異界

「(な、にあれ……!?)」


 困惑の余り、頭の中で疑問の言葉を由美は呟く。

 次いで大急ぎで近くの木陰に身を隠し、恐る恐る、顔を出して目にしたものを確かめる。

 ……見間違いを期待していた由美だったが、そこにいたのは間違いなく肉塊の怪物だった。それも複数体。いずれも盛り上がった肉に人間の顔が埋もれたような、おどろおどろしい姿をしている。その手には煌々と輝く松明を握っており、仲間同士で何かを話すようにぼそぼそと声を鳴らしていた。

 いや、薬物の所為で幻覚を見ているなら、あれらの正体は普通の人間だろうか? 松明に見えるものも、懐中電灯の類かも知れない。しかし薬物を扱っていたであろう人物も肉塊のような姿をしていた。ならば今目の前にいるのは薬物中毒者達で、それがこの場に集まっているのか?

 自分の目が信じられないがために、今見えている肉塊に助けを求めるべきかどうか迷う。そのため由美は一旦注意深く観察する事にした。

 肉塊の怪物の数は、全部で七体。服などは着ていないが、腐敗した汚物のようなものを纏っている。もしかするとそれが服代わりなのだろうか。

 そして怪物の手には、細長い何かが握られていた。

 何かは一見して、肉塊のように見える。しかし注意深く観察してみれば、妙に角張った印象……木の棒のようなものに見えた。放たれる光はゆらゆらと揺れていて、炎のようだ。

 光は炎だろうか。炎が炎のように見えない辺り、やはり幻覚の症状が出ているように思える。しかし肉塊の怪物は、肉塊の怪物のまま――――

 いや、少し違う。

 最初に見た怪物よりも、顔や身体の輪郭が人間的な見た目をしていた。表面の肉はぼこぼこと膨れ上がっているが、腰や胸、太腿や二の腕などが確認出来る。より人間的な姿は、むしろ不気味さを引き立てていた。


「(な、何あれ……)」


 果たしてあれは肉塊の怪物の仲間なのだろうか。それともあれも幻覚で、実は人間なのだろうか。

 由美は隠れながら未知の存在を観察していた、つもりだった。しかし訓練されたスパイなら兎も角、一般人である由美に気配を消すなんて真似が出来る訳もなく。

 うっかり、無意識に動いた足で枝を踏み抜いてしまった。


「わひゃっ!? …………………………あ」


 そして自分の出した音に驚き、大きな声を出してしまう。しまった、と思った時にはもう手遅れ。

 肉塊の怪物達七体全員が、由美の方をじっと見つめてきた。

 見付かってしまった以上、今更隠れても意味がない。由美は恐る恐る木陰から身を出し、愛想笑いを浮かべながら肉塊達こと恐らく人間達に歩み寄る。


「……うぶ、お、おぼぽぼぽ、うぶぉ」


 一体、いや、一人が肉に埋もれた顔から発したのは、言葉とは言えない呻き。

 その呻きに驚いて由美が立ち止まった、瞬間怪物の一体がその手に持っていた棒を由美の方に向けた。


「うぼおごお、おぽおぽぽ」


 そして悲鳴とも怒号とも付かない、不気味で身の毛がよだつ叫びを上げた。

 まるでそれを合図とするかのように、怪物達は由美の方に迫ってくる。

 幻覚で怪物のように見えているだけで、彼等は自分の事を助けようとしているのではないか?

 由美の胸にまず込み上がったのは、楽観的な発想。だがこれは間違いだったと即座に考えを改める。怪物達の動きはじりじりと迫ってくる動きは、助けようというより追い込んでいるように見えた。

 それが誤解でない事は他六体が左右に展開し、包囲した状態を作り出そうとしている事から確信出来る。普通の人がこちらを助けようとする時、包囲なんてする訳がない。

 このままでは捕まってしまう。

 そう思ってすぐに走り出せれば良かったが、恐怖に支配された頭では咄嗟の判断など出来ず。摺り足で後退りするのが限界だった。しかし由美の必死の抵抗を嘲笑うように、怪物達は着実に包囲を狭めてくる。

 本当に不味い。逃げないと殺される。そうは思えども由美の足は動かない。怪物達はどんどん迫り、いよいよその手が由美を掴もうとする――――


「ピキヤァア!」


 間際に由美が我を取り戻せたのは、不意に聞こえてきた叫び声のお陰だった。


「ひゃぁ!?」


 想定外の驚きによって恐怖が吹っ飛び、思わずその場から跳び退く。

 声の主は草むらから現れた、大きさ十センチほどの『何か』。普通の森であればネズミか何かだろうが、此度出てきたのは普通の生物ではない。

 ぶよぶよとした、肉塊だ。肉塊には足が五つ生えていて、もぞもぞと蠢く。到底素早く動けそうにはないが、どういう訳かその肉塊は猛烈な、少なくとも由美には捕まえられそうにない速さで地上を駆けていた。それこそネズミのようなスピードである。

 恐らく先の鳴き声は、この小さな肉塊が上げたのだろう。いくら不気味な肉塊とはいえ『小動物』なのだから、由美が近付いてくれば怖がって悲鳴の一つも出るかも知れない……冷静であればそんな考え方も出来た。しかし今の由美はパニック状態。小さな生き物の気持ちなんて考える余裕はない。むしろ自分の方が被害者だと言わんばかりに大袈裟に後退していき、

 背後にあった『段差』に足を取られてしまう。


「え、ぎゃぁ!?」


 再びの、今度は物理的な予想外。由美は受け身も取れず、間抜けな声と共に段差から転がり落ちてしまう。段差の先は斜面になっていて、ごろんごろんと二回ぐらい身体が後ろ向きに回転していく。茂みに身体が突っ込み、枝葉が肌を鋭く叩く。

 かなりの距離を転げ落ちたが、幸いにして大きな怪我はしなかった。とはいえ周りの草などで肌が切れ、背中を打った時にはかなりの痛みが走ったが。しかし藪の中を転がり落ちた事で見失ったのか、先程の肉塊の怪物達はすぐには追ってこない。

 逃げるならば今のうちか。

 人間かも知れない相手から逃げ出す事に、一瞬躊躇いを覚える。だがその躊躇いを由美は首を横に振って捨てた。本当に人間だとしても、こちらをいきなり包囲してくるような輩だ。捕まったら何をされるか、分かったものではない。


「に、逃げなきゃ……!」


 確かな事は一つもない。だが確実に言えるのは、此処で棒立ちしていたら連中に捕まり、きっと酷い事をされるであろう事。それだけは嫌だと立ち上がり、由美は全力で走り出す。

 しかし転がり落ちた事で、自分が今何処にいるかも分からなくなっていた。


「(どっちが麓!? ええっと、こ、こっち……!?)」


 麓はどちらか。考えても答えは出ない。足を止めて考えれば少しはマシな答えが出せたかも知れないが……怪物に追い付かれるかも知れない恐怖の中、冷静さを取り戻せる訳がない。

 いや、それでも走り続ければ、疲れから興奮も冷めてくる。普通ならば数分も全力疾走すれば全ての感情が色褪せていく。静かな感情は冷静さを呼び起こし、考える力を取り戻す助けとなっただろう。

 しかし由美はそうならなかった。

 何故なら走れば走るほど、彼女の周りを取り巻く景色がおどろおどろしいものに変わっていったのだから。


「な、なに、これ……!?」


 由美は戸惑いを露わにした声を漏らしながら、顔を激しく左右に動かす。

 今まで由美は森の中を走っていた。

 植物の種類なんて詳しくないが、普通の木々が茂る、夜独特のおぞましさを除けばあり触れた森だ。なのに今はどうだ?

 地面に生えていた草の代わりに、醜く爛れた人間の手のような肉塊が生えている。手は生きているのか、ぐねぐねと揺れ動く。まるで獲物を求めているような……その感覚が正しい事は、手の中心にある人間的な口、口の中にある剣山のような歯が物語っている。

 樹木も消え失せ、代わりに現れたのは溶けた人間の遺体のようなもの。直立した体勢で遺体と呼ぶのも奇妙だが、生きているとは到底思えないほどに腐った様相をしていた。腐臭などは感じられなかったが、時折ぼこぼこと表面が蠢く。そして頭の部分からは、髪の毛が広がったような枝葉が展開されていた。

 そして大地も変性していた。もう足下にあるのは体重を支えてくれる土ではない。腐肉のような見た目をした、ぶよぶよとした感触のものだ。極めて走り難い。何より気持ち悪い。


「(なんなのこれ……!? なんなの、なんでこんな……!?)」


 変な洞窟を潜っただとか、地面に開いた大穴に落ちたとか、空間の歪みに飛び込んだだとか……そのような『きっかけ』があれば、此処が異界の類だと思えただろう。だが実際には、奇妙な道を通った記憶なんてない。

 強いて言うなら崖から転がり落ちた時ぐらいだが、あれは本当に転がっただけ。落ちた直後になんの変化も見られなかった。走っているうちに景色が変わったのだ。

 これも幻覚なのだろうか? そう思おうとしたが、しかしもう納得出来ない。幻覚なら足裏でぶよぶよと感じる弾力はなんなのか。あの怪物は何故自分を襲おうとしたのか。幻覚ではないのなら、此処は一体何処なのか――――

 答えは得られず。今や由美に出来るのは、宛もなく走る事だけ。


「ひっ、ひっ、ひぁぅ」


 がむしゃらに走る。息が切れても、胸が痛くなっても、手足が千切れそうになっても、由美はひたすら走り続けた。

 もう、周りには木どころか草も生えていない。並ぶのは不気味な肉塊ばかり。地面はぶよぶよとした肉の塊で、踏むと背筋が震える不気味な質感が伝わってくる。

 やはり幻覚じゃない。幻覚がこんなハッキリした感触を持つ筈がない!

 怖い。

 気持ち悪い。

 どうしてこんな事に。

 助けて。

 頭の中に次々と浮かぶ言葉。本当は叫んでしまいたいが、走り続けて息の乱れた喉と肺にそんな余裕はない。走って走って走って走って走って走って……それで何処に辿り着くかも分からないが、走り続ければに行ける。そう信じなければ心が持たない。


「(ああ、でも、この山の外にあるのって、一体何……!?)」


 ふと脳裏を過ぎった、考えられる『最悪』。

 その最悪の予感が正しいかどうかは、間もなく明らかとなる。


「はっ、ひっ、ひっ……あ、明かり……?」


 走っていた時、不意に肉と肉の間に光が見えた。

 最初は目の錯覚だと思った。しかし何度も何度も見えた事で、そうではないと分かる。

 ならば怪人が持っていた焚き火か。そうかも知れないが、しかし見えた光は炎のような揺らめきを持っていない。蛍光灯や街灯のような、人工的な輝きに似ていると由美は思う。

 もしかすると人間がいるのではないか?

 あくまでも願望。しかしその願望以外に縋れるものもない。

 由美は殆ど無意識に光のある方へと走っていた。きっとそこに人間がいて、助けてくれるかどうかは兎も角、話が出来るのだと祈って。

 だが、勢い良く森を出た彼女が漏らした言葉は。


「……………え?」


 呆気に取られ、そして抱いていた希望が一欠片も残っていない声だった。

 空は赤く染まっていた。

 夕焼けだろうか? いいや、違う。まるで固まりかけた血のような、濁った赤さだ。おまけに空にある無数の煌めきは、いずれも黒い。黒い光なんて、今まで見た事もない。先程見た目だらけの景色よりはマシだが、不気味な事には変わりない。

 そして目の前に広がるのは、無数の肉塊。

 五メートルはあるだろう巨大な肉塊がずらりと並び、地面はぶよぶよとした肉塊が敷き詰められていた。何故か一部が青く光っている細長い肉塊が何本も立ち、半固形の粘液が細長い肉塊との間に垂れ下がっている。肉塊の塀があり、巨大な肉塊を一定の範囲で区切っているようだ。

 そしてその肉塊の前を、幾つもの肉塊怪人が行き交う。


「ぶぢ、ぶぢぅ、ぷじゅぢゅぅぅ」


「ぶじゅうぅ。じゅぷぅぅ……」


 肉塊怪人達の一部が由美の存在に気付く。しかし襲い掛かる事はなく、遠巻きに見ているだけ。まるで怯えるように身を震わせているのが、あたかも人間の真似をしているようで一層気持ち悪い。

 やがて、やたらと恰幅の良い一体が由美に歩み寄ってきた。


「ひっ!?」


 あまりの事に唖然としていたのも束の間、怪人に近寄られて由美の心に恐怖が湧き出す。今まで遭遇した怪人はどれも敵対的。近付かれて、何もされないとは思えない。

 なんとかして、自分の身を守らなくては。


「う。うぅ……!」


 咄嗟に、由美は近くにあった細長い肉塊を掴んだ。そして両手で握り締め、構える。

 肉塊の表面は柔らかいが、中に骨があるのか芯はしっかりしていて、曲がらず真っ直ぐに伸びている。これなら棒として十分使えそうだ。

 怪人相手に何処まで効果があるかは分からないが、棒を構えた姿を見た怪人達は怯えたように後退りしている。こんな肉塊でも、向こうにとっては恐ろしい『鈍器』のようなものらしい。

 これで叩けば殺せる、というのは流石に怪人を見くびり過ぎだろう。だが怪我を負わせれば、逃げる事ぐらいは出来る筈。

 一か八かの勝負だが、やらなければきっと生き残れない。


「う、わ、わああああああああ!」


 渾身の力を込めて、由美は肉塊の化け物目掛けて走り出した

 瞬間、ぶじゅっ、という水音が響いた。

 なんの音だろうか? そう思ったのも束の間、胸に激しい痛みが走った。思わず目を向けてみれば、胸の中心に小さな穴が空き、そこからどろどろと青白い液体が溢れている。


「(何、この、青い、の……)」


 液体を認識した途端、身体から力が抜けた。ばたりと頭を地面に打ち、だけどその痛みを殆ど感じない。そして身体に上手く力が入らなくなる。

 目だけは動かせたので、ぐるぐると周りを見渡す。肉塊の怪物達は遠巻きに由美を見つめ、何かを話し合うようにぶるぶると震え合う。

 その中の一体、恰幅の良い肉塊が、手に持っていたどろどろの肉塊をこちらに向けている。

 肉塊の先端からは濛々と紫色の煙が立ち昇っていた。それだけでは肉塊の正体は分からなかったが、されど構え方から一つの答えに辿り着く。

 銃だ。

 怪物は、銃を撃ってきたのだ。まるでモンスター映画の警察官が、怪物を退治しようとするかのように。胸から出たものは、どうやら自分の血のようだ……何故青いのかは、さっぱり分からないが。


「……やっぱ、銃は、ズルいなぁ」


 人間に退治されるモンスターの気持ちを、ほんの少しだけ理解する。

 その思考を最後に由美の意識は暗転。

 もう二度と、彼女が明るい景色を見る事はなかった。

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