人々の困窮

 みなさんは、金次郎さんのことを知っていますか。金次郎さんの名前は二宮金次郎、尊敬されて、二宮尊徳とも呼ばれる人です。

 金次郎さんは現在の神奈川県小田原市栢山というところで産まれた人です。のちにはたくさんの人たちを救ったということで尊敬されています。


 金次郎さんは農家としては裕福な家に生まれたといわれています。しかしこの頃の神奈川県小田原市ちかくは、あまりめぐまれていなかったのです。なぜなら、富士山が噴火していたのです。


 金次郎さんは天明七年(1787年)に産まれたといわれていますが、宝永四年(1707年)、その産まれる八十年前に富士山が噴火したのです。富士山の東側にあたる地域は火山灰に埋もれ、田んぼや畑が耕せないことが二十年も続いたところもありました。


 このころ小田原のあたりを治めていたのは小田原藩という藩だったのですが、小田原藩では自分たちだけでは人々を助けることができないと、自分たちの土地を幕府に返上し、幕府から支援を受けながら人々の生活がもとに戻るのをまちました。とれる作物の量がもとに戻るまでには、九十年かかったといいますから、金次郎さんの幼い頃はまだ苦しい暮らしがつづいていたかもしれませんね。


 富士山が噴火して人々が困ったのは米や作物が取れなくなったからだけではありません。もっと困ったのは、土地を流れている酒匂川という川が、何回も氾濫するようになったことで、土地は荒れ、堤を作らなければいけなくなりました。洪水を防ぐためにもっともっと働かなくてはならなくなり、苦しい生活をしなければならなくなったのです。


 富士山の噴火からでた灰は土地に積もります。積もった灰は雨に流されて海へと流れます。しかしその途中にある川にも灰はたまって、川の底が高くなり、川が氾濫しやすくなったのです。だから酒匂川は何回も氾濫し、田畑を荒らしました。


 人々は立ち上がり、文命社という組織をつくって川に堤防を作り、何回も氾濫が起こらないように工事をしました。金次郎さんの産まれたのは、そのような努力が、ようやく実を結ぼうとしていたころだったのです。


 当時、小田原藩をおさめていた藩主様は一生懸命、人々のことを考えておられました。


 もともと小田原藩は大久保家によっておさめられていましたが、阿部家、稲葉家と一時、金次郎さんの時代まで、途中は殿様が代わっておりました。


 小田原という土地は戦国時代には北条氏が根拠地とした非常に重要な土地ですので、ここを敵に奪われると江戸が大変ですね。だから江戸幕府はここを代々、自分たちにとって信頼できる家臣に預けてきました。小田原藩の基礎は稲葉家の時代につくられたともいわれるのですが、歴代のお殿様はいずれも重要な役職につくことが多く、大事な藩として幕府に貢献することも多かったのです。


 幕府に貢献する、小田原藩は一生懸命に将軍様に尽くしたのですが、それは江戸で活発に活動することにつながります。自分たちの領地での活動と、江戸での活動と、二つ生活をする。家は二つ要りますし、服や雇う家来なども多くなりますね。江戸時代初期のまだ質素な時代ならば大丈夫だったのですが、時代が経つにつれ、人々は贅沢になれ、たくさんお金を使うようになりました。すると使う費用も領地と江戸とで二倍になります。


 江戸時代のお侍さんは田んぼから取れるお米でお給料を払ってもらっていました。そしてその額は決められたままです。決められたままのお給料なのに、支出が二倍になってしまう。すると、お金を借りなければならなくなります。


 このようなことは小田原藩だけではなく、全国の藩で起こったことでした。藩はお金持ちの商人、お米をあつかっていた札差ふださしなどと呼ばれる大商人にお金を借りることにしたのです。


 しかし借金を返済するためには、支出を減らすか、収入が増える必要があります。しかしどの藩も、お金が増えるあてなど何もありません。借金は積み重なるばかり。このような事態を解決するために行われたのが、棄捐令きえんれいという命令でした。


 この棄捐令が松平定信公という人によって出されたのが寛政元年(1789年)、ちょうど金次郎さんが産まれて二年あとのことでした。この棄捐令ははじめは旗本・御家人という江戸にいて幕府に直接ご奉公している人たち、石高が低い人たちを対象に、天明四年(1784年)以前の借金を取り消すなどの処置として実行されたのですが、商人たちに大きな打撃を与えることになりました。返してもらえると思っていた借金を帳消しにされ、お金がなくなってしまったのですから当然ですよね。多くの札差が破産したといわれています。


 ですが、この棄捐令は旗本・御家人だけではなく、各藩でも、うちも棄捐令をやろう、と、家臣たちの地元の商人に対しての借金の取り消しとして実行されることもあったようです。


 しかしそのような借金を返済しないようなことをすると、信用がなくなりますね。実際、一時は武士たちの暮らしは楽になったのですが、この棄捐令以降、武士たちはお金を貸してもらえなくなり、困窮をきわめるようになったのです。


 小田原藩でも、他の藩でも、困窮する武士たちがたくさんいました。


 金次郎さんが生きておられたころ、小田原藩をおさめていたのは、大久保家の大久保忠真侯という人です。


 大久保家は三河国の出身で、武田家と戦った長篠の戦いでの活躍を認められ、遠江国・二俣城主となった頃から武運がひらけました。大久保忠世侯が初代小田原藩主となり、別の土地に改易されることもありましたが、五代の忠朝侯が再び小田原藩の藩主となられてからは、小田原を守り、明治時代まで藩が続くことになりました。


 忠真侯は大久保家の中興の名君とされ、大坂城代、京都所司代、老中などの大事な職を幕府から任されたのですが、もちろんそれだけの役職を務めるのにはお金が要ります。藩の財政を支えるのも、大変だったことでしょう。


 小田原藩の石高は11万石程度、足柄上郡、足柄下郡を中心とした地域で、小田原に藩の役所(お城)があったとされています。


 小田原藩では稲葉家が支配をして以降は武士たちに領地を与えることはなく、すべての土地を藩主の直轄地としていました。また藩主は江戸などでの重要な役職に就くことが多く、実質は家老がその土地のおさめかたを決めていたとされています。


 全国に飛地の領地ももっており、決して小さな藩ではなかったのですが、藩の財政は苦しく、のちの時代になると、藩士の給料は半分が藩に借り上げ(半知)されるようなこともあったといわれています。


 金次郎さんは、そのような時代に生きていたのです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る