3,悪夢と子守歌 ー ファロン

#7 悪夢の夜


 フィーニ一家は、みんながみんな屋敷にいるわけではない。父さんがいるのは家族の誕生日が近い時だけだし、一月以上海の上から帰ってこないということもある。子供達は成人するとそれぞれの仕事の為に家を離れる事が多い。父さんと同じく長期間海に出る者、家を手に入れて家庭を持つ者、住み込みの新しい職を手に付ける者、隣国へ遊学する者……理由は様々だが、帰って来たときには決まってこの屋敷で過ごすし、勿論留まって家を手伝う者だっている。そういう人達がフィーニの屋敷で母さん達が作った食事を一緒に食べる。

 居合わせた兄弟達は夕暮れともなるとみんな自然と屋敷の分かり易い場所に集まってくる。ずっと残されている自室か、みんなが集まりやすい居間で団欒しながら、久しぶりの我が家を満喫する。


 その日、食事時になっても末の妹のリトラが見つからなかった。極度の人見知りの彼女はあまり外で遊ぶ事はせず、大抵母親達と一緒にいるのだけど……

 おおよそ食堂から離れている母さん達には声をかけた。屋敷にいる兄弟達もみんな食堂に集まっている筈だ。それでもリトラの行方は知れない。

「おかしいな……」

 まさか屋敷の外に出たんじゃないか。そんな不安が頭を過ぎり始めた頃、屋敷の一室から美しい歌声が聞こえてきた。……独特の音程と分からない言葉。

 この屋敷で歌と言えば一人しか居ない。俺は歌の邪魔をしないようそっとその部屋の扉を開けた。

 リトラはそこにいた。美しい歌の主と共に。

「……台所にいるものだとばかり思ってました」

「リトラに頼まれちゃって」

 ソファーに座り縫い物の傍らで膝の上で眠るリトラに子守歌を聞かせているのは、歌姫はクラレリア母さん。光が当たるとやや緑を返す不思議な銀髪の持ち主。一番若い母親であり、その歳はなんと一番上の兄であるウィールよりも下。(……勿論、それでもウィール兄は母さんと呼んでいる) やって来たばかりの時は今のエランダとほとんど変わらない歳で、それからすぐに子供を生んだのだから驚きだ。


 フィーニでは母親達の過去は子供達には伏せられるのが普通だが、クラレリア母さんの事についてはたまたま俺の耳に届いた。

 何でもここに来る前は本当にとある町の歌姫をやっていて、その異質な髪色のせいで珍しがられてもいた。しかしある時婚約者の男に裏切られ、町を追放されそうになっていた所を、たまたまこの件を聞きつけた父さんに助けられたのだ。そのせいで、フレスガノンにやって来た当時は極度の人間不信……というか、心が壊れかかっていたが、今は大分立ち直って、こうしてしっかりとフィーニの母親を務めてくれている。元来子供好きな性格であったようで、それがここでの生活にとてもよく合ったらしい。

 それでも……俺はクラレリア母さんの表情には今でも何処か陰を感じずにはいられない。幼い頃に見た当時の表情を覚えているから、尚更に。


「人形の手直しですか?」

 手には確かにリトラの人形が抱かれ、その背中に針を通している。しかし、彼女はフフと静かに笑って否定した。

「いいえ。エナちゃんのお洋服を直しているの」

 さも当然というように。人形ではなく、エナという子供なのだと。

「そうでしたね」

 眠るリトラの様子を見て頬が弛んだ。

 そのエナを妹だと言いはる幼い妹リトラは、母さんの膝に寄りかかってぐっすり眠ってしまっている。おそらく、母さんのする裁縫をギリギリまで見ていたのだろう。いつかはちゃんと自分の手でエナを直してやる為に。本当に、エナという女の子の姉であるつもりなのだ。

 リトラがそう言い張るのには、兄姉達の影響があるのは容易に想像できた。俺達がリトラを気に掛けるように、リトラも自分の妹の世話を焼きたがる。しかし彼女は今のところフィーニで一番末の子供である。彼女が面倒を見るべき弟や妹は、まだいない。今、アーシャ母さんのお腹に宿る新しい命が産まれてくるまでは。

 そう、人形遊びに夢中なリトラも、もうすぐお姉ちゃんになる。

 ……ひょっとしたら、あの人形はリトラのまだ見ぬ妹の代わりなのかもしれない。

「お父さんが連れてきたときからいつも抱っこして歩いていたから、随分汚れちゃったものね。折角だから新しいお洋服を作って上げようって思って」

「はぁ……」

「エナちゃんも、綺麗なお洋服の方が嬉しいでしょう?」

 クラレリア母さんはエナを決して人形扱いしない。俺は最初、リトラに合わせているのだと思っていた。けど、そうではないというのに最近気が付いた。

 クラレリア母さんは、オルカを相手にしている時は「恰好いい海賊さんね」と励まし、フィーカ姉には「あなたは誰よりも素敵なお嫁さんよ」と囁きかけ、ルアンには「今度またあなたの旅してきた世界のお話を聞かせてね」と微笑む。きっと、彼女は本当にそう思っているのだ。疑う事を知らず、誰かが語る夢と今置かれている現実の境界が曖昧になっているのだと思う。

 ……クラレリア母さんはここにやって来た時から、心が壊れてしまっていた。此処の生活に慣れ、昔あった不幸を忘れても、一度ヒビの入った心は癒えることができず、こうして彼女の素振りに不自然な違和感を差してしまっているのだろう。

 それでも、実生活に支障を出すようなものではない。これでも家事を一通りこなし、特に彼女の作るフルーツパイとクッキーは、家族中が取り合いになるほどの人気メニューだ。もし分野さえ合っていたなら、アコード兄は彼女の元に弟子入りしていたに違いない。


「夕飯かしら」

「ええ、リトラを捜していたんです。ところで大丈夫なんですか?」

 そう言うと、母さんは「何のこと?」と言いたげに顔を上げた。

「クラレリア母さんのデザートが無いと怒り出す人達とか」

「ええ、そうね。たくさん作りましょう。このお繕いが終わってからね」

 クラレリア母さんにそう言われたら非難できる者などいないだろう。元よりこの人のお願いを断れる人はそういない。俺もそのクチなのだが……

「ねぇ、ファロン」

「はい」

「私に敬語を使う必要なんてないのよ。他の家族達にするみたいに、いつも通り話して頂戴」

「え……まぁ、はい。そうですね」

「――――――――――――――」

「いえ、その……うん。できるだけ、そうします……じゃなくて、そうするよ。………できる範囲で」

 どうにもうまくいかない。何度注意されても、この人を前にすると何故か敬語になってしまう。どちらかというと、対等に話す方が無理を強いる。

 母さんはそれが分かっていてか、俺がそうして戸惑っている様子を見てクスクスと笑った。……なんとなく、遊ばれた気がした。


 やがて最後の針を通し終わった彼女は糸を噛み切り、出来上がった人形を抱きしめた。そして、今もまだ彼女の膝の上で眠るリトラの腕の中に抱かせてやった。そこが、人形のエナの定位置だ。そうして眠るリトラを優しく揺り起こす。

「リトラ、さぁ、おっきして御飯を食べに行きましょう。エナもお腹が空いたって言ってるんじゃないの?」

 リトラの目覚めは不思議なくらい早い。身体を起こし、目を二三度擦ると、もう目はぱっと見開かれ、服を新しくしたエナをじっと観察している。その間、クラレリア母さんや俺に気付いたが、一言も喋らなかった。

 リトラは極端に無口なのだ。以前飾ってあったガラス像を割ってしまった時に、「ごめんなさいって言うまで、御飯は抜き」とミアキス母さんに言われ、夜になって泣き出してもまだ黙っていた事があった。その時ようやくこの子はそういう子なのだと家族全員が思い知り、以後リトラの口数が少ない事にガミガミ言う人はいなくなった。今はその時よりは喋るようになったものの、それでも自分が必要と思うこと以外は滅多に喋らないのは相変わらず。……そのせいで、リトラと心を通わせられる人は家族でも少ない。無口なのはともかく、寝起きの早さは俺も見習いたい……というか兄さん達にもぜひとも見習って欲しい。いやまぁ、それは別の話だ。


 人形と目を合わせて微かに表情を変えているリトラに、俺はそっと話しかける。

「今日は蟹だって。さっきまでイサリア母さんがおっかない顔して剥いてたぞ。こんな大っきいの」

 蟹はリトラの好物だ。俺が手を広げてそう教えてやるとリトラは少しだけ笑った。ほとんど喋れなくても、リトラのその表情が何よりの意思表示なのだ。俺は、それに満足して、二人に先駆けて部屋のドアを開けた。

 そこに見慣れた少女が壁に背を預けて佇んでいた。ルアンだ。

「ルアン? 何してるんだ? こんなところで」

「クラレリア……が、いないから、呼んでこいって」

 その返事は、ルアンらしくない程に歯切れの悪いものだった。

 クラレリア母さんを探しに来たのは嘘ではないのだろう。俺がリトラがいないのに気づいたように、ルアンもクラレリア母さんがいないのに気づいて探しに来た。彼女の様子からすると、それが多分正解だ。

「なら入ってくればいいだろ。何遠慮してるんだ」

「うっさいわね! 遠慮なんかしてないわよ。今入るところだったのよ」

 そして、明らかに機嫌が悪い。何か悪い事でもあったのだろうかと思ったが、……そういうこともあるのかもしれない。そうなったら、俺には彼女の機嫌を取ることは無理だ。やがてリトラの手を引いて、クラレリア母さんが部屋から出てきて、ふくれ面の彼女に気が付いた。

「あら、ルアン。あなたも呼びに来てくれたのね。ありがとう」

「うん……」

 クラレリア母さんが微笑みかけても同じ。ルアンの不機嫌は、そうそう直るものではない。彼女は一度頷くと直ぐに、前を向いて歩き出してしまった。

「ルアン」

 そんな彼女の背中を、クラレリア母さんが呼び止めた。ルアンはまるでリトラがそうするように、表情も声もなく振り向いて――――

 ――――不意に、その手をクラレリア母さんが取った。

「ルアンも一緒に。手を繋いで」

 拒みはしなかった。ただ、目を逸らして、ルアンはクラレリア母さんの隣を歩いた。

 俺はその様子を後ろから見ていた。リトラと手を繋ぐ母さん、母さんと手を繋ぐルアン。ルアンの表情を俺は見ることはできない。けど、どうしてルアンが不機嫌だったのかを知っていた。知っていたから、黙っていた。何も言えなかった。二人の子供と手を繋ぎ歌を唄うクラレリア母さんを見ているうち、いろんな感情がわき上がってきて、……悲しいこととか、穏やかなこととか、やりきれないこととか、そういうのがごちゃごちゃになっていた。



**



 この時期にしては涼しいというのに、眠れない夜だった。眠ろうと目を閉じるたび、いろんな事が思い出される。

「―――――――――――――――」

 考えさせられるような事があまりに多かった。とんでもなく強い傭兵シーザー、行き倒れ海に召された男、エランダの恋と得体の知れない恋人、知らなかったルアンの一面と、何となく思い出してしまったクラレリア母さんの過去……一つ一つはそんなに珍しくもない、いつか起きることもある出来事。だけど、それが一度に起きた今日はなんだか不思議な日だった。

 手を握ればシーザーの大剣を受け止めたときの痺れが蘇るし、オルカやエランダの失望を買ってしまった時の心の半分が無くなってしまったような空虚感もまだ残っている。ルアンやオルカやリトラの事を思い起こせば、一緒に住んでいてもまだまだ知らない事もあるのだというのを思い知らされる。クラレリア母さんの事を思えば、やるせない感情に襲われる。……こんな気持ちのままで寝られるわけがない。

 だからずっとベッドに横たわったままで、部屋の天井を見つめていた。本来同室になる筈のアコード兄さんは一年前から例の食堂に泊まり込む事が多く、事実上この部屋は俺一人の個室に等しい。開け放たれた窓から遠くの波の音が聞こえてくるほどに部屋は静かだった。いつも心配性すぎて鬱陶しくさえ感じるアコード兄だけど、こんな時はせめて今日あったそんな出来事を話す相手として居て欲しかった。いつもならそれはエランダの役なのだが、今日だけは彼女に話すわけにもいかないのだから。



 俺は身体中の力を抜いて、目を閉じた。せめてそうしておけばいつかは気が付かない内に眠れるように思えた。

 大きく息を吸い込み、また吐き出す。木製のベッドが少しだけ軋んだ。

 合わせるようにカーテンのレールが音を立てた。そして部屋がまた少しだけ涼しくなる。風が入ってきたらしい。

 目を閉じても映っていた月明かりが消える。視界は完全に閉じた瞼の闇に覆われた。

 しかし意識は相変わらず昂っている。何かの感情が激しくぐるぐると動き回っていて、空気は涼しいのに寝苦しい。一向に眠れる気がしない。

 俺は諦めて一度目を開けた。すると開ける視界の中央に、――銀光が光った。

「っ!?」

 俺は反射的に身を捻ってベッドから転がり落ちていた。丁度俺が寝ていたその場所に、一瞬見えた銀光が振り下ろされていた。それは、月明かりを受けて輝く刃に違いなかった。

 俺は身体を起こすと部屋の隅まで飛び退き、その刃の主を見た。

「え……?」

 そして言葉を無くした。刃の主は知らない子供。さらにあまりにもこの海賊の屋敷に似つかわしくない姿をしていた。

 目に見えた光は刃だけではなかった。そいつを見て最初に目に飛び込んできたのは、衣服を飾る煌びやかな刺繍と、太陽のように大きく赤い宝石だった。ベッドに振り下ろされた短剣さえも不自由なほどの宝石で飾られている。貴族の着る服と大袈裟な外套。それを身に纏うのは、俺より少し小さいくらいの白髪の子供。

[兄さん、どうかおとなしく死んで下さい。抗えばそれだけ兄さんが辛くなります]

 ベッドから振り返り、俺を兄と呼ぶそいつは、勿論俺の弟などではない。元より貴族に知り合いなどいない。

「誰だ、お前!」

 しかしそいつはにぃと笑うだけ。整えられた髪と端正な顔立ちは、完全に狂気に支配されていた。

[これは兄さんの為なのですよ。兄さんには、伝統あるこの血筋の重みは耐えられないでしょう?]

 海底を思わせるような美しい瞳が、蛇のように俺を睨み付けていた。

[だから僕が殺してあげるんです。……何処を突き刺せばいいか、バトラーが教えてくれました。きっと苦しまずに、一瞬で楽になれます。あはははははは………兄想いでしょう? 優しかった兄さんへのせめてもの思い遣りです]

「そんなものが思い遣りなものかよ!」

 振り下ろされた短剣から身をかわしながら、俺は叫んでいた。だけど言葉が通じる相手じゃないのは明らかだった。

[僕がやらなきゃいけないんです。だって、兄弟なんですから。兄さんは、僕のたった一人の兄さんなんですから!]

 煌びやかな短剣が再び空を切る。壁を背に避けるのは思いの外難しい……

「歪んでる……! どうして兄弟が殺し合うんだ!」

 もはやコイツが勘違いなんて考えていられない。俺は咄嗟に部屋の奥に飛び退いた。今度は机を背にしてその貴族の異常者と対峙する。

[ははは、逃げてばかりだね、兄さん。指輪の継承者が、みっともないよ!]

 奴が再び短剣を振りかざす。素人同然の大振りな動作に合わせて、俺は咄嗟に側にあった椅子を蹴飛ばしてぶつけてやった。それで奴が椅子に気を取られた隙をついて取り押さえれば事は終わり……

 ……の筈だったのだが。信じられない事に、俺が蹴り出した椅子は何の抵抗もなく奴の身体をすり抜け、その背後に隠れて見えない扉にぶつかって大して大きくもない音を立てた。そしてその後に控えているのは、椅子など気にも留めた様子のない奴の短剣。目算を誤った俺目掛けて、容赦なく振り下ろされる。

「――――っ!」

 今度は避けきれなかった。左の肩口を軽く掠り、そこから血が滲み出す。

 くそっ! 一体何だって言うんだ!? ぶつけた椅子は通り抜けるのに、奴の短剣では傷ができるだなんて!

 そいつはゆっくりと振り返る。狂気に染まった青い眼に、未だ立ち上がれずにいる兄を見下ろしている。


[兄さんなんて、大っ嫌いだ]


 溢れ出すような表情を殺してしまった目。憎しみに凍り付いた子供の声。そしてそんな残酷さとは裏腹な酷く幼い台詞――――

 ――――その声色が一瞬オルカのものに聞こえ、俺は背筋が凍り付く想いがした。

[僕に代わって兄さんが消えて無くなればいい。僕は出来損ないなんかじゃない。兄さんよりもっとうまくやれる……!]

 襲いかかる銀光。しかしかわすのだけで精一杯だ。

 彼の声がひどく俺の感情を苛んでいた。分かっている。彼はオルカじゃない。似ても似つかないのに、彼が「兄さん」と叫ぶ度に、何故か自分の弟と重ねてしまう。

 一体どうして弟はこんなに苦しんでいるのか? 一体何が弟をこんなに追いつめているのか? そしてそれは、本当にオルカじゃないのか??

 昼間の動揺がまだ効いているのかもしれない。……ひどく頭が混乱している。しかしそれでも、ヤツは俺へと振るう剣を休めたりはしない。およそ剣など握ったこともないような拙い動きだが、この殺気だけは本物だ。その小さな身体に募らせた憎しみで、自分の家族を、兄と呼ぶ誰かを殺そうというのだ、彼は……!

[さぁ、死んでください!]

 追いつめられ、避けられないひと刺しが振り下ろされる。俺は無我夢中で立てかけてあったサーベルを手に取り、それで迎え撃った。

 きっとこのひと刺しだって受け止められずに俺の命だけを奪うだろう。それが何となく分かっていたから、受けは考えなかった。ただ掴んだ得物で相手の首を凪いだだけ。

 ――――もう少し考える時間があればそれも無駄だと気付いたと思う。さっきぶつけようとした椅子が通り抜けてしまったように、彼の短剣を受けきれなかったように、きっと俺の一撃も彼の身体を通り抜けてしまった筈だ。そもそも無我夢中で手に取ったサーベルは鞘に収まったままなのだ。しかしそのことに気が付いたときにはもう、互いの一閃は交錯していた。

 幸いだったのは、一瞬だけ俺の方が早かった事。俺の得物はやはり何の手応えも掴むことができずにすり抜けた。

 しまった、と思った。今から受けの姿勢を取るだけの時間は無い。得物を振り切ったまま、俺は次の一撃を覚悟していた。

 しかし、いつまで経っても覚悟していた次は来なかった。握った得物の切っ先だけが、相手もなく部屋の天井へと向いていた。

 そこには何もない。人影どころか、気配さえも。最初から何もなかったと言いたげな涼しい静寂だけが辺りにあった。

「はぁ、はぁ、はぁ、………」

 乱れた呼吸がまだ荒い。姿勢が落ち着かない。眼はじっと何もない得物の先を見ている。数秒が過ぎてようやく、俺は自分が振っていた得物が鞘に収まったままの剣なのだと気が付いた。何となく、英雄と同じ名を持つ来訪者の姿が思い浮かんで、おかしかった。

 ともかく、もうここには何もなくなった。その手を下ろし、息を落ち着けようとする。しかし……


 誰かの悲鳴が聞こえた。そういえば部屋の外も騒がしい。

「まさか他にもいるのか!」

 俺は立ち上がり、掛けてあった上着を羽織ると部屋から飛び出した。家族が襲われているなら、俺も戦わなければいけない。



**



 屋敷は騒然としていた。廊下の奥からイサリア母さんの指示を出す声が聞こえる。そして、それに応えるかのようにバタバタと廊下を駆け回る足音も。

「イサリア母さん!」

「ファロンか。あの亡霊達を見たのか?」

 亡霊! そう言われてあの正体不明の存在についての合点がいった。いや、亡霊だって十分に正体不明だが。

「気を付けろ。襲われて怪我人も出てる。お前も逃げる準備をするんだ」

「一体何なの、あれ」

「知るかい。私が聞きたいくらいだ」

 そう言い終わるかどうかの所でイサリア母さんの目つきが変わり、俺を横へと突き飛ばした。

 転がりながら受け身を取ったところで、イサリア母さんと向かい合う亡霊が見えた。

 今まさに斧槍を振り降ろそうとしているソイツは、全身に金属鎧を着込んだ騎士の姿をしていた。かなりの大男で、頭など天井に届きそうだ。

「まったく、いつからディオールは幽霊まで囲うようになったんだい」

 母さんが飛び退いたまさにその場所に斧槍が振り下ろされる。そんな大振りな攻撃、かわすことそれ自体はなんともない。だがしかし、俺は呆気にとられていた。

 あの大柄な騎士は、この狭い通路でどうやって斧槍なんか振り回せたんだろうか……? 見れば、斧槍が床に叩きつけられたというのに、床はなんともない。俺は、さっき自分に襲ってきた子供にぶつけた椅子もすり抜けていたのを思い出した。

「母さん! ソイツら、物ならすり抜ける」

「そうみたいだねぇ。まったく……気付くのが遅かったらと思うとゾッとするよ」

 見れば、騎士は手にした斧槍を壁に溶け込ませたまま歩いてくる。このままじゃあ斧槍のリーチだって計りにくい。奴らには壁も天井もお構いなしだ。

 なのにこっちはこの狭い通路で立ち回らなきゃいけない上に、こっちの攻撃は手応えがない。それなのに向こうの武器ではちゃんと怪我を負う……今更ながらに狡いと思った。

[さぁ、指輪を渡せ]

 鎧の奥からくぐもった声が聞こえた。亡霊のくせにコイツらはよく喋る。

「指輪指輪ってうるさいんだよ! とはいえ……

 参ったねぇ、手の出しようがないんじゃあ……」

「大変だ姐御! ルアンの奴……っんぐぅぅっ!」

 その時、通路の奥から声が聞こえた、

 ……と同時に撃沈されていた。

「イ・サ・リ・ア・母・さん!だろっ!?」

 撃沈したのはイサリア母さん。そして、されたのは、アルゲイド兄さん……騎士が邪魔で見えなかったけど、イサリア母さんとのあのやり取りはアルゲイド兄で間違いない。

 彼が撃沈される間、俺は信じられないような早業を見た。声が聞こえるよりも前にイサリア母さんがサンダルを脱ぎ、目の前の騎士に向かって投げつけたのである。それが騎士に効く筈もないのはついさっき確かめたばかりだから、イサリア母さんはその後ろに出現したアルゲイド兄を狙ったに違いない。早業どころかもはや神業の域。

「ちぃっ! アルゲイドの奴……サンダルが片っぽ脱げちまったじゃないか!」

 加えて、自分で投げつけておきながらこの物言い。いや、そんなことより……

「アルゲイド兄さん、ルアンがどうしたって?」

「ファロンかっ? ルアンが何処にも居ねぇんだよ。さっきまでは一緒に逃げてたんだがな」

「くっ……!」

 騎士の攻撃をかわしながら、イサリア母さんが歯がみした。

「みんなの避難は終わったんだろうね!?」

 いざと言う時は戦えない女性や子供たちの避難を優先するという決まりがある。イサリア母さんはそれを監督する役目を任されている。

「まだだ! 亡霊どもが邪魔で奥にいけねぇんだ!」

 それで分かった。ルアンはクラレリア母さんを助けに行ったに違いない。俺は直ぐさま、クラレリア母さんの部屋へと向かおうとした。

「待ちな、ファロン! どうやって通るつもりだい!?」

 その俺を、イサリア母さんの怒声が阻んだ。俺は思わず足を止めた。

「でもほっとけないだろ!」

「あたしらが助けに行く。子供は先に逃げな」

「だけど……っ」

「親の言うことは聞いとくもんだよ」

 そうして言い争っている内、俺の目の前にもう一体の亡霊が立ちはだかった。貴族、騎士と来て、次に俺の前に現れたのは何故か馬だった。それも甲冑を身に纏った騎兵がそれほど広くない木造の廊下を、頭やら槍やらを壁や天井にめり込ませながら佇んでいる。そいつが今、狭い通路を突進の助走を稼ぐために半歩後ろに身を引こうとしていた。足音も何もなく、鉄仮面の下にある目が一体何を見つめているのかも分からない。ただ、その光景は悪夢そのものだ。

「早く逃げろ!」

 背後からの声。でも考えている暇なんて無い。俺は剣を抜き、騎兵が突進に入る前に斬りかかった。

 やはり手応えはない。剣はただ馬をすり抜け、勢い余って一度壁に引っかかった。しかし……走り抜けた筈の騎兵は消えていた。……最初の子供の時と同じだった。俺は、その時ようやく気が付いた。

「イサリア母さん! コイツらすり抜けるけど、切りつければ消えるみたいだ!」

「ハッ、そうかい!」

 そこからは速かった。母さんは騎士の一撃を紙一重でかわし、あっという間にその懐に潜り込むと、二本の短剣を鎧の継ぎ目に滑り込ませた。はたして継ぎ目を狙う意味があったかどうかは分からないが、例え騎士に実体の鎧があったとしてもそれは見惚れる程に鮮やかで完璧な身のこなしだった。騎士の姿は、完全なる負けを認めるかのように夜の空気に溶けていった。

「さっすが姐御だ! っんがぁ……っ!」

 そして残ったもう片っぽのサンダルでアルゲイド兄もまた再び沈んでいった。イサリア母さんにとってはここまででフィニッシュ。

 俺はその場にいる亡霊の消滅を確認すると、また直ぐに走り出した。

「ファロン! みんな港に向かわせた。ルアンを見つけたら港に行くんだよ!」

 イサリア母さんには、手を挙げて返事を返した。

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