#5 恋するエランダ
店を出てからもルアンの態度は変わらなかった。遅めの昼食の後、人が活気を振りまいて行き交うこの大路に、「道を開けろ」と言わんばかりの不機嫌さをにじみ出しながら、俺の手を引っぱるほどの勢いで小さな歩幅を早足に進めていく。もはや十歳そこそこの少女とは思えない。その後ろから付いていく俺への視線が痛い。行き逢った人達は皆、何事かと疑問に思った事だろう。
わけが分からない。ルアンの態度もシーザーが何も言わないのも。俺がアコード兄と話している間、何かあったのだろうか。
「おい、ルアン。お客さんに失礼だぞ。何か言われたのか?」
「いいえ。シーザーという名前が気に入らなかっただけ」
外に出て俺の手を離しても、ずんずんと進み続ける。
(そんなに急ぐとまた転……)
……と、思ったそばからルアンはつまずいて倒れた。石畳の小さな段差に引っかかったのだ。背の低いのを差し引いたって普通はつまずくような所ではないが、ルアンは何故かそういう所でも頻繁につま先を引っかける。不器用もここまで来ると神秘だ。
俺は転んだという事には触れずに、ルアンを助け起こした。触れると三日は機嫌が悪いままになることを経験から知っている。今この機嫌が悪い時にそんな事になったら、陰湿ないやがらせが雨季の如くじとじと続く。ダイラ兄は以前それで睡眠不足になった事がある。
ルアンは恥ずかしそうに俺から目を逸らし、服の汚れを払おうともせずにまた早足に歩き出した。
「“神殺し”のシーザー、か? そこまで嫌うような英雄じゃないだろうに。そもそもあれは神話だ」
――――それは大昔の物語。
海がまだ夜空の闇と星を湛えていた頃、大陸中を苦しめていた邪神を、その剣で倒したという“神殺し”の英雄シーザー。異国の話にもかかわらず知らない者のいない程に有名な伝説……しかし伝説そのものの信憑性は皆無だ。なにしろ、神が居て、妖精が居て、悪魔が居て、竜が居る世界だ。“神殺し”シーザーは、邪神だけではなく竜だって退治している。
「そのシーザーと同じ名前ってだけで嫌うのは失礼だろ」
そこまで言うと、ルアンは「はぁ」と大きな溜息をついてこっちに振り返った。
「あのねぇ、シーザーって名前が本名なわけないでしょ。嘘付いてここに来たに違いないわ。そういう発想、浮かばないの?」
「……う………」
俺は言葉に詰まった。確かに、最初にその名を聞いたときには、そんな名前をつける親の神経を疑ったものだが。
…………
いや、けどだからといってルアンのように頭から決めつけるのもどうかと思う。
「考えすぎだよ。そんな名前があったっておかしくない。それに嘘付くならもっと違う名前にするだろ」
「――んんん――」
今度はルアンが言葉に詰まる。
「少し落ち着け。何か嫌なことがあったのかもしれないけど、あの人は関係ない。初めて見た顔なんだから」
俺がそう言って頭を撫でてやると、ルアンは立ち止まった。何やら考え込むように顎に手を当てて俯く。
「そうかしら。もしかしてエランダの様子がおかしいのも……」
「おいおい……」
「そうよ。それなら時期だって一致する。男ができたんだとは思ってたけど、きっとエランダはシーザーに一目惚れして、それで」
「それこそあり得ない。シーザーだってエランダの嫌いなタイプだと思うぞ」
なんとなくだが、それは想像できた。というか、あそこまで自然に大剣を振り回せる男をエランダが好きになる筈がない。むしろ、“野蛮人”のくくりでまとめられていそうなものだ。
「そもそもシーザーと戦ってる最中にエランダが怒鳴り込んできたんだから。いくらエランダでも好きな人の前でそんなことするかなぁ……」
「……ふっ……ふふふ……」
「?」
見ると、ルアンは含み笑いをしていた。何か重大な事にでも気が付いたのかと思ったのだが……
「随分熱心に反論してくれるじゃない……さっきはあんまり恰好良かったから危うく騙される所だったけど、やっぱりファロンは私の敵なのね」
「ルアンは自分の下僕以外をみんな敵にするその発想を早めに治した方がいいと思うぞ、大人になった時の為にもな」
つくづく、ルアンとは噛み合わないなと思う。今日ほど一緒にいる事もそう滅多にないのだが、……そもそも何故俺達は一緒にいるのだろう。
そう……ひとえにエランダのせいなのだけど、俺の側にオルカがいないのもその一因のような気がする。ああ、思えばオルカは良い子だったな。早く仲直りしなくちゃ。さて、そのオルカは一体何処にいるのだろう? いつも一緒にいるから、たまに離れるとその居所が想像できないものだ。
母さん達なら居る場所はいつも決まっている。イサリア母さんは訓練所か、最近はさっきの食堂で友人に料理を教わっている。掃除に忙しいミアキス母さんは屋敷の何処か。洗い物担当のハスア母さんは大体洗い場付近にいる。アーシヤ母さんはいつもなら台所だが、身重のために自室で休んでいるかもしれない。エルシエラ母さんがそれに付き従っている筈だ。ウィノン母さんはフレスガノンに居るときなら大抵港か。船の出入りと搬入される商品をチェックしている。
子供達もそれに付き従うことが多い。カイリンガ姉なら船か屋敷のどちらか。アコード兄ならさっきの食堂に行けば会える。インファリア姉やルアンは大体書蔵にいる。力持ちのオクトロアノ兄はまず間違いなく港で荷仕事している。エランダならハスア母さんと一緒に洗い場か、あるいは買い物で町のあちこちを歩き回っているか。いや、今は厨房の人数が少ないのでそっちを手伝っているかも知れない。ウルザ姉は夫と一緒に新しい家で暮らしているし、ウィール兄はそもそもフレスガノンにいる事自体少なく、帰ってきたときでも自分の船で寝泊まりする。一番見つかりにくいのがダイラ兄だが、罰当番に駆け回っている事が多いので母さん達に聞けばかなりの確率で捕まる。
ではオルカは? 買い物とかはイサリア母さんに脅かされるのでなければ嫌がるが、ダイラ兄について港に出向く事はありそうだ。他の海賊達に海での土産話を聞きに行くかもしれない。アイツはそういうのが好きで、海賊達の間にも親しげにしている人も多い。同い年くらいの男子たちと遊び回っていることも多い。むしろ家に居ることの方が少ないだろうか? 訓練所はともかく、家事は手伝わないだろうし、ましてや書蔵なんて……いや、むしろ冒険譚なら読みたがる性格だし……
……いつも側にいたから分からなかったが、オルカは本当に見つけにくい。もし父さんが帰ってきていれば、母親と兄弟姉妹のほとんどが屋敷に集まるから見つけるのも楽なんだが……
「――――なぁ、ルアン」
「何よ」
「もしオルカを捜すとしたらどうする?」
「まずあなたを捜すわね」
ルアンが即答した方法は単純明快だが、俺にはまったく活かせないものだった。おそらくルアン以外の兄弟姉妹達もみんなルアンと同じように考えているのだろう。
「俺のところに居なかったら?」
「そうねぇ、その時はダイラかベルーガかベアフォーリかアルゲイドか………ああもう、全然駄目ね。絞り込めないわ。むしろ―――――」
急に、ルアンは立ち止まった。そのせいで、俺は彼女に躓きそうになった。
何があったのかと思ってルアンを窺うと、彼女はただほんのりとした笑みを浮かべて、広い通りの先をそっと指さすのだった。
指し示す先に、バンダナにダブダブズボンという絵に描いたような下っ端海賊に扮する子供の姿があった。そんな恰好オルカしかいない。彼は道なりにやってきた俺達に気付く事もなく、そこから延びる入り組んだ小径の奥を窺っている。
「何してるんだ? アイツ」
「ビンゴ、ね」
ルアンが低く呟いた。決め顔で奇妙なジェスチャーをしているのは、本で読んだ登場人物の真似だろうか。
「私とは相性が悪いからよく分からないけど……」
駆け寄ろうとすると、ルアンは急ぐ必要は無いとばかりに、さっきの返答を続けた。
「オルカがあなたと一緒じゃないと、エランダが心配するの。あの人もおせっかいだから、あなたと何かあったんじゃないかって思うのよ。でも大体説教とか小言になっちゃうんだけど、それでもエランダは自分の弟妹達を独りにはしないわ。美しき兄弟愛よね」
ふふん、と。少し馬鹿にしたように、ルアンは俺の知らないエランダの一面を語り出す。その様子が、何故か少しだけ寂しそうにも見えた。
「もっとも今回はその逆みたいね。エランダの様子がおかしいのに、あの子が気付いたってわけね」
「じゃあ、あの先にエランダが?」
「あの子が自分から声をかけづらいのは私とエランダくらいよ」
「……インファリア姉さんだってそうだろ?」
書蔵の虫はもう一人いる。
「そんなことないわ。よく本を読んでってせがんでたから」
「……ルアンは読んで上げないのか?」
「私なら先に古語を覚えて貰うわ」
そりゃオルカも逃げる。なんとなく合点がいった。
俺とルアンは駆け出した。
言われてみれば確かに、オルカは身を隠しながら路地の先を窺っているように見えた。路地の奥には、確かにエランダの背中が奥へ奥へと早足に歩いている。俺はそれだけ近寄っても気が付かないオルカを背後から抱きかかえた。大声を出されたり暴れられたりして先を行くエランダに気付かれないよう、口と両の腕をしっかりと押さえながら。強張ったオルカの四肢は最初こそ抵抗したが、そのままで俺の顔を見せ、声を立てるなというジェスチャーをすると、オルカはようやくこちらを認め、ほっと息を吐いて身体の力を抜いた。
「何でファロン兄がルアン姉と一緒に?」
「多分、お前と一緒だ」
「何処に向かってるのかしら……」
何も言わずともルアンはエランダの姿を追っている。しかし、道は狭くなる一方で店の看板も民家のドアも、勝手口すら無い。ずっと前に人が通るのを止めた道だ。地理的には港が近いから、あるいはそこまでの抜け道があるのかもしれない。
「エランダ姉、葬儀の時から何か変だった。落ち着かない感じで……」
「オルカも気付いてたのね。鈍いのはファロンだけなんじゃないの?」
「悪かったな」
エランダの歩みは早いが、それも慣れない場所を歩いていて緊張しているだけ。キョロキョロと辺りを見回してはいるが、誰かに見られているかもという警戒感は全く無い。それよりは狭い道幅にスカートが汚れるのが気になっているようだ。
やがてエランダは少しだけ広い場所へ出ると、その足を止めた。建造物の隙間にできたやや大きな広場で、樽や木箱が乱雑に投げ出されている他は何もない。建物の入り口も、窓さえも見えない。エランダは手櫛で髪を整えながら誰かの姿を探していた。
「ギム!」
やがてその人を見つけたのか、エランダの嬉しそうな声が、影の差す狭い広場に響き渡る。
「やぁ、来てくれたんだね。エランダ」
聞こえてきたのは、若い男性の毒気のないさっぱりとした声。やがて物陰から現れた男に、エランダは駆け寄った。俺達三人は皆、予想外の出来事に言葉を無くした。
「やっぱり男だったのね。しかもベタ惚れ。こういう時って、相手がとんでもないひとでなしだったりするのよね」
……訂正。ルアンの予想だけは未だ目の前の出来事を大きく上回っている。
「じゃあエランダ姉ちゃん、捨てられるのか? ボロ雑巾?」
「そうよ。男達の欲望のはけ口にされちゃうのよ」
「お前達は一体何処からそういう言葉を覚えてくるんだ」
エランダは両の手を前で組み、目の前の見知らぬ男と何やら話し込んでいる。ここからではその内容を聞き取る事はできないが、エランダの見たこともないような照れた表情が随分と目を引いた。エランダは組んだ手を組み替えたりつま先を鳴らしたりと、なかなか落ち着きがなかったが、不意にその男に自分の手を握られると、今度は呆けてしまった。
(ベタ惚れ……ねぇ)
恋と言うにはその様子はあまりにも初々しいが、彼女ならばと思えば確かにそう思える。あれでもエランダにとっては精一杯のアピールだろうし、なによりその見知らぬ男は、なるほど確かに、エランダの好みそうな人物だった。
青目に黒髪のさっぱりとした顔の美青年。表情や声は優しく、身のこなしは上品、悪く言えばそれだけ華奢な印象が強い。おそらく荒事とは無縁の生活を送っていたであろうことは想像できるが、それ以外は一体どんな人物なのかを想像する事が出来ない。貴族という程の礼は持ち合わせてはおらず、商家というほどの知性や親しみやすさもない。取っつきやすそうではあるのだが、触れることはできない。まるで幻想から飛び出してきたかのような好青年。それ故に、俺には曖昧で嘘くさく思える。……ルアンの「ひとでなし」発言を聞いていたから神経質になっているのかもしれない。
年の頃は俺より2、3上くらいだろうか。背はもう少し高い。服装だけで判断するなら……商船の下働きなのだが……、どうにも違和感が残る。印象のどれもが、似つかわしくないというか、定まらない。
「詐欺師ね」
「余命半年」
「……二人ともそんな第一印象でいいのか」
物陰から折り重なるように覗き込んでいる俺達三人のうち、オルカは明らかに不満不機嫌を滲ませているが、ルアンは言葉こそ辛辣でありながら何故か楽しそうにしていた。
エランダと男は適当な木箱を見つけるとそこに座った。男は箱の上に自分の上着を敷き、エランダへの気遣いを見せた。エランダは……少しだけ戸惑っているようにも見えた。
「きゃー、見た?今の見たっ? こんなキザ夫君、実在するんだぁ」
「……ルアン姉、あんなシラスみたいのがいいのか?」
「うぅん……私個人は勘弁だけどね、でも今のはポイント高いんじゃない? フレスガノンの類人猿にはできない気遣いよ」
「……そうかなぁ……ベアフォーリ兄やってるの見た事あるけどなぁ」
「―――――」
そのオルカの発言の直後、俺達の間に沈黙が漂いルアンの失望感が溜息となって聞こえた。
「訂正、やっぱり減点ね。きっとロクなもんじゃないわ」
「「オイオイ……」」
オルカと俺の呆れ声が重なった。
ベアフォーリ兄は、一言で言えば女たらしだ。フィーニの名のせいもあるが、顔も綺麗なものだから、「君だけだよ」などと口説かれて騙される女性は多い。その節操の無さから「ディオールの血を最も濃く引いている」なんてよく言われるが、母さん達がその噂を聞いた時にはこれ以上ないくらいに怒った。後にも先にもハスア母さんが怒ったのはこの時だけだし、もとより厳しいウィノン母さんは………えっと……「貴方にディオール並みの運があるなら、あるいは帰ってこられるかもしれないわね」って言って……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………‥………………えっと、どうしたんだっけ? それからダントツで怒りっぽいイサリア母さんは…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………包丁が二本………を持ってきて…??……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………なんだか思い出しちゃいけないような気がするが、まぁ、今もまだベアフォーリ兄が五体満足で生きていて良かったと思う。何で噂の話した誰かではなくベアフォーリ兄が母さん達の標的になったのかが今でもよく分からないけど、死なずに済んだのは父さんのおかげだ。ちなみにあれだけ怖い思いをしたにもかかわらずベアフォーリ兄は自分に原因があるとは思っていないらしく、全然懲りていない。あれで案外、恋路の相談には乗ってくれるからそういう時には頼りにはなるのだが、そこまで歳を重ねていないルアンにはすこぶる印象が悪い。オルカはそうでもないのだが、また変な所を尊敬しているのかもしれない。
閑話休題。まぁ、ベアフォーリ兄は例外だろう。ああいう人は少数派だと信じたい。
誰もいない小さな路地の広場。潮騒が聞こえる。港の活気も。二人が肩を寄せ合う広場は、そんな海の音を遠くに聞きながら、ゆったりとした時間が流れていた。二人の背中がそんな時間を望んでいた。例え手を握り合うだけの、幼稚な恋だったとしても。
……俺は何を心配していたのだろう? エランダが惹かれたなら悪い人の筈なんかない。そんな風に思う。何より当人があんなに幸せそうにしているのだから。
「……ルアン、オルカ、もういいだろう? 俺達は戻ろう」
「何言ってるのよ! まだ手しか握ってないのよ!」
「そうだよ! カラダだけが目当てでもいいのか!」
「噛み合ってるように見えて全然噛み合ってないよな、お前達……」
それで何で俺だけがいつも悪者になるのかかなり疑問だ。それからオルカは絶対に言葉の意味を理解していないのがよく分かった。
「いや、駄目……!」
三人してそんな言い合いをしている内、二人の方は動きがあった。エランダのそんな声が聞こえてきた。俺達三人は一瞬にしてまたさっきまでの体勢に戻った。
木箱が倒れている。敷いてあった上着は水たまりに落ちてしまった。エランダは身構え、男の方は尻餅をついている。
「いい気にならないで。まだお互いの事何も知らないのよ」
「僕にとってはそうじゃない。僕は君のことを知っている」
「私がフィーニだからでしょう?」
男は静かに首を振って立ち上がった。
「君がエランダだからさ」
聞いていて顔が熱くなるのを感じた。気分はこの上なく不快。不愉快。そんな台詞を自らの口で臆面もなく言ってしまえるこの男。もしかすると本当にベアフォーリ兄のような女たらしか、あるいは父さんのような凄い人なのか。……いや、父さんみたいな人が世界に二人といる筈がない。
「信じられない」
エランダが言った。彼の言葉に戸惑ってしまうから、自然と口から出た強がりだろう。自分の理性を支えるための。
「今はそれでもいい。君がその声で僕を呼んでくれるだけで、僕はどんな辛いことにだって耐えられる」
「―――――」
「でも……それだけで一生を送る事なんてできるはずもない。君の声が僕を強くするのなら、僕はその強さを、君を手に入れる為に使う。その為ならどんな事もいとわないよ」
歯噛みをした。自分の耳を疑う。どうしようもなくむしゃくしゃしているのがわかる。この男を好きになれない。平気でそんな事を言ってのけるこの男が。だけど、それはきっと人を好きになった事がある男がみんな内に秘めている誓いに違い無い。俺にも覚えがある。
――――――ウルザ姉ちゃんが居てくれるんだったら俺は何だって平気だ。絶対に不幸になんてさせない。
その頃の気持ちが思い起こされる。それを口に出し実行してしまえる奴は、例え裏が無かったとしても破滅する。いや、裏がないからこそ破滅する。純粋な想いはそれ程に浅はかでもある。エランダはあの時の俺を諭してくれた。けど、今はそのエランダがそんな男を前に揺れている。揺れているのが、俺の目からでも明らかに分かる。
気持ちがごちゃごちゃしてきた。叶わなかったウルザ姉への恋心。それを抑えていた自分の半身が奪われていく不快感。届かなかったものを目指す男が俺の目の前にいるということ。羨望、自分への無力感と怒り。逃げちゃいけない。目を逸らしちゃいけないんだと、あの時恋を果たしたかった俺が言っている。そして、あの時諦めた自分には手を出す権利など無いのだということも。
「ファロン兄ちゃん!」
そんな俺の袖をオルカが引っ張り、物陰から駆け出そうとした。
「エランダ姉がさらわれちゃうよ! 助けないと!」
「「黙って 見てろ」
見てなさい」
その頭を抑え無理矢理に制止させる声が珍しくルアンと重なった。やはり意見は噛み合ってなさそうだが、不思議と行動が一致した。即ち、最後まで見守りたい。
「何でだよ! アイツ、悪い奴だよ!」
「だから今それを確かめようとしてるんじゃないか」
「ちょっとくらい悪い奴の方がいいのよ。エランダみたいな堅物には特にね」
「そんなわけないだろ! 姉ちゃんは家族なんだぞ! 家族なら……!」
「もう、オルカ! うるさい! 気付かれちゃうじゃない」
それでも聞こうとしないオルカを、俺とルアンの二人がかりで無理矢理に抑え込んだ。ルアンは口を。俺は背中と四肢を押さえ込もうとした。
そのドタバタがまずかった。いくら陰に隠れようともそれだけ騒ぎ立てて気付かれない筈もなく、
「こら、暴れるな!」
「そこに誰かいるのか」
その声に我に返ったときにはもう遅く、広場を見ればあの男とエランダは既に俺達を見つけていた。
「ファロン! ルアン、それにオルカまで……! あなた達、一体何をやっているの!」
やはり……というか、エランダはおっかない顔でこっちにやって来る。……あれはすごく怒ってる。
慌てて言い訳を考えようにも、こんな状況じゃあ何を言っても通用しないだろう。
「えっと」
「まさか、ずっと覗いてたの……」
「姉ちゃん、そんな奴を信じちゃ駄目だ! きっと姉ちゃんを手込めにんんぐぐぐ………」
オルカの勘違い発言は間一髪の所で防止することができた。
「……言い訳はしないよ。覗いてたのは確かだし、その……」
「様子がおかしかったから」
言い訳を言い淀む俺に、ルアンの落ち着いた声が割って入った。
「オルカを見れば分かるでしょう? エランダに何かあったんじゃないかって。気が気じゃなかったんだから。それがまさか……」
そう言って、細くした目を見知らぬ男の方に向けた。男は平然と、うっすらと楽しそうな笑みを浮かべてそれを受けた。
彼のそんな表情に気が付かずに、エランダはハァと呆れたような溜息をついた。
「……ファロン、あなたもなの?」
「俺は気付いてなかったよ。でも……それが昼間の事で怒ってるんだったら、ちゃんと説明しておこうかと思って」
俺がそう言うと、エランダに見えない所でルアンが俺の太股を叩いた。けど俺にはそれが「良い」なのか「悪い」なのかがよく分からないのだけど……何かもう一言つけた方がいいのだろうと思った。
「何かあったのなら、独りでいちゃいけないと思う」
隣でルアンが不満そうに首を傾げたが、太股を叩くのは止めてくれた。そしていつの間にか腕の中のオルカもおとなしくなっていた。俺はそっと、彼の口を覆っていた手を離した。
「エランダ姉、誰なんだよ、ソイツ」
開口一番、オルカは俺達が言いにくいことを真っ先に言ってくれた。暴れることはもう諦めてくれたらしいが、それでもあの男を敵視する目は変わらない。
そして、そんなオルカの様子に戸惑うエランダ。
「ギムは……」
黙っていたこと、家族に心配をかけたこと、真面目なエランダだからこそ抱くそんな後ろめたさが、いつもの彼女の調子を奪っている。……本当なら、「初対面の人を指さすんじゃありません。それに覗きが見つかったっていうのに何て口の利き方?」とまくし立てるに違いないのだ。
「エランダ、いいよ。ここは僕が道理を通すべきだろう」
「でも、この子達ったら……」
「素敵な兄弟じゃないか。少し、羨ましい」
彼は呟くようにそう言って、前に出た。足取りはしなやかで、まるで何処かの王子が姫をダンスに誘うようだった。
「はじめまして。ギムと言います。ここへは一昨日初めて来ました。ウィノンさんや他の貿易関係のフィーニの方々には挨拶に行ったのですが、運悪くあなた方とは会えませんでしたね」
貿易関係? と言うことは新しく取引を始めた商家の御曹司といったところか?
礼儀正しく、そして嫌味一つ感じさせないその挨拶に、構えていた俺達は少しだけ拍子抜けしてしまった。
「会わないのは当たり前よ。兄弟が全員居合わせるのはお父さんが帰ってきた時だけだし、何より私達はまだ子供だから、忙しいところをあちこち手伝うだけなんだから」
何故か慌ててエランダが補足した。
「ああ、なるほどね。ひょっとしたら、すごい偶然なのかな。僕が君達が出会ったこと」
「……よく言うわ。逢い引きしてたクセに」
「ル~ア~ン!」
マセた妹の皮肉混じりの言葉にエランダは直ぐさま噛み付いた。
「エランダも初々しいったらありゃしない。逢い引きするならもっと知らないフリしてなきゃ」
「そうだよ! 姉ちゃんなんて直ぐ騙されるんだぞ。終わったらぽいって……」
「オルカ! 誰に教えられたのか知らないけど、その口は直しなさい」
すっかりいつものエランダだった。もう俺の事は眼中にない。俺は矛先が逸れて内心でほっとしていた。
「仲がいいね。君達は」
そんな俺にギムが声をかける。
「ああ、こっちも紹介しておかなきゃな。俺はファロン。同い年だけどエランダの弟になる。あっちの小悪魔みたいなのがルアンで、勢いだけで喋ってるのがオルカ」
みんなが聞いてないのを是幸いにそんな紹介をしてやると、ギムはクスリと笑った。
「ま、兄弟が多いからなかなか覚えられないだろうけど」
「そんなことないよ。一度でも会った事のある人なら忘れない。それにファロン、君はとても印象に残っている」
彼はそう言って口の端を上げた。俺が一瞬呆気に取られると、彼はさらに嬉しそうな顔をした。
「分からないかい? 昼間の喧嘩だよ」
「あ……」
ああ、なるほど。
恥ずかしいところを見られたかなと照れた、しかし次の瞬間にはそれは違和感へと変わっていた。彼はその予感を肯定するかのように言葉を続けた。
「きっと君はフィーニでも一、二位を争うほどの使い手になるんだろうな。負けたことに気落ちする必要はない。そもそもあの剣士に勝てる奴なんて世界にどれ程居るか」
「―――――――」
「君とは今度ゆっくり話したいな」
ギムは、あくまで友好的に、俺に握手を求めてきた。違和感に戸惑いながらその手を取ると、思った以上にしっかりと手を握ってきた。
「坊ちゃ――――ん! 何処にいらっしゃるんですかぁ―――?」
その時、道の向こうから野太い声がした。その声には聞き覚えがあったが、「坊ちゃん」というのが誰なのか直ぐには分からず、結局その声の主も思い出せなかった。
考えるまでもない。対象者が多すぎるせいで、フィーニの子供達を「坊ちゃん」とだけ呼ぶ人間はあまりいない。ならばギムのことなのだ。
「ああ、いけない。さすがにもう誤魔化しきれないな。……今行くよ!」
彼はそう言って、声の聞こえてきた道の向こうに声を返した。
「ギム」
「長居しすぎてしまったらしい。でも、有意義だったよ」
名残惜しそうに名前を呼ぶエランダに、ギムはそう答え、そして俺達を見回した。
「ふん、もう二度と姿を見せるな!」
オルカのそんな罵声にもただ笑みを返す。そして簡単な礼をした後、彼はおそらく港へと通じている道の向こうへと走っていった。
俺達四人は、その姿を様々な想いで見守るしかできなかった。
「なんだいアイツ」
「こ・ら! あなたもあの人くらいの礼儀を身に着けなさい」
オルカを小突くエランダ。ギムとは出会って間もないと言っていたから警戒はしていたようだが、疑いは微塵もない。俺が感じた違和感を、エランダは気付かなかったということ。
「なぁ、アイツって、何処の奴だ?」
「ファロン、あなたのその物言い。イサリア母さんにそっくりよ」
呆れながらもしっかり諫めるエランダ。その言葉で、俺はイサリア母さんの台詞が思い浮かんだ。「フィーニに断りなくこの海に船を走らせるだなんて、何処の者だい?」……思わず苦笑いを浮かべる。
「ああ、そういう意味じゃないんだ。変わってるなって思って。商家の社長にしては若いし」
「――――モーディア商会」
その時、ルアンがボソリと呟くように言った。それは、フレスガノンに暮らす人間なら当然知っている貿易商社の名前だった。
小さな商会だが、その分の小回りとサービス、そして何よりそこの女社長メイザの人柄の良さから、フレスガノンには無くてはならない取引相手である。書蔵籠もりのルアンですら知っている。
「さっきの声、ムトンよね。太っちょの方」
ムトンはメイザの部下の一人だ。メイザは大体いつも、そのムトンとリンドンという二人の部下と一緒に船でやって来るのだ。俺も積み荷の上げ下ろしを何度も手伝ったことがあるから顔馴染みだ。なるほど、どうりで聞いたことがあるわけだ。
「ええ。見習いで来てるみたい。母さん達と会ってきたって言ってたわ」
ルアンの指摘にエランダは頷いた。
「何処かの商社の跡取りじゃないかしら。商売に関しては勉強中で、今はメイザさんを手伝ってるんだって。フィーニへのつてを辿る内にモーディア商会に辿り着いたみたい。新しく取引を始めたいってことだと思うわ」
「………惚れちゃってる?」
「え?」
ルアンの突然の台詞に、聞き返すエランダの声が裏返っていた。
「ばばば馬鹿言わないでよ。だって、彼は一昨日初めて会ったのよ。ホントに偶然。そんな人を好きになる筈……ないじゃない」
大慌てで取り繕った台詞は、最後の方にはすっかり気が抜けてしまっていた。
「あなた達、覗いてた……のよね?」
「その気は無かったんだけど」
「嘘つきなさい。……はぁ」
エランダが溜息を一つ。そう、既に証拠は押さえてしまったのだ。押さえるつもりなんかなかったけど。
「ごめん」
俺は自然と謝罪していた。謝った方がいいような気がしていた。
「いいわ。心配かけたの私の方だものね。
――――――さ、行きましょう。私は台所手伝わなきゃいけないから」
そう言って、エランダは妹弟の背中を押した。なんだか肩が軽いと思ったら、ルアンとオルカは何やら口論になっている。一方的にオルカがからかわれているだけだが、それでも、あの二人は案外仲がいいんじゃないかと思える。
俺もまた、エランダの背中を見ながら家路へと向かった。彼女の背中は、いつものように姉貴然としていて、さっきの出来事が嘘のよう。まるで、「また明日」と言って別れた幼馴染のようだった。
自分が恋した時はどうだっただろうか? あの時は、相手が他人以上に身近な人だったから、そもそも別れだって想像したことも無い。だから結婚して家を離れる時には世界が壊れる程に焦ったのだけど。
エランダは真面目だから、もし俺の時のような事になっても駆け落ちしようとまでは考えないだろう。でも……
今日感じた違和感。それは、エランダを失望させるには十分なヒビのような気がして、俺にはとても危うく思えた。「明日また会える」、彼女がそのことに疑いすら抱いていないから、尚更に。
「――――小さな商船が四日も滞在すると思う?」
エランダ達からこっそりと離れてきたルアンが、忠告とも取れるような疑問を俺に投げかけた。彼女も又、違和感に気付いていたらしい。
「気のせいなら、いいんだけど」
俺はそれを聞いて思わず笑ってしまった。ルアンが抗議するようにこっちを睨んでくる。
「いや……お前って奴は、案外家族の事を気に掛けてるんだなって思ってさ」
兄姉とは絶対に呼ばないクセに。思えばエランダ本人が気付かないような気持ちの変化も、彼女は気付いていたのだ。
十歳そこそこのこの少女は、俺よりも頭二つ分も小さいというのに。その辺の直感や機転は大人顔負けだ。一体書蔵でどんな本を読んでいたのやら。
「当たり前でしょ。いちおう家族なんだから」
少女は呆れたようにそう言う。
その時、大通りを夕凪前の風が吹き抜けた。少女は頭にある父親が選んでくれた帽子を庇う。帽子が飛ぶ程強くなくても、少し心配性なくらいに顔をしかめる。
俺はその姿を今まで何度も見ていた筈なのに、それが特別に見えたのはこの時が初めてだった。
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