最終話 幸せとは


 結論から言うと、私はすぐに退院が決まり、自宅へと戻ることができた。


 岩清水先生の悪ふざけのおかげせいで、入院中にもかかわらず日夜、取材の依頼が届くため、仕事用のメールアドレスは変えた。島民には説明済み、かつ新しいメールアドレスを送信している。


 岩清水先生が設定した特許使用料。それが口座に振り込まれたときは、正直怖いと思ってしまった。全て、島の公共事業を行う団体や患者の支援団体に寄附をし、見なかったことにした。


 自分へのご褒美として、実験器具洗浄ロボットを新しく買ったのは内緒である。


 ******



「退院おめでとう、沙月さん」

「おめでとうございます、先輩!」


「ありがとう、二人とも」


 数日間の入院だったため、そこまで大げさにしなくても、と思っていたが寿人くんと小柚は祝う気満々だったようなので、素直に受け入れる。


 会場はパン屋『ここあ』。


 二ヶ月弱、毎日食べても飽きなかったクロワッサンをちびちびと食べながら、二人の話を聞く。入院中の出来事——というよりは、研究室にこもっている間のことが聞きたかったのだ。


「今年も9月の花粉症が流行しているらしいよ」

「この島、秋の新作が意外に充実していました!」

「純也くんのリフティングが50回を超えたんだ」

「東のカフェのモンブランが美味しかったです!」

「宏太が昇進したらしいよ」

「先輩のメアド、色んな人から聞かれちゃいます! 全員無視してますけど」

「今月の新作は人参メロンパンよ〜」


 私が外界との接触をほとんど絶っていたときにもやはりいろいろなことがあったらしい。寿人くんは薬の配達でたくさんの人と交流して得た情報を伝えてくれる。小柚は私の行動範囲を軽く超えて、島を散策していたらしい。


 知らないことばかりだ。最後に、菊子さんから新しいパンがトレーに置かれた。


「……人参ジュースの味がしますね」


 美味しいは、美味しい。けれど、これは好き嫌いがはっきりとしそうだ。


「とにかく、平和そうでよかったわ」


 特に不穏な情報はなかった。その事実に安心する。


「そうですね〜」


 一息つき、コーヒーを飲んでいると、寿人くんと目が合う。今までのことを思い返す。そうすると、自然と笑みがこぼれてきた。


「俺も沙月さんが嬉しそうで、すごく嬉しいよ」


「……ありがとう」


 この際だ。日頃の、これまでの感謝を伝えよう。


「本当にありがとう、寿人くん……。あなたと出会えていなかったら、私は……」


 寿人くんの目を見て、まっすぐに伝える。


「こちらこそだよ。沙月さんと会えたから——」


「——せめて! わたしが帰ってからにしませんかね! まだ、認めたわけじゃないですからね!」


 憤慨している小柚が割り込んできた。冷静になってみれば、人前でする会話ではなかったのかもしれない。暴走しかけていた。


 言い争い、もとい小柚の一方的な言いがかりに寿人くんが苦笑いを浮かべながら、対応する。そんな光景を笑いながら、眺めていられる。


 ——今までのことを思い出す。


 寿人くん、小柚と一緒にいる。一緒に笑っていられる。この場所には、他にもたくさんの大切な人がいる。その人たちとも、笑顔でいられる。


 『感情不全』が完治したことによって、私はこの幸せを、心の底から嬉しいと思うことが出来たのだった。


 おしまい——

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