第25話 懐かしい味


 今日も朝から研究室にこもっている。


 寿人くんが届けてくれた『ここあ』のクロワッサンとホットコーヒー。それらのおかげで、現在、私の頭は冴えわたっている。


 試験管を左手に、駒込ピペットを右手に持ち、作業を繰り返す。試料の分離、成分抽出はとても大変な作業だった記憶が有る。しかし、最新の遠心分離機による抽出は快速だ。そのため、その分野に関して、ストレスはない。


 操作も簡単かつ自動洗浄機能までついている。値段については考えないようにしよう。軽々しく触れなくなるような気がするからだ。


 そんなことを考えつつ、今日もまた失敗を重ねていく。


 己の心を守るための逃避行。それは正しい選択である。そう、私は思う。しかし、私は賢い人間になりたかったのか?


 そうではない、今ははっきりとそう言える。正解を選ぶ、いや、違う。間違ってない選択をとり続ける。


 そんな道の先に私の欲しいものはない。大事な人たちに笑ってもらう。そして、その隣で笑っていたい。


 その目標を達成するために、経験に学ぶ。私は何度でも間違い続ける。間違いとは、正しいものではないのかもしれない。


 だけど、決して無駄なものではなかった。私は二度、手に入れたのだ。成果を。成功を。結果を。


 一度目は学生時代。『エルストロ病』の特効薬を偶然、完成させたとき。


 二度目は最近。寿人くんの『感情不全』が治ったとき。


 前者は知識に対する自負を。後者は私という存在に勇気をくれた。


 今までの日々は決して、無駄なんかではなかった。また、進もう。あの道を。


 愚か者と蔑まれて、笑われてからが。私の本領のはじまりだ。



 ******



 ——繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す——

 ——くりかえす。くりかえす。くりかえす。くりかえす——

 ——繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す——

 ——くりかえす。くりかえす。くりかえす。くりかえす——

 ——繰り返す…………。


 微かな反応はいくつかあったが、どれもすぐに異常細胞に取り込まれてしまった。


 落胆はするが、想定内だ。試行回数が1000を超えても、とにかく繰り返す。


 ——今日もまた、喉の渇きで時間の経過を思い知る。カーテン越しの世界からは、光を一切感じない。マスクをとって、息を吸い込む。息を吐き、視線の先にいたのは、前日と違い、寿人くんではなかった。


「小柚……」


 目の前にいたのは大切な後輩だった。


「お疲れ様です。先輩」


 差し出されるティーカップ。私はそれを素直に受け取る。


「……美味しい」


 懐かしい味がする。種類は分からないがすっきりとして、少し甘い。学生時代も幾度となく飲んだ紅茶の味だ。


「良かったです」


 屈託のある笑顔を見せてくれる小柚。なぜか複雑そうな表情である。昨晩、ここに泊まり込みをするという旨のメールを送ってある。この部屋に入るためのパスワードを添えて。


「……もしかしたらもう遅いかもですけど」


 そう言いながら、小柚はトランクケースを引いてくる。


「これは……」


 小柚が取り出したのは、大量のノートと数枚のSDカード。見覚えがある字で書かれたタイトル。


「全部は取り返せなかったんですけど……」


 処分されたと思っていた私の研究記録である。


「ありがとう、小柚。すごく助かるわ」


 当時の記憶は、正直なところかなり曖昧になってしまっている。そのため、絶対に試したことのない組み合わせで調合を行っていた。この記録があれば、そういったリスク管理が必要なくなる。


「それとこれもです」


 小柚から手渡されたファイル。


「これは?」


 日付だけが記されているファイル。中を開くと、達筆で記された文字たちが目に入る。内容を確認して、驚く。


「『ネオンフィーブ病』の研究資料……!? しかも……、これ、痛みを和らげることには成功しているじゃない!? いや、でも、この化合物は使いすぎると副反応が……」


 ぶつぶつとつぶやいて、頭を回転させる。


 私の研究よりもずっと深い。それどころか、もしかしたら、岩清水先生の考察よりも……。その研究資料に、思わず夢中になる。


「これ、どこで?」


 これをまとめた人を知りたい。その一心で、小柚に尋ねる。


「『第一病院』で井手口先生にいただきました」


「えっ」


 思わず情けない声が出る。予想外の答えである。


 現医療界の最高権威。彼は薬学にも精通していたのか。


「すごいわ……、小柚。井手口先生に研究資料をいただけるなんて」


 私は改めて小柚の対人能力を尊敬する。


「違いますよ、先輩。わたしの手柄じゃないです。井手口先生とお話しして、先輩のことを伝えたんです。『エルストロ病』の特効薬が生まれた理由を話して、それで、これを譲ってくれたんです」


「……そうなのね」


「はい、そうです。だからすごいのは先輩なんです」


「それだけじゃないでしょ」


「えっ」


 小柚が面食らったように驚き、声を出す。


「小柚が井手口先生に会いに行ってくれたから、ここにこのファイルがあるんでしょ。小柚も凄いでいいのよ」


「……はい」


 何かを噛みしめるような、そんな表情の小柚。


「ありがとう。小柚……、私、頑張るから」


 決意がさらに固くなる。たくさんの人の力をもらっているのだ。その事実が私を支えてくれている。


「はいっ! 知ってます!」


 やっと本来の明るさが戻ってきた。


「ふふっ、じゃあ食事にするわ。小柚、付き合ってくれる?」


「もちろんです! 喜んで!」


「と言っても、インスタントだけどね」


「下の売店で、サンドイッチ買ってきましたよ。先輩、レタスサンド好きでしたよね」


 確かに好きである。


「ありがとう、いただくわ」


「わたしはツナマヨです!」


「ふふ、昔、同じような会話をしたことがあるわね」


「そうでしたか? うーん、覚えてないです」


 そんな中身のない会話。今は、いや、これからも、こんな会話ができることに幸せを感じる。


 だからこそ、許せない。次がなくなってしまうことが。今度会うときは、小柚と寿人くんを紹介しよう。私の大切な友人だと。


 かすみさんとまた、たくさんお話しするために、私は英気を養っていた。




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