第11話 『第四病院』病院長


 感情不全症候群かんじょうふぜんしょうこうぐんについて No.18

 経過観察と現状の所見

 20XX/07/16

 熊谷沙月


 感情不全症候群(以下、感情不全)を考えるにあたって、さまざまな患者のデータを参照してきた。このレポートでは、実際に感情不全の治療に成功した患者の記録を記していきたい。


 今回の感情不全の治療法は、ケース3「残存している感情の強い発露による神経療法」だと推測できる。実際に感情測定器の数値は平均して、170強を記録していた。

 

 ケース1「感情失効に関わる精神療法」、ケース2「認知行動療法・対人関係療法」パターンでは反応が見られず、ケース3のパターンの結果、患者が強く興味を示していた事象に関連した特定の行動の後、患者の表情の変化が見られた。


 具体的には——



 ——以上から、「感情不全の状態であったとしても、知覚できないだけであって、失感情は働いている可能性がある」という学説について、今回の患者には当てはまるケースが多く見られると考えられる。



 ******



 ——清書は後で構わないだろう。雑に要点だけをまとめたレポートをPDFに変換して、保存した後にノートパソコンを閉じる。


 寿人くんの感情不全の快復から、一週間が経っていた。


 実験室を使う以上、建前として実験データを収集し、記録する必要がある。感情不全の治療事例は、他の特定難病と比べて少なくないが、決して多くはない。そのため、具体的な治療データは貴重なものであり、これからの医療科学の発展の一因になる……と、思う。


 本当はもっと早く、治療事例をまとめるべきだったのだろうが、私たちはうかれてしまっていた。三日三晩にわたる宴会のようなもの——二人ともお酒は一滴も飲めないほど下戸だったが——の末、寿人くんは知己ちきの人々に挨拶に行くと言って、この島を出た。


 永遠の別れというわけではない。一時的なものだと理解はしている。しかし、この胸の中から何か大事な部品を抜き取ったような感覚を味わっている今日この頃である。


 とんでもない話である。私はこの島の生活にそこそこ満足しており、不十分だと考えたことはなかったはずである。それが、この1ヶ月ほどが、あまりにも眩しく覚えるのだ。


 最近は世界の色が濃く、鮮やかに見えている気がする。考えているだけで、体温が上がってしまったような。


「……モリンコ、室温25度にしてくれる」


「ショウチイタシマシタ、ピッ」


 無機質なAI音声の返事とともに、冷房が静かに風を吐き出す。普段の設定温度よりも、1度低い室温にする。


 いったん、落ち着こう。寿人がこの島を出てから、改めて彼のプロフィールをネット上で確認すると、一つではあるが、私の方が年上であることが判明した。


 私の方がお姉さんなのである。大人振らないといけないのである。今更かもしれないが、本来の私はもっと落ち着いた女性であることを示していかなければなるまいか。


 私は一人劇場の中で、揺らぎない決意を強固にした。その後、一休みのために、冷蔵庫からコーヒーを取り出すのであった。



 ******



 白く無機質な部屋。部屋の奥にはとても高価そうなマッサージチェアが鎮座している。それ以外には、小さな冷蔵庫と本棚、それと質素な机と椅子があるだけだ。


 ここは、『第四病院』の病院長室。その部屋で私は、とある女性と向かい合って座っていた。


「へー、これ全部、沙月ちゃんがやったんだ」


「……ええ」


 笑っているのか、眠たいのかよくわからない表情。年齢不詳、年中白衣。座っていてもわかるほどの高身長に、無造作にまとめられている長い黒髪。私の目の前にいる女性は、第四病院の院長——岩清水蓮華いわしみずれんげ先生だ。


 アピノ式マッサージの提案、ソフトな人工呼吸器の開発、セントラル・モンダルガの完全治療法の確立など。岩清水先生は、他にも多数の実績を持つ。挙げればきりがないほどに、医療界に貢献し、多大な恩恵をもたらしているのがこの人である。


 そんなすごい人と私が、なぜ知り合いで、今この場で会話しているのか。彼女は、この島で腐っていた私に研究室を貸してくれた、言わば恩人だからである。


 岩清水先生は、私が提出したレポートを眺めながら、興味深そうに目を細めている。


「ありがとうございます、先生」


「ん? 何がだい?」


「……最近は、薬学について疎かになっていたのにも関わらず、研究室の使用許可を認めていてくれていた件です」


「相変わらず、クソ真面目だねー。いいんだよ、どうせ人間用の研究室なんていくらでも余っているんだからさ」


 岩清水先生は愉快そうに笑いながら、こちらを見つめる。


「それに、これは価値がある。君もそう思っているだろう?」


 そう言って、岩清水先生は長い指でレポート用紙の束を指差す。


「はい……。やはり、感情不全症候群の治療法に、正解は無いということが分かりました」


「うーん。そうだね。まぁ、もともと、無理があるんだよ。喜怒哀楽のどれを失おうと、ぜーんぶ、感情不全として扱うなんて」


「……そうですね」


 実際に岩清水先生の考えは正しい。


 失う感情の種類も、数も、度合いも違うのだ。それら全てを同じ病気として扱っているのが、現代医療の現状だ。そもそもの話、人の感情とは、喜怒哀楽で大別できるほど、単純で、簡単なものではない。


「まぁ、ともかくお疲れさま。しばらく休んでも罰は当たらないと思うよ」


「はい。ありがとうございます」


「いやー、それにしても、甘酸っぱいねぇ。知り合いの青春は眩しいなぁ」


 不意打ちである。


「……っ。もうそんな歳じゃないですよ」


 にやけている岩清水先生に思わず反論する。


「わたしみたいなおばあちゃんからしたら、沙月ちゃんなんて赤ちゃんみたいなものだよ。それに、青春に年齢なんて関係ないんだぜ。今は、アオハル、って言うんだっけ?」


 明らかに面白がって、茶化している。


「それではっ! 失礼しますっ!」


 そう言い残し、私は席を立ち、早足で出口へ向かう。


「はぁーい。またね」


 ちらりと後ろを振り返ると、岩清水先生がひらひらと手を振っていた。


「すいません!!!!」


「わ」

 

 のけぞる。部屋を出た瞬間、ツンツン頭の少年にぶつかりそうになったのだ。こちらこそ、というセリフを言う前に、快活とした声の少年は早歩きで去ってしまっていた。


「健気よね〜」


「海堀さん……」


 いつの間にか看護師長の海堀さんが私の隣に立っている。


「気配を消して、急に現れるのやめてください」


 ビクッとして、心臓に悪い。もう何度目か分からないが、一応注意はしておく。


「ふふっ、ついね。沙月ちゃん、反応いいから」


 海堀さんはニヒルな笑みを浮かべながら、楽しそうにしている。


「動じないように努めているつもりですけど」


「顔を見れば分かるのよね〜」


 ふふふというセリフが、非常に似合う彼女は思い出したかのように、話を元に戻す。


「あの少年、毎週末いつもこの時間にお見舞いに来るのよ」


「……」


「今どき珍しいくらい健気よね〜」


「……そうですね」


 私も同意して、心の中で小さく頷く。


 院長室の奥、第四病院に数多くある病室のうち、特別な部屋たち。何かあったときに、この病院で最も優秀な医者がすぐに駆けつけられる場所。


 少年の姿が吸い込まれていったのは、その部屋たちの一室だった。


 ごーっ、という冷房の風の音が急に大きくなったように感じ、耳に障る。胸の奥で、ザラザラとした不快音がざわめいているようだ。


 何かを忘れていることを、警告しているような。決して逃げられないと、忠告しているような。


 首筋をつたった一筋の汗が、妙に冷たかったのを覚えている。


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