11




 誰もいない教室では、日に褪せたカーテンが揺れていた。

 吹きこむ風に膨らんで視界を遮るから、腕で払おうとしていたのだ。

『届く?』

 不意に横から知らない手が伸びてきて自分よりも早くカーテンを押さえた。

『あ、ごめん』

 少し笑うその声に顔を向ければ、それは同じクラスのやつだった。

 名前は確か…名取。

 下の名前は覚えていない。

 高校に入学してまだ一ケ月、クラス全員の苗字はまだ覚えきれていない。名取は冬の斜めふたつ前の席だった。

 背が高いから、名取の後ろのクラスメイトがいつも前を見にくそうにしているのを、授業中冬は見るともなしに眺めていた。

『いや、別に。ほんとのことだし』

 高校入学時、冬の身長は164㎝で、クラスの中では小柄なほうだった。

 自分でも分かっているから別に傷つかない。

 両親ともに背丈は普通だ。兄は180近くあるから、冬だってそのうち伸びると思っていた。

『名取、だっけ? 背いくつあるの?』

『179』

『うわ、もう180じゃんそれ』

 押さえたカーテンを、手際よく名取はまとめ、窓の端にぶら下がっていた紐で留めた。きつくきゅっと絞ったので、カーテンはまるで箒みたいな形になった。

『上過ぎた?』

 冬が見上げていると、名取が苦笑交じりに言った。

『いいんじゃない? 邪魔なんだし』

『そう? でも閉めるとき困らない?』

『…そのときはまた名取がやれば?』

 そう言うと名取はそうだね宮田、と笑った。

 それが最初だった。

 そして、──

 あの日もカーテンは舞っていた。

 同じように誰もいない教室で、向き合っていた。

 はじめて彼とまともに話してから、二年が過ぎていた。

 二年の間にあったことはかけがえのない思い出だ。色んなことがあり、どんどん近づいていった距離に追いつけなくなっていた。自分の感情がどこにあるのかも分からない。気持ちだけがどんどん膨らんでいった。

『遥香と何かあった?』

 少し冷たい風が吹きこんでくる。

『別に何もないけど』

『本当?』

『ほんとだよ。それ言うためにわざわざ呼び出したの?』

『そうじゃないよ』

 名取は冬をなだめるように笑った。

 優しいそれにちくりと胸が痛む。

『じゃあ、おれ…』

 ここにいてはいけないと、冬は顔を逸らした。教室を出て行こうと名取に背を向ける。

『──ほかに好きなやついるんじゃないかって』

『…え?』

 振り向くと、名取はじっと冬を見ていた。

『いるの?』

 大きく膨らんだカーテンがふたりの間に揺れる。

 好きな──

 咄嗟に答えるのを躊躇ってしまった。

 否定をするには不自然なほど間が開いて…

 名取が少し目を丸くした。

『…ミヤ?』

 それは本当なのかと目で問われていた。

 心臓の音が耳元でする。

 ふたりきり、誰もいない土曜日の教室。

 無自覚だった感情はいつしか自分自身でさえコントロール出来ないほど大きく膨らんでしまった。

 限界はとっくに来ていたのだ。

『おれさ、…』

 噛みしめた唇が痛かった。

 絞り出すように声を出した。

 もう無理だ。

 震えながら笑顔を向けたあの日のことを、あれからずっと後悔し続けている。


***


 嫌な夢から目を覚ますと、辺りはぼんやりと明るかった。

 もう朝か。

 ゆっくりと目を擦る。

 本当に嫌な夢だ。

 思い出したくないのに時々罰のように現れる。夢の中ではいつまで経ってもあそこから進めない。

 同じところをぐるぐると回っている。しかも今日は遥香の名前まで出てきた…

 最悪だ。

「…ん、…?」

 寝返りを打った冬は、ふと違和感を感じた。

 あれ?

 こっち、壁じゃなかったっけ…?

 ベッドは寝室の壁に寄せている。だからベッドの上で左を向けば、白い壁紙しか見えないはず…

 なのに目の前には空間があった。

 見たことのない景色。

「…え、…──ええっ!?」

 跳ね起きた冬は慌ててあたりを見回した。

 どこだここは。

 全然知らない場所だ。なぜここに? というより…

 まるで記憶がない。

 何も覚えてない。

「おれ、どうした、っけ…?」

 居酒屋で名取と飲んでいたのだ。待ち合わせ場所には名取が先に着いていて、料理はもうテーブルに届いていた。

 それを食べて、飲んで…

「…っ、いった…」

 頭の芯がずきりとする。記憶がないほど飲んだのか、思い出そうとするが体が重くて思うように集中できなかった。

 とにかく、起きないと。

 冬はゆっくりとベッドを降りた。ベッドはやけに大きくて、部屋のほとんどを占めている。もしかして、名取の家なのか?

 だとしたらここは夫婦の寝室だ。名取と妻の日向が使うベッドで、何も知らず眠りこけていたことになる。

「最悪…」

 夢の中でも現実でも、行きつく場所は同じだ。ぐるぐると回って、どこにもたどり着けない。

 部屋の隅に置かれた椅子に冬の荷物が置かれていた。上着はきちんとハンガーにかけてつるされている。冬はそれをもって部屋を出た。部屋の前は廊下だった。斜め向かいと左右にドアがあった。左は玄関、右は奥へと続いている。冬は迷わず右に向かった。かすかに軋む廊下の音以外、家の中からは何の音も聞こえてこない。

 静かだ。

 誰もいないのだろうか。今日は祝日で世間は休みのはず。

 名取は?

「あの…」

 ドアを押し開けながら声を掛けた。開いたそこはリビングで、寝室同様物がなく殺風景だった。必要最低限の物しか置いていない感じがした。これではまるで男の一人暮らしの部屋のようだ。

「…名取?」

 リビングの左はキッチンだった。小さめのダイニングテーブルと椅子がある。

 あれ、と冬は首を傾げた。椅子が一脚しかない…

「え?」

 一脚?

 ひとつだけ?

 寝室で荷物置きになっていた椅子は見た目からして違っていた。

 じゃあ後ひとつはどこに?

 それよりも、ここは名取の家ではないのか? だとしたら一体誰の…?

 何か手掛かりはないかと見回した冬は、ふと、テーブルの上に目を留めた。

 部屋同様何もないテーブルの上にメモ用紙が一枚置かれている。読むつもりはなかったが、メモ用紙に書かれていた文字は顔を逸らすよりも早く、冬の目に飛び込んできてしまった。

『くたばれこの人でなし』

 人でなし。

 殴り書きされたような文字は怒りを表しているのだろうか。

 冬は思わずその紙に手を伸ばしていた。

「それは前ここにいたやつが置いていったんだ」

 突然聞こえた声にばっと振り返る。予想もしていなかった人物が、リビングとキッチンの境に立っていた。

「え、…っ?」

「その人でなしっていうのは俺のことだ」

「え、あの、え、ちょっと待って…!」

 冬は混乱していた。

 だって目の前にいるのは、あの大塚だったからだ。

「なんで、先生が」

「…なんで?」

「え、あれ、…え?」

「覚えてない?」

「覚え、て…ない、です…」

 大塚はじっと冬を見つめた後、ふ、と短くため息をつき、冬の横をすり抜けた。

「まあそれはそうか」

 キッチンのシンクに大塚は手に持っていたレジ袋を置いた。

 その背中を眺めながら、昨夜大塚とどこで会ったのだろうと考えた。

 どこで──どうやって。

「宮田さん、昨日『かまち』っていう居酒屋にいただろ?」

 それは覚えてる? と振り向かれて、冬は驚いて頷いた。

「い、いました、友人と…」

 大塚がかすかに目を細めるが、冬は気がつかなかった。

「偶然だけど俺もそこにいたんだよ」

「えっ! そうなんですか…」

「それで、意識を失くした宮田さんを見かけた」

「あ、…そうか」

 大塚の言葉でようやく冬は昨日のことを思い出した。断片的だけれど、名取と話している途中から呂律が回らなくなって、突然体を支えきれなくなったのを思い出した。

 記憶はそこでふつりと、糸を断ち切ったように途絶えている。

「昨日飲みに行く前に鎮痛剤飲んだ?」

「? はい、ちょっと痛み出しそうだったんで」

 大塚は電気ポットに水を入れスイッチを入れた。がさがさとレジ袋から何かを取り出している。

「意識が失くなったのはそのせいだよ。鎮痛剤とアルコールは相性が悪い」

「そうだったんだ…」

 知らなかった、と冬が呟くと、大塚はちらりと冬を見た。

「今度からは気をつけてくれ」

「はい。…あの、でも、なんでおれ、先生の家に…?」

 最大の疑問はそこだ。

 冬の問いには答えずに、大塚はレジ袋からサンドイッチを取り出してテーブルの上に置いた。コンビニでよく見かけるもので、冬もよく食べている。サンドイッチはふたつあった。

「どっちがいい?」

「へ?」

 唐突に言われて一瞬何のことか分からず、冬は変な声を出した。

 大塚はまた冬を上目に見た。

「どっち食うかって聞いてる」

「あ──、えとじゃあ、…こっち」

 冬が指差したほうを大塚は椅子がある場所に置いた。椅子は一脚しかない。大塚はどうするのだろうと見ていると、キッチンの端から折り畳みの丸椅子を持って来た。ここから見えないところに置いてあったようだ。

「あ、おれそっちでいい──」

「いいから。座って」

 小さな椅子は大柄な大塚には座りにくいだろうと手を伸ばしたが、あっさりと断られてしまった。

 促され、仕方なく冬はそろそろと椅子を引き腰を下ろした。大塚はキッチンに戻り、戸棚からカップをふたつ出すと、粉を入れ沸いた湯を注いだ。ふわりと広がるコーヒーの香りが部屋中に満ちていく。

「インスタントしかないけど」

 冬の前にカップを置き、大塚は言った。

 温かく立ち上る湯気が寝起きの体に優しく触れる。

「いえ、ありがとうございます」

 向かい合って座った大塚に冬は言った。自分では気がつかなかったが、かなり腹が減っていたようだ。

 置かれたサンドイッチを手に取り、フィルムを剝がす。

「見かけて、宮田さんの連れが送ろうとしてるのを呼び止めたんだ」

 え、と冬は顔を上げた。だが大塚は構わずサンドイッチに齧り付いていた。

「酔いつぶれていると思ってたみたいだから。そのまま帰すのは危険だし、心配だったから様子を見ようと──うちに」

「そう、だったんですか…」

「友達には悪かったな」

「…いえ、全然。大丈夫です」

 むしろ経緯を聞いてほっとしていた。名取に送られて、今住んでいるところを見られるのはなぜか嫌だと思った。

 なぜなのかは分からない。住所は知られているのに、テリトリーを侵されるような、そんなよく説明しようのない気持ちだった。

 部屋の中にふたりきりになって、もしも、何か言ってしまうのも怖かった。

 酔っていたら、日ごろ押さえていることがぽろぽろと胸の内側からこぼれ出てしまいそうだ。

 名取にはもう、何も知られたくない。

 言葉はいつも不用意に飛び出して行く。自分の意思とは関係なく。

「こちらこそご迷惑かけて、すみませんでした。ベッド取っちゃって…ありがとうございました」

「別に、大したことじゃないよ」

「先生寝れました? どこで…」

 リビングのソファは大塚には小さすぎる気がした。

 大塚は少し間を開けコーヒーを飲むと、ことん、とカップを置いた。

「その先生っていうの、やめてくれないか」

「え、…」

「大塚でいい。下の名前でもなんでも。先生だけはやめてくれ」

 はあ、と冬は頷いた。

 よくわからないが、苦虫を嚙みつぶしたような顔をされてはそうするしかない。

「ええと、じゃあ、大塚さん?」

 下の名前は知らないのだ。

 大塚はゆっくりと瞬くと、カップを口に運んだ。

「歯医者は? 見つかった?」

「いえまだ。ちょっと忙しくて。大塚さんに教えてもらったところも時間なくて…実は今日もこのあと出勤なんです」

「今日仕事なのか?」

「はい。これ頂いたら出ます。あの…、あとで洗面所お借りしてもいいですか?」

 大塚は頷くと、サンドイッチの最後のひと欠片を口に放り込んだ。

「何でも好きに使っていいよ」

 あ…

 大塚の口元がかすかに微笑んで、冬は知らず見惚れてしまった。

 この人、こんなふうに笑うのか。

「何?」

「あ、いえ…」

 目が合ってしまい、慌てて冬は誤魔化そうと咄嗟に尋ねた。

「大塚さん、いくつですか?」

「宮田さんは?」

「26です」

「へえ」

 若いな、と大塚は前髪をかき上げ、35、と言った。

 35歳か。

 どうりで落ち着いているわけだ。

 思っていた通りだったと冬は内心で納得した。自分よりも九つも上。だからなのか、彼と話すのはひどく安心する。

 初めて来たところなのに、まだ数回しか会ったことのない人なのに、ここはとても居心地がいい。

「ああ、そうだ」

 思い出したように大塚が言った。

「歯医者、行くところが見つからないなら、俺が診るよ」

「え?」

「ただし場所はあの診療所だけどな。成り行きで、当分俺がいることになった」

「え、でも」

 もちろん、と大塚は言った。

「宮田さんが良ければだけど」

「も、もちろんいい! です! お願いします…!」

 思わず身を乗り出した冬に大塚は目を丸くした。

冬が我に返ると、くく、と喉奥で低く笑った。

「変な奴だな」

 ああ、まただ。

 その顔にまた見入ってしまいそうになる。そんな自分がどうかしてると思った。

 どうかしてる、本当に。

「あの…、おれもひとついいですか?」

「…何?」

 よほどおかしかったのか、大塚は肩を震わせながら顔を向けた。

 どきりとした。

「おれもさん付け要らないですけど。年下だし…」

「そう?」

 じゃあ、と大塚は言った。

「冬でいいか?」

「──」

 てっきり宮田、と苗字が来ると思っていた。

なのに、名前を呼ばれて冬の心臓が変な具合に音を立てた。

 本当にどうかしてる。

 本当に。

「冬、おかわりは?」

 カップが空になったのに気づいた大塚が手を伸ばしてきた。冬は赤くなりそうな自分を必死で抑えながら、大塚の手にカップを渡した。

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