! この時のために生きてた感があるわ」

「ま、待て! 何やってるんだお前!? おい!」


 あたしは窮屈なメイド服をさっさと脱ぎ捨てて、勢いよく湯船にダイブした。

 お湯が溢れる。

 贅沢すぎて涙が出そう。


「ああ……もうちょっと熱くすればよかった。でも充分気持ちいいわ。はあ~~」

「こッ、ここここッ、この変態!!! おい誰か!! 誰かいないのか!!」

「ざ~んねん。この離れにはあたしと坊ちゃんしかいませんよ~。まあまあ、そうカッカせずにのんびりしましょ。ちょっとだけちょっとだけ。あ、石けん取ってくれます~?」

「クビだ!! お前みたいな破廉恥なのは絶対クビだ!! クビにしてやる!!」

「あたしがクビになったらまたあのゲロ生活に逆戻りですよ? それでもいいんです~?」

「くッ……」


 坊ちゃん、耳が真っ赤っか。

 あたしから顔を逸らして、それはそれは悔しそうにしてらっしゃる。


 あたしはちょいちょい、と手を伸ばした。


「ねえねえ、石けん取ってくださいよ。あのお高い石けんで体を洗いたいんですけど」

「ッ……好きなだけ洗えばいい! ほら!」


 坊ちゃんは乱暴に石けんを掴んで、後ろ向きのまま私の方へ投げた。

 投げられた石けんが、お湯の中にぽちゃんと沈む。


「ありがとうございます~坊ちゃんって優しいんですねえ」

「はああ!? 馬鹿言うな!! 優しいとかじゃない!!」


 適当に言っただけの台詞に、坊ちゃんはますます耳を真っ赤にして頭から湯気を出していた。

 そんなに照れるなんてね。優しいって言っただけなのに。可愛いところもあるじゃない。

 あたしは拾った石けんで泡を作りながら、坊ちゃんをからかった。


「メイドのために石けんを取ってくれるなんて、まるで王子様みたい。愛してますよ坊ちゃん」

「こッ、これくらい誰でもできるだろ!! 思ってもないことを言うな!! ッああもう!! 僕は出る!! こんな無礼なメイドは生まれて初めて――――」

「いつか一緒に入れるといいですねえ」

「!?」

「ほら、あたしたちずぼらなところとか似てるし気が合うと思いません? 坊ちゃんがいい男になったら、その時はあたしが愛人になってあげますよ。そしたら一生安泰ですねえ」


 泡を飛ばしてにやにやしていると、坊ちゃんはぷるぷる震えて、赤鬼みたいな顔をこっちに向けた。

 どんな罵倒が来るかな。そう思って待ってみたけど、坊ちゃんはなかなか口を開かない。ばかりか、真っ赤だった顔色から、静かに色が引いていく。


 あれ?


 あたしは首を傾げた。

 怒ると思ってたのに、坊ちゃんの様子はどこかおかしい。


「どうかしました?」

「お前は……」


 長い睫毛がぷるぷると震えている。

 何かを恐れるように、怖がるように。


「お前は、僕が、大人になれると、思うのか?」

「え?」


 泣きそうな顔だった。

 坊ちゃんは、今までで一番、怯えた顔をしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る