終わりに ー 天地・自然にならって生きて ー

 さて『二宮翁夜話』巻一、全体の第一には次のような文があります。


 意訳します。


 翁(二宮尊徳翁、二宮金次郎さん)がおっしゃった。


「そもそも「誠」の道は学ばないでいてもおのずから知ることができ、習わないでいておのずから覚えることができ、書籍(経典)も必要なく、記録も必要なく、師匠も必要なく、そして人々がみずから獲得して忘れないもの、これこそ「誠」の道の本体である。


 渇けば飮み、飢えて食らい、疲れてね、覚めて起きる、みなこのようなものである。


 古歌に「水鳥のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり」というようなものである。


 それ(道については)記録がなくても、書籍(経典)がなくても、学ばないでも、習わないでいても、明らかな道であらなければ「誠」の道ではないのだ。


 そもそも私の教えは書籍(経典)を尊まない、そのために天地をもって経文としている。


 私の歌に「音もなくか(香)もなく常に天地あめつちは書かざる經をくりかへしつゝ」とよんだものがある。このように、日々繰りかえし繰りかえして示めされる天地の経文に「誠」の道は明らかであるのだ。このような尊い天地の経文をほかにして、書籍(経典)の上に道を求める学者輩の論說は取らないのである。


 よくよく目を開いて天地の経文を拝見し、これを「誠」にするの道をたずねるべきである。


 それ世界は横の水平は水平線を至上(の基準)とする、たての垂直は垂れた針を至上(の基準)とする、およそこのような萬古から動かないもの(基準)があればこそ、地球の測量も出来るのである。これをほかにして測量の術があるだろうか。


 「暦道(暦の法)の表(標柱)を立てて景(影)を測るの法」、「算術の九々のようなもの」は、みな自然ののり(規則)であって萬古不易のものである。この物(天地の經文)によりてこそ、天文も考えることができ暦法をも算出することができるのだろう。この物(天地の経文)を外にしたらばいかなる智者といっても、術を施すに方法はないだろう。


 それ私の道もまたそうである、天はものいわず、そして四時は行われ、百物成るところの書かれていない経文、言葉にならない教戒、つまり米を蒔けば米が生え、麦を蒔けば麦の実るがような萬古不易の道理によって、「誠」の道に基いて、これを「誠」にするという道を実行すべきなのである」




 これまで述べた金次郎さんの困難への挑戦と視野は、社会を超えた自然との対話であって、「分」というものを話されてはいるものの「封建社会」などにはとらわれず、それを気にしない大きな存在で、その行動・思想は後世に貴重な宝物として遺されたのかもしれません。


 金次郎さんの事績は物語になったり、記録が全集として遺されていたりします。神社もあり、ご本人の植えられた木ではないかというものすら残っています。


 私は十分に書ききれていません。興味を持たれた方は、さらに金次郎さんの人生に触れていただければと思います。


 ここにこの物語を終わります、自由に書かせてくださってありがとうございました。みなさんに、何かが遺りますように。


 ー 完 ー

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泥に咲く蓮の花 ー 二宮金次郎さんについて ー ろな @rona736

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