第39話 依頼
床に散らかった髪の毛を片付けた後、僕らは紅茶を入れて一息ついた。僕は本棚から取り出した漫画を、ベッドに腰かけながら読む。
しばらく静かな時間が流れていたが、ふいに、隣に座ってスマホをいじっていた那澄が「えっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
僕が問いかけても、那澄はスマホの画面を見て固まっているようだった。僕は漫画を横に置いて、スマホの画面をのぞき込む。
映っていたのは、那澄が絵を投稿しているSNSの、個人間のメッセージがやり取りできる画面だった。那澄宛てに「初めまして、突然失礼します!」の一文から始まる長文が送られてきたようで、僕はそれを読む。
前半は、那澄の絵をべた褒めするような内容で、後半は、有償で自分のSNSのアイコンの絵を描いてほしいという依頼だった。
「これって......え、え?」
那澄は戸惑った様子で、何度も画面をスクロールしてメッセージの内容を確認している。
「依頼だね、すごいじゃん!」
僕の言葉に、ようやく「えええっ!」と驚く那澄。
「私なんかが!? な、なんで!?」
「なんでって」
その慌て具合に僕は笑う。
「もっと上手い人いっぱいいるのに! し、知らないのかな?」
「この人は那澄の絵が好きなんでしょ」
「そ、そうなの......?」
長文でそう書いてくれてるのになぁ、と苦笑する。
「依頼、受けるの?」
「どうしよう......」
「受けてみたら?」
「うーん......」
那澄はしばらくの間悩んでいたが、日が暮れるころには「描いてみようかな」と結論を出した。
那澄は僕と相談しながら、承諾の文章を何度も校正した後、依頼主に送る。緊張しているのか、那澄はため息ばかりをついていた。
「依頼が終わったらさ、近所の動物園でも行こうか」
夕食時、ハンバーグをフォークで一口大に切り崩しながら、僕は提案する。
「えっ、動物園?」
彼女は驚いたような声を出す。
「......行きたいけど、人がいるところはさすがに危なくないかな?」
那澄は申し訳なさそうに、若干の笑いを含んだ声で当然の懸念点を指摘する。
「意外と、大丈夫だと思うんだ。ドライブで牧場に行ったときに気づいたんだけど、お客さんは動物にくぎ付けで、他のお客さんのことなんて気にしていなかった」
「でも、受付もあるでしょ?」
「調べたんだけど、近所の動物園は券売機で買ったチケットを受付の人に渡すだけらしいから、顔をじっくり見られることもないはず」
大丈夫な理由を淡々と述べながら、結局僕の都合の良い憶測で、安全だと言う確証はどこにもないなと、内心自分を鼻で笑う。
でも、提案を取りやめる気はなかった。
それは、ドライブ旅行を計画した時から意識し始めた、那澄をもっと外の世界に出さなければならないという、僕なりの考えがあるからだ。別に、人間社会に溶け込ませようというのではない。ただ、透明人間として、外の世界で何ができるのかを確かめることは必要だ。それは、僕らの生き方や将来を模索していくことでもある。将来を憂いて押しつぶされる前に、僕らは前に進まないといけない。少しのリスクを負ってでもだ。この考えは、那澄にもっといろいろな楽しいことを経験させてあげたいという、僕の願いも含まれている。
それでも、強制はできないし、那澄の意思を第一に尊重すべきだという考えも持ち合わせているので、僕は「どうする?」と、最終判断を那澄に委ねる。
那澄は、「んん......」と悩ましそうに声を出していたが、それほど時間をかけずに結論を出した。
「......うん、行こう」
その声は、いつもよりはっきりとしていて、覚悟を決めたという風だった。
「よし、きまり!」
と僕は微笑む。
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