第11話 噂

「どこに行くんだい?」


 立ち上がり服の裾を直している江崎さんに向けて、僕はたずねた。


「教室。待機しているようにアナウンスされたでしょ」


「そんなの誰も守らないと思うよ。それよりここで待っていた方がいい」


「行くわ」


 江崎さんは体育館を後にした。江崎さんはそういうところが生真面目な性格だ。


 話し相手もいなくなり退屈になった。


 僕は床に腰を下ろした。腕を組んで目をつむる。すると、取り止めのない思考が次から次に湧いてきた。


 電力はどこから来るのだろう――発電所か――発電所から電力は供給されるのにインターネットに繋がらない理由はなんだろう――インターネットに繋がらないにしてもローカルなネットワーク同士はどうなのだろうか。水が使える。それなら仮に水道管の中に入ることができれば、外に出られるのだろうか?


 とりとめのない思考が頭のなかを駆けめぐる。そうこうしているうちに眠くなってきた。


 ほかの生徒たちのおしゃべりの声が耳を素通りしていく。テンションの高い声、低い声、おびえた声、泣きそうな声。生徒たちの感情は様々だ。状況を怖がっている人もいれば楽しんでいる人もいた。


 個人的には、楽しんでいる人の胆力がうらやましい。ひたすら不安しかなかった。不安が僕を眠りへと誘う。白濁した意識の中に沈んでいった。


 ――あの子いるじゃん、あの子。江崎美礼みれい


 その名前が僕の意識を引き戻した。まるでクレーンが水没車両を引き上げるように。


「あのネクラ女がどうかしたの?」


「笑っちゃうの。草木くさぎ絵乃えのの万引きをかばったらしいわよ」


「なにそれキモい」


 会話しているのは天野玲香と福田笑子だった。すぐ目の前にいた。以前江崎さんに突っかかっているのを目にしたことがあった。寝たふりをしながら薄目を開けて、天野たちを観察する。


「草木にジェラピケのポーチ欲しいなーって言ってみたことあったじゃん。そしたらあのバカ自分もほしいって言い出して、万引きしたらしいのよ」


「バカすぎ」福田は笑った。「万引きするより援交でもして買えばいいのに。あの子なら顔だけはかわいいからオジサンに売れるでしょ」


「でね、江崎が偶然そこに居合わせてて、店員に『私が盗んだんです』とかなんとか言ったらしいの」


「はぁ? 意味分かんない? なんでそんなこと言ったの?」


「さあ? 自分が損するだけじゃんね」


「そこまでするフツー。レズビアンなのかしらねー。それにしてもさ、アンタなんでそんなことまで知ってるの?」


 福田は小首をかしげた。


「草木から聞いた。色々なことが片づいた後、江崎のやつ、草木に『反省してほしい』って言ってきたんだって。信じられる? 草木、ジンマシン出たって言ってた。『幼馴染だからって、今はほとんど交流もないのに気持ち悪い』って。草木のやつ、江崎をったらしいよ。『気持ち悪いことすんな』って」


 天野は笑った。


「どっちもバカ。おもしれー」福田も笑った。「そういや江崎のやつ、このところ前より暗くなってたもんね。このせいかァ」


「今度はその件で草木に謝らせてみようよ、江崎がどんな反応するか観察したい」


「にしても江崎はどうして草木に粘着してんだろうね。やっぱりレズとか?」


「さあね。でも、それならもっと面白いができるかもね」


 ――――。


「話をすればあいつだよ」


 笑いながら福田が言った。


「絵乃!」


 天野はおいでおいでした。


 ヒョロリと背が高く、女にしては長身、髪はショートにしている――草木絵乃だ。


「おっすー。ご飯の配布はじまった?」


 草木は満面の笑みで言った。


「わあ、ネイル新しくしたのー?」


 福田は声を弾ませた。


「うん。この前教えてもらったサロンでつけてもらったのー。みてみてー。かわいくない?」


「かわいいー。大変だったんじゃない、料金払うの?」


 福田はにこにこ顔で言った。


「なんとかお小遣いで工面したから」


 草木は苦々しい顔で答えた。ちなみに天野は僕の母親の通う天野メンタルクリニック医院の娘、福田も親が代議士で裕福な家庭らしく、草木家より小遣いをもらっていることは確かだ。


 そんな下らないやりとりが続いた後で、天野は水を向けた。


「絵乃って江崎さんとは仲がいいの?」


「えっ。何、どういうこと?」


 草木は口の端をひきつらせた。明らかに動揺している。


「前も言ったけど、ただ幼なじみなだけで、あいつのことなんて嫌いだから」


「でもさ、かわいそうじゃない? 絵乃の万引きをかばってあげたんでしょ?」


「そーだよー。それなのに冷たくしてるってあ、人としてダメだよねー」


 天野の手が、福田の手が、草木の制服の肩にベタベタと触れた。


「江崎さんに謝ろう、ね?」


「分かった」


 消え入りそうな声で草木は答えた。


 吐き気が止まらなかった。天野と福田は、草木と江崎さんをオモチャにしているし、草木は草木で二人の言いなりだ。こんな人間関係ができてしまっていることにうんざりするし、そこに江崎さんが巻きこまれているのも残念でならなかった。


 こんなやつら、死んでしまえばいいのだ。バリアに体を突っこませてズタボロの死体になってしまえばいい。


 僕の望みの前半部分はすぐに叶うと――この時はまだ知らずに――僕はひとり憎悪をたぎらせていた。

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