虎視眈々

三鹿ショート

虎視眈々

 あと一歩踏み出せば、全ての苦しみから解放される。

 元凶に向き合わず、戦わずして逃亡する私を臆病者だと笑いたければ、いくらでも笑うがいい。

 落下によって傷ついた私の肉体を目にすれば、その笑みは自然と消えることだろう。

 だが、誰が何をどう思おうが、どうでもいいことだ。

 重力に身を任せ、地面と一つになってしまえば、私は何も感じなくなるのだ。

 背の高い建物の屋上から、改めて下界を見つめる。

 道を行く人々は、これから人間が落下してくることなど、露ほども想像していないだろう。

 上司に対する嫌悪感を抱きながら歩を進め、恋人との食事の時間を想像して頬を緩めているのかもしれない。

 少なくとも、私のように文字通り現実逃避をする人間は存在していないだろう。

 そこまで考えたところで、私は屋上の縁から離れることにした。

 闇夜が近付いてきているとはいえ、通行人の数は多い。

 場合によっては、私の落下に巻き込まれてしまう可能性があるのだ。

 この世から去ってしまえば何もかもから解放されるとはいえ、他者の人生を奪うほど、私は落ちぶれていない。

 人影が無くなってから、落下することにしよう。

 しばらく時間を潰そうと振り返ったところで、私は彼女の存在に気が付いた。

 私が屋上にやってきたときは無人であり、これまで屋上の扉が開く音は聞こえていなかった。

 いつの間に、彼女は姿を現したのだろうか。

 思わぬ客に驚いている私と目が合うと、彼女は安堵の表情を浮かべながら、

「中止することにしたのですか。それならば良かったです」

 その言葉と表情から察するに、彼女は自らの手で生命活動を終了させるという行為に対して、否定的であるのだろう。

 だが、逃れることが不可能である苦しみに襲われている私の事情を知れば、考えを改めるかもしれない。

 しかし、見ず知らずの相手に痴態を晒すことは、気分が良いものではない。

 私は彼女を無視し、屋上の中央で横になった。

 数多くの星を目にする頃には、通行人の数も減っていることだろう。

 色が変化していく空を無言で見つめていると、突然彼女の顔が眼前に出現した。

 彼女は他者を安心させるような柔らかい笑みを浮かべながら、

「事情を話せば解決するわけではないかもしれませんが、口に出すことで楽になることもあるかもしれません。私で良ければ、話を聞きますよ」

 順風満帆の人生を送り、苦痛とは無縁の日々を過ごしてきたかのような彼女の姿に、私は苛立ちを覚えた。

 彼女に怒りを抱くのは筋違いだろうが、私は彼女を睨み付けながら、

「道に迷っている人間に手を差し伸べることで優越感に浸るつもりならば、余所へ行ってください。私には進むべき道が見えているのです」

 その言葉に、彼女はゆっくりと首を左右に振った。

「私と同じ道を歩む人間を、助けたいのです。これから先の未来には、あなたが想像もしていないような幸福が待っているかもしれないのですから」

 彼女の決まり文句ともいえる台詞に呆れたが、やがて彼女の言葉に引っかかりを覚えた。

「同じ道とは、どういう意味でしょうか」

 私がこの世界に別れを告げようとしたことは、彼女も理解している。

 それを踏まえて同じ道とは、一体どういうことなのだろうか。

 私の疑問に対して、彼女は寂しげな笑みを浮かべると、手を差し出してきた。

「私の手を、触ってみてください」

 脈絡の無い言葉に首を傾げながらも、私は彼女の手を掴もうとした。

 私の手は、彼女の手を通り抜けた。

 そのときの私は、屋上から身を投げようとしていたことなど、すっかり忘れていた。

 それほどの驚きが、私を襲ったのである。

 目を見開いている私に、彼女は弱々しい笑顔で、

「私の肉体は、既に滅んでいるのです」


***


 彼女は、いわゆる幽霊だった。

 超常的な存在は信じていないが、現実感のある外見に反して、この手で触れることが出来ないと身を以て知ったため、認めなければならないだろう。

 彼女は私の隣に腰を下ろすと、過去を懐かしむかのように天を仰ぎながら、

「私がこの場所から飛び降りた理由は、意中の相手と結ばれることが叶わないと知ったからです。私にとって至上の幸福が得られないのならば、生きている意味は無いと思ったのです」

 常人にしてみれば、耳を疑うような理由かもしれない。

 だが、私には理解することができる。

 理由は異なるが、同じようにこの屋上から身を投げようとしていたためだろうか。

 話を聞かされた返礼というわけではないが、私もまた、彼女に事情を話すことにした。

 端的に話せば、私はいじめを受けていたのである。

 それは自然災害のように私に突然襲いかかり、被害は今もなお続いている。

 何故標的とされたのか、未だに不明だった。

 何者かの機嫌を損ねるような言動をした記憶は無い。

 そもそも、私は目立つような人間ではなく、静かに学校生活を送っていた。

 もしもその態度が気に障るのならば、私の他にも標的は存在しているだろうが、知っている限り、それは無かった。

 誰かに助けを求めようにも、数多くの痴態を相手に記録されており、この件を口外すれば公のものとすると脅されていたため、大人しく従わなければならなかったのだ。

 そこまで話したところで何気なく横に目をやると、私は目を丸くした。

 彼女はまるで自分自身が被害者であるかのように、涙を流していたのである。

 話している私が冷静になってしまうほどの泣き顔を見せていたが、やがて深呼吸を繰り返し、流れていた涙を拭き取った。

 そして、力強い眼差しを私に向けると、

「事情は分かりました。私ならば、あなたを助けられるかもしれません」

 これまで存在していなかった味方の出現に喜びを感じたのは、自分でも意外だった。

 誰にも何も期待していなかったが、心の奥底では、助けを求め叫んでいる自分が存在していたのかもしれない。

 しかし、当然といえば当然の疑問が口に出た。

「あなたが、どうやって私の助けになるというのですか。私をいじめた連中を祟るとでもいうのですか」

 私の問いに、彼女は首を左右に振った。

「残念ながら、私には特別な力が宿っているわけではありません」

「それならば、どうするのでしょうか」

 彼女は自身の身体を指差しながら、

「肉体を持たない私は、何処へでも侵入することが可能です。この特性を利用し、あなたを苦しめる人間たちの秘密を入手し、それを交渉の材料にしてはどうでしょうか」

 それは、良い考えだった。

 人間誰しも、他者に明かしたくは無い秘密の一つや二つを抱えている。

 入手方法を話さなくとも、その秘密を知っているというだけで、連中にとって私の存在は脅威となることだろう。

 彼女という味方は、これ以上は無いと言っても過言では無いほどに、頼もしかった。

 だが、私は逸る気持ちに身を委ねず、彼女に告げた。

「あなたは私のために動いてくれるということですが、何の見返りも無いというのは心苦しくもあります。あなたのために、私が何か出来ることはありますか」

 数分前までの私ならば、決して口にすることは無かったであろう言葉である。

 しかし、生きる希望を見出したためか、自然と口から出てきたのだ。

 私の問いに、彼女は面食らったような様子を見せていたが、すぐに破顔すると、

「そのようなことは、考えなくてもいいです。精神だけがこの世界に留まっている私に出来ることといえば、これくらいのものですから」

「ですが、何の礼をすることもなくのうのうと生きられるほど、私は図太い人間ではありません。私が叶えられることならば、叶えたいのです」

 私の言葉に、彼女はしばらく逡巡していたが、やがて諦めたように息を吐くと、

「では、あなたを苦しみから救うまでに、考えておきましょう」


***


 彼女が仕入れてきた情報は、なかなかのものだった。

 ある人間は毎夜のように一糸まとわずに徘徊することを趣味としており、ある人間は道行く女性を暗がりに誘い込んでは思うままに振る舞うなど、露見すれば人生が台無しといってもいいような行為に手を染めていた。

 それから私は、連中を一人ずつ呼び出しては、それらの情報を握っているということを明かしていった。

 逆上して襲いかかってくるのではと恐れていたが、自身の痴態が口外されることを避けるためか、連中は私から手を引くことを大人しく承諾した。

 この世界から去る以外に連中から逃れる手段は無いと考えていたが、どうやら私の寿命は大分延びたようだ。

 私が解放された旨を伝えると、彼女は自分のことのように喜んだ。

「では、今度は私の番です。あなたの望むことを、叶えさせてください」

 そう告げると、彼女は顔から笑みを消し、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「一応、考えたのですが、本当に頼んでもいいことなのか」

「言ってみてください。申し訳ありませんが、無理ならば無理だと、しっかりと伝えますから」

 駄目押しの私の言葉に、彼女はしばらく悩む素振りを見せていたが、やがて意を決したように私を真正面から見据えると、

「少しの間だけ、あなたの肉体を、貸してほしいのです」

 それが何を意味しているのか、理解することが遅れたが、

「貸すとは、一体どのようにするのでしょうか」

 私の疑問に、彼女は落ち着いた様子で、

「あなたの肉体には、私のように、あなたの精神が宿っています。肉体の持ち主に許可を得ることができれば、精神だけを入れ替えることが可能なのです」

 つまり、肉体は単なる容器に過ぎないということなのだろうか。

 超常的な存在である彼女が方法を示したのならば、実際にその通りに状況が変化するのだろう。

 だが、当然ながら考えなければならないことがある。

「私が自分の肉体に戻る場合は、どうするのでしょうか」

「あなたの肉体に入っている私が、入れ替わることを許可すれば、元に戻ることができるのです。簡単な方法でしょう」

 そこで彼女は再び申し訳なさそうな表情を浮かべると、

「無理にとは言いません。しかし、生きている肉体でなければ味わうことができないことを、どうしても味わいたいと思ったのです」

「一体、何があなたをそこまで動かすのですか」

 私が問うと、彼女は照れ笑いを浮かべた。

「実は、私が好意を抱いていた相手が、最近になって小料理屋を開いたのです。その手料理を、一度でいいから味わいたいと思ったのです」

 現在のように、会話をすることはできるが、彼女が何かに触れることは不可能だ。

 ゆえに、このようなことを頼んできたのだろう。

 私は、彼女に向かって頷いた。

「それくらいならば、お安いご用です。喜んで肉体をお貸しします」

 私がそう告げると、彼女の顔が一気に明るくなった。

「本当ですか」

「ええ、いわば命の恩人ともいえる相手の頼みですから」

 胸を叩いた私に、彼女は感謝の言葉を口にしながら、頭を下げた。

「では、目を閉じてください」

 彼女の言葉に従い、瞑目する。

 数秒も経過しないうちに、私に声がかけられた。

「目を開けてください」

 その声は、私のものだった。

 私自身が口を動かしていないことを考えると、私の肉体に入り込んだ彼女が言葉を発したのだろう。

 開眼した私が目にしたものは、自身の肉体だった。

 まるで鏡を見ているようだが、鏡は何処にも存在していない。

 入れ替わった感覚はまるでなく、奇妙という以外に表現しようがない状況だった。

 本当に現実のものなのかと眼前の私の肉体に触れようとしたが、私の手は何に触れることもなく、通り抜けた。

 つまり、入れ替わりは成功というわけである。

 感心している私を余所に、彼女は突然声を上げて笑い始めた。

 それは、私本人ですら聞いたことがないような哄笑だった。

 喜びを表現するにしては大げさではないかと考えながら様子を眺めていると、やがて彼女は目に涙を浮かべながら、

「ようやく、肉体を得ることができました。ありがとうございます」

 その笑みは、とにかく邪悪だった。

 己の計画が寸分の狂いも無く進行したことを喜ぶかのような、親愛の情をまるで感じさせないようなものである。

 豹変ともいえる様子に呆気にとられていると、彼女は私の肉体に触れながら、

「我ながら、これほどまでに上手くいくとは思っていませんでした。しかし、弱っている人間ほど扱いやすいということは想像通りでしたがね」

 私は、ようやく己の浅慮さに気が付いた。

「私を騙していたというのか」

 怒りが込められた声色に、彼女は怯むこと無く、むしろ可笑しそうな様子で、

「完全に騙していたわけではありません。意中の相手と再会したいということについては、嘘ではありませんから。感謝の意味も込めて、その相手の名前を教えましょうか」

 そこで彼女が口にしたのは、私の母親の名前だった。

 理解が追いつかず、言葉を失っている私に、彼女は変わらぬ様子で続ける。

「あなたの母親とは幼少の時分から仲が良く、互いの秘密を何でも打ち明けるような仲でしたが、私が抱いていた想いは、どうやら私だけのものと気が付きましてね。ちょうどあなたと同じ年齢のときに、屋上から身を投げたのです。しかし、彼女に対する想いが強すぎたことが影響したのか、この世界から完全に去ることは叶わなかったのです」

 彼女は私の自宅が存在する方角に目をやりながら、

「彼女には幽霊を感じ取る能力が無かったために、私は無言で彼女の生活を眺め続けました。もちろん、中には見たかった光景もありましたが、触れられないということは辛かったです」

 精神だけとなった私に視線を移動させると、彼女は私の肉体の胸を叩いた。

「ですが、彼女があなたを宿していることが分かったとき、私はあなたの肉体を乗っ取る計画を考えたのです。そうするために、私はこの世界に留まっていたに違いありませんから」

 それから、彼女は自身が立てた計画を自慢げに語り始めた。

 私をいじめていた連中の主犯が幽霊を感じ取る能力を持っていたため、毎日のように付きまとっては精神を蝕んでいき、やがて私を痛めつけることを解放の条件にしたらしい。

 そして連中を利用して私を追い詰め、もはや助かる方法は自ら生命を絶つこと以外には無いという思考に至らせたところに、救世主を気取って姿を見せたということだった。

 事の次第をようやく理解したところで、彼女の計画において、恐るべき内容の一つを指摘する。

「私の肉体で触れるということの意味を、分かっているのか」

 私の言葉に、彼女はなおも醜悪な笑みを消さずに、

「関係性は分かっていますが、突き詰めれば所詮は男と女です。それに、肉体はあなたのものだとしても、中身は私ですから、問題はそれほど大きいものではありません」

 彼女はそう告げると、歩き出した。

 慌てて彼女を追い、止めようとするが、無力そのものである。

 私の肉体の持ち主である彼女が許可しない限り、私は彼女から自身の肉体を取り戻すことが出来ないのだ。

 自宅に到着するまで、彼女を説得し続けたが、当然ながら彼女は聞く耳を持たない。

 玄関で私の肉体を乗っ取った彼女を出迎えた母親が押し倒されるところを見た瞬間、私はその場から逃げ出した。

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虎視眈々 三鹿ショート @mijikashort

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