第1章 幼少時代の話

金次郎さんの生まれ

 金次郎さんの生まれた時代のことはわかりました。


 ではもう少し、金次郎さんのことを調べてみましょう。


 金次郎さんは、名前は尊徳、通称を金次郎といいました。その先祖は曽我氏から出たという伝承があります。お名前は二宮となのっておられました。曽我氏から出られたということはややあやふやなところもあるでしょう。ただのちに尊徳というお名前になられたことは確かです。もともとは金次郎というお名前だったこともはっきりしています。


 曽我氏という一族は桓武天皇から出られた平氏の一族です。千葉に住んでおられた一族が名乗られたとされています。のちに平常信という人の子孫の曽我祐家が相模国・曽我荘に本拠地を置いてから「曽我氏」を名乗りました。曽我荘というのは小田原市あたりにあったそうです。金次郎さんは地元の有力だった人の子孫だったのかもしれません。曽我氏は祐家の息子の祐信が鎌倉幕府に仕えました。御家人として活躍したとされ、のち全国各地で活躍しています。金次郎さんとの繋がりの真偽はどこまで定かなのでしょうか。昔のことですからね。


 金次郎さんは相模国足柄上郡の栢山村に生まれました。小田原の近くです。この頃、栢山村には二宮と名乗る人たちが八戸程度あったとされます。


 父は利右衛門という人でした。お母さんは別所村の川窪某という人の娘さんだったとされます。


 おじいさんの銀右衛門さんはとてもお金持ちで富有な人だったそうです。お金を節約して使い、家業はすこぶる盛んでした。


 しかしお父さんの代になって、家業である農業が傾きました。富士山が噴火しました。酒匂川も氾濫するようになりました。これらのことはすでに書きました。これに加えて、お父さんがとても優しい人で、人に物を貸してあげたり、困っている人がいると助けてあげたりしたのです。いつしか二宮家は貧窮をするようになっていました。


 資産は減って貧しくなりました。お父さん、お母さん、二人は慎ましい生活をするなかで金次郎さんや兄弟たちが生まれました。


 金次郎さんは三人兄弟でした。長男が金次郎さんです。天明の七年(1787年)に生まれられています。次の弟さんが三郎左衛門さん、その次の弟さんを富次郎さんといいました。一家は貧しい中でも懸命に生きていました。しかしそこを大きな災害が襲います。酒匂川がまた氾濫したのです。


 寛政三年(1791年)、金次郎さんがわずかに五歳のときに、酒匂川の堤がやぶれました。栢山村を含む三つの村が大きな被害を受けたのです。田畑に濁流が流れこみ、作物がとれなくなってしまいました。お百姓さんたちの苦悩はいかほどのものだったでしょう。金次郎さんの家の田んぼも一面の石河原に変わってしまいました。


 生活は苦しかったはずです。そこをさらなる苦難が襲います。金次郎さんのお父さん、利右衛門さんが病気になってしまったのです。お父さんは一家の大黒柱です。また命に値段はつけられません。お父さんのために、家族はお医者さんを呼びました。そしてお父さんの病気は一旦は治ったかにみえました。


 金次郎さんたちは喜びました。田畑を売って二両のお金を捻出し、お医者様に払うことにしました。


 江戸時代は値段の変化の激しい時代です。ですので一概に値段を比較することは難しいです。しかし武士の家で働いていた女の奉公人さんや、江戸の商家で働いていた町方の奉公人さんの一年間のお給料が二両でした。ですから、二両は決して安い金額ではなかったと考えられます。


 もちろんこれらの奉公人さんには賄いや住居の提供があったかもしれません。江戸時代の各時代によって額が変わった可能性もあります。しかし金次郎さんの家は一回の治療の費用として、田んぼや畑を売ってしまいました。一年間分のお給料の値段を払ったのですから、大変な出費だったでしょう。


 実は当時のお医者さんは誰にでもなれました、だからたくさんのお医者さんがいたのです。お礼の値段も決まっていませんでした。今日から私は医者になる、そう決めたら、字が読める人なら医者の真似事を誰でもできたのです。


 当時の医者は現在の医療のような高度な技術を使うものではありませんでした。お薬の調合や、鍼や灸による治療が主となっていました。中国の漢方による治療が主だったのです。漢文の知識がなくても医者ができるように仮名書きの医学書などもこの頃には発行されるようになっていました。医者になりやすい状態だったのです。そして医者の人気によって、報酬の金額も替わっていたのです。


 そのため本当に信頼できるお医者さんの値段は格別に高かったといいます。代々医者だった家、藩のお抱えの医者、長崎などの医術を学んだ医者の代金はとても高かったのです。


 金次郎さんのお父さんは、病気が治ると、金次郎さんたちを呼んでいいました。


「私の家はもとより貧しくて、それに加えて今、水害の被害を受けてしまった。苦しいことはこれからますます迫ってくるはずだ。三人の子供たちを養うに心を傾け、力を尽くしているがなかなか及ばない、苦労をかけてしまってすまない」


 金次郎さんは、のちになっても、話がこの時のお父さんのことばのことになれば涙ぐまれたそうです。


 父上と、母上の大恩がはかりしれないことを話され、聞くものもまたこの話を聞いて金次郎さんの想いに涙を流したといわれています。


 金次郎さんは多くの人を、労り、愛した人でした。しかしその思いの根源はこのお父さんや、お母さんへの想いにあったのかもしれません。


 家族の誰かを愛せる人は、周りにいる人を同じように愛せるのではないでしょうか?人を信じ、人を愛するということは難しいことです。しかし金次郎さんはきっと大きな愛を持っていた人だったのでしょう。


 実はお父さんが病気になった時、田んぼを売ったのは家族でした。危篤になった父をほっておけなかったのでしょう。


 お父さんが病にかかってしまった。しかし我が家は極貧であって、薬の代金に当てるほどのものがない。仕方がないので、田地を売ってお金を得よう。


 そして金二両を得て、医者を呼んだのです。


 お父さんの利右衞門さんは、病気が癒えてからおっしゃったといいます。


「貧富は時のことであって、免れがたいといっても、田地は祖先の田地である、私の病を治すために田地を売ってしまった。田地を減らしてしまったこと、その不幸の罪をどうして免れることができようか」



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