3

 *


 「忘れものをしたわ」


 夏のはじめ、夏休みプロモーションのちょうど山場。

 一週間ほと前、休職に入った先輩は電話の向こうでそう切りだした。


 いや、切りだす、て、ほどの緊張感なんかなくて、「デスクにハンカチ忘れてきた」くらいなノリだった。そのくらいならオレが捨てときますよ、程度の。


 「お前にしか頼めない」


 それなのに。そんなに深刻なはなしなのか、なぜオレなのか。


 仲がよかった覚えはない。

 個人的な会話をした覚えもない。

 この連絡先だってきっと、部内連絡網から拾っただけだろう。


 「お前、独身だろ」


 ……そうゆうことなら電話切るか。


 三十路で独身。

 それを揶揄われたのは覚えている。


 飲み会もサッカー大会もでないオレに、

 「そんなだからだ、そんなだからいつまでも嫁さんができないんだ、堅物のバケモンが」

 とか笑っていた。大きなお世話だ。


 「気にすんじゃないよ」

 教材開発課のおじいちゃんが肩を叩いてくれたけど気にはしていなかった。

 「やっこさん浮気して、これと海外いくってはなしよ。療養休暇なんて嘘っぱちだよ」

 しかもそんなろくでなしにいわれたところで。


 嫁さんなどできなくて結構だった。ひとりでいい。ひとりがいい。


 女性は苦手、同性も苦手。

 まして子どもなど、


 「ガキなんだけどさ、」

 「……」


 え?


 「ガキ、もってけなくてさ、」


 え? なんか生き物?


 「カミさんはあれだ、ちょっといろいろで家にいなくてさ。住所ゆうからさ、」


 まてまて、

 療養に入ってもう一週間だろ。


 窓の外を見る。

 梅雨明けを待ち望んでいた凶悪な太陽がさんさん、世界を照らしている。


 「お前、独身だろ? だから、」


 「か、課長!」

 「どうしたの、北山くん。電話大丈夫だった?」

 用があっても口を開かないようなオレが叫ぶのに、課長が目を丸くしている。

 はなし半ばでスマホを切り財布だけ尻ポケットにねじ込む。

 「ちょ、中島さんとこ、ちょ、と、いってきます」

 「え? 彼、いま、お休み…あらまぁ」


 課長のはなしも聴かず、チャリで会社をとびだしていた。


 聴き忘れた住所がメッセージに着信して、やっと先輩のうちを知らないことに気がついた。


 *

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