夏の堤防

スズシロ

夏の堤防

 祖母の家は港町にあった。夏休みに良く家族で遊びに行ったので良く覚えている。漁港の岸壁で釣りをしたり、近所の魚屋に新鮮な魚を買いに行ったりと「思い出」は尽きないが、その中でも特に印象深い思い出がある。堤防だ。

 漁港の入口、いや出口か。灯台のある場所まですっと伸びている堤防は釣り人の憩いの場所だった。休日ともなればあちらこちらから釣り人がやってきて賑わうが、それとは対象的に平日はしんと静まり返っていてなんとも寂しい場所になる。


 私が堤防に足を運ぶのは決まって平日の昼間だった。飲み物の入った水筒と、水が入った小さなバケツを一つだけ持って堤防の端っこまで歩く。夏の真っ昼間だ。海風があるとはいえ、コンクリートの照り返しで焼かれるような熱さだった。


「みぃちゃん」


 堤防の端に着くと私は近くに誰も居ないのを確認をして声を掛ける。するとブロックの隙間から真っ黒い何かが這い出して来るのだ。


「今日もお水持ってきたよ」


 そう言って持ってきたバケツを渡すと「みぃちゃん」はバケツを抱えてブロックの隙間へと帰って行く。そして暫くするとバケツに魚を入れて返してくれるのだ。


「みぃちゃん」は毎年同じ場所に居た。初めて会ったのは小学生の頃で、最初は得体の知れないそれに驚いて「お化けなんじゃなかろうか」と飛び上がった記憶がある。やたらと水筒の水を欲しがるので勇気を出して分けてやるとお礼にどこからか魚を持ってきたので、それ以来堤防に行く時はバケツ一杯の水を持って出るようになったのだ。


 ある日、祖母の家の近所に住む子供らが「が出た!」と騒いでいた。それを聞いた大人たちは青い顔をして何やら話し合ったあと、子供らの手を引いてそそくさと家に帰って行った。


「あんた、良く堤防に行っているみたいだけど……」


 話し合いから帰って来た母は険しい顔をして私に尋ねた。


「変な物を見たりしてないだろうね」


「みぃちゃん」の事だと思った。そこで肯定してしまうと大変なことになりそうな気がして、「見てないよ」と言うと母は安心したようだった。


「変なのって何?」


 私が恐る恐る聞くと母は「あそこら辺には良くないものが居るんだって」と言いながら戸締りを始めた。まだ真っ昼間だというのに雨戸を閉め、全ての窓に鍵をかけ始めたのだ。その異様な行動に「もしかしてまずいことをしてしまったのではないか」と不安が募った。


「明日の朝まで外に出ちゃ駄目だよ」

「何で?」

「良くないものが迎えに来るって、佳子さんが」


 佳子さんとは「あれを見た」と言って騒いでいた子供の母親である。


(みぃちゃんは迎えに来ないよ。今までだって来なかったもん)


 心の中でそう思った物の口に出す勇気は無い。「良くないもの」と「みぃちゃん」が同じものだとは誰も言っていないのに、何故だかそう思えてならなかったのだ。

 日が沈み、夕飯を取って風呂に入り早めに布団に入る。「ご先祖様が守ってくれるから」と仏間に布団を敷き詰めて皆で川の字になった。


 丁度日が変わった頃だろうか。隣家の方から何やらバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。様子を見ようにも窓を開ける気にもなれなくて布団の中でその音が止むのをじっと待つ。


「あれが来たんだ」


 しんと静まり返った仏間に祖母の声が響いた。そんなに大きな声では無かったはずなのに、はっきりと聞いて取れた。


(みぃちゃんだ)


 みぃちゃんが来たんだ。


 その頃にはもう「あれ=みぃちゃん」という考えが頭から離れなくなっていた。


 やがて日が昇り、「もう大丈夫だよ」と母が言った。隣家から聞こえてきた音の正体が気になって見に行くと、何かを引きずったような黒い泥の跡が海から玄関まで続いており、玄関の扉には黒い何かがびっしりとこびりついているのが見えた。


(やっぱりみぃちゃんだ)


 私はそう直感した。


「さっさと準備して。帰るよ」


 その日のうちに私達は祖母の家を後にした。子供は長居しない方が良いと判断したのだ。帰りの車の中で私は気になっていたことを母に尋ねた。


「あれって何?」

「あれはね」


 母が言うには、昔から堤防に住んでいる「何か」らしい。と言うのも地域の人達もそれが何かはよくわかっていないらしく、「あれを見ると家までやって来る」「一晩経てば居なくなるのでその日の夜は戸を開けてはいけない」という曖昧な言い伝えが残っているだけなんだそうだ。

 それでもたまにこうして目撃情報が出るので、それは確かに「居る」んだろうと母は笑った。


「みぃちゃんはお水が欲しいだけだよ」


 私はそう言おうとしたがやめた。扉にびっしりとついた黒い手形を見てなんだか「みぃちゃん」が怖くなったのだ。堤防のブロックの隙間からこちらを覗くふたつの目。ずるりと這い出てくる真っ黒い何か。


 そう、何かだ。


「みぃちゃん」がどんな形をしていたのか、思えばよく思い出せない。みぃちゃんはどんな顔だったけ。みぃちゃんはどんな姿だったっけ。みぃちゃんは……


 それから祖母の家に行くことは無くなった。みぃちゃんはまだ堤防の先に居るのだろうか。誰かが水を持って行ってあげないと可哀そうだと思う一方、大人になった今もなんとなく足を運ぶ気になれずにいる。


 時々夢に見るのだ。ずるり、とブロックの隙間から這い出てくる黒い何かの夢を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の堤防 スズシロ @hatopoppo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説