春告鳥は君のため舞う ー 9

 終電の時間が迫ることを逆算して、今夜はこれでお開きとなった。


「つくし、水につけてるから」


 帰り道で摘んできた土筆を、母さんは水につけて春菜に手渡していた。調理方法は詳しく知らないが、あく抜きみたいなものだろう。


 そして俺は、春菜を駅まで送ることになった。父さんはアルコールが入ってしまっているし、母さんに夜道を行かせるわけにもいかない。春菜は仮にも元地元民であるから道に迷うことはないだろうけれども、まあ、女性一人で帰らせるのも興ざめだ。


 街頭のない田園は暗黒に満ちていた。一寸先は闇がそのまま当てはまるようなあぜ道を、軽トラックのライトが照らしていく。


 車内は静かだった。助手席からは息遣いすら聞こえてこない。昼間はあれだけはしゃいでいたのに。なんだ、このお転婆てんば娘も疲れるのか。


「そっか、テルって運転できるんだね」


 軽トラのモーター以外には何も声をかくす音はない。春菜のつぶやきは俺の耳に届いた。


「俺が運転出来たらおかしいか」

「うぅん、べーつに」


 横目に春菜を見れば、静かに瞬きをしていた。長いまつ毛が上下している。たまにタイヤが砂利を踏んで車体がおおきく揺れる時をのぞいては、春菜はただただ静かにしていた。


 このまま黙っていれば人前で「これは深窓の令嬢にあらせられます!」と吹聴しても、何も知らぬ人なら簡単に信じると思うのだが。


「今なにか失礼なこと考えなかった?」

「とんでもない」


 猫の目がひと睨み。喋れば気品はたちまち吹き飛ぶのが勿体無い。


「博多弁」


 会話が起こったからには、適当に話を振ってみた。


「なによ」

「なんで普通に使わないんだ?」

「え……?」


 かすかに動揺した声が遠くで聞こえた。


「頑張って標準語使おうとしてんの、バレバレだったぞ」

「…………」


 無反応かと思ったが、違う。運転は前を向いて行わなくてはならないから視認できないが、おそらく顔を真っ赤にして黙りこくっているのだろう。駅まで送られている、という意識があるから拳の制裁が出来ないのだと思う。


「いや別に」


 と言って話を続ける。


「俺としては異文化交流している気分で楽しいから、もっと使ってほしいんだが」


 春菜と話しているうちにネイティブ博多人と対等な話が出来るようになるかもしれない。などと夢も広がる。


「その言い方、ひどくない?」

「でもお前は東京都民だろ。逆に考えろ、春菜は文化の運び屋だ」

「田園のヒロインの次は文化の運び屋って、私の肩書きすごいことになってるわね」

「前者は自称でしょうも」


 舗道に差し掛かり、ハンドルを右にきる。交通量が少ないので右折も造作ない。


「方言って標準語圏からしたらどんなイメージがある?」

「萌える」

「真面目に答えなさい」


 馬鹿にするわけじゃないがこれ以上ふざけたら今度こそ手が出るな、と野生の直感がそう伝えてきた。ハンドルを持つ手は十時十分の位置。しっかり握りながら口を開く。


「率直に申し上げると、田舎者」

「やっぱり、そうよね……」

「だがしかし」

「うん?」

「個人的には、そうでもない。ていうかこの町も絶対訛りが入ってるぞ、俺達が気付いてないだけで。それに標準語標準語って言ってるが、東京もきちんとそれに則っているのかと俺は聞きたい。東京弁じゃないのか、あいつらが喋ってる言葉は」

「あいつらって誰?」

「わからん。俺かも知れん」

「ぷっ、なによそれ」


 春菜が笑った。


「言葉も時代の流れに沿って変わっていっているんだよ。だから今考え直すと訛りや方言も、地方者の証とか言うより一個の独立した変遷する文化と考えたほうがより文明的じゃないか」

「あら、随分とおおらかな考え方になったわね」

「福岡県民のインターナショナル加減に俺の感受性がインスピレートされた」


 春菜はもう一度笑った。


「だから博多弁は積極的に使ってくれ」

「やだ」


 声のトーンは割と真面目な色だった。


「……良いんだけどな博多弁。お前に似合ってると思うんだが」


 怒ればたちまち手を下す性格と、その小気味よい語尾の雰囲気がな。けれどそうは簡単に納得しないのが人間の難しい所である。彼女にとって方言をこぼすハードルは、まだまだ高いようだ。


 タイヤから鳴るアスファルトを踏む音が、町一番の大通りに出ると大きくなったように思えた。左右の建物が反響させているに過ぎないが、不思議と今日は一層おおげさに音を感じる。


 俺の最後の発言から数秒も経っていないが、自分自身、会話はそこで途切れたかと思われた。だから次に聞こえた言葉は、聞こえた気がしただけの空耳だろう。


「なによ、それ……」


 消え入るようなかすかな声。実際こいつは喋らなかったのかもしれないが、言うならきっとそう言ってたと勝手ながら決めつけておく。


 空耳には返事をせず、再び沈黙を呼んだ。


 俺はこの静けさを楽しむことができるのだが、春菜はどうだろうか。また昼間みたいに、夜の静寂から歌のバックボーンを得ようとしているのだろうか。


 そういえば感受性と言えば、だ。


「結局、あの河原で吸収したい物って何だったんだ?」


 しばらく間をおいてから話題を提起してみた。駅には間もなく到着するから、これが最後の会話になる。


「考えるな、感じなさい」


 俺の問いからまた時をはさんで、返ってきたのはいつもの春菜の声色だった。


「……童心に戻る、的な?」


 うん、と頷く動きが見えた。


「テルがそう思ったのなら、それがテルの大正解。かく言う私も、子供に還った気がしたわ。本日はお付き合いいただきまして、ありがとうございました」

「どういたしまして」


 ブレーキを踏んでいく。


 車が停止すると慣性によって体が前のめりになりそうになるが、シートベルトが機能してくれた。古い軽トラだから仕方のないことだ。俺の運転が下手なわけではないと、ここに言い訳しておく。


 着いたぞ、と言おうとしたら助手席のドアが勢いよく開き、春菜の体がスタイリッシュに飛び降りた。


 あっけに取られる俺に向かって春菜はニカっと歯を光らせる。


「で、私が今日の旅で吸収した物の総括はっ!」


 明るい声が車内に反響して耳を襲った。顔をしかめそうになる俺の事など気にせずに笑って言った春菜の顔は、駅の電灯に照らされて、紅さをほんのり乗せていた。


「好きなものと触れ合う喜び、かな」


 ドアが思いっきり閉められた。ちょ、これ父さんの車だぞ大事にしてくれ。


 電車が構内に滑り込んでくると春菜は走って改札をくぐっていった。ICカードを準備していたようだ。


 電車のドアが開くと、彼女は振り返ってこちらに何か言った。





「――――――――――――!」





「……ん、なんて?」


 窓を開けて聞き返した時には、春菜の姿はもうドアの向こうへ消えていた。


 車両は動き出す。


 春菜を乗せたローカル線は車輪の悲鳴を上げながら、ゆっくりと闇の中へ消えていく。レールの継ぎ目を踏む音が徐々に遠くなって、田園に棲む生き物たちの鳴き声のみを残して古電車は去っていった。


 助手席の開いた窓から生暖かい風が忍び込んでくる。


 最後に言い残していった言葉は謎に包まれてしまったが……まあ、俺の人生を揺るがすものでもなかろう。


 とにかく、今日の俺がすべきことはこれにて終了。お疲れ様でした、俺。


「帰るか」


 あとは帰って風呂に入って寝るだけだ。


「さて、と」


 肩を回しながらシートベルトを留めなおそうとして、止める。


 開けた窓を閉めようとして、やっぱり止める。


 椅子の背もたれを倒そうとして、これもやはり止めておく。


 何かしたいわけでもなく、なんとなくエンジンを切って座席に背中を預ける。


 ……まあ。


「やっと一人になれた」


 いやはや、これほど騒々しい一日は久しぶりだった。ひとりごちる車内には、春菜の髪の残り香がしている。


 やっぱり、あいつはすごい奴だ。外の世界がいかに広いかを知っている。俺のような屈託した人間にとって、あいつが放つポジティブオーラはいささか眩しく思えてしまった。


「……耳鳴りがすこしキツいな」


 今日はとても疲れた日だった。しかし、学びえたことはいくつもある。だからこの疲れは、決して徒労と呼ぶことはない。


 俺もまだまだ学ばなくては。


 俺は、己の未熟さを知りうる範囲で自覚している(つもりだ)。春菜は俺を「老成」と表してくれたが実際そんなことまったくないし、幼稚だと感じる時も良くあることだ。


 自分に全く関係ない場所での事件に鬱屈してしまうし、変革を求めて出張る人間を疎ましく思ったりする。理由はもちろん分かっている、いや、分からされた。


 それは、俺の生きる世界が小さいからだ。


 外の世界を知りたい。狭い世界で深い闇にとらわれるなんてのは、井の中の蛙が独り相撲をするより滑稽なことだ。外に出て、空の広さや海の大きさを知り、自分以外のさまざまな生物と出会っていく事こそが、自分を育てて、人間としての深みを得られると信じている。


 そうして今、俺は自らを大海に放った。


 大学という新しい世界へ飛び込み早速、往年の幼馴染という刺激と邂逅した。我が前途ながらその幸先には順風を感じている。そう考えると、このために払った犠牲も少しは浮かばれるのではないかと、思考も自然と前向きになるというものだ。思えば大きな犠牲である。


 俺の左耳は、聴力が無い。


 一年前に患った病は、俺から音の半分を奪っていった。散歩のときでさえ、彼女の言葉はほとんど聞こえていなかった。俺も役者だ。聞き取れなかった話に適当な相槌を打って誤魔化すのには、なかなか骨が折れた。


 突発性難聴。


 原因はいまだ明らかになっていない病気だが、一説には過度の精神的ストレスによって発症すると言われる聴覚不全だ。


 一年前の俺は弱かった。なにもかもを受け入れ、あしらう術をもっていなかった。


 けれど、かかった治療費を浮かせるために努力した結果、学費半額免除にこぎつけたのは、俺自身でも頑張った方だと思っている。かつての俺に勝ったという、自分の中でのケジメがついた。


『最後に勝つのは私よ』


 春菜の言っていた言葉は、こういう時に使えばいいのか。なるほど、あいつも良いことを教えてくれた。自分のしたい事を実現すべくようやく一歩を踏み出した俺にとって、これからの大学生活は様々な刺激との出会いに満ちているはずだ。


 また自分に負けそうになる日が来るのは、分かっている。だが俺は、そこから得られるものを大事にしていきたい。


 何でも吸収、感受性を豊かに――って、またあいつが出てきてしまった。頭を振って春菜の顔を打ち消す。


 たわいもない発言と思って聞き流していた言葉たちは、今考えるとどれだけの汗と涙が育てた結論だったのだろうか。もしかしたら俺の想像の数十倍もの苦境を超えて、ついに見つけた言葉なのかもしれない。


 役者である彼女もまた自分の役をもっているだろう。人は、表面を偽るものだ。俺も、ああいった役を使いこなせるようになってみたい。ちょうど良いことに俺の人生は新たなステージへ踏み込んだばかり。やりたい事にチャレンジしてみようという気も、そのうち起こるだろう。


 あの星を、ぜひとも一度は掴みたいものだ。と、フロントガラス越しに見た空へ思いをはせる。夜の中でも桜花は白く浮かんでいる。そう、今は春なのだ。これからすべてが始まる季節だ。


 自分が決めた道、舞台俳優に俺はきっとなってみせる。一年間の苦節を経ていよいよ入った大学は俺にとって、さぞ素晴らしい経験と出会いをさせてくれるだろう。


 あの面影なき幼馴染もまた良い刺激を与えてくれるに違いない。八年の溝はきっと時間が埋めてくれると思う。


 そしていつか、思い出すまでもない記憶を語らねばならない日が来たとしても……まあ、前途明るく向き合っていこう。


 かつての想い人はもういないのだから。


 座席に座った状態のまま伸びをしたら、太ももの裏に鈍痛が走った。


「痛ってぇ……明日は筋肉痛だな、これは」


 考えることは程々にして、そろそろ動くとしましょうか。帰りはきちんとした公道を使い、安全運転で行くとしよう。


 全身の節々に疲労を感じながら俺は軽トラのエンジンを再びかけ、サイドブレーキを下ろし、固いクラッチを踏み込んだ。


 前照灯の照らした桜が一枚、はらりと闇夜へ消え入った。

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春告鳥は君のため舞う 涼海 風羽(りょうみ ふう) @pusan2525

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