第2章 服部家の再興

服部家に仕える

『報徳記』の続きをみます。


 服部さまはますますその賢であることを察し、ほかに方法もなく、信義をつくし依賴すること再三、再四におよびました。


 金次郎さんは慨然としておっしゃいました。


「服部さまはわが領主の重臣である。今、艱難のために職をのき、その家もまた廃衰におよぼうとしている。廃興ともに私一人に期待され、節を屈し、その道をつくして私に依頼をなされた。私がこれを救わなければ服部家はかならず廃れるだろう。服部家が廃れるときは領主さまもまたかならずこのことを憂いなさること、どうして軽々しいものであろうか。それであれば、服部一家の不幸だけではない。今、我国(小田原藩)のためにその急を救わなければならない」


 そして新婚の妻におっしゃいました。


「服部さまの依賴はすでに切迫している、おまえも知っているところだ。私は今より服部さまの家にいたって服部さまのために力をつくしたい。おまえはさだめて当惑しているだろうが、私のために家をまもり家事をつとめてくれ。私は五年にして服部さまの心配をのぞき、服部さまを安堵させてから家に帰ってこようとおもう」


 妻は涙を流しておっしゃいました。


「命令をお聞きしました」


 ここにおいて金次郎さんは服部さまの家にいたられおっしゃいました。


「君の艱苦をのぞくことは必ず五年のうちにあります。そうではありますけれども、内外のことをみなそれがしに任じなさればなんとかなるでしょう。いささかたりとも君の思われることを加えなさった時にはかならずそれがしの微志をとげることができません、そうですと今日におきましても、辞めさせていただいたほうがましです」


 そうおっしゃいました。


 服部さまはよろこんでおっしゃいました。


「私は不才にして一家を安じることができなかった。衰弊はここにいたってしまった。すべは尽き思慮も尽きてそこであなたに依賴した。どうして私の愚意を加えようか。興・廃はともにあなたの一身にあるのだ。あなたが十分に改革をなされよ。私はただあなたの丹精を仰ぐだけだ」


 そうおっしゃいました。


 金次郎さんはおっしゃいました。


「禄が千石あまりあって千両あまりの借金がある、これは世禄(代々の世襲の禄)の名があるといえども、その実体はすでに他人のものとなっているのです。大夫(ご家老)のお力をもってこれをかえせないのに、今日を送っていたがために、このお家はこの禄をもって我がものであると思われた。そのことは、なんと淺ましいことではございませんか。


 上は君恩(藩侯の恩)の無量なることを知って、常に節倹を守り、家を存する、ながく君恩に報じるの忠勤をすることをもって臣下の道とすべきなのです。


 そうではありながら身が奢侈にながれたことを知らず、不足が生じたといえどもなおその根本をかえりみず、他人の財を借りてこれをおぎない、元本・利息は増倍し、一家が廃滅する大患を考えないで、ついに家をやぶり、君恩を失うにいたられる、どうしてこれを忠義の臣というべきでしょうか」


 そうおっしゃったのです。


 服部さまは伏してそしてその罪を謝まられました。


 ここまでが『報徳記』の記事になります。


 さて、です。金次郎さん、勇ましく服部さまに説かれています。この服部十郎兵衛という方は家老でした。つまり殿様が江戸に出られた場合は、家老が藩の指導者になられます。その藩の指導者のかたにむかって、これだけ自説を説かれたわけです。服部家にはじめて仕えたとき、金次郎さん二十三歳、これだけのことができたのなら素晴らしいとしかいいようがないとおもいます。


 さきにも引用させていただいた年譜をみてみます。


 年譜にはたしかに二十三歳(文化六年、1809年)のところに、「服部家の懇請により、仕える」というようなことが書かれています。ただ、次の年(二十四歳、文化七年、1810)には金次郎さんは江戸や上方に旅行をし、たくさんの田を買ったりされています。


 こののち文化九年(二十六歳、1812)には服部家の若党となり、若殿付きとなった、とあります。報徳二宮神社の年表では、勉学にも付きしたがったとあり、学問を深められたとおもわれます。報徳博物館の年表では文化八年(二十五歳、1811年)に『用文章』、『孝経』、『経典余師』を買い、本箱を買う、とあります。


『経典余師』とは溪百年という人が書かれた本で、四書(『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』)などについて詳細に、漢文ではなく「ひらがな」で説明をくわえたもので、一般によまれたものとのことです。金次郎さんの学問がすすむのはわかります。


 文化十一年(1814年)には仕えはじめてから五年、金次郎さんは服部家の復興に成功し(成功するのです)、家にかえることになりました。この年、金次郎さん二十八歳。


 さてこの頃、弟の三郎左衛門さんが家に帰ってこられ、ついに一家団欒が訪れます。めでたしめでたしとなるはずが、金次郎さんは文化十二年(1815)冬、服部家から呼びだしを受けます。このあたりは各年表にちがいがあるのですが、ともかく内容は「お家の復興の計画を立ててほしい」ということで、金次郎さんは「家政取り直し趣法帳」というものを書いたのでした。


 服部家の復興はなっていたのでしょうか。まずはさきほどの話、『報徳記』の続きをみてみたいとおもいます。


 金次郎さんはおっしゃいました。


「ご家老さまは今、そのお過ちをお知りになりました、そうであればそのお過ちをおぎなうことを勤むべきです。その事とは何でしょう、かならずその身を責めるべきです。その身を責めることとは何でしょう。


 食はかならず飯と汁に限る、衣はかならず綿の衣に限るべし、かならず無用の事を好むべきではない、この三箇條を守ることができられますか、できませんか」


 『報徳記』では、このようにご家老は厳しく金次郎さんから諫言されておられます。


 江戸時代の武士の食事は元禄以前の一日二食から、それ以降の一日三食に変化があったとされます。ただ元禄以降でも、二食の人、三食の人、さまざまだったといいます。


 特に下級武士は朝ごはんのご飯とお味噌汁が基本で、夜も朝ののこりに少しおかずがつく程度だったそうです。


 ただ大名になると事情がかわり、ご家老の家でもある程度の贅沢はゆるされていたのかもしれませんが、それを金次郎さんは辞めましょうといったのかもしれません。


 服装については、武士の服装は有職故実などもあり、深く分けいれませんが、ともかく綿にかえることを勧められています。無用の事を好むべきではない、というのは、無駄な出費をはぶきましょう、ということだったのではないでしょうか。

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