第09話 階段室

「どうしたの、そんなに急いで」


 案の定、江崎さんは屋上へと続く階段をのぼって行くところだった。


「間に合ってよかった」


 息も絶え絶えに僕は言った。


「何が?」


 江崎さんは目をぱちくりさせた。


「見せておきたいものがある」


「何を?」


 階段室にたどり着くと、戸を少し開けてから江崎さんへと振り返った。


「うわあ。真っ暗。ねえ、いったい何が起きているのかしらね」


「ちょっと立ち止まってくれ」


 腕で静止された江崎さんは少しメガネの奥でムッとした表情をしたが、辛抱強く説明を待ってくれた。


 僕は江崎さんに自分の手帳を取り出し、これがどうなるのかよく見ておいて欲しいと言った。江崎さんはいいわよと言った。


 暗闇に放り投げた手帳はすぐに戻ってきた。ぐしゃぐしゃに圧縮された状態で。


 ボールみたいに圧縮された手帳を手にして、江崎さんは目を見張った。紙と紙が圧縮して木材のように固くなっていた。また、そのなかに入りこむようにカバーのビニールがねじりこんでいた。


「学校をおおっているこの物質は中に入ってきたものを圧縮してはき出す機能を持っている。できれば言わずに済ませたかったが、生徒がひとり飲みこまれたんだ」


「何が起きているの?」


 眉尻を下げて、江崎さんは言った。


「よく分からない。なんだか説明のつかない恐ろしいことが起きているんだ。とにかく、僕たちは適応するしかない」


 受け売りの言葉を口にするので精いっぱいだった。


 どちらから提案するでもなく僕たちはその場に腰を下ろした。


 体育座りをして腕と膝の間に顔を埋める江崎さんの眼鏡は、蛍光灯の黄色い光を映し出していた。その様に、僕は森深い湖の水面に映る月光を連想した。


「どうなっちゃったの? みんな無事かな?」


「みんなって?」


「家族よ」


「ああ」


「心配じゃない?」


「そりゃあ、少しは」


 江崎さんは黙った。


 江崎さんにそう言われて初めて、家族のことを思い出した。母親は無事だろうか。姉は無事だろうか。この黒い雲みたいなのが町をおおっていて、外にいるものはみな金田みたいに押しつぶされて死んでしまったりしているのだろうか?


 母親にも姉にも無事でいてほしい。


「どうして私たちは潰されないのかしら」


 江崎さんは僕を見つめた。


「学校の校舎はなぜ潰れないのかしら? 人間を圧縮するほど強い力を持っているのなら、学校だって無事じゃ済まないはずよ。それなのに、学校を取り巻く黒い物質は、まるで学校を守っているみたいに何もしてこない」


「そう言われれば、そうだね」


「何か意思のようなものすら感じるのよ。この黒いカタマリは私達を取り囲むためだけに存在しているみたい。私達を閉鎖するためのバリアみたいな……」


「バリアか」


 僕はその表現が気に入った。


「うちに帰りたい」


「僕もだ」


 音楽が聞きたい。スマートフォンはさっきからインターネットにつながらない。もしかしたらこのバリアはあらゆる電波を遮断しているのかもしれない。


「お母さんに会いたい」


 江崎さんがここまで弱気になっているところをはじめてみたので、僕はなにか心のすごくやわらかな部分に触れられたような気分だった。


「今は信じるしかないよ。きっと無事だって」


「ねえ、なにか声がしない?」


 江崎さんは開け放した扉のその向こう側へと顔を近づけた。


「あまり近づくと危ないよ」僕はその肩をつかんだ。「声だって?」


「うん。歌声。外から聞こえてくる気がするの」


「まさか」


 耳を澄ませる。なにも聞こえないじゃないかと思っていたら、ごく小さな音でラララと歌声が聞こえてきた。大勢が合唱している。ソプラノ、メゾソプラノ、ピアノ、バリトン……いろんな高さの声が歌を歌っていた。


「おい、そこに誰かいるのか?」


 僕は闇に向かって叫んだ。何の返答もなかった。ただ歌声がするだけだった。ラララララ……。


「宮下先生の声だ」


「えっ?」


「先生、歌がとってもうまいの。去年の学校祭のときにステージに上がって歌を歌っていたの知らない?」


 僕は知らないと答えた。多分その日学校に来ていなかったか、屋上でサボっていたかのどちらかだろう。


「これだけきれいな高音が出せるの、うちじゃ宮下先生ぐらいだよ」


「確かに、ほかも教師連中の声に似ているといえば、似ているような」


「そうでしょう?」


「しかし、外で何しているんだ。学校がピンチだというのに。いや、そんな場合じゃない。外に出ても死なないってことだよ。ただ君のいう〈バリア〉さえ潜り抜けることができれば脱出できるということだ」


 解決策が見いだせたように思えて少なからず興奮したが、その後で「ではどうやって」というのを考えると絶望的な気分になった。


「それにしても何かしらこの歌?」


 江崎さんは眉をひそめた。


 聞いたことのない歌だった。文部省唱歌のような単調なメロディー。それでいて転調が極端に多く、聞くものを不安定な気分にさせる。それを教師連中はとても楽しそうな調子で歌うのだ。さらに耳を澄ませていると、歌詞がいくらか聞き取れた。


 目玉をえぐれ、爪を剝げ、口を裂け――すべてはアモンのために 血の饗宴はアモンのために


 うんざりするほど幼稚だが、残酷な詞。それが何度も何度も飽きることなくリフレインされるのだ。


 突然、天井のスピーカーから音声が聞こえた。


 校内放送だ。僕も江崎さんも変なものを目の当りにしている最中だったから、つい不安なまなざしで視線をかわし合った。


『全校生徒のみなさん。生徒会です。今すぐ体育館に集合してください。十六時から全校集会を開きます。今すぐ集合してください。繰り返します――』


 腕時計を見ると十五時五十三分だった。


「生徒会のみんなには変なことは起きてないよね……?」


「さっき村西副会長を見かけたけど、すごく普通な感じだったよ」


「それを聞いて安心した」


 僕たちは向かった。

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