第5話 笑

 だからだろうか、油断が生まれたのは。張り詰めていた緊張が限界を迎えて、遂に岩陰ですらない場所で魔物に見つかった。目の前の魔物が張り上げる劈くような金切り声。その声に反応して魔物が集まってくるのが視界の端に映る。


 ああ、ここで終わりかと、そう、諦念が心を満たした。


 しかし、ああ、忘れていたのだ。隣に誰がいるのかを。


 一度は自分に希望を与えた彼女のことを。


「ルッツ」


 名前を呼ばれただけで心臓が脈打って、音が耳の奥から遠のいて行く気がする。心臓の鼓動一つ一つに息吹が宿って、そのまま全身を巡る。


 シーナは希望を失っていなかった。彼女の瞳を見る。金色に美しく輝くその瞳を。


 頬が引き攣るような感触がする。久しぶりに無意識に笑った。上手く笑えているだろうか。


「シーナ」


 シーナの濡れた瞳が此方を見ている。頷いた。


 左手を前に伸ばす。体の中を巡っていた魔素が溢れ出て、柔らかな液体のように零れる。目の前に立つ魔物の一体の足元に到達した魔素は、突如燃え上がった。

 純白の炎が洞窟を満たす。


 魔法を使うための動力エネルギーは、何も自分の体から引き出さなくとも良かった。この迷宮ダンジョンの中は魔素で満ち溢れているのだから。魔石が自然に発生するような場所が、人間の命を簡単に吹き飛ばせるような魔物が自然に発生するような場所が、何もない場所と同じであるわけがなかった。


 身体が軽い。シーナの事を抱え上げる。シーナの長い髪が揺れて、彼女は顔に掛かった髪を柔らかく手で払った。

 一度微笑みかけて、そのまま走り出す。


 洞窟に取り残された白い炎は、濃度を増し、そのまま魔物を飲み込んで行く。


「シーナ、外に行こう」

「………ああ」


 足が地面を踏みしめる感触が心地良い。






 あれから、目が覚めている時は走り続けた。体が軽い。シーナも楽しそうに笑っていた。


 走り抜けるだけであれば、一層上るのに然したる時間は掛からない。一日に十層登れることも少なくなかった。予定していた五十層より十五層ほど過ぎたあたりから、魔物の力が目に見えて弱まって来た。

 ここからは、命の危険が急激に小さくなる。


 抱えているシーナが少し眠そうにこちらを見ていて、立ち止まった。そろそろ眠っても良い頃だろう。


「髪の色が変わったな」

「そうだね、白くなっちゃった」

「綺麗だな」

「あはは、ありがとう」


 髪の色が変色したのはあの時、魔法を本格的に使い始めた時からだ。同時期に左手も回復し、身長も高くなった。少し前まではシーナと同じ程の慎重だったのに、今では彼女よりも少し高くなった。

 それでシーナが少し拗ねていたのは楽しかった。笑ったら怒られたが。


「………そろそろ、外から来た人間と遭遇する頃だろう」

「そうだね。何か助けを求めた方が良いかな?」

「ああ、もし食料がもらえるならばそれにこしたことはないだろう」


 今まで食用としてきた魔石は、層が上になるに連れてその姿を消していた。魔素密度が下がったことが原因なのだろう。


「でも、お腹は空かないよね………」

「ああ、不思議だな」


 何が原因なのだろうか。迷宮ダンジョンから直接力を吸い上げているなどということがあるのだろうか。もしそうなのであればそれはそれで恐ろしいが。


 ………そう言えば。


「シーナの外見も少し変わって来たんじゃない?」

「…………本当か?」

「本当だよ。でも、嬉しそうだね?」

「それはそうだろう。ルッツと同じだから」


 確かに、嬉しそうに笑みをこらえきれないでいるシーナの髪色は若干抜け落ちてきている。肌の色も白に近寄って来ていて、瞳の色でさえも若干白みを帯びているような気がした。


「………もしかして僕の目の色って白くなってる?」

「ああ」

「まじか、気が付かなかった」


 全体的に色素が抜けてきているということなのだろうか。生まれながらにして髪も肌も白い人というのは聞いたことがあるが、それは病気のようなものだとされていたような気がする。


 シーナは、自分の髪の束を抱えて未だに嬉しそうに微笑んでいた。


「………生き残る希望が見えて来ると、余裕ができるね」

「ああ、そうだな」


 人は余裕が出て来ると、こうも気分が良くなるらしい。シーナが楽しそうで、自分も楽しくなってくる。

 何もなくても、彼女だけいれば良いと思っていた世界が、急に他のもので満たされるようになって来た。

 何もなくても、シーナだけいれば綺麗だった世界が、他の物が見えて来るとより一層綺麗に見えて来る。


「私は、ルッツがいれば外の世界などなくても良い」

「ありがとう」

「………ああ、でもルッツと外の世界を見て回りたい」

「そうだね、僕も。シーナがはしゃいでるのを見るのは幸せだしね」

「ふふ、揶揄っているのか?」

「いや、本気だよ」

「………私も、ルッツは笑っている方が好きだ」


 上手く、笑えているだろうか。


 幸せでないから笑えないのではなかった。シーナに見せられるほど自分の笑みに自信がないだけだった。

 ただ、そう、彼女も作られた笑みが見たいという訳ではないだろう。深く考えるほど物事は上手く行かない気がするから。

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