第45話 静かな世界②

街の中心から離れた住宅地はまだ人が起きていないようで静かだった。

太陽が少しだけ顔を出し、空を橙色に染めていく。民家の瓦屋根や遠くに見える田んぼの稲が朝日に照らされ、空と同じ色に輝きだした。僕を急かすように、世界が着々と朝を取り込んでいくようだった。

僕の足音と息遣いだけが、閑散とした世界に響く。


僕の知らない何かを抱え込んで、彼女はいなくなった。

那澄、ごめん。

頼りなくて、ごめん。

君の居場所になれなくて、ごめん。

那澄の気持ちに気づいてあげられなかった。

今だって、那澄がどうしていなくなったのかわからない。

僕はどうすればよかったんだろう。

どうすれば、那澄の気持ちに寄り添えたんだろう。

走りながら、引っ越しの日に藤沢さんと交わした言葉を思い出す。

「那澄ちゃんを泣かせるようなことはしないでね。もし泣かせたら、許さないよ」

僕はその約束を果たせなかった。

那澄を守ると、覚悟を決めたはずなのに。


探し始めてからどれくらい経っただろうか、気付けば完全に太陽が昇っていた。人々が徐々に外に出始め、道路を行きかう車も少しずつ増えてきた。透明人間なんて知る由もない、普通の世界のいつもと変わらない日常が当たり前に始まろうとしていた。

住宅地を抜けたところの階段を上ると、川に沿って続く堤防に出た。堤防の道は朝日に向かって延々と伸びている。僕は堤防を走りながら、両側にある民家や河川敷を見下ろし、那澄の姿がないかを確認していく。

眩しい朝日に目を細めながら、必死に探す。

ふいに、鼻先にぴちゃりと水滴が当たった。

空を見上げる。

上から、細かな雨粒がパラパラと落ちてきていた。

日照雨。

僕の服とアスファルトの道路にシミができていく。

普段交えることのない太陽と雨が、ここぞとばかりに僕に邪魔をしているようで、僕は苛立ちと不安の混ざった溜息を漏らす。


突然、僕の横を通り過ぎたシルバーの軽自動車がスピードを落とし、数十メートル先で止まった。

僕はその車に見覚えがあった。

対向車線に注意を払いながら、健二が車から降りてきた。

「やっぱり立紀だ」

「健二......」

「いやー、偶然だな。お前、びしょぬれで何してんの?」

健二はニヤつきながら僕の方へ歩いてくる。

「それ、パジャマ?」

僕の前で立ち止まった健二は、また笑いながら、傘を開き、自身と僕が中に入るようにかざす。

僕が返答に困っていると、「家出少年みたいだな」と健二が言った。

冗談だとわかっていても、「家出」という言葉に反応してしまい、思わず健二の顔を見る。

「なんだよ、図星みたいな顔して。お前一人暮らしだろ」

そう言って彼は苦笑した。

「俺、今から釣りに行くんだよ。彼女乗っけてな」

健二は手首をくいくいっと動かし、釣りのジェスチャーをする。

「でも俺ら、釣りしたことないんだ。今日が初めて。先週いきなり思い立ってさ、道具とか一式買いそろえたんだ。まあ、一匹も釣れないかもだけど、もし釣れたら立紀にも分けてやるよ」

楽しそうに話す健二は、きっと藍田さんと上手くやれているんだろう。

それに比べて、僕は何をしているんだ。

自分のふがいなさを、拳の中に握り込む。


僕と那澄だって。

これからもっと楽しいことをして、もっとおいしいものを食べて、もっとお互いを知っていけるはずだった。

心の奥底から那澄との思い出が、痛みとなって膨らんでいく。

これからずっと、一緒にいられると思っていた。

それなのに、どうして......。


「......立紀、泣いてんの?」

気付いたら、涙が頬を伝っていた。

那澄に会いたい。

ただその気持ちだけが、僕の中に残っていた。


......僕には、何が正しいのかわからない。

それでも、もし、神様が僕を見捨てていないのなら。

今、健二と出会えたことに意味があるなら。

那澄を見つけるために、僕がすべきこと—―。


僕は、藤沢さんと交わしていたもう一つの約束を破った。


「......那澄が、いなくなったんだ」

「え、那澄? 誰それ」

「......彼女」

健二は一瞬で困惑した表情になる。

「まじ? お前に彼女がいるとか聞いてないんだけど」

「ごめん」

「なんで今まで言わなかったんだよ」

「ごめん」

「はあ、なんだよそれ。......で、彼女がいなくなったって何? まさか同棲してるわけじゃないよな?」

「してる」

健二はいっそう呆れたような顔で僕を見る。

「なんなの、まじで」

「ごめん」

「なんかむかつくなあ。......で、ケンカしたとか?」

「まあ」

本当のことを説明する時間がないので、理由はそれでいい。

「はあ、なんだよ、ある意味家出が正解じゃん」

健二は額に手を当て、ため息をつく。

「それで、お願いがあるんだけど――」


深く下げた僕の頭を、健二が小突く。

僕たちは車に乗り込んだ。


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