第3話 逃げ出した日

 その日も、いつもと同じように日付けが変わってから眠りについたけど、ベッドに入る時に寒気がした。


 硬いベッドと薄い寝具では暖を取れず、充分な睡眠時間を確保できなければゆっくり休むこともできずに、


「ああ……また朝がきた…………」


 体を起こして、絶望感に浸っていた。


 体調がすぐれないことは、すぐにわかった。


 ほんの少しの動作でも頭はガンガンと殴られたように痛み、背中を何かが這い回るように悪寒が止まなかった。


 体は震えて、重い。


 それなのに、きっと大奥様は私の体調など考慮してはくれないはずだ。


 役立たずだと、罵られる。


 重い足を引きずって、厨房に向かった。


 また今日も、無意味で苦しいだけの一日が始まるのだと憂鬱だった。


 でも、ふと、その途中で、気付いたことがあった。


 顔を上げて、いつもとは違うように感じる方向を向いた。


 様子が変だった。


 使用人用の部屋が並ぶ離れから母屋へと移動している最中で、ちょうど交代の時間なのか門のところに見張りの者が誰もいなかった。


 こんなことは初めてだ。


 足は自然と、門の外に向かっていた。


 見えない何かに引き寄せられるように、向かっていた。


 いつもなら、もう誰かに呼び止められている。


 本当に見つからないのかと、おそるおそる敷地の外へと足を踏み出す。


 誰もいない。


 逃げるなら今だと、自然と思っていた。


 この先どうするのか、何も考えていないのに。


 でも、もう足は止まらなかった。


 必死に走っていた。


 日が昇る直前の、明るくなりかけている道を走る。


 誰にも声をかけられない。


 すれ違う人もいない。


 誰かが追いかけてくる様子はない。


 早く早くと、一生懸命に走る。


 どれだけ体調が悪くて辛くても、あの屋敷にいるよりはマシだと、動けなくなるまで走っていた。


 ろくに寝ずに、食べずに、このまま死んでしまっても構わないと思いながら移動を続けて、お金なんかまったく持っていなかったけど、とにかく足は生まれ育った場所に向かっていた。


 歩いて向かうにははるかに遠いのに、足は生まれ育った場所に向いていた。


 故郷を思いながら死ねるのなら、それでもいいと思って。


 お兄ちゃんとの思い出がたくさんある場所を懐かしんで。


 ああ、頭が痛い。


 足が重い。


 ここはどこだろう。 


 何日も移動を続けて、もう、侯爵家では私がいなくなっていることに気付いているはずだ。


 ギルメット侯爵家のお屋敷があった王都からは離れることはできた。


 でも、ここがどこかわからない。


 頭がボーッとする。


 途中で水を少し飲むことはできたけど、もう空腹すら感じなくなっていた。


「ちょっと、あなた!待ちなさい!」


 後ろから女性の声がした。


「どこに向かっているの?具合が悪いんじゃないの?」


 フラフラとした足取りは通りを行く人の不審を招いたのか、声の方を振り向くと、一人の女性が立っていた。


 長く綺麗な黒髪を一つにまとめて、年齢は私よりも年上に見える。


 濃い青の瞳は、キリッとした目元を生み出していた。


 とても綺麗な人だ。


 そんな人が、私を呼び止めていた。


「貴女はどこかで雇われているの?」


 近付いてきた女性が尋ねてきた。


「いえ……違います…………」


 普通に雇われるよりも酷い労働条件で働いていたと思う。


 無賃金で奉仕していたのだから。


 だから、嘘はついていない。


「何処かへ行く予定だったの?」


「故郷へ……もう、誰もいませんが……」


「だったら、うちで少し休んでから行きなさい」


「せっかくのお言葉ですが、私はお金を持ってはいないので」


「そんなのはいいから、とにかく休んでいきなさい。ああ、やっぱり、こんなに熱があるのに」


 女性が私の腕を掴んで、額に手をやった。


 一刻も早く、もっと遠くに行きたいと思っていた私は、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


 でも、そんな思いよりも先に体が悲鳴をあげた。


 ふらっとよろけたかと思うと、足がその体を支えきれずに上体は地面に倒れ……かかったところを女性に支えられていた。


「ほら、言ってるそばから。今、部屋に案内するから。大丈夫よ。私の母が使っていた部屋だから、宿泊料なんかいらないから。こっちよ。頑張って歩いて」


 女性の声に励まされながら、誘導に従って歩いていく。


 頭は何も考えられずに、ただ、ただ、女性の優しい声に導かれるように休息を求めようとしていた。


「ここがどこかは知っているかしら?ここは、ベラクール公爵領。その中でも大きな町ではないけど、治安は良いところよ。安心して。一人彷徨っていた女性を悪いようにする人はいないわ。だから、今はゆっくり休んで」


 女性の声は耳に入ってきてはいたけど、そこから何かを考えることはできなかった。


 休んでいいと言ってもらえたのは、いつぶりか。


 私を気遣う言葉には、なんの偽りも含まれてはいなくて、自分が感じたことを信じていいのか不安はあったけど、私を支えてくれる女性の手が優しくて、身を委ねて、最後は意識を手放していた。






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