最終話 SUNRISE

 電話があったのは、約束の時間のほんの二十分前だった。

『あー…もしもし。悪いんだけど今日さ、俺、店に出られなくなっちゃってさぁ~』

 相手は少しだけ済まなそうな空気を滲ませ、謝罪の言葉を口にした。二日酔いか、若しくはそれに類似したしょうもない理由の為に今日の約束をすっぽかすのかと思ったが、『墓参りしてたら、たまたま故人の家族と会っちゃってね。どうも、彼女達の誘いは断れないんだわ……』本当にどうしようもなく呟く声が続く。頭をポリポリと掻きながら困った顔をする相手の姿が想像でき、男は口許を緩めた。

「いいですよ。楽しんで来て下さい」

 男は、二年前の記憶をつい昨日のことのように思い出す。



******

 


「まぁ、こうなるとは思ったけどさ。取り敢えず、一発殴らせてよ」

 首もとを派手に露出したアロハシャツの彼は、先程まで吸っていた煙草を灰皿の上で揉み消しながら、ヘラヘラと笑って言う。

「どうぞ」

 男は正座をしたまま、真っ直ぐにアロハシャツの男を見ていた。アロハシャツの男――――リュウは、ぶはっと吹き出した。

「どんだけ真面目なの? そんなの、殴るわけ無いじゃん。俺、頑固親父でもなけりゃ、麗だって愛娘でもなんでもねぇよ」

 けらけらと笑いながら、既に新しい煙草に火をつけて噴かしている。部屋に煙草の臭いが充満し、何と無く部屋の中の空気が白っぽい。

「…………俺は、過去のアンタと一緒だったから。マスター」

 男……嶺は、依然として真面目な態度を崩さずに、正座した膝の上で拳を握っていた。嶺のその言葉に、ピクリとリュウの眉毛が動いた。嶺はきっと、それを見逃してはいない。

「アンタの罪に、何と無く気が付いたよ」

「………」

「………とやかく言うつもりはないし。麗を責めないで欲しい。麗も、マスターだって明言したわけじゃない。でも…………麗を誰かの代わり・・・・・・にしたのって、アンタなんだろ?」

「………」

 リュウは何も言わずに煙草に口をつけては、白い息を吐いた。嶺とは目が合わない。手元を見たり、不意に窓の外なんかを眺めたりして時間を潰していた。

「………」

「麗の好きな人は、マスターなんだろ?」

「………あー………ナニソレ、知らなかったなぁ……」 

「とぼけるなよ。………麗の気持ち知ってて、抱いたのかよ?」

「あ? 他人の事情に踏み込み過ぎだよ、ガキ」

 一瞬にして、ピリッとした空気が部屋全体を支配した。

リュウの指に挟まれた煙草の煙が揺らめいて、時が止まっていないことを知らせる。それでも、まるで時が止まってしまったかのように、二人は互いににらみ合い、微動だにしない。一触即発。先に動いた方が喰われるような、そんな空気だった。

「『愛』だとか簡単に語ってくれちゃって、青二才が」

 先に口を開いたのはリュウだった。口元に厭な嗤いを浮かべている。

「お前こそ。愛なんて知らないんだろ? だから、自分のことを想っている幼い麗を抱けたんだ。お前が麗の……唯一の拠り所だったはずなのに。…………悪魔だよ、お前はッ!」

 言い終わるか終わらないかの瞬間、嶺の左頬にリュウの拳がぶつかり、嶺は畳に倒れ込んだ。

「…………………あーあ。殴っちゃったじゃん。だから言ったじゃんか。他人が踏み込むなよ、こっちの事情に」

「………お前の事情なんかッ、知らねぇんだよッ……!」

 畳から起き上がるなり、嶺の右拳がリュウの左頬を殴った。リュウも先程の嶺と同じように、畳に倒れ込む。

「っ、てぇ~……」

「一発ずつ。おあいこと言うことで」

「ひっでぇ。俺まで殴られるなんて聞いてないんだけどぉ~」

「どうしようもないクズだから。仕方無いんじゃないです? 殴られても」

 頬を擦りながら起き上がるリュウに、怒りの感情は見て取れなかった。対峙する嶺にも、そういった感情は見受けられない。リュウはへらりと笑った。

「……その顔、麗もよくしますよね」

「え? そう?」

「…………」

 惚けたようではないリュウの様子に、嶺はもやもやとした気持ちを持ったが、その正体を突き止めないでおこう、と思った。

「あーあ。それにしても」

 リュウは嶺を殴る際に適当に放り投げた煙草の吸い殻を拾い上げた。まだ火が着いている。拾い忘れていたらあわや大惨事になるところであった。

「麗、幸せになれなかったのね」

 リュウは肩を竦めて、その吸い殻を灰皿の上で捻り潰した。

「…………アンタは今、幸せなのかよ?」

「え? 俺?」

「アンタが幸せじゃないなら、それは麗のせいでも誰かのせいでもなく、アンタ自身のせいだよ」

 ヒクヒクと片方の頬を痙攣させたリュウだったが、何も言い返さなかった。………「言い返せなかった」と言う方が正しい。

「麗を解放してやってよ、マスター」

 真っ直ぐに見詰めてくる意志の籠った真っ黒な瞳に、リュウは目を背けることが出来なかった。また此処で、少しの沈黙が降りる。けれどすぐ、リュウは眉を寄せて困ったように頭を掻いた。

「………フれってこと? んで、何? 嶺クンは傷心の麗を慰めてくれるの?」

「いや。無理だ」

 なんだそりゃ! とリュウは大袈裟にずっこけてみせた。嶺はつっこまない。少しもふざけていない。

「俺も、自分の未熟さとか不甲斐なさとかそういうの……よくわかったから。偉そうに、誰かを救えると思ったりして、自分に酔いしれるのはもうやめることにした」

 なんだそれ、とリュウは首を傾げたが、嶺もわざわざ説明したりはしなかった。深く頭を下げてから、顔を上げる。

「結果的に麗を傷付けたことを謝りたい。すみませんでした」

 もう一礼して、「これで失礼します」と挨拶した。

 リュウが目を丸めている間に玄関で靴を履く。ドアノブに手をかけると、ガチャリと音を立てて開いた。少しだけ開いた隙間から、淀んだ空気が逃げていき、澄んだ空気が部屋をいち早く浄化しようと駆け込んでくるような錯覚を覚える。外の風は存外に、心地よい冷たさを持っていた。

「それじゃ」

 そうして別れた二人。普通ならそうそう出会さないように気を遣うはずだが、嶺は次のシフトに当たり前に顔を出し、またしてもリュウの目を丸めさせた。




 それから、嶺が日本を発つ前に一度、oblioオブリーオを貸し切って、二人で飲んだことがある。

「oblioってのは、『忘却』って意味なんだよね」

 ブランデーの入ったグラスを傾けながら、リュウは徐に口を開く。部屋は程よく暖かくしていたが、お酒を飲んで体温が上がることを考えて普通よりは設定温度が低い。まだ少しだけ肌寒く、嶺はまだ上着を着たままだった。リュウに倣って、用意して貰っていたブランデーの入ったコップを煽る。カッと喉が熱を持つ。

「『苦しいことも辛いことも忘れて、皆で楽しく飲もう!』――――ってのは、表向きで。本当は、俺が忘れたかったんだよね。ハツコイの相手のこと。………とか、そのヒトが死んじゃったこととかさ」

「…………」

「なのに、oblioなんて名前つけちゃったからますます忘れられないの。可笑しいでしょ?」

 既にグラスを開けそうなペースで飲み、笑うリュウに、「可笑しくないですよ」と嶺は落ち着き払った声で言う。BGMの流れない二人だけの店内で、ひどく耳障りのいい音だった。

 嶺は時々、感情的になることもあれば、こうして落ち着き払って物事を語る時がある。リュウは、この得体の知れない人間に、時々鳥肌を立てた。「怖い」と言うよりは、面白い映画に出会えた時の反応に似ている。

「……相手、妻子持ちだったのよ。不倫とかじゃなくて、完全なる俺の片想いでさぁ。あ、俺、ゲイなんだけどね? しかも、かなりの年上好きなんだよ。救われないでしょ?」

 自虐的に嗤うことに馴れたのはいつだっただろうか。そんなことを考えて始めたリュウのことを悟ったのか、嶺は首を振る。「笑うなよ」とリュウを諫める。

「……アンタのその顔、麗に似てる。………麗に似てるんじゃなくて、麗がアンタに似たんだろうな。お前ら二人でさぁ。……もっと幸せになろうと足掻けよ」

「あっはは! 嶺くんに叱って欲しくてわざと湿っぽくしちゃうや! 俺って意外とマゾなのかな? 試してみない?」

「………キモい」

「あっはは!」

 麗はもうリュウの元を去っていた。去る、と言っても一人暮らしを始めただけで、バーテンダーは復帰していた。フッた相手を雇い続けるリュウが図太いのか、フラれた相手のところで働き続ける麗が強かなのか、わからない。それでも、リュウはリュウなりに、麗は麗なりに、これまでの様々なことに折り合いをつけようとしているのが見て取れた。

 嶺は麗が復帰する前日にバーテンダーのバイトを辞めた。別れてから、一度も会っていない。

「麗には会わずに発つつもりなの?」

「そのつもり」

「徹底してるねぇ~。………本当は、まだ好きなんでしょ?」

 からかうように言うリュウに、嶺は返事を返さなかった。代わりに、グラスの酒を飲み干して手酌をする。

「俺には俺の、折り合いをつけなきゃいけない問題があるんだよ」

 へぇ? とリュウは興味深く思ったが、詳しく聞こうとはしなかった。後はただ、酒を酌み交わしながら、まるで級友にでも出会ったかのような調子で、他愛もない話をした。



******



 あの時に聞いた月命日の墓参りは、今も相変わらずしているのか、と思うとなんとも言えない気持ちになった。

 リュウのあのオンオフの変わりようだが、オンの時はその想い人の魂を自分に宿すつもりでやっているのだと話していた。――――全てが嶺には懐かしいが、二年と言う月日は、『思い出』と言うにはまだ日が浅い気もする。

 懐かしい夜の街を歩く。無料案内所の看板は少し草臥れたようにも思う。キャッチの為にうろつくチャラい連中は居なくなったようだ。規制が厳しくなったのか?

 懐かしい小路を曲がる。少し歩けば右手側に、黒い外壁が見える。暗がりでも、確かな存在を感じさせる。オレンジ色のライトに当てられて、店の名前を表しているステンレスの看板が嶺を歓迎する。


 bar・oblio。


 その重厚感の溢れる扉には、「本日貸切」と書かれた札がぶら下がっていた。嶺は力を込めて、扉を押し開ける。

 カランカラン。――――懐かしい、その音が響く。

 オレンジ色のライトを基本とする店内は、確かに明るいが、眩しくはない。それでも、嶺は目を細めた。

「嶺!……おかえり」

 バーカウンターの向こうに、女と見間違う程の美貌を持つ男が立っていた。長く伸びた髪の毛を一つに纏めて簪で留めているが、全てを留めきれずに少しだけ垂れ下がっているのが色っぽい。

 にこりと微笑まれて、嶺もつられて笑った。

「………久し振り。麗」

 カウンターまで距離を詰めると、「嶺さん、長旅お疲れ様でした」と嶺の横から声が聞こえた。

「……那智」

 声のした方を見た嶺は、一瞬、瞳を揺らした。その瞳に映ったのは、前世から自分を慕い現世でも傍に居てくれた那智の姿だった。また少し背が伸びたのかもしれない。男性の平均身長の嶺でも、那智の顔を見る為に少しだけ顔を上げる。那智は珍しく、黒のシャツを着ていた。それに、この店のエプロンをつけているし、バーカウンターの向こう側に居る。

「バーテンダーになったの?」

「違いますけど。今日はお手伝いで」

「たまに助っ人入ってくれるんだよ。那智のファンもいる」

「麗!」

「へぇ?」

 嶺がまじまじと那智を見ると、那智は顔を赤らめた。「………恥ずかしいので、あんまり見ないで下さい……」と銀色の盆で顔を隠す。

「就活辞めて起業したって聞いたけど」

「あ、はい。……やっぱ、誰かの下につくのは嫌だったので。それに、行動も限られてきちゃうし……」

 正しくは「嶺以外の下につくのは嫌だった」し、「嶺が何県で就活するかわからなかったので、オフィスを持たなかった」である。

 嶺は那智の手元を覗き込んだ。オレンジを切っている途中だった。フルーツの盛り合わせの準備をしているようである。時間厳守の嶺が定刻よりも早く訪れることを知っていただろうに、嶺基準の那智が、作業を終わらせていないと言うのは珍しいことだった。絶対に無いだろうと思うことが起こり、嶺は微笑した。

「…………嶺、さん………」

 その時、スタッフルームへ続く廊下から顔を出す人物がいた。………那智の妹、麻知だった。嶺は目を丸める。彼女は、嶺の事を嫌っていたはずだ。麻知は相変わらず女優顔負けの美貌であったが、長かった髪をバッサリ切ってショートヘアーになっていた。

 おずおずと奥から出てきた麻知は気まずそうに目線を漂わせながら、やっと嶺と目を合わせ、ペコリと頭を下げた。

「…………随分前に、生意気言ってごめんなさい。あと、謝罪遅くなって、ごめんなさい」

「えっ」

 嶺が慌てて那智を見ると、那智は苦笑して「どうしても直接謝りたいって言うから」と麻知の横に立つ。そしてやっぱり、頭を下げた。

「………妹が、失礼な態度を取ったようで。僕からも、ごめんなさい」

「え、いや! 取り敢えず、顔上げろよ!」

 尚も慌てる嶺は今度は麗の方へ視線をやった。麗は肩を竦めて、「嶺が困ってるよー」と言いながら人数分のグラスを用意する。あまりこちらに介入する気は無さそうだ。

「ほんと、顔上げろよ。えーと、麻知……さん。あんたが言ってくれた言葉が、あの時の俺には必要だったんだから」

「………」

 ゆっくりと顔を上げた麻知は、やっぱり嶺と目を合わせなかったが静かに頷いた。

「……麗と別れてざまぁみろと思ったことも、ごめん……」

「いや、まじで口悪いよなッ!」

 それが笑い話になる日がこんなに早く訪れるとは思わなかった。那智はまだどことなく気まずそうだったが、麗と嶺は声を出して笑った。

 麻知は本当に一言謝りに来ただけだったようで、直ぐにその場を後にした。三人だけ残った店内で、「さてそろそろ始めようか」と声をかけたのは麗だった。

「改めまして! 嶺、お帰り!」

「嶺さん、お帰りなさい!」

「あんがと!」

 嶺の横に那智が座り、麗はカウンターを挟んで立ったまま、三人はグラスを鳴らした。

 麗は青色のお酒―――ブルーキュラソー。那智は普通にウイスキーだった。嶺はジントニックだ。

 麗はフルーツの盛り合わせやナッツ、生ハムなど適当にカウンターに並べる。

「どうだった? 二年間は」

「有意義だったよ」

「大学、辞めたって聞いたけど」

「あー。なんか……柵に感じちゃって。お前らの話も聞かせろよ」

 三人は会えなかった空白の時間を埋めるように会話を続けた。酒は勿論、つまみも進む。麗の話は那智は知っていたし那智の話も麗は知っていたが、嶺の話を知る人はいなかった。嶺も、二人の現状を詳しくは知らない。結局、彼は約二年間、麗とも那智とも連絡を取らずにいた。

 それが最近急に、帰国することを伝えたのだった。

 盛大に祝え! というわけではなかったが、「それならoblioで会おう」ということになった。もっとぎくしゃくとするのだろうと思っていた三人の予想も、いい意味で裏切られた。三人にとって、もう気まずくさせるような記憶はすっかり過去になっていた。

 再会したことがただ嬉しくて、それ以外は些細なことのように思った。

 楽しく飲んで過ごすこの時間が、永遠に続けばいいなと―――三人がそれぞれ、思っていた。


 カランカラン。


「うわ。嶺、雪だよ! 雪!」

 それでも勿論時は止まらない。「本日貸切」の札を「closed」に変えに行った麗が声を弾ませた。

「うへー。どうりで。寒いわけだわ」

「ええー? 感動とかないの?」

「雪を見て?」

 麗の声に引き寄せられて表まで出てきた嶺は、麗の横に立って空を眺めた。真っ黒な空から、真っ白な雪が降り注ぐと言うのは確かに、幻想的な光景だなとは思った。

「那智はまだ寝てるの?」

「ああ。………あいつ、あんなに酒弱かった?」

「………今日は特別だからねぇ……」

 二人とも空を見上げながら会話を続けた。ちょっと出るだけのつもりだったので、薄着のままの二人の体温はすっかり冷えきってしまっているはずなのに、どちらとも「中へ戻ろう」とは言い出さない。

「………ねぇ、嶺。どうして君がオレ達の前から姿を消したのか、流石にわかってる。けど、教えて」

 元々色白の麗は、鼻の頭も両頬も真っ赤にさせて、白い息を吐いた。悴む指先を、握ったり開いたりして温めようと試みる。

「………離れた二年間には、ちゃんと意味があった?」

 嶺にとっては、麗の顔を見ることのできない二年。また、麗にとっても嶺に縋ることのできない二年だった。「当然だろ」と答える嶺に、麗は喉を鳴らした。

「………おい」

「………少しだけ」

 麗は嶺の手を握った。決して、指を絡めるような握り方ではない。

「嶺の手、冷たい」

「お前の手の方が冷たいよ」

「……ねぇ嶺。お前はオレの、“初めて”だったんだ……」

 何がだろうか、と顔に書いたまま、嶺は初めて隣に立つ麗の方へ顔を向けた。顔に書かれたメッセージを読み取って、麗は笑う。

「夜が明けても傍に居てくれた人は。お前が初めてだった」

 切なそうに。でも、嬉しそうに。寒さに赤らんでいるはずの顔に、それとは理由の異なる朱が指す。

 心臓が、ぎゅっと痛む理由を、今の麗なら答えられる。

「オレに必要だったのは、『ありのままのオレ』を受け入れてくれる人じゃなかった。オレ自身に、『変わらなきゃいけない』と思わせてくれる人だったんだ。ありがとう。嶺。……それが君だった。好きだよ」

「………」

 微笑む麗とは対照的に、嶺は口をパクパクとさせた。何かを言いかけてはやめてを繰り返し、やがて、絞り出すようにやっとの思いで「………ありがとう」とだけ言う。

「ごめん」とか「俺も」とか、そういう返事が出来るような心をまだ嶺は見付けられていなかった。

「………ごめん」

 だから、この「ごめん」は告白の返事のことを指していない。

「…………俺、新しい環境で多くのことを学んだ。文化の違いもそうだけど。考え方とか、価値観とか。お前らと離れて、良かったと思ってる。………だけど、帰ってくる場所はやっぱり、日本で。一番に会いたいと思って、浮かんだ顔は……二つあるんだ」

 情け無さそうに告白する嶺に、麗はやっぱり笑った。

「その中の一つがオレだと思ってもいいんだよね? いいんだ。オレ、決めたから」

 今度はオレが、嶺に愛を教えてあげる番だから。と、麗は繋いでいた嶺の手の甲に口付けを落とした。

「………れい、」

「さて、嶺。そろそろ店で寝てる那智を連れて帰ってやって。どうせ、二人でホテルを取ってるんでしょ?」

「んんッ! 語弊がある……」 

「あっはは! さぁさぁ。店仕舞いだよ! 夜が明ける前に帰った帰った!」

 促されて、麗に見送られ、嶺は那智と一緒にoblioを後にした。





「…………ん」

 瞼から伝わってくる明るさに、堪らず、那智は寝返りを打つ。すると、顔に何かがぶつかった。頭が重くまだ夢を見ていたいのを、仕方無しにうっすらと目を開ける。

 ぼやけて見えた視界は、直ぐにはっきりとした。

「みっ、嶺さんッ………!」

「あ、那智。おはよ」

 那智がギョッと目を見開くのも無理もない。那智がぶつかったのは嶺がベッドに立てていた肘で、どうやら嶺はベッドの縁で寝ている那智の顔を眺めていたらしかった。それも羞恥ならば、確かに部屋は二つ取っていたはずだった。那智の頭の中は大混乱だ。

「な、な、なに、して……」

 ぶわっと汗を吹き出した那智に、嶺はケラケラと笑った。ベッドから腕を退け、腹を抱えている。楽しそうに愉快そうに、涙まで浮かべて笑う。

「変わらないな、那智!」

「っう……」

「………俺のこと、好き?」

 息を飲む。目を見張って、嶺を見た。床にすっかり尻を着けた嶺が、ベッドの上の那智を見上げている。

「……………すみません」

「なんで謝る?」

「………だって……」

 嶺から視線を背ける那智を、嶺は許さなかった。那智の視界の端で立ち上がったと思うと、その頬に嶺の手が触れた。「那智」と自分を呼ぶその声に、まさか顔を上げないわけにいかなかった。

「…………すみません。貴方とどんなに離れても。突き放されても。僕は、貴方が好きなままなんです……」

「………うん」

 言わせておいて、嶺は困ったように笑った。麗にも言ったけど、と前置きして、嶺は言う。今は麗にも嶺にも恋愛感情がないこと。それでも、日本に帰って一番に会いたいと思ったのは、麗であり、那智であったこと。

「…………俺がこの先、誰を好きになって結婚したとしても……那智。お前は、俺の傍に居てくれるか?」

「勿論です!」

「ふ、即答かよ……」

 那智は自分の頬に置いている嶺の手に自分の手を重ねた。愛おしそうに頬擦りをされて、嶺はたじろいだ。―――その仕草は、光子を連想させた。

 そんな嶺には気が付かず、那智は忠実な目を嶺に向けたままに宣言する。

「貴方は僕の太陽だから。太陽がやっと朝を連れてきてくれたのに、拒むことができる人間なんて居ると思いますか?」

 貴方の居ない二年間は暗闇でした、と続けた那智は、「それでも」とまた言葉を続ける。

「貴方が居ない間、変わらないことと変わったことがあります」

「うん?」

 嶺が疑問の声をあげて直ぐ、強い力で嶺はベッドへと引っ張られた。「ぉわっ!」当然、バランスを崩した嶺は那智の上に倒れ込む。

 那智は嶺を、ぎゅっと抱き締めた。そのまま、嶺の疑問に答える。

「貴方を好きな気持ちは変わらなかった。貴方に尽くしたい気持ちは変わらなかった。―――変わったのは、この気持ちを押し隠して生きていこうって言う覚悟の方です」

 貴方に振り向いて貰えるまで、僕は諦めません。と、耳元で言われたものだから、嶺は耳を真っ赤にした。

「……………嶺さん?」

「……………なんだよ、」

 抱き締めていた腕の力を緩めたが、嶺は那智の肩に顔を埋めたまま微動だにしない。

「…………嶺さん、顔が…………赤いです……」

「………………っる、さい……………」

 遮光カーテンの隙間から依然として朝日が差し込んできて、二人を照らした。

 ぐぅっと、どちらともなく腹が鳴る。

「……………ご飯、食べに行きますか……?」

「…………おう」

 体内時計が朝が来たことを報せる。簡単な準備をして廊下へ出れば、出会した人に「おはようございます」と挨拶され、やはり「おはようございます」と返した。

 当然だが、夜は明けて、朝になる。

「今日」は昨日になるし、「明日」は「今日」になる。

 地球が廻る度にまた、朝が来る。

 夜は何度だって明けるのだ。

(…………明日は、何をしようか……)

 明後日は、明明後日は、と想いを巡らせた。

 エレベーターの中でありったけの勇気を出して、那智は嶺の手に触れた。ゴツゴツと骨ばった男の手だ。握り締めてみると、握り返されたことに驚いた。

「…………何」

「え、いや。……そう言えば、手を繋いだこと無いなぁって……」

「……んなことないだろ。さっきも繋いだし」

「いや、さっきのは違いますよ……」

 チン、と音が鳴る。一階に着いたことをエレベーターが報せた。ドアが開く。二人は肩を並べて、エレベーターから降りる。




******




 生まれてきた日。

 その理由は知らなかったが、言い知れぬ孤独に泣いた。その頼りなさに泣いた。

 誰だかわかってすらいないのに、傍に『君』が居ないことに泣いた。

 自分が生まれ変わったと知った時、現世でも、必ず君に会おうと誓った。



 出会えたことすら奇跡なのに。

 


 長い長い夢の終わりの予感に、那智はそっと、嶺の指に自分の指を絡ませた。










―了―


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【BL】この夜が明けても 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi

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