くもりの太陽

棚霧書生

くもりの太陽

 太陽くんが六年生の三学期に突然、転校した。その衝撃的なニュースは小学校中を瞬く間に駆け巡った。太陽くんは人気者だったから当然だろう。スポーツができて、頭も良くて、きらきらに輝いて見える笑顔を浮かべる……ついでにまあまあイケメンで、彼のことを羨んだり嫉妬してたり苦手なやつはいても嫌いなやつは一人もいなかったんじゃないかと僕は思っている。

 いつも人の輪の中心いた太陽くんが誰にも転校することを伝えていなかったのは不思議な気もするが、なんとなく太陽くんっぽいなって感じもした。太陽くんはみんなと仲が良かったけど、特別に付き合いのある子はいない、みんなの太陽くんって雰囲気だったから。

 僕はクラスではあんまり目立ってないタイプだから、太陽くんとはちょっと話したことがあるだけで、親しかったかと言われると微妙。だけど、彼の転校の知らせに僕の胸はざわついていた。自分でも意外なほどに心臓が嫌ぁな脈打ち方をしていた。吐きそうってほどじゃないけど、顔色にも出ないけど、ずっと体の中で砂嵐が起こってるような気持ち悪さ。なんでかなって思った。こんなに太陽くんのことが引っかかるのは。

 自分に問いかけると太陽くんに関する記憶が自動的に頭の引き出しから引っ張り出される。あれ? って思ったのは、五年生に上がってすぐのこと、校庭でクラス全体の写真撮影があった。よく晴れていて天気の良い日だった。出席番号順に三列に並んで、カメラマンさんに撮ってもらっていた。僕の名字は織田で、太陽くんは尾崎だったので隣同士。一番前の列の端っこに僕らは立っていた。撮影は順調に進んで、ハイ最後の一枚です、となったときに事件は起こった。スプリンクラーの誤作動で校庭に水が撒き散らされた。そして、運悪く僕と太陽くんは水を浴びてしまったのだ。スプリンクラー事件の被害者は僕ら二人だけで大したことにはならなかったのだけれど、写真撮影の後も授業が控えていた濡れた服のまま受けるわけにもいかないということで、担任の先生が体操服とジャージを貸してくれた。

 僕らに貸し出されたそれはどうも卒業生がそのまま置いていったもののようで、黄ばんでいたり色がくすんでいたりした。これって、ちゃんと洗濯とかしてあるのかなとちょっぴり気になった僕は、同じ空き教室で着替えていた太陽くんのほうを振り向いた。ねぇ太陽くん、と気軽に声をかけた。彼はちょうどぐっしょり濡れた肌着を脱いで、体操服の上を着ようとしているところだった。そのとき僕は何を言おうとしていたか、忘れてしまった。太陽くんの背中に無数の切り傷のようなものがあって、なんだあれはと思考を取られてしまったからだった。

 太陽くんは少し体をひねって、流し目に僕を見た。白い体操服ですぐに太陽くんの背中は隠される。僕と太陽くんの間に気まずい空気が漂った。と思ったのも一瞬のことで、次の瞬間には太陽くんが軽い調子で、キャッ! 人の着替えをじっと見るなんて織田くんのスケベッ! と言った。僕は慌てて、見てない見てないよ! と反論した。その後、僕は最初に言おうとしていた他愛ない話題を思い出して、それを口に出した。そのときは、それで普通の空気に戻ったのだ。太陽くんはいつもの太陽くんで、明るくて笑顔の似合う人だった。

 僕はスプリンクラー事件の後、太陽くんのことをあれこれ考えた。どうやったら、背中に無数の切り傷を負うことになるのだろうかと。あれは日常生活ではありえないケガの仕方だった。

 太陽くんの背中の傷を見てから、思い出すのは体育の授業のことで。太陽くんは三年生頃から水泳に参加しなくなった。塩素アレルギーがひどくなったから参加できなくなったと本人が言っているのを聞いたことがある。本人の自己申告だけで水泳の授業が免除されるとは思えないから、きっと親御さんからも先生に働きかけがあったはずだ。水泳以外の授業では、初めから下に体操服を着てきているからみんなより着替えがすごく早いのも僕の中では疑念を深めた。僕の思考はネガティブなほうへ向かっていった。

 太陽くんって、もしかして虐待されてるんじゃないか。

 僕は悩んだ。なにか太陽くんにしてあげるべきなんじゃないかと思った。でも、太陽くんとすごく仲がいいわけでもないのに、彼に直接、虐待されて困ってない? なんて聞けなかった。僕は迷って迷って結局、担任の先生に話してみることにした。先生には、僕の勘違いかもしれないけどと前置きしてから、太陽くんの背中の傷のことを教えた。先生は、ああわかった、話してくれてありがとう、あとは先生に任せてくれれば大丈夫だからな、と言ってくれた。そこから、先生が具体的になにかしたのかは知らない。でも、相変わらず太陽くんは体育のある日は普段着の下に体操服を着てきていた。六年生になってからの水泳の授業もやっぱり塩素アレルギーということで、不参加だった。

 僕はときどき太陽くんを盗み見るようになった。虐待の可能性は先生に伝えたんだから、もういいじゃないか、僕が気にすることじゃない。そう思っていても、目で追ってしまう。そんなことを続けていたら、ふとした拍子に太陽くんとバチッと視線がぶつかることが増えた。ヤバ、また目があっちゃった、そろそろやめないとキモいと思われるかも……。しかし、僕の心配はよそに太陽くんは僕と目があうとにっこりと微笑んでくれた。実際に彼がどう感じていたのかはわからないが、僕は太陽くんのことが前よりも好きになっていた。

 あるとき、僕はクラスみんなの国語のノートを職員室まで持っていく機会に恵まれた。恵まれたというのは、偶然職員室で担任の先生とふたりきりになり太陽くんの虐待の件について聞くのにこれ以上ないベストなタイミングだったのだ。先生は、ああ、と気の抜けた声を出して、大丈夫だった、と言った。虐待があったのかなかったのか、よくわからない言い方だなと思ったのを覚えている。食い下がろうとしたところで、大量のノートを抱えた生徒が職員室に入ってきた。その子は僕と太陽くんと同じクラスの子だった。僕と同じように別の教科のクラス全員分のノートを運んできたのだ。僕は即座に口を閉ざした。クラスの人気者、太陽くんが虐待されてるかも、なんて噂は立ってほしくなかったし、その発信源が僕になってしまったら堪えられない。太陽くんに申し訳が立たない。

 モヤモヤした気持ちのまま家に帰って、夕飯を食べているとお母さんに様子がおかしいことを見抜かれた。僕はまた迷ったけれど、お母さんにも太陽くんのことを話した。お母さんは眉を寄せて心配そうに話を聞いていたけれど、先生には話したの? と聞かれて僕が頷くと安心しきった様子で、じゃあ大丈夫ね、と言った。

 本当に、本当にそれで大丈夫なんだろうか。

 頭にいっぱい疑問符が浮かんだ。けれど僕は大丈夫だと思うことにした。だって、僕は先生に太陽くんのことを話したし、その先生は大丈夫だったと答えたのだ。お母さんも大丈夫だと言っていたし……だからきっと大丈夫なのだ。もう考えるのはやめにしよう。それから僕が太陽くんを目で追うことはなくなった。

 誰にもなにも言わずに卒業直前で転校していった太陽くん。僕は彼と友だちと言えるほど親しかったわけでもなく、ただのクラスメイトのひとりとして太陽くんの記憶には刻まれているだろう。何年かしたら僕の顔も名前も彼の中ではあやふやになって、もしかしたら完全に忘れられてしまうかもしれない。

 でも、僕はきっと太陽くんのことを忘れられない。あの陽だまりのような笑顔を。彼が大丈夫だといい、と僕はお天道様に勝手に願っている。

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