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「すみれちゃんは、好きな人とかいるの」

 いきなり自分に話が振られて、戸惑う。

「私は、いないよ」

 うっそ、と周りの女子たちが口々に言う。僕の心の中に本田真仁の顔がちらついて、胸が痛む。

「そういうの、興味ないし」

 うっそお、と余計に周りの声がでかくなった。興味ないわけがないのだが、これくらい言っておかないとこれからもしつこく女子の恋バナに巻き込まれることになる。何度も嘘をつき続ける体力も僕にはない。

 適当に質問をかわしているうちに話題は別のことに移った。僕は自分の席に戻って適当な本で顔を隠し、授業が始まるのを待つ。

 次の授業が数学で、次の次は体育だ。更衣室と、女子に紛れてやり過ごすバスケを思うと、心底嫌になる。

 いつまでも体育が始まってほしくない。でも早く帰りたい。複雑な気持ちで廊下の方を見た。本田真仁は、いない。

 本に目を落としてため息をついた。伸ばした髪が肩あたりではねてうっとうしい。昔はもっと短くて楽だったのに。好きでこの髪型をしているわけじゃないのに。


 昔から、自分の心だけがずれていく感覚があった。

 中学入学のとき、制服のスカートをはいて嬉しそうな女の子たちの中で、自分は、スカートをはいて鬱々としていた。女子の友達が甲高い声でおしゃべりする中、僕は自分の高い声が嫌いで黙りこくっていた。バレンタインも、学校の体育も、プールも、恋バナも、いつの間にか女子の側にいる自分が大嫌いだった。

 でも、自分が男になれるわけなどないのだとも知っている。

 どんどん女性になっていく自分の体に焦って、いつか心まで女になれたら、なんて思ってみる。自分の体が女で、服装も女なら、心もそれに合わせられればいいのに。そうすれば「普通」になれるのに。それでも、「女の自分が大嫌い」という感情は変わらないのだ。

 女性として、大人になる。男性と結婚して、家族を持つ。そんな当たり前の幸せがこないのは、自分の心のわがままのせいだ。だから、ずっと自分の心を恨んでいた。

 心だけ死ねばいいい。心だけ抜けた空っぽの体で笑顔を作って、家族や友達が安心するなら、それが一番いい。


 本田真仁との出会いは、そして、彼を好きになってしまったことは、そんな腐りきった心に春の風を吹き込んだ。

 「恋」の文字がでかでかと頭の中に浮かんで、横に「普通の」とつけたした。普通の恋。その言葉の響きが、はしゃぎたくなるほどうれしい。普通の、恋だ。ごく普通の。そこらへんに咲いてる野花みたいな。いや、そこら辺に落ちてる石ころみたいな、「普通」。

 この心が、「普通の恋」ができるくらいの心なら、生かしてやってもいいと思った。僕は、いや、わたしは、この恋をきっかけに「ちゃんとした女子」になる。そんな夢みたいな妄想が体の中を駆け巡った。


 実際はそんな甘いものではなく、自分の心なのに思うように動かない。体育も女子のグループもいつも通り嫌だったし、「好きな人ができた」なんて誰かに話す勇気もない。

 それでもときおり彼を視界の端でとらえたりするとき、廊下ですれ違ったりするとき、胸が躍る。自分はその瞬間だけは「わたし」で、「女の子」なのだと思えた。


 数学の授業は、何も頭に入らないうえに異様に長い。チャイムが鳴ると同時に男子たちが騒いで階下の更衣室へ向かい、僕はその後に続いた女子集団のさらに最後尾について行った。


 更衣室へ入ったら速攻で着替えて校庭へ出る。まだ前の授業の生徒が何人か残っていた。

 その中に、本田真仁がいる。体育の先生と何やら話して、大声で笑って、こっちを見た。目が合った。彼は一瞬驚いたような顔をして、それはすぐに笑みに変わった。ぎこちなく笑い返して、恥ずかしいからその場をすぐ通り過ぎる。不自然なほどうつむいてしまったのが、少し残念だった。もっと彼の顔を見ていたかった。

 恋って、いつも宙ぶらりんにされてるみたいだ。もっと近くにいたい。もっと姿を見ていたい。でもいつだって幸せは一瞬で、会えない時間の方が長くて、ずっと期待して待っていると心が宙に浮いている感じがする。

 小さいため息で浮足立った気持ちをしずめて、校庭の隅の方に集まる女子群に加わった。やったーバスケだ、とバスケ部の女子の声。女子ばっかり隣のクラスと合わせて三十人くらいがだらだらと列を作る。

 準備体操。パス練、シュート練、ゲーム。女子グループの仲良しこよし和気あいあいムードに溶け込むかどうか。迷って迷って、いつも中途半端な位置にいる。話しかけてくれたら大体ちゃんと返すけど、自分から声をかけるようなことはしなかった。

 僕のチームの女子たちが唐突に本気になり連係プレーを始めた時だった。わいわいと盛り上がっているところについていけず、集中がふっと切れた。

 左手に衝撃があって、気づいたらうずくまっていた。指がじんじんする。「大丈夫?」と駆け寄る女子たちに「ただの突き指だから」と笑って返す。ゆっくり立ち上がって、体育教師に怪我をしたと伝え、保健室へ向かった。

 バスケコートの一角から抜け出すと、校庭が広がった気がした。もうあの集団の中にいなくていいという解放感。本当よりも痛いふりをして、わざとゆっくり歩いた。初夏の空は、校庭よりももっと広い。


 保健室のドアをノックする。

「今、先生いないよ」

 一瞬、肩がびくっと震えた。聞こえてきたのは、本田真仁の声。

「入って、いい?」

 自分の声が、うわずっていつも以上に高くなる。いいよ、と彼の声が小さく聞こえてから、ゆっくりドアを開けた。

 彼は、ソファの上で眠たそうな目をしていた。ブレザーを脱いで、ネクタイを緩めている。いつもはずっと背筋を伸ばしているようなイメージだったから、そのぐったりとした姿勢だけで体調不良だな、と分かった。

「ちょっと頭痛が痛くて」

 本田真仁は、力なく笑う。頭痛が、痛い。冗談なのか、笑っていいのか迷っている間に沈黙が過ぎる。外からは男子がサッカーをやっているうるさい声。

「石崎さんは?隣座る?」

 訊かれてうなずいてからソファに腰掛けるまでがスローモーションみたいだった。彼をそのまま見ることができずに、ずっと床を見て移動していた。ソファのやわらかさにため息が出る。

 石崎すみれ。彼も僕の名前を覚えてくれていたのだと思うと、うれしさが後からやってきた。

「バスケで突き指しちゃって。試合中にぼーっとしてたから」

 そっか、と彼がつぶやく。僕と彼は、大きすぎるソファの上で微妙な距離をはかっている。

「本田君、は大丈夫?」

「うーん、休んだら授業戻ろうかな」

 そっか。ずっと遠くから彼のことを見ていて、憧れていて、いざ近くになったら何も言葉が出てこない。

 彼が、思い出したように立ち上がる。

「なんか冷やすやつ作ろうか」

「いや、そんな。いいよ、本田君こそ頭痛じゃん」

「いいのいいの。突き指は速く冷やした方がいいから」

 彼が、冷蔵庫から勝手に取り出した保冷剤をタオルにくるんで渡してくれる。渡されるときにはなんだか緊張したけど、彼のやさしい手つきに思わず笑顔がこぼれた。ありがとう。どういたしまして。彼と話す一言一言を、ガラスケースに入れてとどめておきたい。

「本田君って、優しいね」

 何か言わなきゃと思って必死に出した言葉がそれだった。小説やアニメのヒロインだったら簡単に言ってしまえる言葉。人をほめているだけなのに、その相手が好きな人となると急に難しくなる。そうかな、と彼が小さい声で照れるから、そうだよ、とはっきり返した。今度はありがとう、とはっきり聞こえた。

「だいぶ前に理科の問題集運ぶの手伝ってくれたの、覚えてる?」

 また何とか話題をつなぐ。

「うん、覚えてるよ。落ちて散らばってて、大変そうだったから」

「拾ってくれただけじゃなくて、教室まで運んでくれたよね。それってやさしいなーって」

 自分には似合わないかもしれないけど、誉め言葉を並べてみる。話してて楽しいって、彼に思ってもらいたい。

 そんな淡い気持でいたら、「石崎さんって結構しゃべるんだね」と真顔で言われた。さらに「いつも静かなイメージがあったから」と付け足される。コミュ障なのがばれた、とちょっと落ち込む。でも、「いつも暗いイメージ」と言われなかったことで、何とか平静を保った。

「たしかにそうかも。人の話を聞いてる方が好きだから」

 ふーん、という薄い反応をされて、コミュ障の言い訳としてはかっこつけすぎた、と後悔した。

 チャイムが鳴る。

 どちらともなく立ち上がって、教室へ向かう。五組の彼の教室の前で手を振って、別れる。

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