第9話 初日 12:00-5

 吐息すら感じるほどの距離に益人の顔があるった。

 これは、そういうことなんだろうか。

 一般的な中学生だ、その手の知識はある。まだ身体は成長しきっているとは言い難いがそういう趣味の人がいることも。

 不思議と忌避感はなかった。暴れて振りほどくことも出来たが相手は大人だ、膂力で叶うわけもないと受け入れる言い訳を探していた。

 だから直後に言われた言葉に、桜はすぐに反応出来ずにいた。


「なんか来てる」


 初めてちゃんと見た彼の瞳は吸い込まれそうなほど濃い黒だった。

 しっかりと見開かれたそれは、眼球が忙しなく揺れ動いていて焦点があっていないようだった。何かを見ている訳では無いと気づいて桜も耳をすます。

 無音。むしろ触れている心音の方がうるさいくらいだ。

 気のせいじゃないか、そう言おうとした時、桜の耳が確かに異音を拾っていた。

 かつ、かつ。文字にすればそんな音だった。

 非常にゆっくりとした歩の音。最初は誰かが戻ってきたかと思ったが違う、足音は一人分しか無かった。

 可能性としては他の参加者であるほうが高い。まだ集合する時間まではいくらもある。それにペアで活動しているはずの皆が一人で戻ってくる状況は考えたくなかった。

 気配は未探索の方から響いていた。一歩、また一歩と進むにつれ音は大きくなる。

 近づいてきている。それが分かり桜は息を飲む。

 身体が氷のように固まり、呼吸も覚束無い。そんな中で益人は滑るようにして椅子の下、地面に伏せていた。

 二人折り重なった状態では背もたれに完全に隠れることは出来ない。そう判断しての行動だったが、桜は重みが無くなったことに淋しさを覚え手を伸ばしていた。

 益人の肩に触れ、寄れたシャツを掴む。


「大丈夫だ……たぶん」


 はっきりと断言しないところが逆に安心できた。

 濃厚な恐怖の気配はもう十メートルもない所まで来ていた。

 心臓が痛い。肺が苦しく、額には汗が滲む。

 このままでよかったのか、すぐに逃げるのが正解だったのか。答えのない問が頭の中を駆け回る。

 お願い……

 できることは神頼みくらいしかない。

 そして、音が止んだ。


「……」


 沈黙。呼吸すらうるさいと感じる中でじっと耐える。

 次の音が響いた時、致命的である可能性も否定できない。恐怖から思考が嫌な方へと誘導されているようだった。

 ──かつ。

 かつ。かつ。


「っ!」


 声にならない、歯の隙間から息が漏れる音が鳴る。

 それに反して足音はゆっくりと、遠ざかっているようだった。

 安全かどうかは別として今この瞬間だけは危機から逃れた。それがたまらなく嬉しい。声を上げていいのなら叫ばないでいられないほどに。


「行くぞ」


「えっ?」


 腕を立て、身体を持ち上げた益人が言う。

 逃げるにしては性急すぎる。まだ足音が聞こえる程には近くにいるのだから。

 益人は桜を待たずに音の方へと向かっていた。一人残されることと見つかるかもしれない恐怖を天秤にかけ、

 ……行かなきゃ。

 理由がなくリスクを負うような人では無い。そう信じて桜は益人の背中を追った。

 待合所は通路からせり出す形であったため上から見ればコの字にへこんでいるようになっていた。その壁沿いに進んだ益人は通路を見るために顔を少し出して、


「……いた」


 桜はその下から同じように顔をのぞかせていた。

 後姿が目に入る。あれは――


「参加者……っぽくねえな」


 上から振ってくる声に桜も頷く。

 軍隊を思わせる迷彩柄の服を身に纏い、手には柄の長いハンマーを持っている。何より着ぶくれしたようにふっくらとした体形と見上げるほどな背の高さが特徴的だった。

 今まで見てきた参加者の服装はただの私服か制服だった。だから完全装備にも見えるその恰好に違和感を感じていた。


「……参加者以外がいる可能性もあるのか?」


「そんな……」


 もしそうならば、かなり状況は悪い。

 全員生存を掲げている以上一人でも死んだらその時点で計画は破綻する。今までは専守に徹してゆっくりと時間をかければよかったのだが、知らないところで人が死ぬ可能性が高まった今、なるべく早く他の参加者を見つけておきたいところだ。

 謎の人物はそのまま通路の奥へ進むと曲がり角に着いていた。そして周囲にある部屋には目もくれず道をなぞるように消えていった。

 その姿が見えなくなってから五分近く経って、ようやく桜達は通路から視線を外していた。


「──ったく、なんだってんだ」


 肺の中の空気を全て吐き出しながら、益人がそう漏らしていた。


「……皆は大丈夫でしょうか」


「多分な。獲物に血が付いてる様子はなかったし」


 疲れきった顔で益人が答える。

 よく見てるなぁ、と感心する。その存在感に圧倒されて細部をよく見ていなかったからだ。

 二人とも壁を背にして座り込んでいた。今からなにかする気が起きず、そのうち益人の体が地面に向かって倒れこんでいく。


「だー、つかれたー」


 小声で、それでもしっかりと桜には届く音量で。その気持ちが痛いほどわかって桜も同じように、益人の腕の中へ倒れこんでいた。


「暑い」


「寒いんです」


 背中越しに声で震える胸が、確かにそこにいると伝えていた。


「まだまだ餓鬼だな」


「まだまだ餓鬼ですよ」


「……三日間、やってく自信ないわ」


 その言葉に桜は何度も頷く。

 他人の姿を見ただけで足がすくんで動かなくなる。ただの暗闇ですら涙が出そうになる。誰かが隣にいないだけで叫びたいほどの淋しさに襲われる。それが三日間、とてもではないが体がもつとは思わない。

 まったくもって不幸だ。いいことなんて一つもない。

 その時、頭に物が当たる感触に桜は目を開いた。

 大人が子供に行うように、掌が置かれていた。


「ぼちぼち、やるしかないな」


「そうですね……ん?」


 少しだけ硬い掌の感触はくすぐったくて、思わず笑みが漏れる。ただそれよりも先に目が見つけたものがあって、


「どうかしたか?」


「いえ……あれ」


 寝転がりながら桜は腕を前に突き出し指を指す。

 そこは連結された椅子の下、前から三列目当たりだった。


「……なんだ?」


 確かに何かがあった。今の状態でわかることはそれだけだ。

 桜はゆっくり上体を起こしてから、両手両ひざをついて目的の物へと近づいていた。

 何かしらの機械であることはすぐにわかった。漆黒のプラスチックの台座に斜めになった背もたれのようなものが付いた、掌より少しだけ大きいようなもの。ディスプレイ用に何かを立てかけておける、そんな使い道ぐらいしか思いつかないものだった。


「……なーるほどな」


 後から同じような姿勢で近づいてきた益人が深く頷いていた。

 その理由を問う前に、益人はポケットから取り出したスマホをそこに立てかけていた。

 その瞬間、スリープ状態だった画面が自動で立ち上がり、『ダウンロード中』という文字とメモリが表示されていた。

 十秒ほどで一メモリ。二十ほど枠があるため三分ほど待つこととなる。

 桜はそれを息をひそめてじっと凝視していた。

 長いような短いような時間にも終わりは訪れる。何が起こるのか、疲れ切った頭が最後の力を振り絞って考えているうちにダウンロードが終わっていた。

 益人がスマホを手に取り画面を操作する。行儀が悪いとわかっていても興味から桜は横から覗いてしまう。

 ルール、役職。馴染みのあるファイルの隣に『アドオン』と書かれたファイルが追加されていた。益人はためらいもなくそのファイルをタップすると、画面には『レーダー:殺戮者(マーダー)』とかかれたボタンと、その下にいくらかの空白を置いて『使用する』のボタンが配置されていた。


「んじゃ、スマホ」


「はい?」


「スマホだよ。お前もアドオン入れとくんだ」


「あ、はい」


 桜はその言葉通りに動く。胸ポケットのスマホを機械に置くと、ダウンロードが始まらなかった。


『このアドオンはダウンロード済みです』


 無機質な通知に、益人が舌打ちをする。


「ケチくせえな」


「まあまあ……で、アドオンってなんなんですか?」


 興味がある。今までとは毛色の違うものに、期待をしないわけにはいかなかった。

 ボタンが押され表示された画面には文章が並んでいた。


『レーダー:殺戮者(マーダー)


 効果 殺戮者(マーダー)の現在位置がわかる

 効果時間 三時間

 途中中断 不可』


 二度見て、三度目は目を伏せる。

 ……思ってたより。

 思ってたより、しょぼい。そんな感想しか出てこなかった。

 きっと先ほどの人物がマーダーなのだろう。その可能性が一番高いように思える。その動向をたどれることは非常にありがたいことだが、時間制限があり二度と取得できない可能性を考えると、使いどころを考えなければいけなかった。

 桜が納得のいかない顔をしていると、


「ラッキーだな」


 予想に反して前向きな返答があった。


「しょぼくないですか?」


「あ? あぁ、こいつはな。でも他のアドオンにはもっと使えるもんがあるかもしれないだろ。この機械を見逃さないようにすればいいんだからその情報のほうがでかいぜ」


「なるほど」


 存在を知っているか知らないかで目に入る入らないが変わってくる。そういう意味では確かに有益だった。

 益人はそれだけ確認したのち、スマホをしまって、


「じゃ、戻るか」


「……はい」


 まだ少し時間はあったが、桜は力強く首を縦に振っていた。

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