12





 へえ、と相手は笑った。

『まさか本当に引き受けてくれるとはね。いやあ助かった助かったー』

「…何が助かっただ」

 あまりにも心のこもっていない感謝の意に大塚は顔をしかめた。どうせ相手には見えないのだから、気にすることはない。

『でも急にどうした、あんなに嫌がってたのに。やっとやる気でも出て来たのか』

「そんなもんははじめからねえよ」

『ふーん…、まあこっちは助かるから何でもいいけどな』

 古くから互いによく知っている間柄だった。普段よりもずっと砕けた口調になるのは、もう仕方のないことだ。遠慮なく自分をさらけ出せる相手は貴重だと、ここ数年で嫌というほど思い知っている。

『じゃ、ま、よろしく頼むわ。あー鍵はおまえんちのポストにもう入れてあるから、またな』

「おい、いつの間に──」

 驚いて声を上げると、相手は──田野口は早々に通話を切った。

 くそ。

 舌打ちをして大塚もスマホを手放す。昔から食えないやつだったが、何年経ってもそういう本質みたいなものは変わらないらしい。

 しかし、自分の言動ほど分からないものはない。

「……」

 テーブルの上にはカップがふたつ。さっきまでいた冬が使っていたものと自分のもの。そしていつものようにメモ用紙がある。

 大塚は軽くため息をつき、カップをふたつまとめて持つとシンクに入れ水を出した。サッと洗いシンクの横に置く。

 どうしても冬と、もっと関りが欲しいと思ってしまったのだ。

 家に連れてきて介抱し、起きる頃合いを見て朝食を買いに出た。一緒に買ってきたものを食べ、話をし、打ち解けても、彼が帰ってしまえばそれで終わる。そこから先を繋いでいくには、ああ言うしかなかった。

『行くところが見つからないなら、俺が診るよ』

 もっと話をしたい。

 もっと彼を知りたい。

 もっと…もっと。

 繋がりが欲しい。

 このきりのない欲は、どこから来るのだろう。

 助けを求めるように縋ってきた冬の唇を思い出し、大塚は濡れた手で顔を覆った。


***


 昨夜のうちに来ていたスマホの通知にどうにか返信をし、冬はエレベーターに飛び乗った。

 ああ、間に合った。

 何とか予定時間前に会社に着くことが出来た。

 昨日から着ているスーツは上着以外皺が寄ってくたくただったため、適当な店で服を買って着替えた。なんだかまだ頭がぼんやりとして少しばたついたが、どうにかなったようだ。端末に社員証をかざした冬はほっと息をついた。

 荷物をデスクに置く。

 心なしか気分が軽いのは、普段とは違う格好だからだろうか。

 スーツでなくてもいい休日出勤は気が楽だ。

「──あれ、宮田さん?」

 開けたままにしていたドアから声がした。振り向けば、女性社員が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。彼女は隣の部署の前沢といい、よく会議では一緒になる。

「ああ、どうも」

「宮田さんも出勤だったんですねー」

「はい、まあ。ちょっといろいろ作成したかったんですけど、データ持ち出せないので」

「あーですよね? 私もです。いい加減クラウドにして欲しいですけどね。お互い苦労しますよね」

 それじゃ、と言って彼女は廊下を歩いて行った。ドアを開ける音が聞こえ、静かに閉まる。この会社はデータ管理が厳しく、持ち出しは原則として禁止されている。しかも徹底して共有データをクラウド上に保管していないので、作業に必要な場合は会社内で行うのが基本だった。だから彼女や自分のように、休日に出社してくる人は少なくない。

 働き方改革で残業を減らされた分、こういったところに皺寄せが来るのは必然と言えた。

 ただ休日出勤の手当てが出るのはありがたい。

「よし」

 PCの電源を入れ立ち上がる間に冬は資料の準備をした。昨日半分ほど入力していたファイルを開き誤差がないことを確認する。

 デスクの上のスマホにちらりと目をやったが、何の通知も来ていなかった。

 どこかほっと冬は息をついた。

 今日は休日だ。

 きっと名取は妻と一緒にいて、自分のことなど忘れているだろう。

 そうであって欲しいとスマホを閉じた。

 ひとりきりのオフィスにキーボードの音が小気味よく響く。

 いつしか冬は周りの音を遮断してモニターの数字に没頭していった。



「…田さん、宮田さーん!」

 は、とその声に冬は顔を上げた。とんとん、と肩を叩かれ振り返ると、先程廊下から声を掛けてくれた女性社員が立っていた。

「え、あっ、何?」

 驚いて言うと、ふふ、と彼女は笑った。

「ちょっと休憩しません? もう十三時ですよ」

「え? え、もう?」

「結構集中してましたね、私たちもう帰るんですけど、お昼食べに行くので一緒に行きましょうよ」

 廊下を振り返った彼女につられてそちらを見ると、廊下にもうひとり女性がいた。見たことのある顔だが、名前は分からない。

「いや、いいけど…でもおれ混ざってもいいの?」

 平日にはよく同僚の男女入り混じって食事に行く。冬に抵抗はなかったが、知らない人との食事が苦手な人もいる。

「あ、大丈夫大丈夫! 彼女今年うちに入った新入社員の林さん。あのですね、三人で行くと割引になるお店見つけたんで、そこ行きましょうよ」

「う、うん」

 何が大丈夫なのか全く分からないが、冬は前沢に急かされて席を立った。よほど集中していたのか、体が強張っていて背中が痛い。軽く伸びをすると前沢に急かされた。

「早く早く」

「あーはいはい」

 PCをスリープにして冬は財布を手に取ると、彼女たちと一緒に出た。



 前沢が見つけたという店は会社からほど近いところにあった。普段は通らない道のさらに奥、知っていなければここには来ないような、見つけにくい場所だった。

「あ、美味いね」

「でしょー? しかも安いし」

「美佳さん、こういうところ見つけるの上手いんですよ」

「へえ?」

 林が笑って冬に教えてくれる。美佳さん、とは前沢のことだ。

「でもこれからまた割引になるんだろ? 大丈夫なのか…?」

 それぞれ頼んだランチはどれもボリュームがあった。全部食べたらしばらく動けなくなりそうな気がするが、目の前のふたりはぱくぱくと実に美味しそうに箸を進めている。

「宮田さんもしかして小食?」

 まだ半分ほど残る冬の皿を見て前沢が言った。

「いや、そうじゃないんだけど」

 ふたりの食べるスピードが速いのだ、とは口が裂けても言えない気がする。

「あーでも杉ちゃんが言ってたかも、宮田くんあんまり食べないのよねーって」

「あはは…」

 杉ちゃんとは杉原のことだろう。冬は彼女とよく昼食を一緒食べに行く。確かに食べるのゆっくりだね、と言われたことはあるが…、しかしどんな経緯で彼女たちの間で自分の話が出たのか、冬にはまるで見当もつかない。

「いっぱい食べなきゃ、それで私よりも太くなって欲しいな」

「ん? なにそれ…」

「だって、私より細いですよ? ねえ平井さん」

 話を振られた林は返答のしようがないとばかりに目を泳がした。頷いたら駄目なのだ。冬もここで下手なことは言えないと、そんなことないよ、と一般的な回答をした。

「おれは体質なんだよ。出来ればもう少し筋肉とか欲しいけど」

「えーそうですか?」

「うん」

「あっ! なんか宮田さん、今日印象違いますよね?」

「え?」

 急に少し大きな声を出した林に冬は目を丸くした。話がよく分からないが、目配せをされて話の方向を変えたいのだと冬は気がついた。

「あ、ああ、スーツじゃないから、かな…?」

 林と話をするのはこれが初めてだが、普段の自分はそれほど見られているものなのか。あるいは単に話の糸口としてそう言われただけなのか。戸惑いながら答えると、前沢がなんだか嬉しそうな顔をしていた。

「服で人の印象って変わりますよね、宮田さん今日大学生にしか見えないですよ」

「えっ」

「うん、見えます見えます、サラリーマンには見えない」

「ええ…?」

 それは嫌だ。ただでさえ年相応に見られたことなど殆どなく、大抵初対面の人からは五つほど若く思われてしまう。その原因の大半はおそらく自分の顔にあるとのだろうが、こればかりは弄りようがないので、冬は出来るだけ服装には気をつけていた。特に仕事で着るスーツはシックなものを選び、普段着るものも同じようにしていた。ただ今日は急いでいたので、店頭に飾ってあるものをそのまま一式購入したのだが、それがまずかっただろうか。

 急いで買った割に結構気に入っていたのだが。

「それは困る…」

 無駄遣いしたかも、と落ち込みかけた冬に前沢は言った。

「大丈夫、私たちは困りません」

「それすごくお似合いです、すっごく、いい」

「いいです、宮田さん」

「あ…、ありがとう…?」

 妙に力強く力説されて、冬は困惑した。前沢が小さく拳を握りしめるのには何か意味があるのだろうか。林もどことなく目が輝いている。

 なんだろう…?

 女の人ってよく分からない。

 その後しっかりとデザートまで食べた彼女たちと店を出た。このまま映画を見に行くというふたりとそこで別れ、冬は社に戻る。エレベーターホールで何人かの社員とすれ違った。皆帰宅するか、これから昼を取りに行くのだ。見知った顔に挨拶を返し、冬はオフィスに戻った。デスクの上にスマホを置き忘れていたことを思い出し、手に取った。

 ぱ、と明るくした画面には通知がふたつ。ひとつは通販サイトからのお知らせ、もうひとつはアプリのアップデート情報だった。

「……」

 名取からの連絡はない。

 知らず息が漏れた。安堵と不安が入り混じっているのが自分でも分かる。

 昨夜のうちに来ていたメッセージに返信をしたのは社のエレベーターの中でだ。昨夜のことをひと言謝ったのだが、何かすっきりしなかった。

 この感情は一体何なのか。

 今朝の夢のせいなのか──

「…っ、と」

 冬は首を振ってその考えを追い払った。

 あれはただの記憶。

 もう過ぎてしまったただの過去だ。

 休日出勤でオフィスが使えるのは十六時までと決まっている。あと二時間、と冬はパソコンの画面に意識を集中した。



 十六時少し前、どうにか作業を終えた冬は軽く伸びをしてPCを落とした。デスク周りを片付け、戸締りを確認してオフィスを出た。

 これで仕事はずっと楽になる。週明けもそれほど忙しくはならない。

「お疲れさまでした」

「ご苦労様です」

 警備室に鍵を返し、エントランスを抜けて外に出る。

 少し風が冷たくて、そろそろ上着が必要かもしれないと思った。

「さて、と…」

 時計を見れば、まだ十六時を少し回ったばかりだった。このまま家に帰ってもいいが、連休初日の昼間にそれは少しもったいない気がした。まだ空は明るい。

 どこかに寄って帰るか。

 前沢と林のように映画に行くのもいいかもしれない。

 よし、と決めて冬は駅に向かうことにした。

 映画を見るのは久しぶりだ。

「──お疲れさま」

 その声に、はっと冬は顔を上げた。

 とん、と肩を叩かれ振り返る。

「仕事終わった? ミヤ」

「──」

「よかった、間に合ったみたいで」

「な…」

 なぜ──

 名取だった。

 にっこりと屈託のない笑顔を浮かべ、そこに立っていた。

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