03



「じゃあ、私は帰るから」


 それだけ言うとユウリは静かに歩きだした。


 遠ざかっていく背中を、倒れたままぼんやりと見送る。なぜか頭がぐわんぐわん揺れていて、うまく思考がまとまらない。

 背中に感じるアスファルトの冷たさだけがはっきりしていた。


「……そういえば」


 何を思い出したのか、ユウリがふと足を止めた。スカートをくるりと軽やかに翻して、なぜか上機嫌に僕の所へ小走りで戻ってくる。

 軽い足取りで頭のすぐ脇に立つと、腰を屈めて僕の顔を覗き込み、内緒話をするみたいに口元に手を添えて囁いてきた。


「最近、この辺りで不審者が連続で目撃されているらしいよ」


 まだ頭を動かすのは辛く、視線だけで見上げる。街灯の光を背にして逆光の影に沈んだユウリの顔には、怪しげな微笑みが浮かんでいた。


「なんでも身長2メートル越えの筋肉モリモリマッチョマンのへんた、じゃなくて変人だって話。真っ黒なレインコートみたいな服装で全身を覆って、目深に被ったフードの奥には、金色に光る片目だけが浮かんで見える。

 気配がまるでなくて、音もなくいつの間にか背後まで近づいて、片手で首を掴んで吊り上げ、ジッと見つめ……放り投げられて、それっきり。

 目的すらはっきりしないけど、話を聞いた限りじゃ誰かを探してるみたいだね」


 クツクツと喉の鳴らす音が、僕の耳をくすぐってくる。

 何がそんなに面白いのか、さっきまでの冷え切った態度が嘘みたいに楽しげだ。頬もちょっと赤らんでる……えっ、やだ。このマジで興奮してません?


「まぁ、探してるのが誰かなんてどうでもいい。問題なのは、もし仮に、きみが巻き込まれたとき、果たして無事でいられるかどうかってところ。ほら、きみ性格は糞袋にゲロと生ごみと汚染物質を詰め込んだみたいに終わってるけど……まぁ、見た目だけは可愛いからね」


 ユウリの指が頬にかかっていた僕の髪をそっと耳にかき上げ、僕の柔らかほっぺをぷにぷに突いてくる。

 手つきに若干のいやらしさを感じるのは、きっと気のせいじゃない。


 ま、まさか――、


「都合のいい不審者の噂に、ちょうど人目のない暗がり。もし今ここで、きみに何かあっても……みんな事件に巻き込まれたんだって考えるんじゃない?」


 ――ヤル気かっ!? このまま、ここで!


 だ、ダメだよ、そんなこと!

 僕たち高校生だよ?

 き、キスだってまだなのにッ!


 確かに僕は可愛いから、ユウリが僕をメチャクチャにしたくて辛抱たまらなくなってるのは議論の余地なく当然のことだけど!

 でも……そういうのはちょっと……早いと思うの……。


 まぁ、でも? ユウリがどうしてもって言うなら吝かじゃないっていうか?

 こういうのにつき合ってあげるのも幼馴染の甲斐性っていうか?

 躊躇なく外でおっぱじめる、その未知へのチャレンジ精神、嫌いじゃないぜ?


 だから、ちょっとだけ我儘聞いてあげる。

 けど、僕……初めてだから……優しくしてね?


 涙で視界が滲ませながら、不安と期待が入り混じった顔でユウリを見上げる。


 ユウリは目を細めてニヤッと口の端を吊り上げると、ゆっくり手を伸ばして――僕の鼻を摘まんだ。


「もし、そうなったときは感想を聞かせてね。それじゃあ」


 にっこりと、実に爽やかな笑みでそう言い残し、ユウリは都会の闇に消えていった。


 ユウリが見えなくなって少し経ってから、僕はゆっくりと起き上がって、壁に体を預けた。


「……なるほど、ね」


 辺りにまだ微かに漂っているラベンダーの香りを吸い込み……やれやれと溜息を吐いた。


 ――このかまってちゃんめ。


 孤高でいることを自分に科しているくせに、どうしたって他人ひとといることでしか自分を保つことができない。

 凄く面倒くさくて、凄く困った奴なんだ、あいつは。


 だから、見るまでもなくオーラが既に可愛い僕を、こんな寒空の下に捨て置くわけがない。

 そんなことをして、万が一お持ち帰りされちゃったら罪悪感で泣いちゃうからね。


 つまり、そうならないために、ユウリは今も気づかれないよう僕を監視している。


 なら、僕がやるべきことは、怒りに任せて暴れることでも悲しみ暮れて泣き腫らすことでもない。――全力のきゅるんきゅるんな媚び顔だ。

 生まれたての子犬のみたいに体をぷるぷるさせて、目玉が溶けてんじゃないのってくらい涙をいっぱいに溜めて、保護と扶養を訴える。これだ。


 ふふっ、勝ったな。これで見捨てたら、そいつは人間じゃない。


 それに、ユウリは本人も自覚してないけど『実は優しい不良先輩ヤンキー属性』だから、道端の捨て犬が4倍弱点で刺さる。すぐにスライディングでカットインしてくる、間違いない。


 ――さぁ、いつでも来いよ。史上最大のキュンッをくれてやるぜ!


「きゅるん♪」


 ――――。


「きゅるるん♪」


 ―――――。


「きゅるるるるん♪」


 ―――――――。


「…………ふむ……なるほど、ね」


 小さく呟いて、空を仰いだ。


 人工の光が溢れる現代の都市部では、どれだけ輝かしい星でも、見つけることさえ難しい。別に、そのことが悲しいとかじゃない。ただ……少しだけ寂しかった。


 まったく。こんな可愛い子を放っておくなんて、見る目ないよ。

 ユウリにも困ったもんだ。あんなチャンスそうそうないのに、ここぞってときにヘタレてくれちゃって。今度迫ってきても、ほっぺは触らせてあげないことにしよう。


 頬を膨らませながらスマホを確認してみると、既に21時を回っていた。


 いつものことだけど、ユウリといると時間を意識することさえ忘れてしまう。

 まぁ、それで誰が困るわけでもないから別にいいんだけど。


「……もうちょっと、どっかぶらつくかな」


 今帰っても、寝るまでの時間が中途半端に余ってしまう。

 それなら、もう少し時間を潰して、帰宅して即風呂からの布団へのダイブをキメたい。


 ――へへっ。アレに一回手を出しちまうと止められねぇんだ。


 さて。帰りは決まったけど、それまでどうしようかな、と考えながら懐に手を伸ばす。

 慣れた手つきで上着からシガレットを取りだして咥え、一緒に取りだしたライターに火を点す。オレンジ色の火がシガレットの先を炙るが、当たり前だけど葉っぱじゃないから燃えない。


 細い煙が一筋、微かに立ち昇り、すぐに溶けて消えた。


「……へっ。湿気ってやがる」


 口に広がるココアミントの風味を感じながらニヒルに笑う。


 我ながら馬鹿なことしてるなと思う。だけど、こういう馬鹿なことを常日頃からしてないと、いざというときに馬鹿なことができなくなる。

 どんなくだらないことでも笑えるようにしとかないと、面白いことを見逃しちゃうのと同じだ。みんなで笑える出来事なんてのは大概、本当に小さいことだからな……。


 シガレットをコリコリ甘噛みしながら、もう一度ゴロンッと横になる。


 面白いことを常に探していながら、それでも一人になった途端、風船の空気が抜けていくみたいに気力が萎んでいく。

 これもいつものことだけど、そんな自分に嫌気が湧く。


 どうしようもない倦怠感にうだうだしながら表通りの方に視線を向けると、行き交う車のライトと店の明かりが眩しくて、すぐに目を逸らした。


「……僕にはここがお似合いさ」


 そう呟いて、仰向けになって目を閉じる。


 ――なんか面白いことでも起きないかなぁ……。


 例えば……そう。この目蓋を開けたら、目の前にトラックが迫っていて、あっけなく死を覚悟した次の瞬間には、それっぽい空間で女神からチート能力を渡されて、それまで生きてきた自分の人生なんてゴミ同然に捨てて、異世界で転生無双。

 そんな反吐が出るような、手垢塗れでテンプレートな夢物語に浸って、ありきたりな宝物を探すんだ……美少女ハーレムとか。最高だね。


 そういえば、なんでああいった作品は、自分勝手に生きることを至上命題みたいにしつつ、最終的な幸福をS○Xとか相手ありきのものに持っていきがちなんだろう?


 やっぱり人間は、本当の意味で独りぼっちじゃあ幸せになれないよ、ってことか。


 まぁ、なんにせよ。僕の場合、ハーレムなんて作った日には3日と持たずに崩壊するのが目に見えてる。なんたって、その場にいる誰よりも僕が可愛いのは確実だから。


 僕の可愛さに嫉妬したハーレム要員たちが結束して、僕を亡き者にする展開まで読めたわ。


 ――ゆかり先生の次回作にご期待ください。


 あぁ。眠たいことを言ってたら、本当に眠たくなってきた。

 ……いっそ、ここで寝ちゃうか? ……それもいいかも。


 秋に差しかかったとはいえ、まだそこまで寒くないから凍死も心配ないだろうし。

 気がかりといえば、さっきユウリが言っていた不審者ぐらいだけど、それもここが日本である以上、滅多なことでは大事ならない。

 もし本当に襲われたとしたら、それはそれで面白いことになりそうだから、むしろウェルカムだ。


 あぁ……そうだ。そうなったら、どれだけいいだろう。


 ――次に僕が目蓋を開けたら。そこには……、


「ねぇ。アンタ、大丈夫? そんなとこで寝てたら風引くよ?」


 黒タイツに包まれた美脚と、超きわどいホットパンツの食い込みだった。



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