放課後料理教室【三題噺#7】

綿雲

本日のレシピ

すっかり内側が曇ってしまったガラスの蓋を開けると、熱い水蒸気に乗って、ほわりといい香りが漂ってくる。思わず二人して顔を見合せて、にやりと頬を弛ませた。

放課後、オレンジ色の光に包まれた家庭科室が、温かな香気で満ちていく。鍋の中身は沸騰してぐつぐつ音を立てていた。


「つーかさ、料理が美味しくできるかどーかって、けっこう運ゲーじゃね?」


城田さんはそう言いながらも、真剣な表情でスープに浮いた灰汁と悪戦苦闘を繰り広げていた。その様子とぶっきらぼうな物言いが可笑しくって、思わず笑ってしまう。スープを睨む表情が、彼女のエプロンに描かれたマスコットとそっくりだ。


「興味深い意見だね。どうしてそう思うんだい」

「だってさー、ちゃんとレシピ通りにやろーとしてもさ、コゲたり、塩と砂糖間違ったり?そーいうのって運のうちでもあるくね?ほら、才能も努力も一緒、的な」


運も実力のうち、というようなことが言いたいのだろうか。いつもどこかあっけらかんとした彼女らしい考え方だ。喋っている最中にこちらの表情に気づいて、何で笑ってんだよ、とむくれた顔を見せる。笑ってないよ、とくすくす言って、笑ってんじゃん、とおたまの柄で小突かれる。


「いやしかし、なるほど、そういう考え方もあるかもしれないね。実際その日の天気なんかで味も微妙に変わるものだから、その辺は運に左右されると言えなくもないね」

「でしょー?」

「努力できるのも才能のうちだと言うし」

「それなー!」


つい今まで膨れていたのに、もううんうん頷きながら満足気に笑みを浮かべている。見ていて飽きないな、と思いながら、計量カップの中身をとぷとぷ鍋の中に注いた。


「でもそれも踏まえた上で、全てを計算して味をコントロールすることも理論上では可能なはずさ」

「マジ!?そんなことできんの?」

「一流のシェフはできるものらしいよ」

「はー、そこまで行くとやっぱさ、シェフっつーかハカセって方が合ってる気がするよなー。そんなんもうキッチンでやることじゃねーじゃん。研究室じゃん」

「料理は化学なり、か」


確かに、こうして向き合ってみると、このふたつには通じるところが多いと感じる。

もちろん彼女の言う通り、レシピ通りに作ったとしても失敗することもある。しかしそれを糧にして、何がいけなかったのか工程を振り返る。原因を見つけて次に活かすことができれば、もっと美味しい結果が出来上がったり…まあ、それでも出来上がらなかったりするけれど。

その辺の詰めが甘いのかな私は、それも運とは神のみぞ知るか、とひとり脳内で唸っていると、化学かあ、とげんなりした様子でため息をつく声が隣から聞こえてくる。城田さんは今朝の小テストの出来が芳しくなかったらしい。


「料理はまあ楽しーけど、化学はムズいし、面白くもなくね?」

「そんなことはないよ。料理も実験も同じさ、きちんと分量通りに材料を用意して、適切な処理をしていくんだ。化学式やレシピの通りにね」

「ふーん。じゃー化学のテストも料理実習になればいーのに」

「それは楽しそうだ」「でしょー?」


鍋の中が白く染まって、ことこと音を立てている。彼女の握ったおたまがくるりとスープをかき回すと、小さく刻まれた野菜たちがゆらゆら踊った。ブロッコリーやじゃがいもが浮かんではまた沈んで、鍋の中で軌道を描いている。

それを眺めているうちに、城田さんからこの「料理教室」のことについて、相談を受けた日のことを思い出していた。


「染谷はさ、頭いーじゃん?化学とか得意そうじゃん」


進級に伴うクラス替えのほとぼりも冷めやらぬ、4月初旬の頃のことだった。

偶然また同じクラスになって、これまた偶然隣の席になった彼女はその日、くるんとカールしたまつげの奥から、私を覗き込んでいた。夕焼けに染まった空が反射して、彼女の瞳に映り込む。


「まあ、それなりには。化学は面白いよ」

「ね、じゃあさ、あーしに料理教えてよ」


前後のつながりが不可解な突然の申し出に、些か面食らう。料理なんて正直、小学校の理科の実験でカルメ焼きを作ったくらいしか経験がなかった。化学が得意そう、というだけで私に?そもそも、城田さんとはこれまでほとんど話したことがない。

でも、いつもクラスの中心で笑っている彼女の、いつになく不安そうな顔を見て、よく分からないけれど、いいよ、と言ってしまったのだった。


「ただ、私も料理はあまり経験がないんだけれど」

「え!?マジ!?まいいや、じゃー決まり!ありがと染谷!」


ぱっと花が咲いたように笑顔になって跳ね回る彼女は、いつもクラスの中心で友達と話している姿より幼く見えた。

けれど今、湯気に包まれながら真っ直ぐに鍋と向き合う彼女は、柔らかな微笑みを浮かべ、優しく面倒見のいいお姉さんの顔をしている。


「ウチのかーちゃんさあ、最近仕事忙しくて。ごはんとか、一緒に食べれないんだよね」


毎週金曜日の放課後、慣れない2人の料理教室が始まって、4回目のことだった。彼女はそう言って、カラフルな絆創膏を施した指先で、サイコロ状にカットしたにんじんをころころ弄ぶ。


「だからあーしがごはん作って、妹と食べてんだけどさ。あいつ、飽きたっつってあんま食べてくれないんだよね。カップラーメンとか、冷凍パスタとか、パックのうどんとか」

「麺類ばかりだからじゃないのかい?」

「はー?別モンだろ!ラーメンとパスタとうどんは」

「まあそうだけれど。妹さんおいくつ?」

「8つ!でもさー、あーし料理とか、ぜんぜんやったことねーし。動画とか見て作ってみてもさ、なんか上手くいかなくて」


だから染谷がいてくれてよかったよ、マジで、と嬉しそうにこちらを見る彼女に、私はキャベツをちぎりながら首を傾げた。


「私に教えられるようなことはないし、私はレシピを読んで下拵えを手伝うくらいで、あまり君の助けにはなれていないような気がするのだけれど」

「そんなことねーし!マジ染谷に声かけた時さー、賭けだったんだよ、賭け」

「賭け?何のだい」

「なんつーか、最後の賭け!もし断られたら、もーどうすりゃいーのかわかんなかったしさ。家庭科のセンセは放課後すぐ帰っちゃうし、本は文字細かくて読めねーし…せめて誰か一緒にやってくんなきゃムリ!ってカンジだったから」


最後の頼みの綱のチョイスが、私でよかったのだろうか。もっと他に、うまく教えられる適任がいたんじゃないだろうか。彼女の傷だらけの指先を見て心がちくりと痛む。


「君は交友関係が広いんだし、私じゃなくても良かったんじゃないかい?」

「…染谷なら、あーしが料理下手くそでも、バカにしないかなって思ったから」

「どうして?」

「だって、染谷、センセー目指してんでしょ」


彼女の言うところには、私が世間話の折に触れて、教員を目指しているのを語るところをたまたま聞いていた、らしい。いいセンセーになれそーだよね、と彼女は続ける。私が黙っている間に、トマト缶のプルタブをこじ開けて、真っ赤な果肉を鍋にとぽとぽ放り込んだ。


「図書館で勉強してる時もさあ、よく他の子に教えてたし、教えるのうまいって人気だしさ」

「そうかな…でも勉強ならまだしも、料理については」

「でもさ、いいよ、教えてもらうだけよりさ、いっしょにできるようになるほうが」

「いいのかな」


いいっしょ、とはにかむように笑った城田さんに、私のほうが何だか褒められた幼子のような気分だった。

あの時のミネストローネはとてもいい出来栄えだった、と懐かしんでいると、すぐそばで彼女の浮き足立った声が響いた。


「染谷、染谷。もういいかな?」

「え、ああ…そうだね、いいんじゃないかな」

「やった!味見しよ味見!」


つられて鍋の中を覗き込んで、笑みがこぼれた。城田さんはぽかぽかと湯気の立つそれを、おたまで大切そうにひと掬いしては、2つのマグカップにとろりと注いでいく。給食で使うみたいなスプーンを添えて、誇らしげにこちらに手渡してくれた。


「ほい!染谷のぶん」

「ありがとう。上出来なんじゃない?」

「うん!見た目はめっちゃイイ感じかも。クリームシチューってなんか憧れあるし、ちょっとカンドーしてるわ今」

「確かに。わかるな」


手のひらでじんわりと温かい、マグカップいっぱいの、真っ白なシチュー。2人で作った料理は、出来たてをその場で『味見』して、残りは城田さんのおうちの夕ごはんになるのがいつものパターンだった。

材料費は彼女に出してもらってしまっているし、私がいただいてもいいのか、と聞いてみたこともあるのだが、「味見は作った人の特権しょ!」と明快な返事が返ってきた。以来味見だけなら、という建前で、ちゃっかりご相伴に預かっている。


いただきます、と2人して手を合わせて、ふうふう言って冷ましながら、熱々のシチューをぱくりと頬張った。もくもく咀嚼して、暫しの沈黙が流れる。


「…染谷。どお?」

「…正直に言うと」「うん」

「とても美味しいと思う」「それな〜!!」


大成功じゃん、とはしゃぎながらマグカップを握り締める彼女は、頬を上気させていそいそと二口目を口に運ぶ。

ひとくち食べると、まろやかなクリームの風味がふわりと広がる。ベシャメルソースから下準備をした甲斐あって、濃厚でバターの香りが豊かな仕上がりになった。野菜と鶏肉もいい塩梅に柔らかくなり、旨味成分がたっぷりルーに溶け出している。砂糖と塩も間違えてはいないようだ。


「マジサイコーじゃん!過去一ウマくない?」

「そうだね。私達も経験値を積んで対応力が上がってきたのかな」

「けーけんちね、そーいうのも大事だけどさあ、やっぱうちらが作ったからじゃね?」

「と言うと?」

「料理は愛情込めるのも大事ってゆーじゃん!」


それもまた面白い切り口だ、としみじみ彼女とシチューとを見比べてしまう。彼女の溢れんばかりの元気さが詰まっているのだと思うと、マグカップが余計に暖かく感じる。


「なるほど、料理は愛情か。これまた一理あるね」

「そ!これだけは運とか化学とか関係なくぜったい入れてるし!」

「そうだね、大切な母君と妹さんのためだものね」

「それもだし、染谷も!」「私も?」

「こーやって一緒に料理教室してくれてる染谷のことも、愛してるぜ!わかるっしょ?」


ぽかんとしてしまった私を見て恥ずかしくなったのか、何ボケっとしてんだよお、とばしばし背中を叩かれる。沸騰した鍋の蓋を開けた時より、もっと頬が熱くなった気がした。

ありがとう、とひと言呟いたと同時に、あーっと素っ頓狂な声を上げて彼女が勢いよく立ち上がった。


「どうかしたのかい」

「シオリから!今日かーちゃん早く帰ってくるって電話あったって!」

「それは良かったね。それじゃ冷めないうちに持って行ってあげないと」


どうやら妹さんからのメッセージらしい。慌ただしく『味見』を済ませたら、彼女は温かなシチューを湛えた鍋を抱えて、家族のもとに帰るのだろう。何だか名残惜しく感じて、カップに残った最後の一滴までごくんと飲み干した。鍋を丁寧に風呂敷に包みながら、城田さんがこちらを振り返る。


「そーだ、染谷ー」「何だい」

「来週はさあ、何食べたい?」


あーしあれ食べてみたいな、海外のお米の麺のやつ、と人差し指をくるくる回しながら、彼女はまだ見ぬ料理に思いを馳せている。

よほど麺類が好きらしい、というか今食べたばかりだろうに、と若干呆れつつ、また来週、の話に心が躍った。


「それはたぶん、フォーのことじゃないかな。確かベトナムの料理だ」

「そうそれ!うちらにもできるかな?」

「きっとできるさ。私もレシピを調べておくよ」

「うん!約束な!」


ほかほか暖かい私たちの料理教室は、化学式と、愛情がたっぷりだ。

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