第42話 動物園②

もうすでに開園しているようで、列が少しずつ前に進んでいく。並ぶ人たちの賑やかな会話の中に、「キリンの赤ちゃん」というワードが聞こえてきて僕はハッとする。もしやと思い、スマホで調べたところ、今日はアミメキリンの赤ちゃんの一般公開の日だった。そのキリンの赤ちゃんはハート柄の模様があるということで、SNSで以前からちょっとした話題になっており、僕も下調べをする中でその情報は何度か目にしていた。しかし、まさか公開日が今日だったとは知らなかった。

不覚だったなぁと自分の額に手を当てる。

そのことを那澄に話すと「そうなんだ」とだけ返ってきた。那澄にしてはやけにあっさりとした返事だったので意外に思う。てっきり、「見たい!」と飛びつくような反応をするかと思っていた。

キリンについてはたいして興味がなかったのか、周りに人がいるから大人しくしているだけなのか。あるいは、下調べが疎かだった僕に腹を立て、冷めた態度を取っているのだろうか。


列が進むにつれて、入り口の様子がはっきりと見えてきた。受付の流れは事前に調べた通りのようだったので安心する。来園者が多くなることを見越してか、入場ゲートのそばに警備員が一人立っていた。それを見て、一瞬ドキリとしたが、よほど不審なことをしない限り呼び止められることなんてないだろうと、自分を落ち着かせる。変に気を張りすぎるのも良くないと思い、静かに深呼吸をした。

顔を見られないように低い位置で日傘をさしている那澄は、ろくに前が見えていなさそうなので、僕は受付までのおおよその距離を教えてあげる。

「あと五十メートルくらいだよ」

「......」

返事はなかった。

「那澄?」

「......」

がやがやとしているせいで僕の声が聞こえていないのだろうか。もう一度話しかけようとしたが、やはり怒っているのではないかという考えが頭をよぎり、口をつぐむ。日傘に隠れている那澄がどういう反応をとっているのか、僕にはわからなかった。

受付まであと数組というところまで進んだとき、微かに、握っている那澄の手が震えていることに気がついた。

しまった、と思った。

僕はすぐに「那澄、具合悪い?」と聞く。

答えを待つ間もなかった。

那澄が、僕と繋いでいた手を離した。

思わず、足を屈めて傘の中を覗き込む。

「那澄?」




「......はあっ......はあっ......はあっ」

那澄が胸を押さえていた。

小さく、苦しげに息をしている声が聞こえた。

「ちょっと、大丈夫?」

周りに目立たないくらいの声量で、声をかける。

見向きもしない那澄は、僕の声が聞こえていないのか、反応する余裕すらないのか、とにかく必死で苦しさを抑え込もうとしているように見えた。

普通ではない那澄の様子を見て、僕は戸惑う。

熱中症かと思ったが、もっと別の苦しみ方のような気がした。

僕が次の判断を迷っているうちに、那澄の呼吸はさらに荒く、乱れていった。

「んあっ......はっ......はあっ......」

苦しそうな呻き声が大きくなっていく。それを聞いて、前後に並んでいた人がこちらへ視線を移したのがわかった。

まずい。

ひとまず、那澄を連れて列から外れよう。

そう思った瞬間、那澄の持っていた日傘が地面に落ちた。開いたままの傘が、カラカラと音を立てて転がる。

那澄は両方の手で胸を押さえ、呻きと喘ぎと悲鳴が混じったような苦しそうな声を不規則に漏らす。

そして、腰を下げ、膝をつけて屈んだかと思うと、二度、嘔吐した。

それを見て、前に並んでいる若い女性のグループが小さな悲鳴をあげる。

周りの目線が、全てこちらに集まったのを感じた。

入場ゲートの方から、警備員が駆け足で向かってくるのが見えた。

受付の係員が、別の係員に何かを支持しているのが見えた。

僕の額に汗が滲む。

僕は、彼女のことを心配する気持ちと、早く逃げなければと焦る気持ちに押され、「那澄」と彼女の名前を呼びながら、まだ息の荒い背中に手を置いた。

背中に触れた瞬間、那澄は「ひっ」と悲鳴を上げ、僕から身をかわすように慌てて立ち上がった。そんな反応をされたのは初めてで、僕は息が止まる。

周りで、さっきまでとは違う悲鳴が上がった。

見ると、那澄のパーカーのフードが脱げていた。

立ち上がった際に脱げたのだろう。

周囲の目は、すべて那澄に向けられた。

ざわざわと、恐怖と好奇が入り混じった声が聞こえる。

駆けつけていた警備員も、思わず足を止めていた。


人々の視線と声に怯えるように、那澄は足をよろめかせる。

胸を握り込むように押さえた彼女は、さっきよりも呼吸が乱雑になっていく。

このまま、壊れてしまいそうだった。


「那澄、走って!」

叫んだ僕は、那澄の腕を引いて駆け出す。

「え、ちょっと、君たち!」

後ろで警備員の声がした。

列に並んだ人々の視線を浴びながら、僕は来た道を走る。



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